第1話:大手監査法人のパートナー、挙兵の街で目を覚ます
「あと、6%か……」
深夜二時。
桜橋有限責任監査法人の最上階にあるガラス張りの会議室で、岡田誠一(四十七歳)は、ぬるくなった缶コーヒーを口に含んだ。
ノートPCの画面に表示されているのは、国内最大手製薬会社による大型M&A(企業の合併・買収)にともなう、最終財務デューデリジェンス(資産精査)の進捗状況だ。
『第一フェーズ:資産精査 進捗率94%』
ここ三日間、まともに寝ていない。
公認会計士、税理士、中小企業診断士の三冠を保有し、業界内では「M&Aデューデリの神様」とまで呼ばれた男のプライドだけで、鉛のように重い右腕を動かし、マウスを鳴らしていた。
クライアントの未来がかかっている。
ここで私が数字を見落とせば、何千人もの社員の人生が狂う。
だから、エビデンス(証拠)を。完璧な内部統制を。
「……よし、次の、仕訳データを……」
突如、胸の奥を巨大な万力が締め付けた。
視界がぐにゃりと歪む。手から力が抜け、缶コーヒーがデスクの上で倒れ、黒い液体がスプレッドシートを汚していくのが見えた。
(まずい。これでは、今期の、決算が、締まらない──)
それが、監査法人のパートナー・岡田誠一としての、最後の思考だった。
◇
ガサリ、と耳元で硬い音がした。
エアコンの駆動音はない。
静脈を流れるコーヒーのカフェインの感覚も、頭を締め付けるような偏頭痛もない。
代わりに鼻腔を突いたのは、強烈な藁の匂いと、どこか埃っぽい土の臭気だった。
「……は?」
岡田は勢いよく身体を起こした。
そこは、ガラス張りのオフィスではなかった。
土間に、粗末な木製の机と椅子。壁は泥を固めたようなもので、窓にはガラスすら嵌まっていない。
あるいは、自分の手が、妙に若々しく、引き締まっている。
「岡田先生! 目を覚まされましたか!」
戸口から飛び込んできたのは、見たこともない奇妙な衣服──まるで、日本の時代劇か、あるいは中国の歴史ドラマに出てくるような、くすんだ一色のローブを纏った青年だった。
「……どなたですか。ここは、どこの会議室です? 私は製薬会社のデューデリの途中で……」
「何を仰っているのですか、蕭何様! 疲れが出たのですか? あなたは我が沛県の『主吏掾』……役人のトップでしょう!」
しょうか。はいけん。しゅりえん。
その単語が耳に飛び込んできた瞬間、岡田の脳内に、濁流のような「もう一つの記憶」が流れ込んできた。
秦の始皇帝が天下を統一して十数年。
ここは、その最果てにある地方都市「沛県」。
そして自分の名は、蕭何。役所の文書管理や法務、財務を一手に引き受ける、若きエリート官僚。
(──転生、したのか? 私が?)
岡田──いや、蕭何は、ゆっくりと自分の顔を手の平で覆った。
過労死。あの地獄のような激務の果てに、自分は死んだのだ。
思い出すのは、有能であるがゆえにすべての案件を押し付けられ、休日もなく、数字の海に溺れていた前世。
(決めた)
蕭何は、泥の床に力強く足を踏み下ろした。
(今世こそは、絶対に定時で帰る。有能さを隠し、適当なバックオフィス業務だけをこなして、ワークライフバランスの整ったホワイトな隠居生活を送るんだ……!)
「蕭何様? 急に険しい顔をして、どうされたのですか」
「……なんでもない。それより、机の上のあれは何だ」
蕭何は、机の上にうずたかく積まれた「竹の板を紐で編んだもの」──竹簡を指差した。現代のファイルにあたるものだ。
「ああ、これは今年の沛県の戸籍帳簿と、官倉の兵糧の在庫目録、それから田畑の面積を記録したものです。前任者が適当に計算していたようで、数字がさっぱり合わないと皆が困っておりまして……」
「……ほう」
定時退社を誓ったばかりの蕭何の、公認会計士としての「業」がピクリと反応した。
「どれ、少し見せてみなさい」
一冊(一束)の竹簡を開く。
墨で書かれた、お世辞にも綺麗とは言えない文字と数字。
だが、前世で数千億円規模の連結決算書を読み解いてきた蕭何の目には、その構造が瞬時に「ロジック」として立ち上がってきた。
「……何だこれは」
蕭何は片眉を跳ね上げた。
「繰越欠損金の処理がまるで行われていない。おまけに、こっちの食糧在庫の減価償却──いや、ネズミによる食害の損金算入の基準がバラバラだ。これでは、実質的な財政は……」
指をパチパチと弾く。頭の中に、前世で愛用していた電卓の残像が浮かぶ。
3、2、1。
「……完全に、赤字(債務超過)じゃないか」
わずか三分。
沛県始まって以来の「天才事務官」が誕生した瞬間だった。
部下の役人は、口をあんぐりと開けて固まっている。
「よし、フォーマットを統一する。すべての帳簿のエビデンス(証拠資料)を持ってきなさい。棚卸しをやり直す」
「は、はい!」
(いけない。つい、いつもの癖でコンサルティングを始めてしまった)
蕭何は内心で頭を抱えたが、数字のバグを見逃せないのは会計士の不治の病だ。
まあ、これくらいサクッと終わらせて、今日こそは定時で……。
その時だった。
「よお、蕭何! 部屋にこもって何カリカリやってんだよ!」
ドカン、と粗末な木の扉が勢いよく蹴り開けられた。
入ってきたのは、だらしなく衣服の胸元をはだけ、無精髭を蓄えた、見るからにガラの悪い男だった。
一言で言えば、絶対に面接で落とすタイプの男だ。
その男は、蕭何のデスク(木机)にドカッと腰を下ろすと、勝手に部屋の隅にあった酒瓶を煽った。
「……劉邦CEO──いや、劉邦殿。他人のオフィスのデスクに直接臀部(お尻)を乗せるのは、セキュリティおよび衛生管理上、認められません」
蕭何は即座に言った。
脳内の記憶が告げている。
こいつは劉邦。
現在は、近隣の治安維持を担当する「泗水亭長」という、しがない低級役人。
だが、中身はただの「無職の親分」だ。
いつも地元のヤクザ者を連れ回し、ツケで酒を飲み、経費の概念が一切ない。
現代に例えるなら、資本金ゼロ、ビジョンだけは一丁前の「自称・起業家」である。
「堅いこと言うなよ、相棒。それよりさ」
劉邦はニカッと、妙に人を惹きつける、だが締まりのない笑顔を浮かべた。
「俺、会社立ち上げるわ」
「……は?」
「いや、会社じゃなくて、国? っていうの? ほら、最近、始皇帝のオヤジが死んでから、世の中バタバタしてんじゃん。上スタの県令(知事)も頼りねえしさ。だから、俺がトップになって、新しい組織を作ろうと思ってな!」
挙兵の宣言だった。
歴史が大きく動く、その最初の一歩。
だが、公認会計士・岡田誠一の魂を持つ蕭何は、冷ややかな目で手元の竹簡に目を戻した。
「却下します」
「おい! 早いな!」
「現在の沛県の財務状況、およびあなたの個人の信用情報を鑑みるに、新規事業の立ち上げ(挙兵)にかかる初期投資の調達は不可能です。軍資金のあては?」
「ねえ!」
「兵員の確保、およびその給与体系は?」
「集まってから考える!」
「……事業計画書のエビデンスは?」
「俺の勘!」
劉邦は胸をドンと叩いた。
蕭何は深い、深い溜息をついた。
(ダメだ。こいつは、経営を任せてはいけないタイプの天才だ。放っておけば、一ヶ月で黒字倒産──いや、楚の項羽あたりにデッドクロスを食らって、即座に市場から退場(処刑)させられる)
「劉邦殿」
蕭何は竹簡をピシャリと閉じ、立ち上がった。
「あなたの言っていることは、ただの『誇大妄想』です」
「へへ、そう言うと思って、お前に会いに来たんだよ」
劉邦は机から飛び降りると、蕭何の肩に馴れ馴れしく腕を回してきた。
酒の臭いがする。
だが、その瞳だけは、底知れない深さで蕭何を見つめていた。
「俺には、数字のことはさっぱり分からん。だけどさ、お前が後ろにいてくれりゃ、俺の会社(国)は絶対に潰れねえだろ?」
「……っ」
蕭何の胸に、前世の走馬灯がよぎる。
『岡田先生、あなたにしか、この巨大案件の監査は頼めないんです』
あの時も、そう言われて、断れなかった。
(有能であることは、自由を奪われることだ。私は、また同じ過ちを繰り返すのか?)
定時退社という文字が、砂のように崩れ去っていく。
蕭何は天を仰ぎ、そして、諦めたように眼鏡(今世はないが、直す仕草だけをした)の位置を正した。
「……三分、時間をください」
「おう!」
「あなたの妄想を、現実的な『生存計画書』に書き換えます。ただし、CEO」
蕭何は劉邦の目を真っ直ぐに見据えた。
「私の財務統制には、絶対に従っていただきます。……エビデンスなき出金は、一銭たりとも認めません」
「ガハハ! 任せた!」
劉邦はガシガシと頭を掻きながら、上機嫌で部屋を出ていようとする。
だが、その足が不意に止まった。
「あ、そうだ。言い忘れてたわ、蕭何」
「なんですか。これ以上の仕様変更(無茶振り)は受け付けませんが」
「いや、大したことじゃねえんだけどよ。さっき挙兵したって言ったじゃん?」
「ええ」
「それ、県令(知事)のオヤジにバレてさ。今、『反逆者・劉邦とその仲間たちを一人残らず五体満足で捕らえよ』って命令が、沛県中の兵隊に出たわ」
「……は?」
直後、バァン!! と再び扉が弾け飛んだ。
入ってきたのは、顔面を蒼白にした部下の役人だ。
「蕭何様! 大変です! 役所の外を、県令直属の重装歩兵、約三百が完全に包囲しています! すでにこちらへ向かって突入を開始した模様です!」
鎧の擦れる不穏な金属音と、怒号が地響きのようにオフィス(執務室)へ迫ってくる。
スタートアップ、創業初日。
資本金ゼロ、味方(社員)は目の前の無職の親分と自分だけ。
対する競合他社(秦王朝)は、天下を統一した国家権力。
その先行部隊が、今まさに自社の拠点を「物理的にデリバリスト(強制解体)」しにやってきたのだ。
「おい蕭何、どうするよ!?」
劉邦が腰の剣に手をかけながら、ニヤニヤと楽しそうにこちらを見る。
蕭何は一瞬だけ天を仰ぎ、そして、凄まじい速度でデスクの上の竹簡(戸籍と地図)をすべて抱え込んだ。
「……私の前世の死因は、心不全です。刀で斬られるような不適切なプロセスでの幕引きなど、断固として認めません!」
眼鏡をクイと上げる仕草をしながら、元・伝説の審査マンは、襲撃者たちの足音が迫る廊下を冷徹に睨みつけた。
「劉邦CEO、最初のタスクです。これより、本社の『緊急デットエクイティスワップ(債務の株式化)──要するに、この役所の乗っ取り』を執行します。……私についてきなさい!」
生き残るための、最初の裏口監査が始まる。
蕭何の「二度目の過労死ループ」へのカウントダウンは、開始1秒で限界突破のデスマーチへと突入したのだった。
(第1話・了)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
突然ですが、作者からコンサル的お願いがございます。
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次話の更新速度というKPIに直結しますので、何卒ご支援のほどよろしくお願いいたします!
また、歴史ものである本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




