第27話:呂后からの裏交渉――韓信処刑計画
相国府の夜は静まり返っていた。
蝋燭の炎だけが揺れている。
机の前に座る女の影が、壁に長く伸びていた。
「もう一度言いましょうか、相国」
呂后は竹簡を指先で転がしながら微笑んだ。
「陛下は間もなく陳豨討伐へ向かわれる。長安に残るのは私とあなた。そして、牙を折られたはずの獣だけ」
蕭何は答えられなかった。
喉がひどく渇いている。
前世の記憶がよみがえる。
社長が不在の間に、副社長が邪魔な幹部を消そうとする。
権力闘争では珍しくない話だ。
だが今目の前で行われているのは、国家規模のそれだった。
「韓信は大人しくしております」
ようやく蕭何は口を開いた。
「王位を失ってからは屋敷に閉じこもったままです。兵も領地もありません」
「本当にそうかしら?」
呂后の目が光る。
「あの子は陳豨と通じているわ」
蕭何は息を呑んだ。
「陛下が前線へ向かった後、長安で兵を挙げるつもりよ。罪人や奴隷を解放し、未央宮を襲わせる計画だそうよ」
「証拠は」
「密告よ」
短い返答だった。
本当かどうかは分からない。
だが関係なかった。
呂后の中では、すでに判決が出ている。
「証拠がなければ裁けません」
蕭何は最後の抵抗を試みた。
「九章律では侯以上を拘束するには確かな証拠が必要です」
呂后は笑った。
「相国」
その声から温度が消える。
「法を動かすのは竹簡じゃないわ」
ゆっくり立ち上がる。
「人よ」
蕭何の背後へ回り込む。
香の匂いが近づいた。
「証拠が足りないなら作ればいい」
蕭何は顔を上げた。
「私に虚偽の罪状を書けと?」
「違うわ」
呂后は肩に手を置く。
「国を守るのよ」
冷たい指だった。
「あの子が牙を剥く前に始末する。それだけ」
沈黙。
やがて蕭何が問う。
「断れば?」
呂后の笑みが消えた。
「それは困るわね」
静かな声だった。
だからこそ恐ろしい。
「韓信を引き立てたのは誰?」
「……」
「あなたでしょう、蕭何」
逃げ道はなかった。
韓信が反乱を起こせば。
責任は推薦者にも及ぶ。
それが呂后の論理だった。
「何をすればいいのですか」
蕭何は敗北を認めた。
呂后は満足そうに頷く。
「あの子を宮中へ呼びなさい」
「韓信は警戒しております」
「だからあなたを使うのよ」
呂后は微笑んだ。
「あの子は私を信じない。でもあなたは信じる」
蕭何の胸が痛んだ。
「前線から勝報が届いたことにする」
「偽の勝報を?」
「そう」
呂后は頷いた。
「祝賀の宴を開く。あなたから参列を求めれば、あの子は来るわ」
蕭何は目を閉じた。
韓信は今でも自分を信じている。
だからこそ来る。
そして死ぬ。
「……承知しました」
乾いた声だった。
「期待しているわ」
呂后は踵を返す。
去り際に振り向いた。
「これは国のための処分なのだから」
闇の中へ消えていく。
一人残された蕭何は、自分の手を見つめた。
剣を握ったことのない手。
だがその手が、天下最強の将軍を殺す。
なんと皮肉な話だろう。
◇
数日後。
劉邦は陳豨討伐のため長安を発った。
その裏で蕭何は偽の勝報を準備していた。
曹参が険しい顔で問う。
「本当に流すのですか」
「陳豨討伐成功。陛下間もなく帰還」
木札を見つめる。
「すぐ嘘だと分かります」
「分かる前に終わる」
蕭何は答えた。
「これは皇后の意思だ」
曹参は黙った。
やがて小さく頭を下げる。
蕭何は韓信宛ての木札を手に取った。
招待状。
いや。
死への呼び出し状だった。
筆を握る。
手が震える。
『淮陰侯・韓信殿。陛下勝利の報、誠に慶賀に存じます。病の身とは存じますが、ぜひ祝宴へご参列ください。旧友として、お待ちしております。蕭何』
旧友。
その二文字を書いた瞬間。
墨が滲んだ。
涙だった。
◇
そして運命の日。
長安は勝報に沸いていた。
だが未央宮地下の鐘室だけは別世界だった。
窓もない石の部屋。
湿った空気。
並ぶ女官たち。
全員が竹槍を握っている。
呂后は静かに笑った。
「あの子が来るわ」
蕭何は答えない。
胸の鼓動だけが大きくなる。
やがて。
廊下の奥から足音が響いた。
近づいてくる。
ゆっくりと。
確実に。
幕が開いた。
韓信だった。
顔色は悪い。
だが微笑んでいる。
「蕭何さん、お待たせしました」
穏やかな声。
昔と変わらない声。
「祝宴の会場はどちらですか」
蕭何は動けなかった。
その瞬間。
暗闇から呂后の声が響く。
「ここよ、韓信」
重い音と共に扉が閉まった。
退路は消えた。
韓信の顔が凍る。
次の瞬間。
女官たちが一斉に飛び出した。
「なっ――!」
竹槍が突き出される。
韓信は反射的に動く。
だが武器はない。
数に押される。
服が裂ける。
鮮血が床を染めた。
そして。
韓信の目が蕭何を捉えた。
「蕭何さん……」
怒りではない。
絶望だった。
二度も自分を信じた男の。
裏切られた絶望。
蕭何は目を逸らした。
もう見ていられなかった。
呂后が前へ進み出る。
そして静かに告げる。
「これで終わりよ」
韓信が何かを叫ぼうとした。
だがその声は続かなかった。
蕭何の耳には、別の言葉が響いていた。
『次はお前たちの番だ』
かつて韓信が残した言葉。
それは呪いだった。
いや。
未来の予言だったのかもしれない。
韓信が消えても終わらない。
粛清は続く。
権力は次の獲物を探し始める。
そしていつか。
その刃は蕭何自身にも向くだろう。
鐘室に響く悲鳴を聞きながら。
蕭何は初めて悟った。
韓信の死は終幕ではない。
漢という巨大な権力機構が、人を喰らい始める合図に過ぎなかったのだ。
本当の悲劇は――
ここから始まる。
第27話:了
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