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【悲報】転生先でも定時退社できない。――過労死会計士、劉邦のCFO・蕭何になる【完結済/シリーズもの/一気読み推奨】  作者: 筑紫隼人
第4章:異性王粛清と非情なリストラ

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第26話:韓信の不祥事疑惑――国士無双の失脚

 相国府の冷たい床の上に、一本の古い竹簡が置かれていた。


 数年前。


 楚漢戦争のさなか、大将軍となった韓信が蕭何へ送りつけてきた手紙である。


『斉の地は未だ不安定にございます。私を仮の王に任じてくださらねば、兵たちの士気が保てませぬ』


 あの時。


 前線は燃えていた。


 劉邦は激怒し、卓を叩いた。


 それを蕭何と張良がなだめ、最終的に韓信を正式な斉王として認めさせた。


 だが今にして思えば。


 あの瞬間から歯車は狂い始めていたのかもしれない。


 前世でも見たことがある。


 圧倒的な実績を持つ人材が、自分だけは例外だと思い始める瞬間を。


 組織のルールより、自分の判断を優先し始める瞬間を。


 そして、その先に待つ破滅を。


「……見つかりました、相国」


 曹参が静かに告げた。


 部屋の空気が重くなる。


「何がだ」


 蕭何は筆を置かなかった。


「鍾離眜です」


 その名に、蕭何の指先が止まった。


「項羽の残党。楚に潜伏していたあの男です」


 曹参は続ける。


「あやつは今、韓信の屋敷におります」


 蕭何の眉がわずかに動いた。


「間違いないのか」


「はい。韓信は旧友の情に流され、朝廷へ届け出ることなく匿っています」


 ぽたり、と墨が落ちた。


 竹簡の上に黒い染みが広がる。


 鍾離眜。


 項羽軍屈指の猛将。


 劉邦が全国へ手配を出している最重要の逃亡者だった。


 その男を。


 韓信が保護している。


「馬鹿者が……」


 蕭何は低く呟いた。


 韓信に悪意はない。


 それは分かっている。


 あの男は昔からそうだった。


 義理を重んじる。


 恩を忘れない。


 だからこそ危うい。


 戦場では美徳でも、天下を治める側に回れば話は別だ。


 個人の情が国法を超えた瞬間。


 組織は崩れ始める。


「韓信は悪人ではない」


 蕭何は呟いた。


「あやつは義理と恩だけで動く男だ。自分がどれほど危うい場所に立っているのか分かっていない」


「ですが相国」


 曹参の声は冷静だった。


「陛下にとって理由は関係ありません」


 蕭何は目を閉じた。


「必要なのは」


 曹参が続ける。


「国士無双を縛るための大義名分です」


 沈黙。


「これで揃いました」


 蕭何は立ち上がった。


 手にした竹簡には、


 鍾離眜の潜伏場所。


 韓信が匿っていた期間。


 そして九章律の条文。


 すべてが整然と記されている。


 これを劉邦へ届けなければならない。


 だが足は重かった。


 まるで泥の中を歩いているようだった。


     ◇


 長楽宮。


 皇帝の居城。


 劉邦は毛皮の上に寝そべり、果実を頬張っていた。


 その隣には呂后。


 旅支度を終え、静かな笑みを浮かべている。


「陛下」


 蕭何は額を床につけた。


「おお、蕭何か」


 劉邦が笑う。


「待ってたぜ」


 その声は軽い。


 だが目だけは違った。


「南へ行く準備は終わった。魚を食う旅の招待状も発送済みだ。で、お土産は見つかったか?」


 蕭何は無言で竹簡を差し出した。


 侍従が受け取り、劉邦へ渡す。


 劉邦は目を通した。


 そして。


 表情が消えた。


「鍾離眜……」


 低い声だった。


「あの男を韓信が匿っているのか」


 部屋の空気が凍る。


「はい」


 蕭何は答えた。


「韓信は旧友を哀れんだのでしょう。反意があったとは思えません」


「ふむ」


「規律への認識不足が招いた失策かと」


「失策だと?」


 呂后が口を開いた。


 その声は静かだった。


 だからこそ恐ろしい。


「国家最高の手配犯を、軍を持つ王が匿う。それを失策で済ませるのですか?」


 蕭何は黙る。


「朝廷を軽んじているのよ」


 呂后は続けた。


「いつでも兵を動かせる立場の男が、敵将を囲っている。それを裏切りと呼ばず何と呼ぶのかしら」


「韓信は法度に疎いのです」


「だから危険なのだ」


 劉邦が遮った。


 怒ってはいない。


 むしろ静かだった。


 それが蕭何には恐ろしかった。


「あいつは強すぎる」


 劉邦は竹簡を見下ろした。


「項羽が死んだ今、この天下で韓信に勝てる奴はいねえ」


 蕭何は何も言えない。


「あいつがその気になれば、楚の兵は明日にでも動く」


 劉邦は続ける。


「俺はな」


 そこで一度言葉を切った。


「韓信が反乱を起こすかどうかに、この天下を賭ける気はねえんだ」


 乾いた音が響く。


 劉邦が竹簡を卓へ放り投げた音だった。


「雲夢に来たら捕らえる」


 その一言で決まった。


「法を破った罪人としてな」


 蕭何の胸が痛んだ。


 自分が作った法。


 その法が今、友を縛る縄になろうとしている。


「……すべては漢のため」


 蕭何はそう答えるしかなかった。


 劉邦は笑った。


「ありがたいねえ」


 その笑みは冷たかった。


「お前が九章律を作ってくれたおかげで、俺は堂々と韓信を捕まえられる」


 蕭何は頭を下げたまま動けなかった。


 数年前。


 月夜の野を馬で駆けた。


 韓信を追うために。


 あの男がいなければ漢は勝てない。


 本気でそう思っていた。


 だが今。


 その韓信を捕らえる準備を、自分が整えている。


 何とも皮肉な話だった。


     ◇


 数週間後。


 雲夢。


 霧深い湖畔の仮御所。


「楚王韓信、拝謁いたします!」


 陣幕が開いた。


 韓信が姿を現す。


 甲冑はない。


 武器もない。


 絹の衣をまとい、わずかな供だけを連れていた。


 その顔には警戒心すらない。


 懐かしい主君に会いに来た男の顔だった。


 蕭何の胸が締め付けられる。


「おお、韓信!」


 劉邦が立ち上がる。


「よく来たな!」


 笑顔だった。


 昔と変わらない笑顔。


 だが背後では近衛兵たちが剣に手を掛けていた。


「陛下のご健勝、何よりにございます」


 韓信も笑った。


「楚の酒を持参いたしました。ぜひ昔のように――」


「話の途中で悪いんだがな」


 劉邦の笑みが消えた。


 竹簡が放り投げられる。


 韓信の足元へ。


「……これは?」


 韓信は拾い上げた。


 読み進める。


 そして。


 顔色が変わった。


「鍾離眜を匿っているそうだな」


 劉邦の声は冷たかった。


「陛下、それは――」


「国の罪人を匿う王がどこにいる」


 劉邦が手を上げた。


 その瞬間だった。


 陣幕の裏から兵が雪崩れ込む。


 韓信を取り囲む。


 腕をねじ上げる。


「動くな!」


「大人しくしろ!」


「陛下!」


 韓信は叫んだ。


「陛下!」


 だが劉邦は湖を見ていた。


 もう韓信を見ていない。


 その時。


 韓信の視線が蕭何へ向いた。


 怒り。


 困惑。


 そして裏切られた者の絶望。


 言葉はない。


 だが蕭何には分かった。


 韓信は問うていた。


 ――あなただったのですか。


 ――この罠を作ったのは。


 蕭何は目を伏せた。


 その視線を受け止めることができなかった。


 韓信は抵抗しなかった。


 ただ連行される直前。


 天を見上げて笑った。


「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る……か」


 悲しげな声だった。


「天下が定まれば、この韓信も用済みというわけだ」


 その叫びが霧の湖へ消えていく。


 やがて兵たちの足音だけが残った。


 こうして国士無双は失脚した。


 王位を奪われる。


 軍を失う。


 領地を失う。


 そして淮陰侯へ降格された。


 翼をもがれた鳥。


 かつて天下を震わせた男の末路だった。


ーーーーーー


数か月後、長安。


事件の後始末に追われ、深夜まで相国府で竹簡をめくっていた蕭何のもとに、一つの報告が届いた。


『淮陰侯・韓信が、自らの屋敷で相国との面会を望んでおります』


蕭何は葛藤した。


今さら、どんな顔で会えばいいのか。


だが、この件から逃げることはできない。


自分には、彼がどうなったのかを見届ける責任があった。


深夜。


蕭何は頭巾をかぶり、人目を避けながら韓信の屋敷へ向かった。


かつて斉王、楚王として栄華を極めた男の住まいは、見る影もなかった。


庭は荒れ果てている。


風が吹き抜ける薄暗い部屋。


その片隅で、韓信は一人、酒を飲んでいた。


「……やはり来てくれましたね、蕭何さん」


韓信は驚かなかった。


顔は痩せ細っていた。


かつての自信も消えている。


だが、その目だけは異様なほど澄んでいた。


「韓信……」


蕭何は立ち尽くした。


「どうぞ。大将軍でも王でもない。ただの失脚した男の部屋ですが」


韓信は苦笑しながら杯を差し出した。


蕭何は黙って受け取る。


しばらく沈黙が続いた。


やがて蕭何が口を開く。


「鍾離眜は……どうした」


韓信は杯を空にした。


そして静かに天井を見上げた。


「死にましたよ」


短い言葉だった。


「私が雲夢へ向かう直前です」


韓信は続けた。


「鍾離眜は言いました。『漢がお前を王にしたのは、俺のような敵が生きていたからだ。もし俺を差し出して助かると思うなら甘い。俺が死ねば次はお前だ』と」


蕭何は黙って聞いていた。


「あやつはその場で自害しました」


韓信は笑った。


乾いた笑いだった。


「私は首を持参すれば許されると思ったんです」


「だが違った」


「陛下が欲しかったのは鍾離眜の首ではない」


「私を処分するための理由だった」


部屋に沈黙が落ちた。


「敵が消えれば、最強の味方が最大の脅威になる」


韓信は杯を回した。


「単純な話だったんですよ」


そして薄く笑う。


「会計士殿なら分かるでしょう?」


「韓信、俺は――」


蕭何は言葉を失った。


言い訳など無意味だった。


国家のため。


組織のため。


安定のため。


そんな言葉は、この男には届かない。


「責めてはいません」


韓信は穏やかに言った。


「あなたが月下で私を追いかけてくれなければ、私は無名の兵士のまま死んでいた」


「三斉の王にもなれなかった」


「項羽も倒せなかった」


「天下に名を残すこともなかった」


韓信は蕭何を見つめた。


「私の栄光は、あなたが作った仕組みの上にあった」


「だから、その仕組みが私を切り捨てるのなら」


「文句を言う資格もない」


蕭何は胸が締め付けられた。


だが韓信はそこで言葉を切った。


その目の奥で、何かが揺れた。


「ただし」


空気が変わる。


「鍾離眜は死ぬ前に、もう一つ言い残しました」


「何だ」


韓信は静かに答えた。


「『次はお前だ。そして、お前を捨てた奴らも、いずれ同じ目に遭う』と」


蕭何の背筋が冷えた。


韓信は立ち上がる。


そして耳元まで顔を近づけた。


「私はもう飼い殺されるつもりはありません」


声は静かだった。


だが底知れない執念が滲んでいる。


「陛下が私を猟犬として捨てるなら」


「私は牙を剥く」


「……私はやりますよ、蕭何さん」


蕭何は息を呑んだ。


それは明確な宣言だった。


反乱。


復讐。


あるいはその両方。


韓信の目は狂気ではなかった。


むしろ恐ろしいほど冷静だった。


だからこそ危険だった。


「韓信、お前は何を――」


問いかけた瞬間。


韓信は元の穏やかな笑みに戻っていた。


「さあ」


肩をすくめる。


「あなたの作った九章律で捕まえられるか、試してみてください」


蕭何は立ち上がった。


これ以上そこにいられなかった。


逃げるように屋敷を出る。


長安の夜道を駆け抜ける。


冷たい風が頬を打つ。


そして相国府へ戻った。


執務室の扉を開く。


その瞬間。


蕭何は凍りついた。


誰もいないはずの部屋。


その机の前に、一人の女が座っていた。


蝋燭の光に照らされた横顔。


冷たく、美しい。


「おかえりなさい、相国」


女が微笑む。


「随分と遅かったわね」


呂后だった。


彼女は蕭何の机に置かれた竹簡を弄んでいる。


まるで人の運命そのものを指先で転がしているようだった。


「皇后様……なぜここに」


蕭何の声はかすれていた。


呂后はゆっくり立ち上がる。


「陛下はもうすぐ陳豨討伐へ向かうわ」


「長安を空けるの」


一歩。


また一歩。


蕭何へ近づいてくる。


「そして淮陰侯が何か企んでいることも」


「私は全部知っている」


蕭何は言葉を失った。


呂后は微笑む。


その笑みには温度がない。


「陛下は格下げで済ませた」


「でも私は違う」


「危険な獣を生かしておく趣味はないの」


香の匂いが漂う。


息苦しかった。


「相国」


呂后は囁く。


「陛下が留守の間に終わらせましょう」


「今度こそ完全に」


「永久に」


蕭何の胸が重く沈んだ。


呂后の細い指が胸元に触れる。


その感触に、前世の記憶が蘇った。


不正を知りながら承認印を求めた役員。


拒否できなかった自分。


あの夜と同じだった。


「もう引き返せないわ」


呂后は笑う。


「あなたの手も、十分に汚れているもの」


韓信の言葉が脳裏によみがえる。


『お前を捨てた奴らも、いずれ同じ目に遭う』


呪いのように。


警告のように。


蕭何は理解していた。


韓信の破滅は終わりではない。


始まりだ。


自分が作った法。


自分が支えた国家。


その完璧な仕組みが、今度は人を喰い始める。


そして次に呑み込まれるのが誰なのか。


蕭何には、もう見え始めていた。


友を裁くための幕は上がった。


だが、本当の悲劇は――まだ始まったばかりだった。


第26話:了


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


突然ですが、作者からコンサル的お願いがございます。


「ブックマーク・評価」という施策を打てていない読者様、費用対効果は最高です。ワンクリック・5秒・無料。これ以上のROIはありません。


次話の更新速度というKPIに直結しますので、何卒ご支援のほどよろしくお願いいたします!


また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。


『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』

https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/

王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!


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