第25話 天下統一の歪み――軍閥化した「異性王」という名の負債
夜明け前の長安は、底冷えのする霧に包まれていた。
新築されたばかりの相国府の執務室には、百本もの蝋燭が並べられ、昼間のような白い光を放っている。
しかし、その光の中に浮かび上がるのは、新首都の栄光ではない。
床を埋め尽くし、壁を塞ぎ、天井に届かんばかりに積み上げられた無数の竹簡と木札。
それはすべて、地方の諸侯や中央の各部署から届いた未処理の報告書だった。
「相国、これが現在の天下の財政一覧です」
曹参が、数日徹夜した目をこすりながら、特大の白木の一覧表を床に広げた。
そこには、漢王朝が直接統治する十五郡と、地方の諸侯たちが支配する領地の数字が細かく墨書きされていた。
蕭何は赤く腫れた目で、その数字を上から下へと追った。
指先が、ある一線で止まる。
「全体の税収の六割以上が、地方の七人の王たちに握られているな」
蕭何の声は低かった。
「はい」
曹参が重苦しく頷く。
「斉の韓信、梁の彭越、九江の英布……。異性王と呼ばれる外様の王たちです。いずれも肥沃な土地を持ち、人口も多い。徴税権も官吏任命権も、独自の軍もそのまま抱えています」
蕭何は表を見つめた。
前世で何度も見た光景だった。
大きくなりすぎた組織。
本体より強くなった地方勢力。
統一のために与えた権限が、今度は中央を脅かしている。
韓信たちは天下を取るために必要だった。
だが天下を取った今、その存在そのものが新たな火種になっていた。
彼らは中央に十分な税を納めない。
それどころか軍の維持を理由に、さらなる負担を求めてくる。
帳簿を調べようとしても拒まれる。
実質的に別の国だった。
どれほど法を整えても、この歪みが残る限り漢王朝は安定しない。
その時だった。
「だから言ったでしょう」
背後から冷たい声が響いた。
「男たちの生ぬるい理屈では、この歪みは正せないと」
呂后だった。
部屋の影から静かに歩み出る。
その瞳は蛇のようだった。
蕭何は一礼した。
呂后は一覧表へ近づく。
そして韓信の名を爪でなぞった。
「韓信は監査を拒んだ。彭越は兵を減らさない。英布は武器を集めている」
静かな声。
だが一言ごとに殺気が滲む。
「彼らはあなたのように法を読む人間じゃない。戦場で人を殺して生き残った獣よ」
蕭何は胸の奥に痛みを覚えた。
「法は人を守るためにあります」
呂后は薄く笑った。
「国を守る時は別よ」
その言葉に温度はなかった。
「放置すれば国は裂ける。だったら取り除くしかないでしょう」
「理由なき処分は反発を招きます」
「理由なら作ればいいわ」
呂后は即答した。
「監査拒否もある。兵の蓄えもある。それを謀反の兆しと呼べばいい」
蕭何は黙った。
脳裏によみがえる。
前世。
上司から命じられた退職勧奨。
法を使って人を追い込んだ日々。
あの時と同じだ。
また法を凶器に変えろと言うのか。
その時。
執務室の扉が開いた。
「夜通し何を話している」
皇帝・劉邦だった。
蕭何は頭を下げる。
「陛下」
劉邦は表を見て鼻を鳴らした。
「韓信の奴、監査を追い返したそうだな」
声は穏やかだった。
だが目は違う。
獲物を狙う狼の目だった。
「韓信は最大の功臣です」
蕭何は言った。
「まずは説得を」
「聞くと思うか?」
劉邦は笑った。
だが笑っていない。
「あいつは強すぎる」
その一言だった。
「今の韓信は国そのものを揺るがせる。そんな奴を放っておけるか」
蕭何は言葉を失う。
反論できない。
韓信を生かせば国が危うい。
韓信を殺せば、自分の心が死ぬ。
「……分かりました」
長い沈黙の後だった。
「正面から討てば内乱になります。やるなら正当な手順が必要です」
「だから聞いてるんだよ」
劉邦が言う。
「策を出せ」
蕭何は目を閉じた。
そして開く。
「一つあります」
声は震えていた。
「韓信を斉から引き離すのです」
呂后が身を乗り出した。
蕭何は地図を開く。
指先は雲夢を示していた。
「陛下が南方へ行幸する。そして諸侯を招くのです」
劉邦の目が光った。
「なるほど」
「韓信が少数の供だけで来た時、その場で拘束します」
沈黙。
そして劉邦は笑った。
「面白い」
何度も蕭何の背中を叩く。
だが次の言葉が胸を刺した。
「ただし証がいる」
蕭何は顔を上げた。
「証、ですか」
「ああ。誰もが納得する理由だ」
そして。
劉邦は言った。
「お前が探してこい」
逃げ道はなかった。
「……承知いたしました」
蕭何は深く頭を下げた。
劉邦と呂后が去る。
執務室に静寂が戻る。
蕭何は白紙の竹簡を引き寄せた。
だが筆が動かない。
脳裏によみがえる。
あの夜。
漢を去ろうとした韓信。
それを追いかけた自分。
月明かりの下を馬で走った。
川辺で追いついた。
『韓信! 戻れ!』
あの日。
韓信は涙を流していた。
『なぜ私を追うのですか』
『お前が必要だからだ』
蕭何は叫んだ。
『お前がいなければ漢は勝てない』
韓信は黙って聞いていた。
そして最後に笑った。
『分かりました』
月光の下。
若き天才は頷いた。
『二人で天下を変えましょう』
その声が今も耳に残っている。
だが今。
自分が作った法が。
最初に裁こうとしているのは、その韓信だった。
「俺が……お前を呼び戻したのか」
自嘲が漏れる。
涙で視界が滲む。
それでも筆を取った。
墨が白い竹簡へ落ちる。
最初の一文字。
『韓』
それは友を救うための文字ではない。
友を裁くための文字だった。
かつて月下で結んだ約束を。
自らの手で断ち切るための最初の一筆。
漢王朝の裏側で。
最も血生臭い粛清の幕が上がろうとしていた。
第25話 了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
突然ですが、作者からコンサル的お願いがございます。
「ブックマーク・評価」という施策を打てていない読者様、費用対効果は最高です。ワンクリック・5秒・無料。これ以上のROIはありません。
次話の更新速度というKPIに直結しますので、何卒ご支援のほどよろしくお願いいたします!
また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
https://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n9418lx/
王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




