第24話:終わらない残業ループ――「法を作るほど、なぜ仕事は増えるのだ」
夜明け前の長安は、底冷えのする霧に包まれていた。
新築された相国府の執務室には、百本もの蝋燭が並び、昼のような明るさを保っている。
だが、その光が照らしているのは新都の栄華ではなかった。
床を埋める竹簡。
壁際に積まれた木札。
天井近くまで積み上がる未処理の報告書。
地方諸侯や中央各部署から届いた申請と苦情の山だった。
「相国、梁から租税減免の申請がまた届きました。さらに三箱です」
曹参が疲れ切った声で言った。
目は真っ赤だった。
戦場を駆けた猛将の面影はない。
今の彼は、書類の洪水に飲まれかけた管理職そのものだった。
「彭越の使者も来ています。今すぐ裁可を頂けなければ、来月の軍馬の飼料調達を止めると」
蕭何は墨をする手を止めない。
「第七箱だ。諸侯国特例規程の第三項を確認しろ」
「ですが――」
「不作を理由にするなら、昨年の戸籍と備蓄記録を照合するんだ。数字が合わなければ差し戻せ」
曹参は顔をしかめた。
「それをやれば、現地の監査官が拘束されるかもしれません」
「構わん」
蕭何は即答した。
「ここで一本でも例外を認めれば、税制そのものが崩れる」
そして次の竹簡へ手を伸ばす。
一本。
また一本。
裁可を終えても終えても、新しい竹簡が運び込まれる。
入口では役人たちが順番待ちをしていた。
まるで終わりのない悪夢だった。
(なぜだ……)
蕭何は目を閉じた。
前世。
監査法人で働いていた頃。
彼は何度も内部統制を整えた。
仕組みさえ整えば仕事は減る。
不正は減る。
組織は自動で回る。
そう信じていた。
だからこの世界でも法を作った。
人ではなく法で国を動かすために。
陛下という稀代の英雄の決断を支え、巨大な漢王朝を回し続けるために。
九章律。
それは蕭何の理想だった。
だが現実は違う。
法を整えれば整えるほど、新しい手続きが増えた。
竹簡は増えた。
決裁も増えた。
人も増えた。
だが仕事だけは減らなかった。
昨夜のご親族による不正を処理した一件もそうだ。
一つの問題を塞げば、新しい問題が現れる。
例外を処理するための規則が生まれる。
規則を運用するための手続きが生まれる。
手続きを監督するための報告書が生まれる。
そして、そのすべてが最終的に蕭何の机へ積み上がる。
「相国」
別の役人が木札を差し出した。
「九江王英布から返書です。本社の武器調達規定では治安維持に支障が出るため、独自判断で鍛冶屋を徴用したとのこと。事後承認を求めています」
蕭何は眉間を押さえた。
「英布までか」
地方諸侯は中央の規則を机上の空論だと思っている。
「過去三年の軍事費を確認する。記録を持ってこい」
「それが――」
役人は困った顔をした。
「記録庫の鍵が開きません。内史府と少府が管轄争いをしておりまして」
蕭何は思わず机を叩いた。
「私が承認する! 今すぐ開けろ!」
部屋が静まり返った。
厳格な制度を作るほど部署は増える。
部署が増えるほど承認も増える。
そして最後は必ず相国へ回ってくる。
前世の記憶が皮肉げに笑った。
「新しい業務フローは素晴らしい」
「ただ例外処理だけ全部お願いできないかな」
効率化のために作った仕組みが、結局は自分の残業を増やした。
あの頃と何も変わらない。
違うのは会社が国家になっただけだ。
「なぜだ……」
蕭何は呟いた。
「法を作るほど、仕事が増えるのはなぜなんだ……」
誰も答えない。
曹参も。
役人たちも。
皆、自分たちで作った仕組みに縛られていた。
時間は午前四時に近づいていた。
蝋燭が小さく爆ぜる。
蕭何の指先は墨で真っ黒だった。
朱筆を握る感覚も薄れている。
寝不足の脳裏に、前世の蛍光灯がちらついた。
それでも休めなかった。
机の最上段に置かれた一本の木札が、彼の意識を引き戻していたからだ。
【斉王韓信 本社監査を拒否】
昨夜届いた報告。
最悪の一枚。
昨夜の横領事件など、この件に比べれば小さな火種に過ぎない。
漢王朝最大の功臣。
最大の軍事力。
最大の領地。
そのすべてを握る韓信が、中央の統制を拒絶し始めている。
「相国……」
曹参が白湯を差し出した。
「少しお休みください。夜が明けてから陛下も交えて協議を――」
「いや」
蕭何は首を振った。
「陛下にこれをお見せすれば、あの方は軍を動かされる」
「それでは」
「内戦になる」
曹参は黙り込んだ。
ようやく統一した天下だ。
ここで再び戦になれば、国そのものが揺らぐ。
「だが監査拒否です」
曹参は食い下がった。
「反逆ではありませんか」
「まだ分からん」
蕭何は木札を見つめた。
「韓信がなぜ動いたのか。その理由が見えない」
韓信は天才だった。
戦では無敵。
だが政治は苦手だった。
陛下から斉王の地位を移されそうになった折も、不満を隠せなかった。
今回の中央集権化にも強く反発していた。
だが。
それだけでここまで露骨な行動に出るだろうか。
蕭何は斉から届いた資料を並べた。
港湾記録。
関税報告。
税収一覧。
そして穀物価格。
一つずつ目を通す。
やがて。
蕭何の眉がぴくりと動いた。
(……おかしい)
港の記録は消えている。
だが市場価格は崩れていない。
物流量が減ったなら物価は上がるはずだ。
なのに動いていない。
いや。
むしろ安定し過ぎている。
蕭何は別の木札を引き寄せた。
貨幣流通量。
租税収入。
塩取引。
数字を追う。
そして――。
背筋に冷たいものが走った。
背筋に冷たいものが走った。
蕭何は木札を何枚も並べ直した。
穀価。
塩の流通量。
関税収入。
鋳造記録。
一見すると無関係な数字だった。
だが会計士として鍛え上げられた感覚が警鐘を鳴らしていた。
あり得ない。
どう考えても辻褄が合わない。
「相国?」
曹参が不安そうに覗き込む。
蕭何は返事をしなかった。
斉国内の穀価は安定している。
塩の取引量も落ちていない。
ところが長安から流れた半両銭の量だけが明らかに不足していた。
本来なら市場が干上がっているはずだった。
それなのに商人たちは普通に取引している。
金が足りないはずなのに金が回っている。
そんな現象は一つしかない。
「そういうことか……」
蕭何の手から朱筆が落ちた。
赤い染料が木札の上に広がる。
「何が分かったのです」
曹参が身を乗り出した。
蕭何はかすれた声で答えた。
「韓信は反乱を起こそうとしているのではない」
「え?」
「もっと厄介だ」
蕭何は目を閉じた。
「奴は斉の中だけで別の経済を作ろうとしている」
曹参は意味が分からないという顔をした。
蕭何は資料を指差した。
「見ろ。この流通量だ」
「はい」
「長安から送られた貨幣だけでは説明できない」
「つまり?」
「別の貨幣が動いている」
部屋の空気が凍りついた。
曹参の顔色が変わる。
「まさか……」
「独自鋳貨だ」
蕭何は断言した。
「港湾記録を消した理由も説明がつく。交易の実態を隠したかったんだ」
軍事反乱なら分かりやすい。
兵を集めればいい。
だが経済は違う。
気付いた時には足元から国を蝕む。
「韓信は漢から独立したいわけではない」
蕭何は低く呟いた。
「少なくとも今はな」
「では何を」
「交渉だ」
曹参が眉をひそめる。
蕭何は続けた。
「独自の経済圏を握れば中央と対等に話せる。韓信は剣ではなく銭で発言力を得ようとしている」
そして、その発想が最も恐ろしかった。
韓信は軍事の天才だ。
だが経済政策に明るい男ではない。
誰かがいる。
背後に。
中央の制度を理解し、その弱点を知る者が。
「これは韓信一人の策ではない……」
蕭何は思わず呟いた。
「相国?」
「いや」
だが嫌な予感だけは消えなかった。
もし他の諸侯も同じことを始めたらどうなる。
梁も。
楚も。
淮南も。
それぞれが独自貨幣を流通させれば、統一国家は名ばかりになる。
戦わずして漢は崩れる。
蕭何は額を押さえた。
徹夜続きの頭が軋む。
心臓が重い。
視界の端が滲んだ。
前世で倒れた日のことを思い出す。
終わらない承認。
終わらない会議。
終わらない責任。
組織が大きくなるほど問題も大きくなる。
国になればなおさらだった。
「終わらないな……」
誰に向けるでもなく呟く。
「一つ塞げば、また別の穴が開く」
劉信の件が片付いたと思えば韓信だ。
韓信を止めても次が出るだろう。
人がいる限り終わらない。
法だけでは終わらない。
蕭何は深く息を吐いた。
その時だった。
重い扉が静かに開いた。
役人ではない。
伝令でもない。
部屋の空気が変わる。
曹参が反射的に立ち上がった。
そして膝をつく。
蕭何も顔を上げた。
黒い衣。
静かな足音。
感情の見えない瞳。
そこに立っていたのは一人の女だった。
「……皇后様」
呂雉。
皇后であり、宮中最大の実力者。
彼女は部屋を見回した。
竹簡の山。
眠れぬ官吏たち。
疲弊した相国。
そのすべてを値踏みするように眺める。
「ずいぶん賑やかね」
声は穏やかだった。
だが温度がない。
「皇后様。このような時間に何か」
「韓信の件でしょう?」
蕭何の言葉を遮る。
そして一本の黒い木札を机の上に置いた。
乾いた音が響いた。
蕭何は目を細める。
見覚えのない木札だった。
「何ですか、これは」
「名簿よ」
呂雉は答えた。
「名簿?」
「ええ」
その唇がわずかに歪む。
笑っている。
だが目は笑っていなかった。
「異性王たちの名簿」
蕭何は嫌な予感を覚えた。
呂雉は続ける。
「韓信。彭越。英布」
一人ずつ名を挙げる。
まるで品定めでもするように。
「みんな優秀ね」
静かな声だった。
だからこそ恐ろしい。
「ですが優秀すぎる者は、時として国を壊す」
蕭何は木札を見つめた。
背中に冷たい汗が流れる。
「皇后様」
「何かしら」
「まさか……」
呂雉は微笑んだ。
「相国」
その声は優しかった。
だが刃物より冷たかった。
「法で守れない国なら、人が守るしかないでしょう?」
蕭何は息を呑んだ。
目の前にいるのは皇后だった。
しかし同時に。
自らが築こうとしている法治国家にとって最大の脅威でもあった。
法を信じる男。
法を信じない女。
二人の視線が交錯する。
窓の外では東の空が白み始めていた。
漢王朝の新しい一日が始まる。
だが蕭何には分かっていた。
これから始まるのは行政の仕事ではない。
もっと暗く。
もっと血なまぐさい戦いだ。
呂雉は机の上の名簿を指で叩いた。
「まずは韓信ね」
その一言で。
長安の朝は静かに幕を開けた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




