第23話:創業者からの深夜の電話――「蕭何、ちょっと新しい法律の例外を作りたいんだが」
静まり返った仮設の執務室に、劉邦からの直通連絡が低く鳴り響いていた。
通信木札を握る蕭何の指先が、わずかに冷たくなる。
前世の監査法人時代、深夜二時に鳴る電話にろくなものはなかった。
不祥事の隠蔽。
粉飾決算。
あるいはその両方。
嫌な記憶が二千年の時を超えて蘇る。
『おい、聞いてるか、蕭何? お前と俺の仲だろ。頼んだぜ……』
劉邦の声は重かった。
昼間の朝会で見せていた上機嫌な顔はどこにもない。
蕭何は静かに息を吐いた。
そして声を切り替える。
「陛下。私は今、相国としてこの席におります。沛県時代の付き合いを理由に法の例外を求めるのは筋が通りません。まず何が起きたのか。事実を聞かせてください」
しばらく沈黙。
やがて舌打ちが聞こえた。
『相変わらず堅物だな。……まあいい。やらかしたのは劉信だ』
蕭何の眉がわずかに動く。
劉邦の甥。
亡き兄の息子。
あの一家の血筋だった。
かつて劉邦が兄の家に入り浸っていた頃、兄嫁は鍋の底を箸でかき回しながら、
「もう何も残っていませんよ」
と嫌味を言ったという。
劉邦は天下を取ってからも、その恨みだけは忘れなかった。
親族の中で劉信の一族だけが冷遇されている理由でもある。
「劉信ですか。第三区備蓄倉庫の責任者でしたね」
『そうだ』
劉邦の声が低くなる。
『あいつ、塩と鉄の密売に手を出してやがった』
蕭何は表情を失った。
『それだけじゃねえ。軍馬用の飼料まで横流しして裏金を溜め込んでいた。曹参の監査で発覚した』
冗談では済まない。
塩と鉄。
軍需物資。
どちらも国家の根幹だった。
単なる横領ではない。
国を食い潰す犯罪である。
「即刻逮捕です」
蕭何は迷わず答えた。
「監査で見つかった以上、記録は残っています。今さら隠せません」
『だから困ってるんだろうが!』
劉邦が怒鳴った。
『世間から見りゃ俺の身内なんだよ! 建国したばかりの国だぞ! 身内の不正を出したら諸侯どもが何て言う!?』
蕭何は黙った。
劉邦の言い分にも理はあった。
漢王朝はまだ脆い。
韓信。
英布。
彭越。
力を持った諸侯王たちは独立の機会をうかがっている。
ここで皇帝の身内の不正が表に出れば、
「法を語る資格なし」
そう叫ぶ口実になる。
『頼むよ、蕭何』
今度の声は甘かった。
蛇のようだった。
『法のどこかに例外を作れねえか? それか記録を消せ。お前ならできるだろ』
その言葉を聞いた瞬間。
蕭何の脳裏に前世の記憶が蘇った。
――これは会社を守るためだ。
――大人の判断だよ。
何度も聞いた言葉だった。
そして従った。
結果はどうだったか。
会社は腐った。
自分は死んだ。
法を守れば国が揺らぐ。
国を守れば法が死ぬ。
どちらも捨てる気はなかった。
蕭何は目を閉じた。
そして開く。
答えは出ていた。
「陛下」
静かな声だった。
「記録の改ざんはしません。法に裏口も作りません」
『何だと!?』
「ですが」
蕭何は続けた。
「既にある法だけで、この問題を片付ける方法があります」
沈黙。
劉邦が息を呑む。
『そんなことができるのか?』
「できます」
蕭何は九章律の竹簡を広げた。
「第三条です」
『減刑規定か』
「はい」
功臣やその一族に対し、皇帝が恩赦を与える条文です」
『だから劉信には功績がねえだろ』
「功績は必要ありません」
蕭何は言った。
「必要なのは見せ方です」
『……見せ方?』
「劉信を助けるのではありません」
蕭何は笑った。
冷たい笑みだった。
「誰よりも惨めな見せしめにするのです」
通信の向こうが静まる。
「まず明日の朝会で全て公表してください」
『正気か?』
「隠すから疑われるのです」
蕭何は言った。
「最初から表に出せばいい」
『それで?』
「陛下は激怒するのです」
蕭何は続けた。
「本来なら死罪である。しかし楽に死なせるつもりはない、と」
『ほう』
劉邦の声が変わった。
興味を持った声だ。
「劉信の財産は全没収」
「官職も剥奪」
「そのうえで、新しい爵位を与えます」
『爵位?』
「はい」
蕭何は静かに告げた。
「羹頡侯です」
『……何だそりゃ』
「羹は汁物。頡は鍋底を削る音」
蕭何の口元がわずかに歪む。
「つまり――鍋底ガリガリ侯です」
通信の向こうが沈黙した。
通信の向こうが沈黙した。
やがて。
「……ぶっ」
劉邦が吹き出した。
次の瞬間だった。
『ガハハハハハハハハ!!』
爆笑が響く。
深夜の執務室が揺れるほどの大笑いだった。
『鍋底ガリガリ侯!? 何だそれは!』
「劉信の母が昔やったことでしょう」
『覚えてるとも!』
劉邦は腹を抱えて笑った。
『死罪より効くじゃねえか!』
「そうでしょう」
蕭何は淡々と答える。
「命は助かる」
「ですが子や孫の代まで笑われ続ける」
「法の慈悲も示せます」
「同時に、法の厳しさも示せます」
劉邦はしばらく笑い続けた。
やがて満足したように息を吐く。
『いい』
『それで行こう』
『身内だから助けたと言われず、身内だからこそ容赦なく恥をかかせる』
『悪くねえ』
「ご決断に感謝します」
『感謝するのはこっちだ』
劉邦は上機嫌だった。
『やっぱりお前を相国にして正解だったな』
通信が切れる。
静寂。
ようやく終わった。
蕭何は木札を机に置いた。
全身から力が抜ける。
背中は汗で濡れていた。
「……勘弁してくれ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
時計はない。
だが感覚で分かる。
おそらく午前三時を回っている。
前世でも似たような夜はあった。
社長の思いつき。
役員の不祥事。
監査対応。
火消し。
一つ消せば二つ燃える。
そんな毎日だった。
まさか二千年前でも同じことをするとは思わなかった。
「終わったな……」
蕭何は竹簡をまとめ始めた。
少しでも眠りたかった。
だが。
その瞬間だった。
ジリリリリリリリリリッ!!
耳をつんざく警報音。
蕭何は顔を上げた。
壁際に並ぶ通信木札が激しく震えている。
一本ではない。
二本。
三本。
四本。
次々と鳴り始めた。
異常事態だった。
「何だ!?」
奥の仮眠室から曹参が飛び出してくる。
寝巻き姿だった。
「相国!」
顔面蒼白だった。
「地方から緊急報告です!」
「何件だ」
「十件以上!」
蕭何は駆け寄った。
震える木札をつかむ。
そして文字を読んだ。
その瞬間。
顔から血の気が引いた。
【緊急報告】
斉王韓信。
本社監察官の入国を拒否。
港湾収入の報告を停止。
独自の規則を施行。
蕭何は目を見開いた。
冗談ではない。
これは税の問題ではない。
監察の問題でもない。
もっと根本的な話だ。
「韓信が……監察を拒否した?」
曹参が震えながら頷く。
「他にもあります」
木札が積み上がる。
九江。
梁。
楚。
各地から異変の報告。
誰もが本社の指示に従わなくなり始めていた。
「相国……」
曹参の声がかすれる。
「これは……」
言葉の続きを言えなかった。
必要なかった。
蕭何には分かっていた。
劉信の横領など小さな話だった。
本当の問題は別にあった。
天下統一は終わった。
だが。
統一国家の経営は始まったばかりだった。
剣で天下は取れる。
だが法だけで人は従わない。
韓信ほどの男ならなおさらだ。
蕭何は木札を握りしめる。
嫌な予感がした。
いや。
予感ではない。
確信だった。
今夜届いたのは報告ではない。
警告だ。
これから始まる巨大な嵐の。
最初の一枚にすぎない。
「劉邦の問題じゃなかったか……」
思わず漏れた声。
終わらない。
何一つ終わっていない。
人がいる限り争いは消えない。
法を作れば抜け道が生まれる。
抜け道を塞げば別の穴が開く。
そして今。
地方の王たちは自分たちの力を試そうとしている。
項羽との戦は終わった。
だが。
人の欲との戦は、今始まったばかりだった。
第23話 了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




