第16話:垓下の最終決算――四面楚歌と、項羽の貸し倒れ(自己破産)
「……説明してもらおうか、蕭何。この大量の『関中の不動産権利書』は何だ」
櫟陽の本社オフィス。
切り裂かれたテントの隙間から、冷たい月光が差し込んでいた。
CEO・劉邦は、血のついた大剣を蕭何の喉元へ突きつけている。
背後には、武装した親衛隊。
完全包囲。
一歩でも言葉を誤れば、その場で更責。即死だった。
だが。
蕭何は、静かに眼鏡を押し上げた。
床に並べられた不動産権利書を、冷え切った目で見下ろす。
「社長。まずは、この財務諸表をご確認ください」
「財務諸表だと?」
「私が買い叩いた土地は、すべて異常な低価格で取得しています。民衆からは『悪徳金貸し』『強欲なCFO』と罵倒されるほどに」
「だから、それが謀反の準備だと言ってるんだろうが!」
劉邦が怒鳴った。
蕭何は、そこで薄く笑った。
自嘲に近い笑みだった。
「もし私が独立MBOを狙っているなら、民衆の支持率を最大化する政策を打ちます。減税。食糧配布。債務免除。そうやって市場の好感度を買う」
蕭何は、床の権利書を指で弾いた。
「ですが今、関中の民衆は私を憎んでいる。つまり、この買収劇は“王になるため”の行動としては、完全に非合理です」
劉邦の剣先が、わずかに止まった。
「……続けろ」
「私は、自分の市場価値を暴落させたのです」
蕭何は、静かに言った。
「民の支持が、社長ではなく私に集まりすぎた。それが、組織にとって最大のガバナンス不全だった」
静寂。
テントの外で、風だけが鳴っていた。
「私は金に汚い凡物です。立場を利用して土地を買い漁る、俗物のCFOにすぎない。だから安心してください」
蕭何は、不動産証書を両手で持ち上げた。
「この権利書はすべて、王室資産として没収してください。私はただの、あなたの会計士です」
数秒。
いや、数十秒か。
重苦しい沈黙のあと――。
「……ハ、ハハ」
劉邦が、突然笑った。
次の瞬間。
「ガハハハハハハ!!」
テントが揺れるほどの大爆笑だった。
「お前、本当に狂ってるな蕭何!」
劉邦は剣を収める。
「俺を安心させるために、わざわざ民衆から嫌われ者になったのか!」
親衛隊がざわついた。
曹参は、そこでようやく息を吐いた。
「よし! この土地は全部、俺が没収してやる!」
劉邦は蕭何の肩を乱暴に叩いた。
「お前はやっぱり、俺にとって最高に使いやすいCFOだ!」
社内政治。
その極限のチキンレース。
蕭何は、自らの“高潔さ”を捨てることで、組織の中枢を守り切ったのだった。
⸻
「さて。内憂は終わった」
蕭何は算盤の前へ戻る。
「これより、漢軍の全資本を、東方へ集中投資します」
紀元前二〇二年、冬。
楚漢戦争、最終フェーズ。
垓下。
そこは、巨大な債権回収現場だった。
関中から無限に送り込まれる兵糧。
絶え間ない補充兵。
蕭何が築いたサプライチェーンによって、漢軍は三十万規模の巨大組織へ成長していた。
その全軍を指揮するのは、韓信。
戦術アルゴリズムの天才だった。
対する楚軍。
項羽の軍勢は、完全に疲弊していた。
兵糧が届かない。
輸送路は、彭越のゲリラ部隊に寸断され続ける。
補給は崩壊。
キャッシュフロー停止。
楚軍は、兵站から腐り始めていた。
「……腹が減った」
「三日、まともな飯が来ねえ」
兵士たちの目から、光が消えていく。
どれほど項羽が強くても、バックオフィスが死ねば組織は終わる。
韓信は、その瞬間を待っていた。
三十万の漢軍が、垓下を十重二十重に包囲する。
完全ロック。
そして。
運命の夜が訪れた。
「……おい」
楚軍の老兵が、震える声を漏らした。
「敵陣から……楚の歌が聞こえるぞ……」
夜風に乗って響く故郷の歌。
楚の旋律。
兵士たちの顔色が変わる。
「楚が……落ちたのか?」
「本国が滅んだのか……?」
四面楚歌。
史上最悪のメンタル・ハッキングだった。
蕭何は、楚出身の捕虜たちを大量投入し、包囲網の外周で故郷の歌を歌わせたのだ。
兵士たちは錯覚した。
“もう楚に未来はない”と。
パニックは、一瞬だった。
「終わりだ……」
「逃げるしかねえ……!」
夜闇へ、兵士たちが雪崩のように逃げ出していく。
一晩で数万が消えた。
項羽の手元に残った兵は、わずか数百騎。
楚軍。
事実上の倒産だった。
⸻
楚軍本陣。
項羽は、虞美人の隣で酒を飲んでいた。
四方から響く楚の歌。
残された数百騎。
覇王は、ついに理解した。
自分の会社は、終わったのだと。
「力は山を抜き、気は世を蓋う……」
項羽の低い声が響く。
「だが、時利あらず。騅は逝かず……」
武力では勝っていた。
だが。
物流で負けた。
項羽は、静かに目を閉じた。
「……蕭何。お前の数字が、俺を殺したのだな」
虞美人は、涙を流しながら微笑む。
そして。
自ら剣を取った。
項羽の負債にならぬよう、自害した。
最後の無形資産の清算だった。
⸻
夜明け。
項羽は、残された数百騎を率いて包囲網へ突撃する。
勝つためではない。
死ぬための進軍だった。
烏江。
そこで、項羽はついに追い詰められる。
全身血まみれ。
数百の傷。
だが、その目だけは死んでいなかった。
「天が俺を滅ぼすのだ」
項羽は笑った。
「戦の罪ではない」
漢軍が包囲を狭める。
項羽は、自ら喉へ剣を突き立てた。
鮮血。
巨星墜つ。
楚軍アキレス・グループ。
完全倒産。
歴史上最強のプレイヤーは、静かに市場から退場した。
⸻
「項羽、自害!」
「楚軍、完全消滅!」
その速報が、関中へ届く。
オフィスは歓声に包まれた。
「勝った!!」
「天下統一だ!」
竹簡が宙を舞う。
曹参は、涙を流しながら蕭何へ駆け寄った。
「蕭何! 本当に、お前の算盤が項羽を倒したんだ!」
蕭何は、静かに算盤の珠をゼロへ戻した。
「……終わりましたね」
その顔にあったのは、勝利の喜びではない。
長すぎるデスマーチを終えた人間だけが浮かべる、深い疲労だった。
だが。
本当の地獄は、ここからだった。
「蕭何様」
情報管理役員が、金紐で閉じられた竹簡を差し出す。
「次期皇帝直属委員会より、人事査定案です」
蕭何は竹簡を開いた。
そして。
瞳が凍った。
第一条。
韓信の軍権剥奪。
地方送り。
常時監視対象。
第二条。
蕭何の財務権限、大幅縮小。
今後の予算執行は、皇帝の直接承認制へ移行。
曹参が絶句した。
「……おい。外敵が消えた途端、大将の野郎……俺たちの牙を抜く気か」
蕭何は、静かに竹簡を閉じた。
前世でも、同じだった。
競合との戦争が終わる。
すると経営陣は、次に“有能な味方”を恐れ始める。
会社を救った人材ほど、危険視される。
韓信。
蕭何。
彼らはもう、“必要すぎる存在”になってしまったのだ。
蕭何は、東の空を見つめた。
「外の敵が消えた以上……」
静かな声だった。
「これから始まるのは、“社内政治”という名の内部監査です」
天下統一。
その光の裏で。
功臣たちを粛清していく、血塗られた新章が、静かに幕を開けようとしていた。
第16話:了
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




