第15話:項羽のサプライチェーンの脆弱性――「補給を軽視した組織は、必ずどこかでキャッシュアウトする」
パチ、パチ、と。
櫟陽の本社オフィスで、算盤の珠が冷たく鳴った。
深夜。
灯火は弱い。
だが蕭何の目だけは、異様なほど冴えていた。
「買い叩け」
低い声が、テントに落ちる。
「関中の良田を、市場価格の三分の一で全部押さえる。名義は、すべて私個人だ」
「……は?」
曹参が顔を引きつらせた。
「お前、自分が何を言ってるかわかってるのか? 民衆から土地を巻き上げるだと? お前が?」
「そうだ」
蕭何は淡々と土地台帳へ印を押す。
まるで感情がない。
「今の私は、民から支持されすぎている」
「……」
「それが、劉邦CEOには危険に見えている」
曹参の喉が鳴った。
前線では、劉邦が命を削って戦っている。
一方で関中では、民衆が蕭何を救世主として崇め始めていた。
それは創業社長にとって、最悪の兆候だ。
「だから、私の市場価値を暴落させる」
蕭何は冷たく言った。
「民にこう思わせる。蕭何は清廉な名臣ではない。ただの強欲な金貸しだ、と」
前世。
桜橋有限責任監査法人。
蕭何は何度も見てきた。
有能すぎるNo.2が、創業社長の猜疑心で消される瞬間を。
だからこそ、生き残る方法を知っていた。
「トップに恐れられるな。軽蔑されろ」
それが組織を生き抜く技術だった。
「だが――」
蕭何の視線が変わる。
机の上に広げられたのは、楚軍の戦況ログ。
「防衛だけで終わる気はない」
「……項羽か」
曹参が息を呑む。
蕭何は頷いた。
「項羽は強い。だが、強すぎる」
算盤の珠が弾けた。
「強すぎる組織は、バックオフィスを軽視する」
項羽。
天下最強。
剣を振れば軍が消える。
叫べば諸侯が震える。
だが、その圧倒的武力ゆえに、楚軍には欠けているものがあった。
兵站。
ロジスティクス。
つまり、補給の思想そのもの。
「項羽の組織には、CFOがいない」
蕭何は冷酷に続けた。
「彼らの戦争モデルは、現地略奪だ。勝ちながら奪う。奪いながら前進する。市場が拡大している間は、それで回る」
「だが今は違う」
曹参が顔を上げる。
「滎陽で戦線が止まってる……!」
「そうだ」
蕭何は不敵に笑った。
「市場が止まった瞬間、略奪モデルは死ぬ」
滎陽周辺は荒れ果てていた。
畑は焼け。
村は空。
奪うべき食糧がない。
つまり楚軍は、本拠地・彭城から長距離輸送するしかない。
だが。
項羽は物流を理解していなかった。
道の整備もない。
輸送管理もない。
あるのは恐怖政治だけ。
「運べ。遅れたら死刑」
そんな原始的運営で、巨大な戦線を維持できるはずがない。
「補給を軽視した組織は、必ず黒字倒産する」
蕭何は竹簡を差し出した。
「曹参。彭越へ送れ」
その頃。
梁の地。
独立ゲリラ部隊を率いる彭越は、蕭何から届いた密命を読んでいた。
そこに書かれていたのは、恐ろしく冷徹な戦略だった。
『正面決戦は不要』
『輸送路だけを壊せ』
『橋を落とせ』
『三日の遅延を発生させろ』
『それだけで項羽は干上がる』
彭越は吹き出した。
「相変わらずエグいな、蕭何の旦那は」
深夜。
楚軍の補給路。
轟音が響いた。
ガシャァァン!!
巨大な橋が崩れ落ちる。
馬車が川へ沈む。
兵糧袋が濁流へ消える。
「敵襲だ!!」
「補給路が焼かれた!!」
「米が全部流れる!!」
楚兵たちが絶叫する。
だが彭越軍は、物資を奪わなかった。
ただ壊す。
ただ遅らせる。
それだけ。
物流は、一日止まれば致命傷になる。
「……またか」
滎陽の楚軍本陣。
項羽は報告書を握り潰した。
「また補給が止まったのか!!」
怒号がテントを震わせる。
将軍たちは震え上がった。
「申し訳ございません!」
「彭越が橋を破壊し、水運も焼き払っております!」
「修復にあと数日――」
「黙れ!!」
項羽の咆哮。
「飯が届かなければ兵は戦えん!!」
その通りだった。
どれだけ勝っても。
食えなければ終わる。
項羽は、防壁の向こうを睨む。
滎陽。
あの漢軍は、一度完全崩壊したはずだった。
だが。
毎日。
毎日。
関中から兵と兵糧が、狂ったように届き続ける。
まるで無限供給。
「……蕭何か」
項羽が低く呟く。
「あの算盤野郎が、俺を窒息させる気か……」
そして。
ついに項羽は決断した。
「前線攻撃を停止する」
将軍たちがざわめく。
「俺が自ら彭越を潰しに行く。その間、滎陽は維持だ」
無敵の項羽が。
初めて。
補給問題によって、攻勢停止へ追い込まれた瞬間だった。
数日後。
櫟陽。
「項羽、本隊を東へ転進!」
「滎陽への圧力、四割減です!」
本社オフィスが歓声に包まれる。
「やったぞ!」
「項羽を止めた!!」
だが蕭何だけは静かだった。
算盤を一つ弾く。
「当然だ」
冷たい声。
「構造的に、あの組織は長期戦できない」
そして。
彼は机の引き出しを開けた。
中には、大量の土地権利書。
関中の民から買い叩いた証拠。
「こちらの決算も進めるぞ」
曹参が苦しそうに顔を歪めた。
「……お前、今じゃ民衆から完全に嫌われてるぞ」
「それでいい」
「『蕭何は悪徳CFOだ』って噂が広がってる」
「それでいい」
蕭何は迷わなかった。
「劉邦は、部下の高潔さを恐れる。だが俗物には安心する」
その瞬間だった。
バァン!!
オフィスの扉が吹き飛ぶ。
飛び込んできたのは夏侯嬰。
顔面蒼白だった。
「蕭何様!!」
息を切らす。
「大変です!!」
「劉邦CEOが!!」
テント内が凍る。
「武装親衛隊を率いて、本社へ向かっています!!」
「何……!?」
曹参が叫ぶ。
夏侯嬰は震えていた。
「民から大量の告発が届いたんです!!」
『蕭何が土地を不正取得している』
『関中で王になる準備をしている』
そう聞いた劉邦が激怒した。
「あと数分で到着します!!」
空気が変わった。
完全な破滅の気配。
「逃げろ、蕭何!!」
曹参が腕を掴む。
「今の大将は危険だ! 本当に斬られるぞ!!」
だが。
蕭何は動かなかった。
静かに土地権利書を並べる。
綺麗に。
見やすく。
監査資料のように。
そして眼鏡をかけ直した。
「逃げれば、謀反を認めることになる」
その顔に恐怖はない。
あるのは。
修羅場を潜った監査人だけが持つ、冷たい覚悟。
「来るなら来い、劉邦」
蕭何は笑った。
静かに。
狂気的に。
「あなたが欲しがっている『私が私腹を肥やしている証拠』を、完璧な形で提出してやる」
ドガガガガガッ!!
外で武装兵の足音が轟く。
次の瞬間。
テントの布が、巨大な剣で真っ二つに裂けた。
血走った目。
怒りに染まった顔。
劉邦が、親衛隊を率いて踏み込んでくる。
過労死会計士・蕭何。
人生最大の「社長直接監査」。
命を賭けた最終決算が、今まさに始まろうとしていた。
第15話:了
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『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




