第14話:滎陽の黒字倒産危機――物資はあるのに前線に届かない、物流ルートの監査
「……数字が、合わない」
櫟陽の本社オフィス。
蕭何が弾いていた算盤が、ぴたりと止まった。
その瞬間。
テントの空気が、氷のように冷えた。
前世。
桜橋監査法人にいた頃、蕭何が最も嫌っていた言葉。
黒字倒産。
帳簿には利益がある。
倉庫にも、兵糧と矢が積み上がっている。
だが現場には届かない。
最前線の滎陽からは、毎日のように悲鳴が飛んできていた。
「兵糧が尽きる!」
「矢がない!」
「このままでは本陣が崩壊する!」
蕭何は、ゆっくり目を閉じた。
「曹参。輸送ログを出せ」
「これだ」
差し出された竹簡には、完璧な輸送計画。
渭水から黄河へ。
敖倉を経由し、滎陽へ流す。
理論上は、一切の問題がない。
「敵襲は?」
「ない」
「船の沈没は?」
「報告なし」
「なら、なぜ届かない」
曹参が苦い顔をした。
「敖倉から先だ。最終工程で、物資が消える」
蕭何の瞳が細くなる。
「……内部不正か」
前線では、韓信が限界で防衛線を維持している。
劉邦は泥水をすすって時間を稼いでいる。
関中では、自分が民を削って兵站を回している。
なのに。
その中間で。
誰かが物流を止め、利益を吸っている。
「馬車を出せ」
「待て!」
曹参が立ち上がる。
「お前が本社を離れたら危険だ! 今は劉邦からの猜疑も――」
「前線が死ねば、疑われる前に会社が潰れる」
蕭何は立ち上がった。
「数字の歪みは、現場で潰す」
その日のうちに。
蕭何は、敖倉へ向かった。
秦帝国最大の物流拠点。
巨大な穀物倉庫群。
天下の食糧が集まる場所。
だが。
現地へ着いた瞬間。
蕭何の顔から、感情が消えた。
一輪車が、延々と渋滞していた。
関中から命懸けで物資を運んできた少年兵。
老兵。
農民。
全員が、倉庫前で足止めされている。
その一方で。
倉庫の管理官たちは。
豪華なテントで酒宴。
肉。
女。
笑い声。
「……終わってるな」
蕭何は馬車を降りた。
「責任者は誰だ」
のそり、と。
肥えた男が現れる。
魏出身の官僚だった。
「これは蕭何様。どうされました?」
「どうされました、じゃない」
蕭何の声は冷たい。
「なぜ出荷が止まっている」
官僚は肩をすくめた。
「いやぁ。諸侯間の調整ですよ」
「調整?」
「各部隊から、不公平だと苦情が来ましてねぇ。配分会議が終わるまで、出荷停止です」
蕭何の眉が、ぴくりと動く。
「前線では今、兵が死んでいる」
「現場には現場の事情がありますので」
男は笑った。
脂ぎった顔。
濁った目。
完全に腐っていた。
「まあ、蕭何様が我々魏グループへ、今後の優遇を約束してくだされば――」
「賄賂か」
「おっと。言い方が悪いですなぁ」
下卑た笑い。
蕭何は静かに懐へ手を入れた。
取り出したのは。
劉邦直属の全権印。
「……それは」
官僚の顔色が変わる。
蕭何は、一歩前へ出た。
「これより敖倉の緊急監査を開始する」
「曹参直属部隊、突入しろ」
「オラァッ!!」
次の瞬間。
憲兵たちが一斉にテントへ雪崩れ込んだ。
悲鳴。
怒号。
帳簿が飛ぶ。
蕭何は裏帳簿を掴み取った。
そして。
猛烈な速度でページをめくる。
「……なるほど」
「架空在庫」
「不正滞留」
「裏市場転売」
「諸侯へのキックバック」
蕭何の声が低くなる。
「お前たち、兵糧の二割を抜いていたな」
官僚の顔が真っ青になった。
「な、なぜ分かる!?」
「監査人を舐めるな」
蕭何は帳簿を叩きつけた。
「全員、更迭」
「死刑にしろ」
空気が凍る。
「ま、待て!」
肥満官僚が叫ぶ。
「我々がいなければ物流は回らん!」
蕭何は胸ぐらを掴み上げた。
「違う」
「お前らが詰まらせていたんだ」
静かな声。
だが殺気が凄まじい。
「中抜き屋は不要だ」
「私の仕様書だけで回せる」
そのまま。
官僚たちは引きずられていった。
絶叫が響く。
蕭何は振り返る。
渋滞していた一輪車部隊へ向けて。
算盤を鳴らした。
「全員聞け」
「本物流拠点は、今から直営化する」
ざわめき。
「無駄な審査は全部廃止だ」
「関中部隊は、そのまま倉庫へ入れ」
「積み替え次第、即出発」
「最速で滎陽へ届けろ」
「社長を飢え死にさせるな」
「おおおおおっ!!」
空気が変わった。
止まっていた大動脈が。
一気に動き出す。
数万台の一輪車。
兵糧。
矢。
補充兵。
すべてが滎陽へ流れ始めた。
そして。
滎陽。
「……終わりか」
劉邦が、崩れかけた本陣で息を切らしていた。
矢は尽きた。
兵も倒れている。
項羽軍の突撃。
十四回目。
韓信の防衛陣も、限界。
「劉邦の首を獲れぇ!!」
楚軍が雪崩れ込む。
その瞬間。
地鳴りが響いた。
ガラガラガラガラ!!
土煙。
歓声。
「来たぞぉぉぉ!!」
「蕭何様の超特急補給だぁ!!」
夏侯嬰の馬車を先頭に。
一輪車部隊が突入する。
矢。
兵糧。
新兵。
すべてが完璧なタイミング。
韓信の目が見開かれた。
「……一日で物流障害を除去したのか」
「しかも三倍速」
韓信が笑う。
珍しく。
心から楽しそうに。
「蕭何殿。あなたは本当に化け物だ」
劉邦も立ち上がった。
「よぉし!!」
「全軍反撃だぁ!!」
漢軍が息を吹き返す。
楚軍が押し返される。
あと一歩。
そのあと一歩で。
項羽はまた、劉邦を仕留め損ねた。
数日後。
滎陽の仮オフィス。
蕭何は戦後処理をしていた。
そこへ。
劉邦が現れる。
「……助かったぜ、蕭何」
笑っていた。
だが。
目は笑っていない。
蕭何には分かった。
この男はもう。
自分を恐れている。
物流。
民衆。
兵站。
すべてを握った蕭何。
その存在を。
「お前は最高の相棒だ」
肩を叩く。
強い。
不自然なくらい。
(……始まったな)
蕭何は確信した。
創業者特有の猜疑。
「有能すぎる部下」を恐れる病。
今や兵士たちですら言っている。
「蕭何様のおかげで生き残れた」と。
それは劉邦にとって。
最大の脅威だった。
そして。
劉邦が去った直後。
最悪の通知が届く。
テントへ入ってきたのは。
呂后直属の特使。
冷たい顔。
暗号化された竹簡。
「蕭何殿」
「あなたに対する内部調査を開始します」
曹参が激昂した。
「ふざけるな!」
「蕭何がどれだけ会社を支えたと思ってる!」
だが。
蕭何は静かだった。
特使が続ける。
「関中の民は、劉邦CEOより、あなたを支持している」
「これは謀反インフラ形成の疑いがあります」
「潔白を証明できなければ、来月解任です」
沈黙。
重い空気。
曹参の顔が青ざめる。
「終わりだ……」
「こんなの証明できるわけがない……」
だが。
その時だった。
ククク……。
低い笑い声。
蕭何だった。
特使たちが凍りつく。
蕭何は眼鏡を外した。
ゆっくり拭く。
その目は。
妙に澄んでいた。
「……なるほど」
「社長は、私が有能すぎるのを恐れているわけですか」
算盤を握る。
強く。
指が白くなるほど。
そして。
蕭何は笑った。
冷たく。
狂気的に。
「なら簡単だ」
「私が、自分の市場価値を暴落させればいい」
曹参が息を呑む。
「……何をする気だ」
蕭何は答えた。
静かに。
だが異様な熱を帯びた声で。
「漢軍史上、最悪の自爆営業です」
救世主から。
最悪の利権屋へ。
蕭何の狂気的な生存戦略が。
静かに幕を開けようとしていた。
第14話:了
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また、本作とは別に、魔剣を手に戦う王女の復讐劇も書いており、戦記物としての熱量はそのままに、ファンタジーならではの逆転劇を描いています。
『魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜』
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王女セリスと魔剣ノイエジールの戦いも、あわせて応援いただけると嬉しいです!




