第九話 束の間の休日
その後も、騎士団は人員を増やして山中の捜索を続けた。
洞窟から離れた斜面や谷筋で、焚き火の跡や踏み荒らされた雪が見つかった。何日も山へ入り、人が通った痕跡を追ったが、あのザクセン人らしい一団と再び遭遇することはなかった。
一方、ヴァレーヌの周辺では、不審な報告が続いていた。
街道で武装した集団を見たという旅人。川辺で新しい焚き火の跡を見つけた農夫。倉庫のライ麦が荒らされていたという知らせもあった。
同じ者たちの仕業なのか、山で交戦した一団と関係があるのかは分からない。彼らが完全にこの土地を離れたという手がかりもなかった。
警戒は解かれず、イリスたちの勤務は忙しくなっていった。
巡回から戻り、鎧を脱ごうとすると、別の場所へ向かうよう命じられる。帰還の遅れた隊に代わって、詰所の仕事を引き継ぐこともあった。
《赤い木の実亭》へ顔を出せない日も増えた。
それでもローザは、いつもの時間になると勝手に店へ遊びに行く。イリスは仕事を終えてから店へ寄り、マルグリットに謝りながら、菓子を食べているローザを迎えに行った。
町へ入る荷車も、以前より少なくなっていた。
城門では、商人たちが衛兵に道中の様子を尋ねられている。市場には空いた場所が目立ち、店先に並ぶ品物も減っていた。
そんな日々が続いたある日のことだった。
「今日はもう上がっていいぞ」
ガストンに告げられ、イリスは顔を上げた。
「よろしいのですか?」
「ああ。明日は休みだったな。今のうちに身体を休めておけ」
「ありがとうございます」
詰所を出ると、町にはまだ夕方の明るさが残っていた。
イリスは少し考え、装備室へ引き返した。普段使いの短い剣を取り、布で包んで持ち出す。鎧と長剣は、そのまま身につけていた。
今のうちに、工房へ寄っておきたかった。
*
《赤い木の実亭》の扉を開けると、甘い焼き菓子の香りがした。
「あ、イリス。今日は早いね」
カウンターの向こうで、マルグリットが顔を上げた。
店の奥では、ローザが椅子に座っていた。イリスを見つけると、小さな翼をぱたぱたさせる。
「イリス! 今日は早かったね!」
「ええ。今日は……早く上がれたので」
イリスが席につくと、マルグリットが首を傾げた。
「あれ、今日は鎧のまま来たの?」
「この後、鉄鹿工房と白糸屋に寄るので……そのまま来ました」
「ああ、そういうことね。いつものにする?」
「お願いします」
マルグリットは一度イリスの顔を見たが、何も聞かずに厨房へ戻った。
しばらくして、飲み物と焼き菓子が運ばれてきた。
蜂蜜と果実を使った飲み物に、木の実を載せた焼き菓子。イリスは手袋を外し、杯へ手を添えた。
ひと口飲む。
「……おいしい」
「よかった」
マルグリットが笑った。
その隣で、ローザは品書きを眺めていた。
「ねえ、マルグリット。またお腹すいてきた。あっちの料理も食べたい」
前脚で品書きの一角を示す。
マルグリットは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ローザ、ごめんね。塩が入ってきてなくて。それ、今日は作れないんだ」
「やだ。食べたい」
「今ある材料で作れるものなら、何か用意するよ」
「それじゃ違うもん」
ローザが椅子の上で前脚を突っ張った。
イリスは菓子を小さく割り、ひとかけらをその前へ置いた。
「こちらを一緒に食べましょう」
「それはそれ、これはこれ」
そう言いながらも、ローザは菓子を両前脚で持って食べ始めた。
マルグリットは二人を見て笑い、ローザの前にあった空の皿を下げていった。
イリスは店内を見渡した。
いつもなら仕事帰りの客で賑わい始める時間だった。今日は空席が目立つ。
入口近くの卓では、商人らしい男が隣の客に尋ねていた。
「街道を通るなら、どの道が安全なんだ?」
窓の外を、荷車が一台通り過ぎた。
イリスは杯を両手で包み、残りの飲み物を静かに飲んだ。
*
鉄鹿工房では、職人がイリスの姿を見るなり、鎧へ目を向けた。
「だいぶヤレてきたな。それだけ使ってやがるんだな」
革の留め具を引き、傷み具合を確かめる。擦り切れかけた帯を指で示した。
「ここは替えた方がいい。今のままじゃ、肝心なときに切れちまう」
「お願いします」
「ほかのところも見る。腕を上げてみろ」
イリスは言われた通りに腕を上げた。
職人は肩の装甲の動きを確かめ、留め具へ指を入れた。身体を捻らせ、腕を下ろさせてから、もう一度帯を引く。
「ここも少し詰めるか。妙な引っ掛かりはねえな?」
「はい」
「よし。脱いでくれ。ベルトを替えれば、まだ十分使える」
イリスは鎧を外し、職人へ渡した。
続けて長剣も差し出す。
「こちらも、研ぎ直していただけますか」
職人は鞘から剣を抜き、刃を明かりにかざした。
「こっちも使い込んでるな。任せとけ、綺麗にしてやる」
「いつ頃、受け取れますか」
「明日の夕方には渡せるようにしておく」
「ありがとうございます」
イリスは持参した短い剣を腰へ下げた。外套を羽織ると、鎧を外した分だけ肩が軽くなった。
次に向かったのは白糸屋だった。
上着を脱いで渡すと、仕立て屋が袖口を裏返した。ほつれた糸を確かめ、脇の縫い目にも指を滑らせる。
「まあ、こんなに使い込んでいるなんて。毎日大変だったのね」
「少し、勤務が増えまして」
「ここを直して、こちらも補強しておきましょう。少し待っていてね」
イリスは礼を言い、店の椅子へ腰を下ろした。
針が布を抜ける小さな音がする。
ローザは棚に並んだ布を眺めていたが、すぐに飽きたらしかった。窓辺へ移り、通りを見下ろし始める。
イリスもその隣で、行き交う人々を眺めた。
仕事以外の用事で、こうして座って待つのは久しぶりだった。
*
補修を終えた上着を受け取り、イリスは銀鈴工房へ向かった。
「あら、久しぶりね」
店の女性が声を掛ける。
「兵士の人たちは毎日忙しそうだからね。イリス、良い髪飾りが入ったわ。そこにあるの」
示された棚には、銀の髪飾りが並んでいた。
その中に、四つ一組の髪飾りがあった。
表面には細かな彫刻が施されている。
イリスは手に取り、角度を変えながら眺めた。
「綺麗……」
「気に入った?」
「ええ、とても」
値段を聞く。
イリスは少し迷った。
決して安い買い物ではない。
もう一度、四つの髪飾りを見る。
――自分へのご褒美で、たまにはいいよね。
「これをください」
店の女性は嬉しそうに頷き、髪飾りを丁寧に包んでくれた。
店を出たイリスは、小さな包みを胸の前で持ち直した。
ローザが横から覗き込む。
「ねえ、もう一回見せて」
「帰ってからにしましょう。落としてしまいますから」
「ちょっとだけ」
イリスは包みを外套の内側へ収めた。
そんなやり取りをしながら広場へ出ると、《雪鹿亭》の前で数人が話していた。
「今夜、吟遊詩人が来るんだって?」
「来る予定らしいけどな。街道があの有様だろう」
イリスは足を止めた。
久しぶりに歌を聴くのもいいかもしれない。
店へ入り、今夜のことを尋ねると、店の者は少し困った顔をした。
「今夜の予定なんですがね。まだ到着していないんですよ。道中で何かあったのか、単に遅れているだけなのかも分からなくて」
「そうですか……」
「来てくれれば、もちろん演奏してもらうつもりです」
イリスは礼を言い、店を出た。
広場の向こうには城門が見える。
以前なら、吟遊詩人が来ると聞けば、それだけで今夜を楽しみにできた。今は、無事に町へ着けるかどうかも分からない。
「イリス、温泉行くんでしょ?」
ローザが袖を引いた。
「ええ。行きましょう」
二人は城門へ向かって歩き始めた。
*
《銀霧泉》には、白い湯気が立ち上っていた。
イリスは衣服と剣を置き、身体を洗ってから、ゆっくり湯へ入った。
肩まで温かさに包まれる。
「はぁ……」
思わず息が漏れた。
ローザは湯の縁でくつろぎながら、イリスを見上げた。
「イリス、久しぶりにゆっくり入れるね」
「ええ」
イリスは湯面に浮かぶ白い靄を眺めた。
「最近は、忙しくて……色々考える時間も、なくなっていました」
湯の中で指を開く。
「前のように、過ごせたらいいのですが」
「最近、ずっと忙しかったもんね」
「そうですね」
イリスは湯の中で左腕を動かした。
肩の湯気が薄れる。
左肩の外側、鎖骨に近い肌には、生まれたときからある小さな紋様が見えていた。
淡い銀白色の細い線。
中央の縦線から、左右へ枝が伸びている。
その中心には、小さな円があった。
イリスは紋様に目を留めた。
だが、すぐに視線を湯面へ戻した。
ローザが水面を覗き込み、前脚で小さな波を作る。
「明日もお休み?」
「ええ。明日は、ゆっくりできそうです」
「じゃあ、朝寝坊しようよ。ローザも疲れちゃった」
「あなたは遊んでいるだけでしょう」
イリスは少し間を置いた。
「……でも、そうですね。明日は」
「まな板イリス……」
イリスはローザへ湯をかけた。
「晩御飯は抜きにしましょうか?」
「やだ。ごめんなさい」
ローザが前脚で顔を拭く。
イリスは目を閉じた。
遠くで、湯の流れる音がしていた。
*
《銀霧泉》を出る頃には、空が暗くなり始めていた。
イリスとローザは、城壁の外に続く道を歩いた。道の両側には雪が残り、畑では数人の農夫が仕事を片づけている。
以前なら、町へ向かう荷車や帰宅する人々と何度もすれ違った道だった。今日は人影が少なかった。
畑の脇を通りかかった時、茂みが突然、がさがさと揺れた。
「うわっ!」
近くで作業していた農夫が飛び上がり、雪の上に尻もちをついた。
イリスは足を止めた。
茂みから、小さなうさぎが一羽飛び出してきた。こちらを一瞬見てから、雪の残る畑を跳ねていく。
「……うさぎ、か」
農夫は胸を押さえ、気まずそうに笑った。
「いやあ、すみません。最近は、ちょっとした物音にも驚いちまって」
「お怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫です。お恥ずかしいところを」
イリスは農夫が立ち上がるのを見届け、再び歩き始めた。
ローザが後ろを振り返る。
「あの人、すごくびっくりしてたね」
「ええ……」
風が吹き、道端の枯れ草が揺れた。
ローザはしばらく黙って歩いていたが、やがて小さな翼を動かし、イリスの肩の近くへ飛んできた。
「そういえばね、町の方でも妖精が減ってるんだよ」
「町でも?」
「うん。前はもっといたのに、最近あんまり見かけないの」
イリスは、森で周囲を探していたローザを思い出した。
「どこへ行ったのでしょうね」
「分かんない」
ローザは首を傾げ、それから少し先へ飛んで地面へ降りた。
遠くの家から、夕餉の煙が上がっている。
見慣れた道だった。だが、すれ違う人は少なく、二人の足音がいつまでも近く聞こえた。
*
家へ着くと、アデルが玄関へ顔を出した。
「今日も遅かったのね」
「今日は仕事が早く終わったので、街で用事を済ませてきました」
「あら、そうだったの。寒かったでしょう。早く中へお入りなさい」
イリスは外套を脱ぎ、ローザとともに暖かな室内へ入った。
夕食の支度が整い、アデルとエミールが食卓についた。だが、父の席は空いたままだった。
「お父様は?」
そばにいた使用人が答えた。
「お館様は今日は遅くなりそうだとおっしゃっていましたよ」
「そうですか」
イリスは椅子へ腰を下ろした。
エミールが、彼女の手元にある包みに気づく。
「姉さん、それ何?」
「今日、街で……髪飾りを買ったのです」
「見せて」
「食事が終わってからにしてください」
アデルが微笑んだ。
「久しぶりに、ゆっくり買い物ができたのね」
「はい。鎧や服の手入れもお願いしてきました」
「それなら、明日は少し休めそうね」
「はい」
エミールは食事の間も包みが気になるらしく、何度かイリスの方を見ていた。
ローザは先に食べ終えると、暖炉の前へ移動した。しばらく火を眺め、やがて身体を丸めて寝息を立て始める。
食事が終わると、エミールが包みを指した。
「姉さん、見せてくれるんでしょ」
「……ええ。今、開けますから」
イリスは卓上の水気を確かめ、乾いたところへ包みを置いた。
紙を開くと、エミールが顔を寄せた。
「これ、全部で一組?」
「はい」
「着けてみないの?」
「今日は……部屋で見てからにします」
イリスはひとつを手に取り、灯りへかざした。隣から覗いていたアデルが微笑む。
「気に入ったものが見つかって、よかったわね」
「……はい」
今度は、イリスも少し笑った。
エミールが見終えるのを待ってから、髪飾りを丁寧に包み直した。
包みを持って立ち上がり、暖炉の前を通る。
ローザは眠っていた。
イリスは尻尾の位置を確かめ、起こさないよう足音を忍ばせて自室へ向かった。
*
部屋へ戻ると、イリスは髪飾りを机の上に並べた。
四つの銀飾りが、灯りを受けて輝いている。
ひとつを手に取る。
細かな彫刻を、指先でなぞった。
今日は久しぶりに、ゆっくりと町を歩くことができた。
いつもの飲み物を飲み、装備の手入れを頼み、新しい髪飾りを買った。
だが、部屋が静かになると、山で見た光景が戻ってきた。
丸い木盾と、振り上げられた手斧。
雪の上に倒れた男。
イリスは髪飾りを机へ戻した。
あの男が斧を振り下ろす前に、自分は踏み込んでいた。
盾の縁と、その向こうで上がった腕が見えた。次の瞬間には、もう雪を蹴っていた。
迷わなかったわけではない。
迷っている時間がなかったのだ。
イリスは椅子へ腰を下ろし、両手を膝の上で重ねた。
剣を握っていた指を、ゆっくり曲げる。
目を閉じると、雪を踏む音に代わって、濡れた石の上を走る足音が聞こえてきた。
剣を握る手に、重い衝撃が伝わる。
何度受け止めても、相手の力は弱まらない。腕が痺れ、足が下がる。
次の一撃を受ければ、もう剣を持ち上げられないかもしれない。
――駄目。
イリスは小さく息を吸った。
あのときも、そう思った。
ここで相手を倒さなければ、自分が死ぬ。
もう一度、剣を構え直す時間さえ与えてはいけない。
膝の上の手を握りしめた。
遠くから、誰かが自分の名を呼ぶ声がしたような気がした。




