第十話 パリ包囲戦
西暦八八六年。
イリスは、パリにいた。
祖父ヴォルフラムの勧めで、剣の腕を磨くために中央へ送り出されていた。
かつて西フランク王に仕えていた祖父には、王のお抱え騎士だった頃の部下がいた。その男は今や王の親衛隊長となっており、イリスは祖父の縁を頼って、そのもとで教えを受けていた。
もっとも、親衛隊に所属しているわけではない。普段は通常の部隊で任務に就き、訓練のときだけ親衛隊の兵士たちに混ざって剣を振るった。
訓練は厳しかった。
打ち込めば受け流され、追おうとすれば足を止められる。息が上がっても、相手は待ってくれない。構えを崩した瞬間には、容赦なく木剣が飛んできた。
それでも、昨日は見えなかった剣先が、今日は見えることがあった。
押し込まれていたところで踏み留まり、一度だけ相手を下がらせることもできた。
その一度が嬉しくて、イリスはまた剣を握った。
訓練を終え、自分の部隊へ戻る頃には、手のひらに柄の跡が残っていた。指を開くと痛んだが、剣を振れなくなるほどではない。
「イリス、お疲れ様。親衛隊の訓練は厳しいんだろ?」
顔を上げると、リュシアンがいた。
襟足まで伸びた柔らかな金髪に、澄んだ碧い瞳。イリスより少し年上の、同じ部隊にいる青年だった。
「ええ、厳しいですが、私はこのためにパリに来ていますから」
「そっか。でも、無理はしないでね」
優しく笑い、彼は手にしていた水の器を差し出した。
イリスは礼を言って受け取った。両手で包み、少しずつ飲む。
リュシアンは急かさず、隣で待っていた。
任務と訓練を繰り返すうちに、日々は慌ただしく過ぎていった。
その合間に、彼と話す時間が増えていった。
訓練でうまくできなかったこと。故郷の町のこと。食事に何が出たかという、話すほどでもないことまで。
休日が重なれば、それぞれ馬に乗って遠乗りに出かけた。
イリスが先へ出ると、リュシアンは少し遅れてついてきた。振り返って待っていると、追いついた彼が、息を弾ませながら笑った。
「君、休みの日まで訓練してるの?」
「遠乗りです」
「それなら、もう少しゆっくりでもいいと思うんだけど」
イリスが馬の歩みを緩めると、彼も隣へ並んだ。
そこからは、取り留めのない話をして帰った。
町を歩き、気になる店を覗くこともあった。リュシアンが足を止めるたびにイリスも止まり、イリスが棚を眺めている間は、彼が外で待っていた。
ある日の帰り道、風に乱れた髪を押さえていると、リュシアンがこちらを見た。
「ほどけてる」
「分かっています」
結び直そうとしても、手袋をした指ではうまくいかなかった。イリスが外そうとすると、彼が自分の荷から細いリボンを取り出した。
「これ、使う?」
「どうしたのですか、それ」
「さっきの店で。君、見てたでしょう」
イリスは彼の手を見た。
確かに見ていた。
けれど、買うほどではないと思って、棚へ戻したものだった。
「……ありがとうございます」
手袋を外し、受け取ったリボンで髪をまとめた。結び目の位置を指で確かめていると、リュシアンが少し顔を傾けた。
「うん。似合ってる」
イリスは返事をせず、外した手袋をはめ直した。
彼が笑ったので、少しだけ睨んだ。
それからは、遠乗りの帰りに彼が振り返るたび、イリスは自分の胸が高鳴るのを感じるようになった。
隣にいることが当たり前になっても、その顔を見るのは嬉しかった。
次の休日が、待ち遠しかった。
*
知らせは、訓練と任務の間に入り込んできた。
パリを包囲するヴァイキングたちが、再び大規模な攻撃を仕掛けようとしている。
西フランクの町や修道院が襲われたという話は、何度も聞いていた。船で川をさかのぼり、奪えるものを奪って去っていく者たち。
だが、今回パリに押し寄せた軍勢は、イリスがそれまで聞いていたものとは規模が違った。
部隊に命じられたのは、セーヌ川左岸の防衛だった。
パリの中心は、川の中にあるシテ島だった。城壁の内側に館や教会、家々が集まり、北側の橋が右岸へ続いている。
南側にも橋があった。
だが、増水によって失われ、今は渡ることができなかった。
イリスたちがいるのは、その南側、左岸だった。
川から少し離れれば、家々の間へ細い道が続いている。古い教会の周囲にも住まいがあり、その先には畑や木立が広がっていた。
一帯を囲む頑丈な壁はない。
岸で止められなければ、敵はそのまま家々の間へ入ってくる。
川の向こうには、シテ島の城壁が見えた。けれど、あそこからここへ駆けてくるための橋は、もうなかった。
「ちくしょう……どれだけの敵がいやがるんだ」
隣の兵士が呟いた。
イリスは川へ顔を戻した。
船がいた。
細長い船体が何艘も並び、その向こうにも船が続いている。櫂が水を掻き、舷側に掛けられた丸盾が、船の揺れに合わせて上下していた。
乗っている男たちの顔までは見えない。
だが、斧や槍を掲げる腕は見えた。
イリスの持ち場には十人がいた。左右の川岸にも味方は並んでいたが、川の上から近づいてくる数と、どう比べればいいのか分からなかった。
隣にリュシアンがいた。
いつもの笑みは消え、黙って船を見ている。
「……あれが全部、こっちへ来るの?」
彼はすぐには答えなかった。
盾の握りを直したのが見えた。
低い角笛の音が、川面を渡った。
船団の一部が向きを変えた。
こちらへ来る。
先頭の船首で、男が斧を掲げた。何かを叫ぶと、船の中からいくつもの声が返った。
「来るぞ! 構えろ!」
隊長の号令が響いた。
イリスは左手の盾を上げ、右手で剣を握り直した。
柄が、手のひらの同じところへ食い込んだ。
船底が浅瀬を擦る音がした。
男たちが舷側を越え、水の中へ飛び降りる。腰まで浸かった者が岸へ上がり、その後ろからも人が降りてきた。
水を蹴る音が近づいた。
盾の縁越しに、走ってくる男の顔が見えた。
口を開き、何かを叫んでいる。
イリスは足を踏ん張った。
ぶつかった。
盾が鳴り、衝撃が肩まで抜けた。
男の斧を受け、イリスは盾の脇から剣を突き出した。相手が身を引く。その隙へ足を進めようとしたところで、横から別の盾が迫った。
慌てて身体を戻す。
すぐ隣で、味方の剣が振り下ろされた。
怒号が重なった。鉄が鳴り、誰かが悲鳴を上げた。川の音は、もう聞こえなかった。
イリスは目の前の男だけを見た。
剣を出す。盾を戻す。足を置き直す。
訓練で繰り返した動きは、できた。
相手の刃が見えないわけでもなかった。
だが、一人を押し返すと、その肩越しに別の男が現れた。そちらへ剣を向ければ、最初の男がまた前へ出てくる。
左右の仲間も戦っていた。
大柄な兵士が敵の盾を押し返し、その横から別の兵士が剣を突き込んだ。二人で肩を並べ、上陸したばかりの敵を水際まで下がらせている。
いける。
一瞬、そう思った。
その向こうで、次の船が岸へ着いた。
「くそっ、まだ来るのか!」
誰かが叫んだ。
イリスは荒い息を吸い、盾を上げ直した。
丸盾を構えた大柄な男が、真正面へ来た。
イリスは相手の盾の脇へ剣を出した。切っ先が腕を捉える。確かな手応えがあった。
それなのに、男は止まらなかった。
顔を歪めたまま、斧を振り上げる。
イリスは盾を掲げた。
重い衝撃が左腕を潰すように走った。
「っ……!」
盾が押し下げられた。靴底が濡れた石を滑り、身体が沈む。
膝が地面へ触れる前に、足を引いた。
男の斧が、もう一度上がっていた。
イリスは盾を傾けた。刃が表面を削り、木片が頬へ飛んだ。
息を吸う暇がなかった。
左腕が痺れている。指へ力を入れても、盾がさっきより重い。
親衛隊の訓練でも、押し込まれたことはあった。
構えを崩され、転がされたこともあった。
だが、地面へ膝をついた時には、次の打撃が止まった。
目の前の男は、止まらない。
斧を引き戻す。その顔が、盾の向こうへ消えた。
次が来る。
もう、同じようには受けられない。
イリスは盾を捨てた。
左腕が軽くなった。
斧が下りる前に踏み込む。横へずれた身体のすぐ脇を、刃が落ちた。
男が向きを変えようとする。
イリスは盾を持つ腕の外へ抜けた。大きな身体が回りきる前に、両手で剣を握る。
「はああっ!」
振り抜いた。
刃が首を捉えた。
手の中へ重さが返り、男の身体が傾いた。落ちた斧が石へ当たり、その上へ男が崩れた。
イリスは剣を下げたまま、息を吐いた。
何かが指へ残っていた。
木剣を打ち合わせた時とも、鉄の刃を受けた時とも違う。
「イリス!」
顔を上げた。
リュシアンが下がっていた。剣を前へ向けたまま、こちらへ手を伸ばす。
「こっちへ!」
イリスは駆け寄った。
すぐそばで、味方が倒れた。
別の兵士が腕を掴もうとしたが、槍がその間へ入った。盾で弾き、もう一度手を伸ばす。届く前に、敵の足が二人の間を埋めた。
隊長が叫んだ。
「体勢を立て直す! 一度後退しろ! 市街地で各個撃破する!」
リュシアンの肩が触れた。
イリスは彼に合わせて下がった。
前へ剣を向けたまま一歩。もう一歩。
川岸には、動かない仲間が残っていた。
その姿を、押し寄せる盾が隠した。
*
家の角を曲がったところで、隊長が人数を確かめた。
十人が、六人になっていた。
イリスは壁へ手をついた。息を吸うと、胸の奥が痛んだ。
隣にリュシアンがいる。
それを確かめてから、ようやく剣を握り直した。
「広い場所でまともにぶつかるな。路地へ誘い込め。一度に相手をする人数を減らすんだ」
隊長が言った。
六人は狭い路地へ入った。
先頭の敵が角を曲がる。盾が見え、その横へ隊長の剣が走った。後ろの男が詰まり、槍を前へ出せなくなる。
イリスも剣を出した。
川岸のように、何人もの盾が同時に迫ってはこなかった。目の前の一人へ刃を向け、その動きに応じられる。
倒した。
次へ向かう前に、隊長が下がれと叫んだ。
六人は次の角へ走った。
そこで待ち、追ってきた者を止める。また下がる。
それを何度か繰り返した。
だが、別の道からも声が聞こえ始めた。
前へ出かけた兵士が戻ってきて、首を振った。隊長は逆へ向きを変えた。イリスたちもそれに続いた。
曲がり角で、一人が槍を受けた。
壁へ背中を打ちつけ、そのまま座り込む。
「待て、まだ――!」
手を伸ばした兵士を、隊長が引き戻した。
「戻るな! もう間に合わん!」
イリスは振り返った。
倒れた男が、こちらを見ていた。
何か言ったのかもしれない。
敵が角を曲がり、その顔は見えなくなった。
走った。
剣を振るい、また走った。
次の路地で、もう一人が倒れた。
イリスには、その瞬間が見えなかった。悲鳴に顔を向けると、一緒に来ていたはずの男が地面にいた。
リュシアンが背を押した。
前へ進む。
足が重かった。剣を持つ右手だけでなく、捨てた盾を握っていた左手まで痛んだ。
もう四人しかいなかった。
隊長が角の向こうを見た。
すぐに盾を上げた。
剣が当たり、火花が散る。
「先へ行け!」
隊長が叫んだ。
リュシアンがイリスの腕を引く。
イリスは足を動かした。
その横で、別の敵が隊長へ斬りかかった。
「隊長!」
剣が下がった。
身体が壁へぶつかり、濡れた石の上へ倒れた。
イリスの足が止まりかけた。
「イリス、ついて来い!」
腕を強く引かれた。
リュシアンの顔があった。
イリスは彼の後を追った。
もう一人の兵士も走っていた。すぐ後ろに足音がしていた。
角を曲がった。
剣がぶつかる音がした。
次の角を曲がった時、足音は二人分になっていた。
*
細い路地を抜けると、前が開けた。
古い教会が見えた。
その周りに家々がある。イリスはそちらへ向かおうとした。
あそこなら、誰かいるかもしれない。
味方と合流できるかもしれない。
教会の前を、男たちが横切った。
丸い盾を持っていた。
見慣れない言葉で、互いに叫んでいた。
イリスは足を止めた。
教会の脇にもいた。
家の前にも、道の奥にもいた。
「……そんな」
リュシアンも辺りを見回した。
「別の場所から上陸した連中が、もう街に来たのか……? 味方は何をやってんだ!」
川岸で止めるはずだった。
止められなかった。
路地なら戦えると言われた。
そこも通れなくなった。
ここまで来ても、敵がいた。
「もう嫌だ……」
声が漏れた。
リュシアンが振り返った。
「もう嫌だ。こんなの、勝てるわけがない……」
剣を持ち上げようとした。
上がらなかった。
腕を動かすために息を吸うことさえ、苦しかった。
「ここで……私たちは殺される……」
膝が折れた。
石へ当たった痛みも、遠かった。
「イリス!」
リュシアンが支えてくれた。
口が動いていた。
近くにいるのに、何を言っているのか分からなかった。
頬が鳴った。
顔が横を向いた。
鋭い痛みに、イリスは息を詰めた。
「イリス、しっかりしろ!」
リュシアンがいた。
目の前で、こちらを見ていた。
「もう二人で逃げるんだよ! こんなの無駄死にだ。生き残らなきゃいけないんだ!」
二人で。
イリスは彼の顔を見た。
差し出された腕を掴んだ。震える膝へ力を入れ、引かれるまま立ち上がる。
「……ええ」
「行こう!」
リュシアンが走り出した。
イリスも走った。
*
川から離れる方へ進んだ。
敵の声がすれば道を変え、家の陰へ入り、また別の路地へ抜けた。
前方の建物が少なくなってきた。
その向こうには畑が見えた。
街の外へ出られる。
イリスが息を吸った時、背後で声が上がった。
振り返ると、数人の男が路地へ入ってきていた。
** 川岸で戦った者たちとは、どこか様子が違っていた。**
こちらを見つけても、すぐには突っ込んでこなかった。
一人が前へ出る。別の者がその脇を進み、狭い道の中で位置を変える。手にした武器を上げ、間隔を保ったまま近づいてきた。
リュシアンも振り返った。
「……まずいな」
イリスは前を見た。
道の先は開けている。
そこへ出れば、身を隠せるものがなくなる。
「追いつかれる。戦おう、リュシアン」
イリスは剣を上げた。
リュシアンは道の脇を見た。積まれた薪と、壁から張り出した柵。その間へ身体を寄せ、追手の前へ出た。
「いや。君は逃げるんだ」
「何を言っているの? 二人で――」
「女性の君が、こいつらに捕まったらどうなるか、分かるね?」
言葉が止まった。
リュシアンは追手へ剣先を向けた。
いちばん前の男が歩みを緩める。後ろの者が脇へ出ようとしたが、狭い道では前の男が邪魔になっていた。
リュシアンが一歩、そちらへ動いた。
男たちが止まった。
「お前と過ごす時間が、好きだった」
「……リュシアン?」
彼がこちらを見た。
血と泥のついた頬に、金髪が張りついていた。
碧い瞳は、知っている彼のものだった。
「だから、生きてくれ。イリス」
「何を言っているの、リュシア……」
彼の顔が変わった。
イリスは息を呑んだ。
睨まれていた。
遠乗りで先へ行きすぎても、何かに言い返しても、そんな顔をされたことはなかった。
「早く行け!」
身体が震えた。
リュシアンはすぐに追手へ向き直った。
その背中を見た。
剣を握る手を見た。
彼はもう、逃げるために道を探していなかった。
イリスは手を伸ばしかけた。
一緒に来てほしかった。
もう一度、二人で逃げると言ってほしかった。
男が一人、前へ出た。
リュシアンの剣先がそちらを向いた。
イリスは伸ばしかけた手を引いた。
「ありがとう、リュシアン……私も好きでした」
彼の顔を見ようとした。
だが、その前に剣が鳴った。
イリスは背を向けた。
走った。
すぐ後ろで、もう一度、鉄がぶつかった。
振り返らなかった。
角を曲がる。
音が小さくなる。
足が止まりそうになった。
止めなかった。
イリスは泣きながら走り続けた。
リュシアンが何かを叫んだ。
自分の名だったのか、敵へ向けた声だったのか、分からなかった。
次の角を曲がった。
もう、聞こえなくなった。
*
どれほど走ったのか、分からなかった。
家々が途切れていた。
畑と木立の間を、道が続いていた。
イリスはそこを走っていた。
息を吸うたびに喉が痛み、足が何度ももつれた。どちらへ向かっているのかも分からない。
立ち止まったら、追いつかれる。
それだけを考えていた。
背後で、足音がした。
イリスは振り返った。
一人の男がいた。
剣を持っていた。
こちらを見ると、歩調を速めた。
イリスは立ち止まった。
もう、逃げたくなかった。
逃げても、逃げても、追ってくる。
仲間は倒れた。
隊長も倒れた。
リュシアンは、あの路地に残った。
「ああ……」
喉から声が漏れた。
男が近づいてくる。
剣を上げた。
「ああああああっ!」
イリスは剣を握り直した。
「殺してやる!」
走った。
相手の刃がどこを通ったのかも、どうやって避けたのかも分からなかった。
腕へ何かが当たった。
痛かったのかどうかも分からない。
ただ、目の前の男を倒したかった。
何度も、何度も剣を振るった。
もう一度。
男が何かを叫んだ。
イリスは笑っていた。もう感情が狂っていた。
男が倒れても、イリスの手は止まらなかった。
*
気づくと、膝をついていた。
目の前に男が倒れていた。
動かなかった。
身体は剣でひどく傷つけられ、裂けた腹から臓物がこぼれ出ていた。
イリスはそれを見た。
剣先が地面に触れている。
握っているのは、自分の手だった。
「……あ……」
指も、腕も、衣服も濡れていた。
血だった。
男が向かってきたことは覚えていた。
叫んだことも、剣を上げたことも。
その先が、分からなかった。
イリスは立とうとした。
足が滑り、片手を地面へついた。剣を離さないまま、ようやく身体を起こす。
どこへ行けばいいのだろう。
道の先を見た。
振り返りかけた。
――生きてくれ。イリス。
リュシアンの声がした。
イリスは、前へ足を出した。
それからのことは、ところどころしか残っていない。
誰かがいた。
声を掛けられた。
剣を離すように言われた気がする。
離せなかった。
次に場所が分かった時には、見知らぬ家の中にいた。
毛布が掛けられていた。
そばにいた住民が、目を覚ましたことに気づいた。静かな声で何かを言い、水を持ってきてくれた。
自分を見つけ、ここへ運び、匿ってくれたのだということは分かった。
イリスは口を開いた。
リュシアンは。
そう聞こうとした。
声が出なかった。
目の前の人は、彼を知らない。
どこにいるかも、あの路地から逃げられたかどうかも。
イリスは毛布を握りしめた。
指の隙間に、まだ血が残っていた。
*
イリスは目を開けた。
机があった。
燭台の火が、わずかに揺れていた。
窓の向こうには夜があり、閉じた戸の下から、細い灯りが差していた。
ヴァレーヌの、自分の部屋だった。
膝の上で、手を握っていた。
ゆっくり開く。
血はついていなかった。
「リュシアン……」
呼んでから、息が止まった。
返事を待っていた。
自分が待っていたことに気づき、イリスは俯いた。
後ろ髪へ手を伸ばす。
指先が、リボンの結び目に触れた。
彼からもらったものだった。
ほどけてる、と言った声を覚えていた。
似合ってる、と笑った顔も。
あの時、ちゃんと顔を見て礼を言えばよかった。
手袋など、後からはめればよかった。
イリスは結び目へ触れたまま、目を閉じた。
最後に見た彼は、厳しい顔をしていた。
けれど、思い浮かべようとすると、遠乗りの帰りにこちらを振り返った顔が出てきた。
少し息を弾ませて、笑っていた。
「……リュシアン」
今度は、返事がないと分かっていた。
それでも呼んだ。
机の上では、買ったばかりの銀の髪飾りが灯りを映していた。
イリスはそれへ手を伸ばさず、髪に残る結び目を、指先でそっと押さえていた。
*
西フランクの街道を、一人の人物が歩いていた。
深くかぶったフードの隙間から、銀色の髪が風に揺れる。
道の両側には雪が残り、遠くには、雲を背負った山々が連なっていた。
その人物は足を止め、進む先へ顔を向けた。
やがて再び歩き出す。
雪を踏む音だけが、静かな街道に続いていた。




