↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/17

第十話 パリ包囲戦

西暦八八六年。


 イリスは、パリにいた。


 祖父ヴォルフラムの勧めで、剣の腕を磨くために中央へ送り出されていた。


 かつて西フランク王に仕えていた祖父には、王のお抱え騎士だった頃の部下がいた。その男は今や王の親衛隊長となっており、イリスは祖父の縁を頼って、そのもとで教えを受けていた。


 もっとも、親衛隊に所属しているわけではない。普段は通常の部隊で任務に就き、訓練のときだけ親衛隊の兵士たちに混ざって剣を振るった。


 訓練は厳しかった。


 打ち込めば受け流され、追おうとすれば足を止められる。息が上がっても、相手は待ってくれない。構えを崩した瞬間には、容赦なく木剣が飛んできた。


 それでも、昨日は見えなかった剣先が、今日は見えることがあった。


 押し込まれていたところで踏み留まり、一度だけ相手を下がらせることもできた。


 その一度が嬉しくて、イリスはまた剣を握った。


 訓練を終え、自分の部隊へ戻る頃には、手のひらに柄の跡が残っていた。指を開くと痛んだが、剣を振れなくなるほどではない。


「イリス、お疲れ様。親衛隊の訓練は厳しいんだろ?」


 顔を上げると、リュシアンがいた。


 襟足まで伸びた柔らかな金髪に、澄んだ碧い瞳。イリスより少し年上の、同じ部隊にいる青年だった。


「ええ、厳しいですが、私はこのためにパリに来ていますから」


「そっか。でも、無理はしないでね」


 優しく笑い、彼は手にしていた水の器を差し出した。


 イリスは礼を言って受け取った。両手で包み、少しずつ飲む。


 リュシアンは急かさず、隣で待っていた。


 任務と訓練を繰り返すうちに、日々は慌ただしく過ぎていった。


 その合間に、彼と話す時間が増えていった。


 訓練でうまくできなかったこと。故郷の町のこと。食事に何が出たかという、話すほどでもないことまで。


 休日が重なれば、それぞれ馬に乗って遠乗りに出かけた。


 イリスが先へ出ると、リュシアンは少し遅れてついてきた。振り返って待っていると、追いついた彼が、息を弾ませながら笑った。


「君、休みの日まで訓練してるの?」


「遠乗りです」


「それなら、もう少しゆっくりでもいいと思うんだけど」


 イリスが馬の歩みを緩めると、彼も隣へ並んだ。


 そこからは、取り留めのない話をして帰った。


 町を歩き、気になる店を覗くこともあった。リュシアンが足を止めるたびにイリスも止まり、イリスが棚を眺めている間は、彼が外で待っていた。


 ある日の帰り道、風に乱れた髪を押さえていると、リュシアンがこちらを見た。


「ほどけてる」


「分かっています」


 結び直そうとしても、手袋をした指ではうまくいかなかった。イリスが外そうとすると、彼が自分の荷から細いリボンを取り出した。


「これ、使う?」


「どうしたのですか、それ」


「さっきの店で。君、見てたでしょう」


 イリスは彼の手を見た。


 確かに見ていた。


 けれど、買うほどではないと思って、棚へ戻したものだった。


「……ありがとうございます」


 手袋を外し、受け取ったリボンで髪をまとめた。結び目の位置を指で確かめていると、リュシアンが少し顔を傾けた。


「うん。似合ってる」


 イリスは返事をせず、外した手袋をはめ直した。


 彼が笑ったので、少しだけ睨んだ。


 それからは、遠乗りの帰りに彼が振り返るたび、イリスは自分の胸が高鳴るのを感じるようになった。


 隣にいることが当たり前になっても、その顔を見るのは嬉しかった。


 次の休日が、待ち遠しかった。


 *


 知らせは、訓練と任務の間に入り込んできた。


 パリを包囲するヴァイキングたちが、再び大規模な攻撃を仕掛けようとしている。


 西フランクの町や修道院が襲われたという話は、何度も聞いていた。船で川をさかのぼり、奪えるものを奪って去っていく者たち。


 だが、今回パリに押し寄せた軍勢は、イリスがそれまで聞いていたものとは規模が違った。


 部隊に命じられたのは、セーヌ川左岸の防衛だった。


 パリの中心は、川の中にあるシテ島だった。城壁の内側に館や教会、家々が集まり、北側の橋が右岸へ続いている。


 南側にも橋があった。


 だが、増水によって失われ、今は渡ることができなかった。


 イリスたちがいるのは、その南側、左岸だった。


 川から少し離れれば、家々の間へ細い道が続いている。古い教会の周囲にも住まいがあり、その先には畑や木立が広がっていた。


 一帯を囲む頑丈な壁はない。


 岸で止められなければ、敵はそのまま家々の間へ入ってくる。


 川の向こうには、シテ島の城壁が見えた。けれど、あそこからここへ駆けてくるための橋は、もうなかった。


「ちくしょう……どれだけの敵がいやがるんだ」


 隣の兵士が呟いた。


 イリスは川へ顔を戻した。


 船がいた。


 細長い船体が何艘も並び、その向こうにも船が続いている。櫂が水を掻き、舷側に掛けられた丸盾が、船の揺れに合わせて上下していた。


 乗っている男たちの顔までは見えない。


 だが、斧や槍を掲げる腕は見えた。


 イリスの持ち場には十人がいた。左右の川岸にも味方は並んでいたが、川の上から近づいてくる数と、どう比べればいいのか分からなかった。


 隣にリュシアンがいた。


 いつもの笑みは消え、黙って船を見ている。


「……あれが全部、こっちへ来るの?」


 彼はすぐには答えなかった。


 盾の握りを直したのが見えた。


 低い角笛の音が、川面を渡った。


 船団の一部が向きを変えた。


 こちらへ来る。


 先頭の船首で、男が斧を掲げた。何かを叫ぶと、船の中からいくつもの声が返った。


「来るぞ! 構えろ!」


 隊長の号令が響いた。


 イリスは左手の盾を上げ、右手で剣を握り直した。


 柄が、手のひらの同じところへ食い込んだ。


 船底が浅瀬を擦る音がした。


 男たちが舷側を越え、水の中へ飛び降りる。腰まで浸かった者が岸へ上がり、その後ろからも人が降りてきた。


 水を蹴る音が近づいた。


 盾の縁越しに、走ってくる男の顔が見えた。


 口を開き、何かを叫んでいる。


 イリスは足を踏ん張った。


 ぶつかった。


 盾が鳴り、衝撃が肩まで抜けた。


 男の斧を受け、イリスは盾の脇から剣を突き出した。相手が身を引く。その隙へ足を進めようとしたところで、横から別の盾が迫った。


 慌てて身体を戻す。


 すぐ隣で、味方の剣が振り下ろされた。


 怒号が重なった。鉄が鳴り、誰かが悲鳴を上げた。川の音は、もう聞こえなかった。


 イリスは目の前の男だけを見た。


 剣を出す。盾を戻す。足を置き直す。


 訓練で繰り返した動きは、できた。


 相手の刃が見えないわけでもなかった。


 だが、一人を押し返すと、その肩越しに別の男が現れた。そちらへ剣を向ければ、最初の男がまた前へ出てくる。


 左右の仲間も戦っていた。


 大柄な兵士が敵の盾を押し返し、その横から別の兵士が剣を突き込んだ。二人で肩を並べ、上陸したばかりの敵を水際まで下がらせている。


 いける。


 一瞬、そう思った。


 その向こうで、次の船が岸へ着いた。


「くそっ、まだ来るのか!」


 誰かが叫んだ。


 イリスは荒い息を吸い、盾を上げ直した。


 丸盾を構えた大柄な男が、真正面へ来た。


 イリスは相手の盾の脇へ剣を出した。切っ先が腕を捉える。確かな手応えがあった。


 それなのに、男は止まらなかった。


 顔を歪めたまま、斧を振り上げる。


 イリスは盾を掲げた。


 重い衝撃が左腕を潰すように走った。


「っ……!」

挿絵(By みてみん)

 盾が押し下げられた。靴底が濡れた石を滑り、身体が沈む。


 膝が地面へ触れる前に、足を引いた。


 男の斧が、もう一度上がっていた。


 イリスは盾を傾けた。刃が表面を削り、木片が頬へ飛んだ。


 息を吸う暇がなかった。


 左腕が痺れている。指へ力を入れても、盾がさっきより重い。


 親衛隊の訓練でも、押し込まれたことはあった。


 構えを崩され、転がされたこともあった。


 だが、地面へ膝をついた時には、次の打撃が止まった。


 目の前の男は、止まらない。


 斧を引き戻す。その顔が、盾の向こうへ消えた。


 次が来る。


 もう、同じようには受けられない。


 イリスは盾を捨てた。


 左腕が軽くなった。


 斧が下りる前に踏み込む。横へずれた身体のすぐ脇を、刃が落ちた。


 男が向きを変えようとする。


 イリスは盾を持つ腕の外へ抜けた。大きな身体が回りきる前に、両手で剣を握る。


「はああっ!」


 振り抜いた。


 刃が首を捉えた。


 手の中へ重さが返り、男の身体が傾いた。落ちた斧が石へ当たり、その上へ男が崩れた。


 イリスは剣を下げたまま、息を吐いた。


 何かが指へ残っていた。


 木剣を打ち合わせた時とも、鉄の刃を受けた時とも違う。


「イリス!」


 顔を上げた。


 リュシアンが下がっていた。剣を前へ向けたまま、こちらへ手を伸ばす。


「こっちへ!」


 イリスは駆け寄った。


 すぐそばで、味方が倒れた。


 別の兵士が腕を掴もうとしたが、槍がその間へ入った。盾で弾き、もう一度手を伸ばす。届く前に、敵の足が二人の間を埋めた。


 隊長が叫んだ。


「体勢を立て直す! 一度後退しろ! 市街地で各個撃破する!」


 リュシアンの肩が触れた。


 イリスは彼に合わせて下がった。


 前へ剣を向けたまま一歩。もう一歩。


 川岸には、動かない仲間が残っていた。


 その姿を、押し寄せる盾が隠した。


 *


 家の角を曲がったところで、隊長が人数を確かめた。


 十人が、六人になっていた。


 イリスは壁へ手をついた。息を吸うと、胸の奥が痛んだ。


 隣にリュシアンがいる。


 それを確かめてから、ようやく剣を握り直した。


「広い場所でまともにぶつかるな。路地へ誘い込め。一度に相手をする人数を減らすんだ」


 隊長が言った。


 六人は狭い路地へ入った。


 先頭の敵が角を曲がる。盾が見え、その横へ隊長の剣が走った。後ろの男が詰まり、槍を前へ出せなくなる。


 イリスも剣を出した。


 川岸のように、何人もの盾が同時に迫ってはこなかった。目の前の一人へ刃を向け、その動きに応じられる。


 倒した。


 次へ向かう前に、隊長が下がれと叫んだ。


 六人は次の角へ走った。


 そこで待ち、追ってきた者を止める。また下がる。


 それを何度か繰り返した。


 だが、別の道からも声が聞こえ始めた。


 前へ出かけた兵士が戻ってきて、首を振った。隊長は逆へ向きを変えた。イリスたちもそれに続いた。


 曲がり角で、一人が槍を受けた。


 壁へ背中を打ちつけ、そのまま座り込む。


「待て、まだ――!」


 手を伸ばした兵士を、隊長が引き戻した。


「戻るな! もう間に合わん!」


 イリスは振り返った。


 倒れた男が、こちらを見ていた。


 何か言ったのかもしれない。


 敵が角を曲がり、その顔は見えなくなった。


 走った。


 剣を振るい、また走った。


 次の路地で、もう一人が倒れた。


 イリスには、その瞬間が見えなかった。悲鳴に顔を向けると、一緒に来ていたはずの男が地面にいた。


 リュシアンが背を押した。


 前へ進む。


 足が重かった。剣を持つ右手だけでなく、捨てた盾を握っていた左手まで痛んだ。


 もう四人しかいなかった。


 隊長が角の向こうを見た。


 すぐに盾を上げた。


 剣が当たり、火花が散る。


「先へ行け!」


 隊長が叫んだ。


 リュシアンがイリスの腕を引く。


 イリスは足を動かした。


 その横で、別の敵が隊長へ斬りかかった。


「隊長!」


 剣が下がった。


 身体が壁へぶつかり、濡れた石の上へ倒れた。


 イリスの足が止まりかけた。


「イリス、ついて来い!」


 腕を強く引かれた。


 リュシアンの顔があった。


 イリスは彼の後を追った。


 もう一人の兵士も走っていた。すぐ後ろに足音がしていた。


 角を曲がった。


 剣がぶつかる音がした。


 次の角を曲がった時、足音は二人分になっていた。


 *


 細い路地を抜けると、前が開けた。


 古い教会が見えた。


 その周りに家々がある。イリスはそちらへ向かおうとした。


 あそこなら、誰かいるかもしれない。


 味方と合流できるかもしれない。


 教会の前を、男たちが横切った。


 丸い盾を持っていた。


 見慣れない言葉で、互いに叫んでいた。


 イリスは足を止めた。


 教会の脇にもいた。


 家の前にも、道の奥にもいた。


「……そんな」


 リュシアンも辺りを見回した。


「別の場所から上陸した連中が、もう街に来たのか……? 味方は何をやってんだ!」


 川岸で止めるはずだった。


 止められなかった。


 路地なら戦えると言われた。


 そこも通れなくなった。


 ここまで来ても、敵がいた。


「もう嫌だ……」


 声が漏れた。


 リュシアンが振り返った。


「もう嫌だ。こんなの、勝てるわけがない……」


 剣を持ち上げようとした。


 上がらなかった。


 腕を動かすために息を吸うことさえ、苦しかった。


「ここで……私たちは殺される……」


 膝が折れた。


 石へ当たった痛みも、遠かった。


「イリス!」


 リュシアンが支えてくれた。


 口が動いていた。


 近くにいるのに、何を言っているのか分からなかった。


 頬が鳴った。


 顔が横を向いた。


 鋭い痛みに、イリスは息を詰めた。


「イリス、しっかりしろ!」


 リュシアンがいた。


 目の前で、こちらを見ていた。


「もう二人で逃げるんだよ! こんなの無駄死にだ。生き残らなきゃいけないんだ!」


 二人で。


 イリスは彼の顔を見た。


 差し出された腕を掴んだ。震える膝へ力を入れ、引かれるまま立ち上がる。


「……ええ」


「行こう!」


 リュシアンが走り出した。


 イリスも走った。


 *


 川から離れる方へ進んだ。


 敵の声がすれば道を変え、家の陰へ入り、また別の路地へ抜けた。


 前方の建物が少なくなってきた。


 その向こうには畑が見えた。


 街の外へ出られる。


 イリスが息を吸った時、背後で声が上がった。


 振り返ると、数人の男が路地へ入ってきていた。


** 川岸で戦った者たちとは、どこか様子が違っていた。**


 こちらを見つけても、すぐには突っ込んでこなかった。


 一人が前へ出る。別の者がその脇を進み、狭い道の中で位置を変える。手にした武器を上げ、間隔を保ったまま近づいてきた。


 リュシアンも振り返った。


「……まずいな」


 イリスは前を見た。


 道の先は開けている。


 そこへ出れば、身を隠せるものがなくなる。


「追いつかれる。戦おう、リュシアン」


 イリスは剣を上げた。


 リュシアンは道の脇を見た。積まれた薪と、壁から張り出した柵。その間へ身体を寄せ、追手の前へ出た。


「いや。君は逃げるんだ」


「何を言っているの? 二人で――」


「女性の君が、こいつらに捕まったらどうなるか、分かるね?」


 言葉が止まった。


 リュシアンは追手へ剣先を向けた。


 いちばん前の男が歩みを緩める。後ろの者が脇へ出ようとしたが、狭い道では前の男が邪魔になっていた。


 リュシアンが一歩、そちらへ動いた。


 男たちが止まった。


「お前と過ごす時間が、好きだった」


「……リュシアン?」


 彼がこちらを見た。


 血と泥のついた頬に、金髪が張りついていた。


 碧い瞳は、知っている彼のものだった。


「だから、生きてくれ。イリス」


「何を言っているの、リュシア……」


 彼の顔が変わった。


 イリスは息を呑んだ。


 睨まれていた。


 遠乗りで先へ行きすぎても、何かに言い返しても、そんな顔をされたことはなかった。


「早く行け!」


 身体が震えた。


 リュシアンはすぐに追手へ向き直った。


 その背中を見た。


 剣を握る手を見た。


 彼はもう、逃げるために道を探していなかった。


 イリスは手を伸ばしかけた。


 一緒に来てほしかった。


 もう一度、二人で逃げると言ってほしかった。


 男が一人、前へ出た。


 リュシアンの剣先がそちらを向いた。


 イリスは伸ばしかけた手を引いた。


「ありがとう、リュシアン……私も好きでした」

挿絵(By みてみん)

 彼の顔を見ようとした。


 だが、その前に剣が鳴った。


 イリスは背を向けた。


 走った。


 すぐ後ろで、もう一度、鉄がぶつかった。


 振り返らなかった。


 角を曲がる。


 音が小さくなる。


 足が止まりそうになった。


 止めなかった。


 イリスは泣きながら走り続けた。


 リュシアンが何かを叫んだ。


 自分の名だったのか、敵へ向けた声だったのか、分からなかった。


 次の角を曲がった。


 もう、聞こえなくなった。


 *


 どれほど走ったのか、分からなかった。


 家々が途切れていた。


 畑と木立の間を、道が続いていた。


 イリスはそこを走っていた。


 息を吸うたびに喉が痛み、足が何度ももつれた。どちらへ向かっているのかも分からない。


 立ち止まったら、追いつかれる。


 それだけを考えていた。


 背後で、足音がした。


 イリスは振り返った。


 一人の男がいた。


 剣を持っていた。


 こちらを見ると、歩調を速めた。


 イリスは立ち止まった。


 もう、逃げたくなかった。


 逃げても、逃げても、追ってくる。


 仲間は倒れた。


 隊長も倒れた。


 リュシアンは、あの路地に残った。


「ああ……」


 喉から声が漏れた。


 男が近づいてくる。


 剣を上げた。


「ああああああっ!」


 イリスは剣を握り直した。


「殺してやる!」


走った。


相手の刃がどこを通ったのかも、どうやって避けたのかも分からなかった。


腕へ何かが当たった。


痛かったのかどうかも分からない。


ただ、目の前の男を倒したかった。


何度も、何度も剣を振るった。


もう一度。


男が何かを叫んだ。


イリスは笑っていた。もう感情が狂っていた。


男が倒れても、イリスの手は止まらなかった。


 *


 気づくと、膝をついていた。


 目の前に男が倒れていた。


 動かなかった。


 身体は剣でひどく傷つけられ、裂けた腹から臓物がこぼれ出ていた。


 イリスはそれを見た。


 剣先が地面に触れている。


 握っているのは、自分の手だった。


「……あ……」


 指も、腕も、衣服も濡れていた。


 血だった。


 男が向かってきたことは覚えていた。


 叫んだことも、剣を上げたことも。


 その先が、分からなかった。


 イリスは立とうとした。


 足が滑り、片手を地面へついた。剣を離さないまま、ようやく身体を起こす。


 どこへ行けばいいのだろう。


 道の先を見た。


 振り返りかけた。


 ――生きてくれ。イリス。


 リュシアンの声がした。


 イリスは、前へ足を出した。


 それからのことは、ところどころしか残っていない。


 誰かがいた。


 声を掛けられた。


 剣を離すように言われた気がする。


 離せなかった。


 次に場所が分かった時には、見知らぬ家の中にいた。


 毛布が掛けられていた。


 そばにいた住民が、目を覚ましたことに気づいた。静かな声で何かを言い、水を持ってきてくれた。


 自分を見つけ、ここへ運び、匿ってくれたのだということは分かった。


 イリスは口を開いた。


 リュシアンは。


 そう聞こうとした。


 声が出なかった。


 目の前の人は、彼を知らない。


 どこにいるかも、あの路地から逃げられたかどうかも。


 イリスは毛布を握りしめた。


 指の隙間に、まだ血が残っていた。


 *


 イリスは目を開けた。


 机があった。


 燭台の火が、わずかに揺れていた。


 窓の向こうには夜があり、閉じた戸の下から、細い灯りが差していた。


 ヴァレーヌの、自分の部屋だった。


 膝の上で、手を握っていた。


 ゆっくり開く。


 血はついていなかった。


「リュシアン……」


 呼んでから、息が止まった。


 返事を待っていた。


 自分が待っていたことに気づき、イリスは俯いた。


 後ろ髪へ手を伸ばす。


 指先が、リボンの結び目に触れた。


 彼からもらったものだった。


 ほどけてる、と言った声を覚えていた。


 似合ってる、と笑った顔も。


 あの時、ちゃんと顔を見て礼を言えばよかった。


 手袋など、後からはめればよかった。


 イリスは結び目へ触れたまま、目を閉じた。


 最後に見た彼は、厳しい顔をしていた。


 けれど、思い浮かべようとすると、遠乗りの帰りにこちらを振り返った顔が出てきた。


 少し息を弾ませて、笑っていた。


「……リュシアン」


 今度は、返事がないと分かっていた。


 それでも呼んだ。


 机の上では、買ったばかりの銀の髪飾りが灯りを映していた。


 イリスはそれへ手を伸ばさず、髪に残る結び目を、指先でそっと押さえていた。


 *


 西フランクの街道を、一人の人物が歩いていた。


 深くかぶったフードの隙間から、銀色の髪が風に揺れる。


 道の両側には雪が残り、遠くには、雲を背負った山々が連なっていた。


 その人物は足を止め、進む先へ顔を向けた。


 やがて再び歩き出す。


 雪を踏む音だけが、静かな街道に続いていた。


挿絵(By みてみん)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。