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第十一話 帰る場所

夜明け前の薄明かりが、窓の隙間から部屋へ差し込んでいた。


 イリスはまだ眠っている。


 その傍らで、ローザはぱちりと目を開けた。寝台の上で前脚を伸ばし、背中を反らす。小さな翼も広げてから、寝床を抜け出そうとした。


 ふと、机の上に目が留まった。


 昨日、イリスが買ってきた髪飾りだった。


 四つ並んだそれを、ローザは昨日から気にしていた。机へ飛び移り、ひとつを前脚でつつく。向きが変わると、銀の表面が薄明かりを返した。


 いいことを思いついた。


「今日はローザも、お洒落してお出かけしよう」


 四つの髪飾りを、ひとつずつ尻尾へ付けていく。


 右へ振る。左へ振る。


 飾りが毛の間で揺れた。


「うん、いい感じ」


 満足して尻尾を立てると、ローザはイリスを振り返った。寝息は変わっていない。


 起こさないように部屋を抜け出し、庭へ下りた。


 朝の空気は冷たかった。


 ローザは雪の残る草むらへ飛び込み、木の根を越えた。枝の上へ跳び移り、物音がすれば立ち止まって耳を澄ませる。


 尻尾の飾りは、走るたびに揺れた。


 ひとしきり遊んで戻る頃には、空はすっかり明るくなっていた。


「ただいまっと」


 机の前で、ローザは尻尾を持ち上げた。


 イリスが起きる前に、元へ戻しておかなければならない。


 先から順に数える。


 途中で動きが止まった。


「……あれ?」


 もう一度、数えた。


 尻尾を裏返すようにして、毛の間も見た。


「ない。ひとつなくなってる」


 振ってみても、残っているのは三つだけだった。


「イリスに怒られる……」


 ローザはしばらく尻尾を見つめていた。


 寝台を振り返る。


 イリスは動かない。


「元に戻して、寝てたことにしよう」


 机へ飛び乗り、飾りを外そうとした。


「ローザ」


「ひゃっ!」


 背後から声がした。


 振り返ると、イリスが寝台で身を起こしていた。黒髪が頬へかかり、まだ少し眠そうだったが、その目はまっすぐこちらを見ている。


「私の髪飾り、知りませんか?」


「……知らない……」


 ローザは尻尾を身体の後ろへ隠した。


 イリスの視線が移る。


「あなたの尻尾に付いているそれは、何でしょうか?」


「……あれ?」


 わざとらしく振り返った。


「いつの間に。気づかなかったなあ」


 イリスは寝台から降り、机へ歩み寄った。


「返してください」


「う、うん」


 ローザは渋々、飾りを外した。


 イリスは机へ置かれたものを、ひとつずつ確かめる。


「……三つしかありませんよ?」


「そうだね」


「もうひとつは、どこにやったんですか?」


「知らない。朝起きたら付いてた」


 イリスはローザを見た。


「いい加減にしないと怒りますよ。あなたがなくしたんでしょう。探しに行きますから、どこに遊びに行ったか言いなさい」


「……いつものお散歩コース……」


「ほら、やっぱりあなたじゃない」


 ローザの耳が伏せられた。


 イリスの手が、三つの飾りを寄せた。


 その動きを見ていると、口が勝手に動いた。


「ただ、朝遊びに行っただけだもん!」


 机の上で身を起こす。


「髪飾りなんか知らないって言ってるでしょ、まな板猪イリス!」


 イリスの表情が固まった。


 部屋が静かになった。


「……そうですか」


 声が低くなった。


「では、私はあなたと距離を置くことにします。もう帰ってこなくて結構ですよ」


 ローザは言葉を失った。


 イリスは、もうこちらを見ていなかった。


 尻尾が大きく膨らんだ。


「もう帰ってやるもんか、まな板イリス!」


 机から飛び降り、部屋を飛び出した。


 廊下を駆ける足音が遠ざかっていく。


 イリスは扉を見ていた。


 やがて机へ向き直り、三つの髪飾りを、昨日並べた場所へ戻した。


 ひとつ分、空いていた。


 *


 着替えを済ませたイリスは、廊下でエミールを見つけた。


「エミール」


「どうしたの、姉さん」


「ローザが私の髪飾りをなくしたのです」


 少し間を置く。


「探すのを手伝ってください」


 エミールは姉の顔を見た。それから、部屋の方へ目を向ける。


「ローザは?」


「出ていきました」


「……喧嘩したの?」


 イリスは答えなかった。


 エミールもそれ以上は聞かず、窓の外を見た。


「庭から探してみよう。朝、外へ出たんだろう?」


「ええ。いつもの散歩コースに行ったと言っていました」


 二人はまず、庭を探した。


 草むらの雪を払い、植え込みの根元を覗き込む。枝に引っ掛かっていないか、イリスは細い小枝まで目を凝らした。


 見つからなかった。


 庭を出て、ローザがよく通る道へ向かった。


 木の根元や石の陰、飛び乗りそうな倒木の上。イリスはしゃがんで枝の下を確かめ、立ち上がっては少し先へ進んだ。


「こっちにもないね」


「……ええ」


 手袋の指先に、湿った土が付いていた。


 イリスは腰を伸ばし、来た道を見た。


 小さなローザが通れる場所は、道の上だけではない。茂みの向こうにも足を踏み入れたかもしれないし、頭上の枝を渡ったかもしれなかった。


 もう一度、道沿いを確かめながら家へ戻ることにした。


 *


 ローザは《銀霧泉》の脇を通り、西の森へ向かっていた。


「今日から野良だから。友達がたくさんいる、西の森の奥へ行こう」


 尻尾を立てて進む。


 だが、温泉場の屋根が見えなくなる頃には、足が遅くなっていた。


 ――もう帰ってこなくて結構ですよ。


 立ち止まった。


 来た道を振り返る。


「……帰らないもん」


ローザは小さく呟いた。


髪飾りをなくしたと気づいた時、本当はすぐにイリスへ謝ればよかったのだ。そうすれば、きっと一緒に探してくれた。


それなのに、知らないと言ってしまった。嘘がばれそうになると、今度はひどいことまで言ってしまった。


**「……まな板って言ったのは、ちょっと悪かったかな」**


ローザは尻尾を下げた。


イリスはまた怒っているだろうか。それとも、僕が出ていって、せいせいしているだろうか。


「先に帰ってこなくていいって言ったのは、イリスだもん」


 森へ入った。


 いつもなら、木の枝や草の陰から、誰かが顔を出すはずだった。


 見覚えのある根元を覗く。


 倒れた幹の向こうへ回る。


「あれ。誰もいないな」


 ローザは耳を動かした。


 枝の擦れる音がしただけだった。


「……もっと奥かな」


 友達を探して、先へ進んだ。


 *


 イリスとエミールが屋敷の敷地へ戻った頃には、正午を回っていた。


「結局、見つかりませんでしたね……」


 イリスが呟いた時だった。


「……あっ」


 エミールが足を止めた。


 屋敷を見上げている。


「何ですか?」


「あった! 姉さん、あったよ!」


 指さす先を、イリスも見た。


 部屋の下に生えている木。その枝の上で、小さなものが光っていた。


 髪飾りだった。


「……こんなところに」


 イリスは胸元へ手を当てた。


 ようやく見つかった。


 そう思ってから、庭を見回した。


 ローザはいなかった。


 家を出る前にも、探している途中にも、姿を見ていない。


 イリスは屋敷の外へ続く道を振り返った。


「……ローザ」


 エミールがこちらを見た。


「強く言い過ぎてしまった……」


 帰ってこなくていいと、自分が言った。


 イリスは手袋の土を払い、エミールへ向き直った。


「髪飾りを取っておいてもらえますか。私はローザを迎えに行ってきます」


「どこへ?」


「多分、西の森です。あの子がよく遊びに行くので」


 道へ出かけてから、足を止めた。


「お母様にも、そう伝えてください」


「分かった。気をつけて」


 イリスは頷いた。


 腰に下げた剣の位置を直し、西へ歩き出した。


 *


 森の奥へ来ても、友達は見つからなかった。


 ローザは木の根元へ座り、前脚の雪を払った。


「みんなどこに行ったんだろう……」


 見上げた枝は空いていた。


 誰も下りてこない。


 少し休んだら、また探そうと思った。寝るなら、いつもの場所がよかった。


 幹の途中に小さなウロがある木だった。中で丸くなると身体がちょうど収まり、風も当たらない。


 以前、イリスと来た時には、帰ると言われてもなかなか出なかった。


 ローザは立ち上がり、その木へ向かった。


 やがて、木々の向こうに何かが見えた。


「あれ。誰かいる」


 ローブをまとった人影が、木のそばに立っていた。


 深くかぶったフードに顔が隠れている。


 ローザは近くの幹の陰へ身を寄せた。


 相手は動かなかった。


 少しだけ顔を出す。


 その時、人影がこちらを向いた。


「……そこにいるのは誰?」


 ローザは顔を引っ込めた。


 草を踏む足音が近づいてきた。逃げようかと迷っているうちに、すぐそばで止まる。


「あなたは、ここの森の子?」


 おそるおそる見上げた。


 相手は少し首を傾げた。


「……いや、違うわね。人間の匂いがするわ」


 フードが後ろへ払われた。


 長い金髪が肩へ落ちる。現れたのは、整った顔立ちの女性だった。髪の間から覗く耳は細長く、先が尖っていた。


 ローザは目を丸くした。


「あれ、君も妖精?」


 女性は少し微笑んだ。


「ええ。私はヴェリスです」


「僕、ローザだよ。こんな人間みたいな妖精、見たことない」


 *


「ローザ……どこまで行ったのですか」


 イリスは西の山道を進んでいた。


 道沿いの木や、茂みの陰へ目を向ける。茶色いものが見えるたびに足を止めたが、枯れ葉や木の根ばかりだった。


「ローザ! どこにいるの!」


 声が木々の間へ響いた。


 返事を待ち、また歩く。


 近頃の情勢を考えれば、不用意に声を上げるべきではなかった。分かっていても、見える範囲を黙って探すだけでは足りなかった。


 小さな身体が、どこかで動けなくなっているかもしれない。


 道を外れかけ、イリスは立ち止まった。


「……そうだ」


 以前、一緒に来た場所があった。


 ローザが気に入った木のウロ。手を差し入れても出てこず、中からこちらを見ていた。


 あそこなら、休める。


 イリスは周囲の地形を確かめ、記憶にある方角へ進んだ。


 *


「君は、ここに住んでいるの?」


 ローザが尋ねると、女性は首を横に振った。


「私は昔、住んでいた場所から追い出されてしまって……長いこと、森を転々として暮らしていました」


「ずっと?」


「ええ。でも、私のような妖精は珍しいみたいで、人間に見つかると捕まえようとする人もいるの。だから、同じ場所に長く留まることができないのよ」


「そうなんだ。それも大変だね」


 ローザは彼女のそばへ座った。


「ローザはイリスと喧嘩して、家を飛び出してきたんだ。もう帰ってやらない」


「イリスという人間に、何か良くないことをされたのですか?」


「いや……」


 尻尾を足元へ寄せた。


 毛の間に、髪飾りはもうなかった。


「イリスの大切な髪飾りを、なくしちゃったんだ。そしたら怒られて……」


 女性は黙って聞いていた。


「知らないって言って、悪口も言っちゃった。そしたら、もう帰ってくるなって……」


 ローザは俯いた。


 窓のそばの机を思い出した。


 四つ並んだ飾りを見ていたイリスの顔も。


「……なくしちゃったって、言えばよかった」


 前脚で土を押した。


 冷たかった。


 寝台の上掛けは、もっとやわらかかった。


 イリスが座ると、少しだけ沈む。そこで丸くなっていると、たいてい本を読んでいた。


「……お家に帰りたい……」


 涙が落ちた。


「イリスに、ごめんなさいって言いたい……」


 前脚で目元を拭ったが、また濡れた。


 女性がそばへしゃがんだ。


 顔を上げると、彼女は森の向こうへ耳を澄ませていた。


「……あなたの名前は、ローザですか?」


「えっ?」


「先ほどから、風に乗ってあなたを呼ぶ声が聞こえてきます」


 ローザは立ち上がった。


 耳を立て、辺りを見回す。


「ほんと? でも、聞こえない……」


「あなたが来た方からよ」


 女性が顔を向けた。


「ついていってあげるから、一緒に戻りましょう」


「……うん」


 ローザは目元をもう一度拭い、彼女の後を追った。


 *


「……歩きにくい道ですね」


 イリスは枝を押さえ、身体を横へ向けて通り抜けた。


 足元には木の根や石が増えていた。ローザなら潜れる隙間も、イリスは回り込まなければならない。


 外套の裾を枝から外し、先を見る。


 目当ての木は、もう遠くないはずだった。


「ローザ! どこにいるの!」


 返事を待った。


 枝の擦れる音がした。


 その向こうで、何かが聞こえた。


「……リスー!」


 イリスは立ち止まった。


「ローザ?」


「イリスー! ごめんなさい!」


 今度は、はっきり聞こえた。


「ローザ! 私はここにいます! 髪飾りは見つけました!」


 声の方へ進んだ。


 幹の間から、小さな姿が現れた。


「イリスー!」


 ローザが走ってくる。


 イリスは膝をついた。


 飛び込んできた身体を、両腕で受け止めた。


「ローザ……!」


 胸元へ抱き寄せると、冷えた毛が頬へ触れた。ローザは服へ顔を埋めたまま、泣いていた。


「ごめんなさい、ローザ。私が言い過ぎました」


 背中を撫でた。


 小さな翼が、腕の中で震えている。


「だから……帰ってきて」


「嘘ついて、ごめんなさい……」


 ローザが顔を上げた。

挿絵(By みてみん)

「お家に帰りたい……」


「ええ。一緒に帰りましょう」


 もう一度抱き寄せると、ローザは小さく頷いた。


 しばらくそうしてから、イリスは顔を上げた。


 少し離れた木のそばに、ローブをまとった女性が立っていた。


「イリス、あの妖精に、イリスが探しに来てるって教えてもらったんだ」


 ローザが顔を向けた。


 イリスは女性を見て、抱いたまま頭を下げた。


「……ありがとう」


 女性は微笑んだ。


「仲良くしなきゃ駄目よ。じゃあね、ローザ。またどこかで」


「うん! ありがとう!」


 ローザが尻尾を振る。


 女性はフードをかぶり直し、森の奥へ歩いていった。


 木々の間へ姿が隠れるまで、二人は見送っていた。


 *


 山道へ戻ったところで、イリスはローザを下ろした。


 自分の服を見る。裾には泥が付き、袖にも土がこすれていた。ローザも足先から腹まで汚れている。


「ローザ、温泉に寄って帰りましょう。身体中が汚れてしまいました」


 ローザが見上げた。


「泥んこイリス」


「あなたもですよ」


「えへへ」


 イリスは袖に付いた枯れ葉を取った。


 帰りは、行きよりも足が重かった。


 ローザを探している間には気にならなかった坂が、長く感じられる。少し下ったところで息を整えると、ローザも隣で止まった。


「イリス、抱っこ」


「……もう歩けませんか?」


「うん。いっぱい歩いたから」


 イリスは見下ろした。


 ローザが前脚を上げる。


 小さく息をついてから、抱き上げた。


「仕方ありませんね」


 胸元へ収まると、ローザは頬を押しつけてきた。


 しばらくは耳が動いていた。


 やがて、それも止まった。


 イリスは腕の中のローザを見て、外套の合わせ目を少し寄せた。そのまま《銀霧泉》へ向かった。


 *


 温泉場の入口が見えてきた時、向こうから二人の衛兵を従えた男が歩いてきた。


「おや、イリスじゃないか」


 この地を治める領主、ギヨームだった。


「今日は休みか? ローザを抱えて大変そうだな」


 泥の付いた服と、腕の中のローザを見て笑った。


「はい、領主様」


 姿勢を正そうとすると、ギヨームが片手を上げた。


「こういう時は、昔みたいにおじさんでいいよ、イリス」


「……はい、ギヨームおじさん」


 イリスの表情が少し和らいだ。


「昔はよく、うちのお爺様とここにいらして、お酒を飲んでいましたよね」


「ははは。今日はそれを思い出して、酒を持ってきたところだ」


 ギヨームは温泉場へ目を向けた。


「ヴォルフラムが死んで二年か……早いものだな……」


 声から笑いが薄れた。


「イリスよ。最近は物騒だが、無茶はするなよ。俺の領内でお前に何かあったら、ヴォルフラムに申し訳が立たないからな」


 イリスは眠るローザを見て、それから顔を上げた。


「……お爺様、やることがめちゃくちゃでしたよね……」


「本人はクソ真面目にやってるんだぞ」


 すぐに返された。


 イリスは思わず笑った。


「……そうでしたね」


 笑うと、胸のあたりが少し楽になった。


 ギヨームも笑い、それから改めて二人を見た。


「疲れていそうだな。ゆっくり浸かっていきなさい」


「はい。ありがとうございます、ギヨームおじさん」


 イリスは頭を下げ、温泉場へ入った。


 *


「ローザ、起きなさい。お風呂に着きましたよ」


 脱衣所でそっと揺すると、ローザが薄く目を開けた。


「……ん?」


 辺りを見回し、イリスを見上げる。


「あれ、もう着いたの? まだ眠い……」


「さあ、起きて。お風呂に入りますよ」


 床へ下ろすと、ローザは大きく伸びをした。


 イリスは剣を外し、外套を掛けた。裾に付いた泥を見て、少し眉を下げる。昨日、上着を直してもらったばかりだった。


 衣服を脱ぎ、髪をまとめ直そうとして、頭の後ろへ手をやった。


 枝を潜ったせいで、毛先がいくらか絡まっていた。


「……ひどいことになっていますね」


 指で少しずつほぐす。


 ローザが足元から見上げていた。


「頭にも葉っぱある」


「どこですか」


「そこ」


「そこでは分かりません」


 ローザが小さく羽ばたき、肩の近くへ上がった。髪の間へ前脚を伸ばし、枯れ葉を取る。


「ほら」


 イリスは受け取った。


「……ありがとうございます」


「今日は見つけるの得意」


 イリスはローザを見た。


 ローザも見返した。


 どちらからともなく、少し笑った。


 湯殿には灯りがともっていた。湯気の向こうで水面が揺れ、湯を汲む音が静かに響いている。


 イリスは桶へ湯を取り、足元から流した。


 泥が薄い筋になって石床を伝っていく。袖から入り込んだ土も、指の間へ残っていた汚れも、丁寧に落とした。


 隣ではローザが、自分の前脚を眺めている。


「ローザ。お腹もです」


「自分でできるよ」


「そこ、まだ泥が付いています」


 布を濡らしてそっと拭くと、ローザが身を捩った。


「くすぐったい」


「少し我慢してください」


 翼の付け根を避け、腹に付いた泥を落とす。最後に湯を流すと、ローザは一度ぶるりと震えた。


 雫がイリスの頬へ飛んだ。


「……ローザ」


「今のは勝手に出た」


 イリスは目を閉じ、頬の水を拭った。


 身体を洗い終え、湯船へ足を入れる。


 熱が足先を包んだ。


 膝まで浸かり、いったん止まる。冷えた身体には、いつもより熱く感じた。


「熱い?」


 ローザが聞いた。


「……少し」


「最初だけだよ」


 言われて顔を向けると、ローザが得意そうにしていた。


 イリスは何も言わず、その鼻先へ指で小さく湯を弾いた。


「やったな」


「早く入りなさい」


 湯の中へ腰を下ろし、肩までゆっくり沈んだ。


「あぁ……生き返る……」


 息と一緒に声が漏れた。


 背中を縁へ預ける。目を閉じると、朝から上がっていた肩が、ようやく下がった。


 足の裏も、膝も重かった。けれど、湯の中ではその重さまで気持ちよかった。


 イリスは両手を湯から出し、頬へ当てた。


 冷えていた指も、もう温まっている。


 濡れた睫毛の先から雫が落ちた。目元を指で拭い、額へ張りついた髪を払う。


 ローザが隣で湯へ入った。


「今日はいっぱい歩いたね」


「ええ」


「イリスも疲れた?」


「とても」


 答えてから、イリスはローザを見た。


 いつもなら何か言い返すところだったが、ローザは前脚で水面を押し、こちらへ少し近づいただけだった。


 イリスは手を伸ばし、頭を撫でた。


 耳が指の下で伏せられる。


 その感触を確かめるように、もう一度撫でた。


 ローザが湯船の縁に落ち着くと、イリスも背中を預け直した。湯の流れる音が続く。


 眠気が来た。


 まぶたを持ち上げようとしても、すぐに下がる。


 顎が少し沈み、湯が唇へ触れた。


 イリスは目を開け、慌てて身体を起こした。


「寝ちゃ駄目だよ」


 ローザが見ていた。


「……寝ていません」


「今、寝そうだった」


「少し、目を閉じていただけです」


 言いながら、また欠伸が出そうになった。


 唇を結んで堪えると、ローザの耳がこちらを向いた。


 イリスは視線を逸らし、手で頬に湯をかけた。熱の戻った肌が、灯りの中でうっすら赤くなっていた。


 髪を結んだところが少し緩んでいる。片手で押さえ、もう片方の手で留め直した。


 腕を下ろした時、ローザが左肩を見ていた。


「……イリス?」


「……はい?」


「肩のアザ、ぼんやり光ってるよ」


 イリスは目を落とした。


 左肩の紋様が、湯気の中で微かな光を帯びていた。


「……本当だ。光っている……」

挿絵(By みてみん)

 指先で触れた。


 痛みはなかった。指を離しても、淡い光は残っている。


「こんなの、初めて……」


 ローザも身を寄せ、不思議そうに見つめた。


「なんだろうね」


「……なんでしょうね。私にも分かりません」


 少し身体の向きを変え、灯りとの角度を確かめる。それでも紋様は、肌の上でほのかに光っていた。


 二人でしばらく眺めたが、理由は分からなかった。


 イリスは気になりながらも、再び湯へ肩を沈めた。


 隣では、ローザが縁へ顎を載せている。


 イリスはそのそばへ手を置き、目を閉じすぎないよう、今度は湯面を眺めていた。


 *


 《銀霧泉》を出る頃には、辺りは暗くなっていた。


 髪の水気を拭き、外套の襟元へ収める。身体は温まっていたが、家まで歩くと思うと、まだ足が重かった。


「……お腹すいた」


 ローザが呟いた。


「私も、朝から何も食べていません」


「マルグリットのところ、寄っていこうよ」


「もう夕食の時間ですから、家に帰りますよ」


「えー……」


 ローザは少し歩いたところで止まった。


「お腹すいて歩けない」


 イリスは振り返った。


「……さっきまで歩いていたでしょう」


「もう無理。お腹ぺこぺこ」


 その場へ座り込み、見上げてくる。


 イリスはしばらく見ていた。


 それから膝を折った。


「……仕方ありませんね」


 両腕を差し出すと、ローザが前脚を掛けてきた。


 抱き上げる。


 温まった小さな身体が、胸元へ収まった。


「帰ったら、ちゃんと夕食を食べましょうね」


「うん」


 ローザの尻尾が、腕の上でゆっくり揺れた。


 イリスは抱き直し、家へ向かって歩き出した。


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