第十二話 迫る船影
翌朝、イリスはいつもどおり出勤した。
昨日は森の奥までローザを捜しに行き、帰りには温泉へ寄った。夕食を済ませる頃には、二人とも眠くて仕方がなかった。
今朝もローザは寝床に残っていた。
『今日は髪飾りを勝手に持ち出してはいけませんよ』
『分かってるよ……』
上掛けの中から返ってきた声を思い出し、イリスは小さく笑った。
詰所へ着き、外套を外しているところへ、領主の使いが訪れた。
「イリス殿。ギヨーム様がお呼びです。お話があるとのことです」
「領主様が?」
昨日、銀霧泉で会ったばかりだった。
あの時は祖父の話をして笑っていた。だが、勤務の始まったこの時間に使いを寄越したのなら、仕事の話だろう。
「分かりました。すぐに参ります」
イリスは外套を羽織り直し、使いの後について領主の館へ向かった。
*
案内された部屋で、ギヨームは地図を眺めていた。
机の端には、開かれた書状が置かれている。
「おお、来たか、イリス。昨日はよく眠れたか?」
「はい。おかげさまで」
「ローザはどうした? 今日も一緒じゃないのか?」
「今朝はまだ寝ていました。昨日、森を歩き回って疲れたようです」
「ははは。お前も大変だな」
ギヨームは笑い、椅子を勧めた。
イリスが腰を下ろすと、地図を二人の間へ引き寄せる。
「さて、今日は仕事の話だ」
イリスは背筋を伸ばした。
祖父とともに働き、この地へ家族を迎え入れてくれた人だった。幼い頃から世話になり、昨日のように「おじさん」と呼べる間柄でもある。
けれど、地図へ置かれた手を見ている今は、自分の仕える領主だった。
「今朝、伝令が届いた」
ギヨームの指が、川沿いの一点へ下りた。
「周辺の都市を襲っていたヴァイキングの一団が、こちらへ向かっているらしい」
「……ヴァイキングが?」
「ああ。これまで襲撃を続けていた連中の別動隊だそうだ。川を遡って移動している」
指が川筋をなぞった。
イリスはその先を見た。
集落の名がいくつもある。畑や街道の位置を示す線の間を、川が領内へ続いていた。
「このまま進めば、いずれ我が領内に入る。どこへ上陸するかは、まだ分からん」
「既に兵を動かしているのですか?」
「まずは川沿いの見張りを増やす。周辺の村にも知らせを出した。敵の動きを確かめながら、防衛の準備を進めるつもりだ」
ギヨームは顔を上げた。
「お前にも任務に備えておいてほしい。装備の点検を済ませ、いつでも動けるようにしておけ」
「承知しました」
イリスは頷いた。
「敵の数や装備については、何か分かっていますか?」
「詳しい報告はまだだ。新しい知らせが入り次第、お前にも伝える」
「分かりました。私も準備を進めます」
立ち上がり、一礼しようとしたところで呼び止められた。
「イリス」
「はい」
ギヨームの目が、机を挟んでこちらへ向いていた。
「昨日も言ったが、無茶はするなよ」
「……はい、ギヨームおじさん」
「今は領主として話しているんだがな」
そう言いながら、口元は少し笑っていた。
「では、任せたぞ」
「はい。失礼いたします」
部屋を出ると、廊下を行き来する者が増えていた。書状を抱えた男が足早に通り過ぎ、奥の部屋から人を呼ぶ声が聞こえる。
イリスは腰の剣へ手を添えた。
その手を離し、兵舎へ向かって歩調を速めた。
*
戻った中庭では、すでに荷車が引き出されていた。
槍を抱えた兵士が武器庫から出てくる。その後ろでは盾が二枚ずつ重ねて運ばれ、荷台へ積み上げられていた。
「ヴァイキングだと? こんなところにまで来るのか」
「国王が金を払ったりするから、あいつら調子に乗ってやがるんだ」
「大船団で来られたら、守りきれないぞ」
「この辺りの川幅はセーヌ川ほど広くない。十隻程度なら、大規模な襲撃じゃないんじゃないか?」
イリスは声のする方を見た。
話していた兵士も、手は止めていなかった。束ねた槍を荷台の奥へ押し込み、次の束を受け取っている。
装備室へ入り、普段使いの剣を外した。
手入れから戻った鎧を身につける。新しくなった革帯を締め、肩と腰を動かした。引っ掛かりはない。
長剣を取って、刃を確かめた。
研ぎ直された刃が、窓の光を細く返す。
鞘へ収め、剣帯へ通した。
髪を背へ払おうとして、リボンに指が触れた。
「リュシアン……行ってくる」
小さく呟いた。
「イリス!」
入口にセシルが立っていた。
「ガストン隊長が、全員中庭に集まれって。すぐに出発するみたい」
「分かりました。今行きます」
イリスは剣帯を締め直し、彼女に続いた。
中庭には、騎兵隊が集まり始めていた。
エティエンヌとルノーは馬具を抱えて厩舎から出てくるところだった。少し離れた場所では、ガストンが兵士の報告を聞いている。
やがて、ガストンが顔を上げた。
「全員、聞け!」
話し声が止まった。
「川を遡上しているヴァイキングの船団が、この領地へ向かっている。到着時刻はまだ分からん。これより川岸の防衛陣地へ移動し、迎撃の準備を行う」
ガストンは兵士たちを見渡した。
「ジェラール殿が現地の防衛を指揮する。歩兵は川岸を固め、弓兵と投石機部隊は高所に陣を敷く。我々騎兵隊は遊撃に回り、必要な場所へ駆けつける」
イリスは列の向こうに父を見つけた。
ジェラールは部下と言葉を交わしていたが、こちらへ目を向けると、小さく頷いた。
イリスも頷き返した。
「ただし、今はまだ敵が来ていない。騎兵隊も手を空けておくつもりはないぞ」
ガストンが荷車を指した。
「矢、食料、水、予備の武器。運べるものはすべて運ぶ。馬にも荷を振り分けて、陣地の準備を手伝え。敵が見えたら、すぐに動けるようにしておくこと」
「了解!」
「よし、かかれ!」
一斉に人が動いた。
イリスとセシルも馬を引き出し、鞍の左右へ荷袋を取り付けた。
「イリス、そっち、まだ積めそう?」
「はい。もう一袋くらいなら」
「じゃあ、こっちの干し肉をお願い。私の馬、もういっぱいなの」
袋を受け取り、鞍の後ろへ結ぶ。
左右の重さを確かめていると、荷車の横からエティエンヌが呼んだ。
「おーい、こっちにも手を貸してくれ!」
「何を運ぶんですか?」
「矢だ。弓兵のところまで持っていく。途中で落とすなよ」
「エティエンヌこそ、ちゃんと結んでよね」
セシルが言うと、ルノーが笑った。
「さっき荷袋を落としかけたのは、こいつだからな」
「落としてねえよ! 落としかけただけだ!」
言い返しながらも、エティエンヌは結び目を確かめ直していた。
中庭の向こうでは、ジェラールが先に馬へ跨がった。数人の兵を連れ、門へ向かっていく。
イリスがその姿を見送っていると、足元から声がした。
「イリスー、なんか慌ただしいね」
ローザだった。
馬や荷車の間を避けて歩き、こちらを見上げている。
「ローザ、ヴァイキングがこちらに向かっているようです。大事なお仕事中ですから、邪魔をしてはいけませんよ」
「えっ、ヴァイキング? 僕も一緒に行く」
「危ないですよ。戦闘になるのですから」
「だから行くんだよ」
イリスは手を止めた。
「前のパリの時、イリスの部屋でお留守番だったでしょ」
ローザが見上げたまま言った。
「心配で心配で、しかも帰ってきたらイリスはボロボロになってた。リュシアンも帰ってこなかった」
イリスは何も言えなかった。
「だから、もうお留守番してるのは嫌だよ」
荷車の車輪が、その後ろを通った。
イリスはローザのそばへしゃがんだ。
「分かりました。みんなの邪魔をしないこと。それから、もし戦闘が始まったら隠れていること」
目を合わせる。
「この二つを守れるのなら、一緒についてきてもいいですよ」
「うん、分かった」
イリスは頷き、立ち上がった。
荷の結び目を、もう一度引いた。
*
ガストンの号令で、一行は中庭を出発した。
先頭の騎兵に続き、物資を積んだ馬と荷車が門を抜けていく。イリスとセシルも馬を並べ、その列へ加わった。
川へ近づくにつれ、道を行き交う者が増えた。
槍を担いで陣地へ向かう兵士がいる一方、家財を積んだ荷車は川から離れる方へ進んでいた。毛布の隙間から子供が顔を出し、イリスたちを見ている。
イリスは手綱を引き、荷車が通れる幅を空けた。
セシルも隣で馬を寄せた。
荷車の男が短く礼を言い、二人の間を過ぎていった。
やがて、木々の間から川が見えた。
水面は朝の光を受け、穏やかに輝いていた。その手前では、兵士たちが土を掘り、杭を打っている。組みかけの柵が川岸に沿って延び、槌の音が途切れず響いていた。
「思ったより進んでるね」
セシルが見渡した。
「昨日のうちから準備を始めていたのでしょうか」
「たぶんね。あっ、あそこ。ジェラール様がいるよ」
父はすでに川岸にいた。
数人の兵へ指示を出し、柵の切れ目を指している。イリスたちの到着に気づいたかどうかは分からなかった。
ガストンは隊列を止め、荷車を川岸から少し離れた場所へ回した。
川に面して歩兵の柵があり、その後方の高台に弓兵と投石機が配置される。騎兵の待機場所は、川沿いの道へすぐ出られるよう、荷車の置き場とは離して設けられていた。
イリスは馬を降り、荷袋の縄を解いた。
「この干し肉は、どこへ運べばいいですか?」
近くの兵士が後方の天幕を指した。
「食料はあちらだ。矢は上の弓兵隊へ持っていってくれ」
「分かりました」
袋を肩へ担ぐと、ローザが後をついてきた。
「ねえ、イリス。疲れた」
「荷車に乗っていなさい。ただし、荷を下ろす邪魔はしないように」
「はーい」
ローザは空いた荷台の端へ跳び乗った。
イリスとセシルは天幕へ袋を運び、受け取りを待った。兵士が中身を確かめ、数を記録する。
次の荷を取りに戻ると、道の向こうからまた荷車が来ていた。
空いたところへ馬を寄せ、矢の束を積み替える。袋を下ろした肩が軽くなったのは、ほんの少しの間だった。
「次は上だね」
セシルが坂道を見た。
「はい」
二人は馬を引き、高台へ向かった。
*
坂は、荷車が上がるには狭かった。
踏み荒らされた土が靴へ付く。イリスは馬が足を滑らせないよう歩みを合わせ、曲がり角で一度止まった。
ローザは馬の背で、荷袋の間へ収まっていた。
上では弓兵が足元の草を刈り、川岸へ向けて弓を構えていた。少し離れた場所には投石機が据えられ、腕木や縄を確かめる声が飛び交っている。
「矢を持ってきました!」
セシルが声を掛ける。
「助かる。そこの天幕へ頼む」
束を運び込むと、イリスは手を腰へ当て、ひと息ついた。
ここからは川岸がよく見えた。
柵の内側に兵が集まり、盾を置く位置を確かめている。後方では荷車が向きを変え、人が道を空けていた。
下流へ目を向ける。
川は少し先で曲がり、その向こうは木々に隠れていた。
「……下流から来るのですね」
「そうみたい。でも、どこで上陸するか分からないから、見張りが大変そう」
セシルも川を見ていた。
ローザが馬の背で身を起こす。
「何か、嫌な感じがするんだよ」
「ローザ、怖いこと言わないで」
セシルはそう返したが、川から目を離さなかった。
イリスは曲がり角の向こうを見つめた。
船は見えない。
水面に浮かんだ枝が一つ、ゆっくり流れてきた。
坂の下から声がした。
「空いた馬を戻してくれ! まだ運ぶものがある!」
イリスは顔を戻した。
「行きましょう」
畳んだ荷袋を持ち、馬を引いて坂を下りた。
それからは、同じ道を何度も往復した。
矢を下ろした後には水を運び、予備の槍を柵の内側へ届けた。馬で通れないところでは荷を分け、兵士たちと手渡しで送った。
初めは柵の向こうまで見えていた川が、盾と人の背で隠れていった。
高台には天幕が増えた。
空だった荷車には、使い終えた縄や袋が戻されている。
昼を過ぎ、イリスが水桶を下ろした時、ガストンの声がした。
「ご苦労だった。物資はひとまず揃った。馬に水を飲ませて、各自も食事を取れ」
エティエンヌが大きく肩を回した。
「やっと飯か。戦う前に腹が減っちまった」
ルノーが返事をしながら、食料の置かれた方へ歩いていく。
セシルも長く息を吐いた。
ガストンだけは、下流を見ていた。
「休めるうちに休んでおけ。見張りから知らせが来れば、すぐに動くことになる」
イリスは空になった桶を重ねた。
もう一度、川へ目を向けてから、仲間の後を追った。
*
騎兵隊は、馬を繋いだ場所の近くで食事を取った。
パンと干し肉が回され、水袋が隣へ渡っていく。イリスも腰を下ろし、受け取ったパンを小さくちぎった。
朝から荷を運び続けたせいか、よく腹が減っていた。
「ローザもどうぞ」
「僕、もうお腹ぺこぺこ」
ローザは両前脚でパンを受け取った。
「イリス、そっちの水、取ってくれる?」
「はい、どうぞ」
セシルがひと口飲み、袋を膝へ置いた。
少し離れたところでは、ルノーが何かを言い、兵士たちが笑っていた。エティエンヌが言い返す声も聞こえる。
セシルはその声を聞きながら、川へ顔を向けた。
「……本当に来るのかな、ヴァイキング」
「伝令の報告が正しければ、いずれは」
「そうだよね」
水袋の口が閉じられた。
槌の音は、まだ続いていた。
イリスは残りのパンを食べた。干し肉を噛み、飲み込む。喉へ水を流してから立ち上がった。
「馬の様子を見てきます」
「私も行く」
セシルが続いた。
馬は水桶のそばに立っていた。
近づくと、鼻先がこちらへ向く。イリスは首筋を撫で、汗の残る毛へ手を滑らせた。
「今日はたくさん働いてもらいましたね」
馬が鼻を鳴らした。
外した荷袋は脇へまとめられていた。イリスは鞍の位置と革帯を確かめ、鐙に絡んでいた縄を外した。
「まだ仕事が残っているから、今のうちに休んでね」
隣では、セシルも鞍を確かめていた。
「荷袋を外したら、ずいぶん軽くなったね」
「ええ。これなら、いつでも出られます」
言ってから、イリスは手を止めた。
いつでも出られる。
そのために荷を運び、道を空け、ここまで準備してきたのだった。
馬の首へ、もう一度手を置いた。
温かかった。
*
午後には、陣地の作業が一つずつ終わり始めた。
柵を打つ槌の音が減り、兵士たちが持ち場へ移っていく。弓兵は矢を手の届く位置へ揃え、投石機のそばでは石が積み上げられた。
ジェラールが川岸を歩いていた。
盾を並べる兵に声を掛け、高台を見上げ、伝令を一人送り出す。足を止めた時には、下流を見ていた。
ガストンが騎兵隊を集めた。
「ここからは待機だ。敵の上陸地点が分かり次第、我々はそこへ向かう。勝手に隊を離れるなよ」
「了解!」
イリスは馬へ跨がった。
荷を積んでいた時とは違い、身体の下で馬が軽く動いた。手綱を整え、隣へ来たセシルと間隔を取る。
ローザは鞍の前へ乗り、イリスの腕の間から川を見ていた。
待った。
川岸を歩く兵士がいた。盾を置き直す音がした。
風が水面を渡り、高台の天幕を揺らした。
イリスは指を一度開き、手綱を握り直した。
まだ、何も見えなかった。
やがて、街道の向こうで蹄の音がした。
速かった。
振り向くと、一人の騎兵が坂を下ってきていた。
「伝令です!」
ガストンが馬首を向ける。
伝令はその前で馬を止めた。息を整える間もなく、声を張り上げた。
「下流の見張りから報告! ヴァイキングの船団を確認しました!」
ルノーの声が止まった。
セシルが手綱を引き寄せた。
「船の数は?」
「十隻ほどです! こちらへ向かって川を遡っています!」
ガストンが川岸へ顔を向けた。
兵士がすでにジェラールのもとへ走っていた。父は報告を聞き、すぐそばの男へ何かを命じる。
角笛が鳴った。
川岸にいた者たちが動いた。
休んでいた歩兵が立ち上がり、盾を持った。高台へ駆け上がる者がいる。荷車を退かせる声がして、道に残っていた兵が脇へ寄った。
イリスの馬が耳を立てた。
前へ出かけた馬を、手綱で落ち着かせる。
「ローザ」
「分かってる」
短い返事があった。
イリスは頷き、剣の柄へ手を添えた。
隣のセシルも、もうこちらを見ていなかった。
全員が下流へ顔を向けていた。
木々に隠れた川の曲がり角。
その向こうから、十隻が来る。




