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第十三話 守りの外から

角笛の音が、冬の川岸に響いていた。


 歩兵たちが柵へ駆け寄り、盾を並べる。踏み荒らされた雪の上へ槍の石突きが下り、後ろから来た兵が、空いているところへ身体を入れた。


 その間を、ジェラールが歩いていた。


「間を空けるな。前の者が下がったら、すぐに埋めろ」


「こっちへ。盾を合わせろ」


 兵士たちも声を掛け合い、隣との距離を詰める。


 背後の高台では、矢の束が開かれた。投石機を囲む兵士たちが縄を引き、腕木を下げている。


「こちらは準備できました!」


 声に、ジェラールが手を上げた。


「合図を待て。十分に引きつけるぞ」


 陸側の道では、ガストンが騎兵隊の前へ馬を進めた。


「敵が岸へ上がるまでは動くな。川へ突っ込むつもりでいる奴は、今のうちに考え直せ」


 返事が重なった。


 イリスも手綱を握り直し、下流へ顔を向けた。


 木々の向こうから、船首が現れた。


 低い船体が川を遡ってくる。櫂が水を掻くたび、舷側へ白い波が広がった。船べりには丸盾が並び、その上に男たちの頭と、槍の穂先が見える。


 後ろから、もう一隻が出てきた。


 さらに一隻。


 船影は、川の曲がり角まで途切れなかった。


「……十隻。伝令の言ったとおりだね」


 隣でセシルが呟いた。


 イリスは返事をしようとした。


 声が出なかった。


 水面を進む船。掲げられた丸い盾。その向こうで武器を持ち上げる腕。


 パリの川岸でも、同じものを見た。


 手綱を握る指へ力が入った。馬が首を動かし、イリスは慌てて手を緩める。


「……ヴァイキングは、いつも私たちの平和を壊しに来る」


 自分の声が、低く聞こえた。


 家には、昨日買った髪飾りがある。ローザと帰った道も、朝食を取った部屋も、ここから遠くない。


 その近くまで、あの船が来ていた。


「イリス……」


 セシルがこちらを見た。


「……今は、ガストン様の指示を待とう」


 そう言う顔にも、不安が浮かんでいた。


「イリス、セシル!」


 ガストンの声がした。


 二人は顔を向けた。


「後方組は救護の天幕へ向かえ。負傷者が来たら、搬送を手伝うんだ」


「わかりました」


 イリスが答えると、ガストンは馬を寄せ、少し声を落とした。


「お前を前へ戻すなと、ギヨーム様から念を押されている。勝手に戻ってくるなよ」


「……はい」


「そっちはそっちの仕事を頼む。負傷した者を任せられなければ、こちらも困る」


「はい。セシル、一緒に行きましょう」


「うん。ガストン様も、気をつけて」


 二人は馬首を返し、ほかの後方任務の兵士たちに続いた。


 鞍の後ろから、ローザが顔を出す。


「イリス、二人とも大丈夫?」


「私たちは後方のお仕事ですから、大丈夫ですよ」


「でも、二人ともさっきからあんまり喋らないよ」


 イリスはセシルを見た。


 彼女もこちらを見たが、すぐ前へ向き直った。


「……先に準備をしなきゃね」


「はい」


 柵の端へ向かう道から離れ、川沿いの街道へ入った。


 川側には低い木がまばらに生え、反対の山側では、森が斜面へ続いている。道の中央は馬や荷車に踏まれ、雪の下から土が出ていた。


 イリスたちはそこを選んで進んだ。


 途中、山側から細い道が合わさっていた。裾野を迂回し、隣町へ通じる道である。街道より狭いが、馬なら通れた。


 分かれ目を過ぎ、さらに進むと、山の麓に天幕が見えた。


 川岸の陣地は、もう木々に隠れていた。ここまで下がれば、上陸した敵がすぐに押し寄せてくることはないだろう。


 天幕の前には水桶と布が並び、道の脇に担架が置かれている。


「搬送の手伝いに来ました」


 イリスが声を掛けると、兵士の一人が顔を上げた。


「助かる。馬はあちらへ。道は空けておいてくれ」


 二人は馬を降りた。


 ローザが下りるのを待ってから、イリスは街道から少し外れた木へ手綱を繋いだ。


 セシルが担架を指した。


「担架は、これを使っていい?」


「ああ。負傷者が来たら、二人で運んでくれ」


 イリスもそちらへ向かった。


 その背後で、遠い号令が聞こえた。


 *


 先頭の船が向きを変えた。


 ガストンは馬上から、その動きを追った。


 船首は柵の正面を向いていない。左右の櫂の動きが変わり、船体が斜めになった。後続もそれに倣い、下流側の岸へ寄り始める。


「下の河原か」


 柵が途切れる先には、浅瀬と砂利の河原があった。そこから陸側へ上る道が続いている。


 ジェラールも敵の進路を見ていた。


「端へ回れ! 柵の前を空にするな。後ろの者だけでいい!」


 待機していた歩兵が移動した。


 柵の正面には盾の列が残り、その後ろを通って、別の兵が下流側へ向かう。高台へ合図が送られ、弓兵の身体が同じ方角へ向いた。


 ガストンは振り返った。


「道を下へ。俺に続け。まだ仕掛けるなよ」


 騎兵隊が動いた。


 荷車を退かせてあった道を通り、河原から上る敵の横へ出られる場所へ移る。エティエンヌとルノーも続いた。


 川の上から掛け声が聞こえた。


 盾が持ち上がり、男たちが船首へ集まっている。櫂を仲間へ渡し、足元の斧を拾う者もいた。


 先頭の二隻が岸へ寄る一方、後ろの船は川の中央で速度を落としていた。狭い水面で、十隻が同時に並ぶことはできない。


「ここで待つ」


 ガストンは馬を止めた。


「岸へ上がった連中を見ろ。船の方ばかり見ていると、横を抜かれるぞ」


「了解」


 エティエンヌが答えた。


 高台で腕が上がった。


「射て!」


 弦が鳴った。


 矢が川へ渡り、船上の盾が一斉に持ち上がる。


 盾に刺さる。船べりへ当たって弾かれる。肩を押さえて膝をついた男を、隣の者が船の内側へ引き戻した。


「次だ。船首を狙え!」


 次の矢がつがえられた。


 その横で、投石機の腕木が跳ねた。


 石が先頭の船の前へ落ち、水しぶきが船首まで上がった。櫂が乱れ、船が少し外へ振れる。


 それでも止まらなかった。


 船底が浅瀬へ入り、男たちが水へ降りた。


 膝まで浸かり、盾を頭上へ向けながら進んでくる。水中でよろめいた一人を、後ろの者が掴んだ。その間にも矢が飛び、盾の縁を叩いた。


 河原へ上がった者たちは、そこで仲間を待った。


 濡れた裾から水を落とし、武器を握り直す。盾が並び、後ろへ人が加わっていく。


 船上から矢が返ってきた。


 柵へ突き立ち、守備兵が頭を下げる。


 二隻目からも兵が降りた。さらに近づく船の脇へ石が落ち、砂利混じりの水が跳ね上がった。


 船上から怒鳴り声が飛んだ。


 その船は少し着岸位置をずらした。先に上がった集団と、後続の間に距離が開く。


 ガストンは、先にまとまった者たちを見ていた。


 盾が上がる。


 男たちが、柵の端へ動き始めた。


「来るぞ!」


 守備側の槍が揃った。


 敵が河原から上がってくる。


 盾と盾がぶつかった。


 突き出された槍が丸盾に弾かれ、別の穂先がその隙間へ入った。男が身体を折る。その脇から、後続が前へ出た。


 斧が盾の縁へかかった。


 守備兵の腕が引かれる。隣の兵が槍を出したが、敵の剣がその脇へ入り込んだ。


 男が呻いた。


「下がれ! 代われ!」


 仲間が腕を掴み、後ろへ引いた。


 空いた場所へ、新しい盾が入る。


「前は射つな! 味方がいる。後ろを狙え!」


 高台の弓兵が狙いを変えた。


 河原を進む後続へ矢が降る。船上の射手が伏せ、その脇へ何本も突き立った。


 だが、柵の端へ来る敵は増えていた。


 盾の後ろから肩が押され、守備兵の足が下がる。


 一歩。


 もう一歩。


「押し返せ!」


 前列の兵が槍を受けた。


 膝が落ちる。


「おい、立て! 掴まれ!」


 隣の者が肩へ手を伸ばしたが、身体は上がらなかった。倒れた盾へ敵の足がかかる。


 ガストンは手綱を引き寄せた。


 柵の正面は、まだ保たれている。


 押されているのは、端の一角だった。


 ジェラールがそちらへ向かった。


「後列、端を支えろ! 前を向いたまま、左へ詰めろ!」


 新たな盾が列へ加わる。


 ジェラールはその内側から前へ出た。


 槍が突き出された。


 盾で穂先を外へ払う。そのまま踏み込み、相手が引き戻す前に、喉へ剣を突き入れた。


 次の男が斧を上げた。


 ジェラールは後ろへ引かなかった。


 振り下ろす腕の内側へ盾をぶつけ、身体ごと間合いを潰す。斧の刃が背後へ落ちるのと同時に、剣が男の首を捉えた。


 三人目が迫る。


 ジェラールは倒れかけた男を盾で押し、その進路へぶつけた。敵が足を止めたところへ、盾の縁を叩きつける。


 顔が上がった。


 その下へ剣が入った。


「今だ、前へ出ろ!」


 味方の盾が揃って進んだ。


 雪と泥を踏み、押し込まれていた一角が戻る。


 ジェラールは剣を引き、後ろへ振り返った。


「負傷した者を下げろ。ここは支えられる!」


 兵士たちが仲間を引き出した。


 脇を押さえて歩く者もいれば、両側から抱えられ、足を引きずる者もいた。


 動かないまま残された兵もいた。


「隊長、陸側です!」


 エティエンヌの声に、ガストンは顔を向けた。


 敵の一部が、盾の押し合いから離れていた。


 河原から上る道を進み、歩兵の横へ回ろうとしている。先頭の男が斧で陸側を示し、仲間を呼んだ。


 だが、上りきった者はまだ少ない。


 後続は道の途中にいた。


「エティエンヌ、ルノー。行くぞ」


 ガストンが槍を前へ向けた。


「歩兵の前へ出るな。外側から押す。川まで追うなよ!」


 馬の腹を蹴った。


 騎兵隊が開けた場所へ入る。


 蹄が土を蹴り、雪が後ろへ飛んだ。


 敵の顔がこちらへ向いた。


 盾が上がる。


 ガストンはその外へ馬を寄せ、槍を突き出した。穂先が肩を捉え、男が倒れた。

挿絵(By みてみん)

 隣の敵が槍を向け直す。


 だが、続く騎兵にも対応しなければならなかった。ガストンの馬はその脇を抜け、エティエンヌが剣を振るう。


「離れるな! 隊長に続け!」


 声を掛けながら馬首を返す。


 ルノーも外側へ回った。


 斧を持つ男が身を引き、その後ろから別の剣が伸びた。


「っ!」


 袖が裂けた。


 ルノーの腕へ血が滲む。


「ルノー、止まるな!」


 エティエンヌが叫んだ。


 ルノーは腕を引き、馬を進めた。追おうとした男が、横から来る別の騎兵へ盾を向ける。


 敵の一団が、坂へ押し戻された。


 上ってくる後続とぶつかり、怒鳴り声が重なる。


「そこで止まれ! 下へ追うな!」


 ガストンが手綱を引いた。


 騎兵たちも馬を返す。


 陸側へ抜ける道には、味方の槍が向けられていた。上りきれなかった男たちは、盾を掲げて河原へ戻っていった。


「ルノー、腕は?」


「浅いです。まだ動けます」


 ルノーは手を開き、再び柄を握った。


「ひとまず手当てをしろ。エティエンヌ、周りを見ていろ」


「了解」


 仲間がルノーへ寄った。


 ガストンは川岸へ目を戻した。


 歩兵の列は踏みとどまっていた。


 負傷者が抜けた場所にも盾が入り、後ろから予備の槍が渡されている。高台では矢の束が取り替えられていた。


 河原にも、倒れた敵が増えていた。


 仲間へ腕を回して船へ向かう者がいる。盾を持ったまま膝をつき、すぐには立てない者もいた。


 前へ出ていた男が、大きく肩を上下させていた。


 斧を上げるが、踏み込んでこない。槍を向けられると盾を寄せ、そのまま一歩下がった。


 船上から声が飛んだ。


 岸の男が怒鳴り返す。


 後続の船には、まだ武器を持った者が残っていた。だが、全員が水へ降りようとしているわけではない。


「……さっきより、動きが鈍いですね」


 エティエンヌが言った。


「ああ。だが、まだ船には残っている。気を抜くな」


 ジェラールがこちらを見た。


 ガストンは槍を持ち上げ、陸側を押さえたことを知らせる。


 父親が頷き、再び兵へ向き直った。


 敵が船を離れて進める場所には盾と槍があり、その外へ回れば騎兵が動く。後続も、高台の射撃を受けずには岸へ上がれない。


 陣地は、まだ働いていた。


 ガストンは川の船を見た。


 このまま船でヴァレーヌへ入ることはできない。町を狙うなら、ここから陸を進まなければならなかった。


「船を降りて、この守りを抜いてまで……そこまでしてヴァレーヌを狙うか」


 独り言を漏らした時、河原でまた盾が持ち上がった。


 ガストンは騎兵隊へ振り返った。


「次に上がってくる奴を見ていろ。同じように押し戻すぞ」


 返事が揃った。


 *


 最初の負傷兵は、自分の足で来た。


 片腕を胸へ抱え、付き添いの兵に支えられている。袖から落ちた血が、街道の雪へ点を打っていた。


 イリスは天幕の前から駆け寄った。


「こちらです。肩を貸しますね」


 傷のない側に回り、腕を自分の肩へ回す。


 男が足を動かすたび、重みがかかった。


「すまん……重いだろう」


「大丈夫です。ゆっくりでいいですから」


 歩幅を合わせて進んだ。


 セシルが天幕の入口を開き、足元の荷物を退かせる。二人で男を座らせると、手当てをする兵士が布を持って寄ってきた。


 外へ出た時には、次の担架が見えていた。


「セシル、あちらも」


「うん」


 運んできた兵士の顔には汗が浮いていた。


「代わります。少し休んでください」


「腿をやられている。揺らすと痛がるから、頼む」


「わかりました」


 持ち手を握る。


「持ち上げますよ」


「せーの」


 腕へ重さがかかった。


 担架の上で男が呻いた。腿を覆う布は赤黒く染まり、押さえた指の間からも血が滲んでいた。


 イリスは足を踏み直した。


「動かさないでください。すぐに中へ運びます」


 セシルが前を向いて進む。


 イリスはその歩幅に合わせた。石を避け、道の窪みを越える。担架が傾くたび、腕へ力を入れた。


 天幕の入口で、別の搬送要員が布を上げてくれた。


 二人で中へ入り、藁のそばへ下ろした。


「聞こえるか。どこをやられた?」


 兵士が顔を覗く。


 男は口を開いたが、苦しそうな息しか出なかった。


「腿です。布が、こんなに血で染まっています」


 イリスが答えると、兵士は傷へ目を移した。


「水と、替えの布をくれ」


 水桶を渡し、汚れた布を置く場所を空ける。


 先ほど座らせた兵士は、もう腕へ布を巻かれていた。


「……まだ槍は持てる」


 呟いた声に、手当てをした兵士が頷いた。


「少し休んでから戻れ。血がまた出るようなら、すぐに下がってこい」


 イリスは外へ出た。


 ローザが道の端からこちらを見ていた。


「イリス、また来てるよ」


 街道の先で、別の兵士が二人に支えられていた。片足が地面から浮いている。


「セシル、担架を持っていきましょう。歩くのはつらそうです」


「うん。そっちを持って」


 二人は迎えに出た。


 前線の戦いは、ここでは音だけだった。


 まとまった叫び声が届いても、何を言っているのか分からない。川岸も木々に隠れ、運ばれてくる者に聞くほかなかった。


 ローザは、ずっと近くにいた。


 天幕の陰へ隠れるよう言っても、イリスが外へ出ると、すぐそばにいた。


「ローザ。隠れていなさいと言ったでしょう」


「僕はここにいるよ」


「ここでいいという話ではありません」


 ローザが見上げた。


「……離れたくないんだよ」


 イリスは息をついた。


「それなら、道の端へ寄っていてください。担架を運ぶ人の邪魔になってしまいます」


「うん」


 ローザは脇へ寄った。


 それからも負傷兵は来た。


 歩く者を支え、動けない者を担架へ載せた。空の担架を戻し、水を運び、血に濡れた布を下げる。


「そこ、空けて! 担架が通るよ!」


 セシルが身体を支える間に、イリスが足元を片づけた。


 作業の合間に、繋いだ馬も確かめた。水桶を寄せ、手綱が絡んでいないかを見る。


 その時も、ローザは後をついてきた。


 やがて、搬送を終えた男が天幕の前で腰を伸ばした。


「前は持ち直したぞ」


 セシルが顔を上げた。


「本当? 柵のところは?」


「ああ。騎兵が、陸へ回ろうとした連中を押し戻した。川岸も、今は支えられている」


 イリスも手を止めた。


 男の肩には、担架を担いだ跡が残っていた。


「まだ敵は来る。だが、さっきよりはましだ」


 男は水を受け取り、ひと口飲んだ。


 セシルが息を吐く。


「……よかった」


「はい」


 イリスも頷いた。


 前線で何が起きているのか、自分の目で確かめたわけではない。


それでも、味方が踏みとどまっていると聞けたことは、ありがたかった。


 肩へ入っていた力が、少し抜けた。


「イリス、水を飲んでおこう。私たちも、ずっと動いてるよ」


「ありがとうございます」


 水袋を受け取った。


 冷たい水が喉を通る。


 ローザが顔を寄せた。


「僕にも」


「はい。こぼさないでくださいね」


 水を飲むローザを見て、セシルが少し笑った。


 天幕の中では、腕を巻かれた兵士が立ち上がり、槍を受け取っていた。その奥には、まだ横たわったままの者もいる。


 イリスは水袋を返した。


 セシルと空の担架を外へ運び、道の脇へ揃える。


「次も、二人で運ぼう。イリス、まだ持てる?」


「ええ。今度は私が後ろを持ちます」


 手袋の指を引き直した。


 ローザが二人を見ていた。


「僕、何かさっきから気持ち悪い気配がするんだ。だから気をつけて」


 イリスは眉を寄せた。


「わかりました。あなたもですよ、ローザ」


 次の負傷兵を迎えに、二人は街道を下流へ向かった。


 天幕が木々の後ろへ隠れた。前から来る者を探しながら、山の裾野へ続く脇道との分かれ目へ近づく。


 冷たい風が斜面から吹き下ろした。


 枝の雪が舞い、イリスの肩へ落ちた。


 前線は持ち直したという。


 けれど、終わったわけではない。


 ――あの時だって……。


 考えを振り払い、前を見た。


 今は、運ばれてくる者へ手を貸さなければならない。


 前を歩くセシルが、山側へ顔を向けた。


 木々の間から、馬が街道へ踏み込んできた。


 黒い鎧を着た人物が、その背にいた。


「イリス、ヤバい、敵!」


 セシルが剣へ手を掛けた。

挿絵(By みてみん)

 馬上から刃が下りた。


 赤い飛沫が散った。


 セシルの身体が弾かれ、街道の脇へ転がった。


 イリスには、その間が見えなかった。


 声がした。


 剣へ手が伸びた。


 次には、セシルが地面にいた。


「セシル!」


 剣を抜いた。


 そばへ行きたかった。


 だが、馬上の人物から目を離せなかった。


 馬が止まった。


 黒衣の騎士が地面へ降りる。


 顔を覆う仮面の両側に、羽飾りが立っていた。黒い胸甲には翼を広げたような紋章があり、肩から垂れた外套の裾が雪へ触れている。


 ヴァイキングには、到底見えなかった。


 騎士は何も言わず、剣を下げたまま近づいてきた。


「イリス、逃げて! そいつの気配だ、気持ち悪いの!」


 ローザが叫んだ。


 イリスは黒騎士の足を見た。


 こちらとの距離を測るように、一歩ずつ進んでくる。


 逃げるために背を向ければ、その間に詰められる。


「だめです。セシルを置いて逃げられない。戦わなければ殺されるだけです」


 柄を握り直した。


「ローザ、茂みに隠れて!」


 ローザが道の端へ退く。


 イリスは黒騎士を見据えた。


 *


 先に動いた。


 黒騎士が踏み込むより早く、横へ走る。


 相手の剣がこちらを追った。その切っ先の外へ身体を移し、首へ突きを放つ。


 黒騎士の左腕が上がった。


 籠手が剣の腹を叩いた。


 手応えが横へ抜け、切っ先が首の脇へ逸れる。


 イリスは剣を戻そうとした。


 その時には、相手の右腕が動いていた。


 刃が下りる。


 イリスは地面へ身を投げた。


 肩が雪へ当たり、すぐ横で土が弾けた。転がった勢いのまま膝を引きつけ、立ち上がる。


「こいつ……速い……」


 黒騎士は、もう来ていた。


 イリスは両手で剣を上げ、刃を斜めに合わせた。


 受け流せる角度だった。


 触れた瞬間、踵の下で砂利が動いた。


 足が外へずれた。


「重い……!」


 身体の支えが抜け、斜めに当てたはずの剣が押し戻された。


 両腕が沈む。


 片膝が地面へついた。


 黒騎士が剣を引いた。


 上がる。


 首を狙って、下りてくる。


 イリスは膝を引いた。


 その直前、相手の踏み出した足が深い雪へ沈んだ。身体の前進がわずかに遅れる。


 横へ逃れた。


 黒い刃が、頭のあった場所を通り抜けた。


 イリスは後ろへ跳び、剣を構えた。


 見えていないわけではなかった。


 肩の動きも、足の運びも、祖父に教えられた通りに見ていた。刃を合わせる場所も間違えていない。


 ――足さえ、ずれなければ……。


 黒騎士が剣を頭上へ振り上げた。


 イリスは斜めに刃を当て、身体を外へ移した。


 今度は、流れた。


 相手の刃が脇へ抜ける。


 すぐ剣を戻した。


 黒騎士の手首が返る。


 横から来た。


 イリスは踏み込みを止め、もう一度剣を合わせた。


 刃が引っ掛かった。


 滑るはずの鉄が止まり、両手へ力が返ってくる。


 外そうと手首を返した。


 左肘が、わずかに身体の外へ開いた。


 戻すより先に押された。


「っ……!」


 肩が流れた。


 黒騎士が、剣を合わせたまま一歩入ってきた。


 イリスの刃が脇へ押し退けられる。


 足を踏み直した。


 空いた胸元へ、切っ先が来ていた。


 相手の靴が、雪に隠れた石を踏んだ。


 足首が傾いた。


 突きの向きが、わずかにずれた。


 刃が胸甲を滑り、鋭い音が耳元へ響いた。


 イリスは後ろへよろめいた。


 胸を打たれ、息が止まる。鎧の下へ熱い痛みが広がったが、胸甲は裂けていなかった。


 口を開き、空気を吸った。


 足を止めることはできなかった。


 ――おかしい。受けられるはずなのに。


 足がずれる。


 刃が引っ掛かる。


 肘が開く。


 普段なら、次の動きの中で直せるほどの崩れだった。


 だが、この相手は、その一瞬に剣を入れてくる。


 支えを戻す前に押され、構えを直す前に切っ先が来る。


 一撃を流せても、続く刃へ備えなければならなかった。反撃へ移るはずの足が、そのたびに後ろへ下がる。


 イリスの剣は、届かなかった。


 黒騎士がまた一歩、間を詰めた。


 ――このまま打ち合ったら、いずれ打ち負ける。


 イリスは走った。


 正面へ出ると見せて横へ回る。肩を動かし、相手の剣が向いたところで、反対側から突きを放つ。


 胸甲の手前で払われた。


 止まらず、外側へ回った。


 黒騎士の刃が追う。


 山から風が吹きつけた。


 雪と枯れ葉が舞い上がり、細かな欠片が仮面の目の隙間へ入った。


 黒騎士が鋭く首を振る。


 刃が一瞬、遅れた。


 イリスは身を捻った。


 外套の近くを剣が過ぎる。


 そのまま踏み込み、鎧の継ぎ目を狙った。


 黒騎士が身体を回した。


 切っ先が外れ、装甲の表面を滑る。


 相手の刃が戻ってきた。


 イリスは剣を引き、再び離れた。


 息が足りなかった。


 冷たい空気を吸っても、胸の奥まで入らない。剣を支える腕が重く、雪を蹴るたびに腿へ力を使った。


 黒騎士は追ってきた。


 同じ歩幅で。


 剣先をこちらへ向けたまま。


「イリス……!」


 茂みから声がした。


「出てきてはいけません!」


 相手を見たまま叫んだ。


 ローザの方へ顔を向ける余裕はなかった。


 ――このままでは死ぬ。


 柄を握った指が痛んだ。


 その感触に、祖父の声が重なった。


『可愛いイリスや。実戦はな、綺麗に勝とうとするな。正々堂々? 馬鹿馬鹿しい。


 相手にも待っている家族だぁ? そんなの、みんなそうだ。


 戦場はな、武器を抜いた瞬間から、殺す覚悟も殺される覚悟もできた奴だけだと思え。


 ちょっと早いが、武器に手をかけたら先に殺れ。


 殺されたら負け、生き残れば勝ちのゲームだ。簡単だろ?


 技量が足らないなら、頭を使え。


 それでも足らないなら、どんな手でも使え。


 先に殺せば、そいつはもう、お前に怖い思いはさせないよ。死んだら動かねえからな。はははは』


 イリスは、柄から右手を離した。


 左手で剣を振るう。


 一撃。


 払われる。


 続けて斬る。


 黒騎士の剣が合わさり、また外へ弾かれた。


 走りながら、足元は見ていた。


 何度も靴で雪を払い、踏み込めるところを探していた。


 その中に、砂の出た場所があった。


 最後の一撃を放ち、低くしゃがんだ。


 脚へ刃を走らせる。


 黒騎士の剣が下がった。


 鉄が噛み合った。


 同時に右手を伸ばす。


 冷たい川砂を掴んだ。


 仮面へ投げつけた。


 砂が黒い面を叩き、目の隙間へ散った。


 相手の顔が逸れた。


 イリスは立ち上がる勢いで踏み込んだ。


 男性の急所を、下から蹴り上げる。


 黒騎士の身体がよろけた。


 左手の剣へ、右手を添えた。


「貰った」


 喉へ向け、渾身の一撃を繰り出した。


 すぐそばで、茂みが揺れた。


「やったー、イリスー!」


 ローザが飛び出してきた。


 剣が仮面を裂いた。


 左側面へ大きな傷が走る。


 その隙間に、瞳があった。


 ルーン文字のような模様が、浮かんでいた。


「えっ……」


 黒騎士の剣が動いた。


 イリスの左肩へ、刃が入った。


 肩甲と胸甲の間。


 腕を動かすために空いていた、鎧の継ぎ目へ。


 衝撃に、柄へ添えていた右手が弾かれた。


 左腕が落ちた。


 剣を握ったまま、肩から離れた。


 血が噴き出した。


「あがあああっ!」


 悲鳴が街道へ響いた。


 身体が傾いた。


 何が起きたのか確かめようとしても、左手が動かなかった。あったはずの重さがなく、肩に熱が集まっていた。


 膝から力が抜けた。


 セシルが目を開けた。


 景色が滲んでいた。


 頬の下が冷たかった。


 顔を上げようとすると、身体のどこかに鋭い痛みが走った。


 街道に、イリスがいた。


 血が流れていた。


「ああ……イリス……」


 声にならなかった。


 手をつこうとした。


 動けなかった。


 黒い騎士が、剣を上げていた。


 ローザはイリスへ飛びついた。


「いやだ! イリスが死んじゃう!」


 脚へしがみつく。


 服を掴もうとしても、前脚が滑った。


 血だった。


 ローザがイリスの脚にしがみついた。その身体を離すまいと、必死に抱き締める。


 帰るところだった。


 朝、また部屋で会うはずだった。


 顔を上げると、黒い刃が頭上にあった。


「誰か! 誰か助けて! お願い、イリスを助けてえええっ!」


 声が裏返った。


 剣が振り下ろされた。


 その瞬間、光る霧のようなものがイリスを包んだ。


 脚にしがみついたローザも、その中へ隠れていく。


 光が、一瞬強く瞬いた。


 イリスとローザの姿が、その光とともにかき消えた。


 霧が薄れた街道に、二人の姿はなかった。


 中世編 完


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