第十三話 守りの外から
角笛の音が、冬の川岸に響いていた。
歩兵たちが柵へ駆け寄り、盾を並べる。踏み荒らされた雪の上へ槍の石突きが下り、後ろから来た兵が、空いているところへ身体を入れた。
その間を、ジェラールが歩いていた。
「間を空けるな。前の者が下がったら、すぐに埋めろ」
「こっちへ。盾を合わせろ」
兵士たちも声を掛け合い、隣との距離を詰める。
背後の高台では、矢の束が開かれた。投石機を囲む兵士たちが縄を引き、腕木を下げている。
「こちらは準備できました!」
声に、ジェラールが手を上げた。
「合図を待て。十分に引きつけるぞ」
陸側の道では、ガストンが騎兵隊の前へ馬を進めた。
「敵が岸へ上がるまでは動くな。川へ突っ込むつもりでいる奴は、今のうちに考え直せ」
返事が重なった。
イリスも手綱を握り直し、下流へ顔を向けた。
木々の向こうから、船首が現れた。
低い船体が川を遡ってくる。櫂が水を掻くたび、舷側へ白い波が広がった。船べりには丸盾が並び、その上に男たちの頭と、槍の穂先が見える。
後ろから、もう一隻が出てきた。
さらに一隻。
船影は、川の曲がり角まで途切れなかった。
「……十隻。伝令の言ったとおりだね」
隣でセシルが呟いた。
イリスは返事をしようとした。
声が出なかった。
水面を進む船。掲げられた丸い盾。その向こうで武器を持ち上げる腕。
パリの川岸でも、同じものを見た。
手綱を握る指へ力が入った。馬が首を動かし、イリスは慌てて手を緩める。
「……ヴァイキングは、いつも私たちの平和を壊しに来る」
自分の声が、低く聞こえた。
家には、昨日買った髪飾りがある。ローザと帰った道も、朝食を取った部屋も、ここから遠くない。
その近くまで、あの船が来ていた。
「イリス……」
セシルがこちらを見た。
「……今は、ガストン様の指示を待とう」
そう言う顔にも、不安が浮かんでいた。
「イリス、セシル!」
ガストンの声がした。
二人は顔を向けた。
「後方組は救護の天幕へ向かえ。負傷者が来たら、搬送を手伝うんだ」
「わかりました」
イリスが答えると、ガストンは馬を寄せ、少し声を落とした。
「お前を前へ戻すなと、ギヨーム様から念を押されている。勝手に戻ってくるなよ」
「……はい」
「そっちはそっちの仕事を頼む。負傷した者を任せられなければ、こちらも困る」
「はい。セシル、一緒に行きましょう」
「うん。ガストン様も、気をつけて」
二人は馬首を返し、ほかの後方任務の兵士たちに続いた。
鞍の後ろから、ローザが顔を出す。
「イリス、二人とも大丈夫?」
「私たちは後方のお仕事ですから、大丈夫ですよ」
「でも、二人ともさっきからあんまり喋らないよ」
イリスはセシルを見た。
彼女もこちらを見たが、すぐ前へ向き直った。
「……先に準備をしなきゃね」
「はい」
柵の端へ向かう道から離れ、川沿いの街道へ入った。
川側には低い木がまばらに生え、反対の山側では、森が斜面へ続いている。道の中央は馬や荷車に踏まれ、雪の下から土が出ていた。
イリスたちはそこを選んで進んだ。
途中、山側から細い道が合わさっていた。裾野を迂回し、隣町へ通じる道である。街道より狭いが、馬なら通れた。
分かれ目を過ぎ、さらに進むと、山の麓に天幕が見えた。
川岸の陣地は、もう木々に隠れていた。ここまで下がれば、上陸した敵がすぐに押し寄せてくることはないだろう。
天幕の前には水桶と布が並び、道の脇に担架が置かれている。
「搬送の手伝いに来ました」
イリスが声を掛けると、兵士の一人が顔を上げた。
「助かる。馬はあちらへ。道は空けておいてくれ」
二人は馬を降りた。
ローザが下りるのを待ってから、イリスは街道から少し外れた木へ手綱を繋いだ。
セシルが担架を指した。
「担架は、これを使っていい?」
「ああ。負傷者が来たら、二人で運んでくれ」
イリスもそちらへ向かった。
その背後で、遠い号令が聞こえた。
*
先頭の船が向きを変えた。
ガストンは馬上から、その動きを追った。
船首は柵の正面を向いていない。左右の櫂の動きが変わり、船体が斜めになった。後続もそれに倣い、下流側の岸へ寄り始める。
「下の河原か」
柵が途切れる先には、浅瀬と砂利の河原があった。そこから陸側へ上る道が続いている。
ジェラールも敵の進路を見ていた。
「端へ回れ! 柵の前を空にするな。後ろの者だけでいい!」
待機していた歩兵が移動した。
柵の正面には盾の列が残り、その後ろを通って、別の兵が下流側へ向かう。高台へ合図が送られ、弓兵の身体が同じ方角へ向いた。
ガストンは振り返った。
「道を下へ。俺に続け。まだ仕掛けるなよ」
騎兵隊が動いた。
荷車を退かせてあった道を通り、河原から上る敵の横へ出られる場所へ移る。エティエンヌとルノーも続いた。
川の上から掛け声が聞こえた。
盾が持ち上がり、男たちが船首へ集まっている。櫂を仲間へ渡し、足元の斧を拾う者もいた。
先頭の二隻が岸へ寄る一方、後ろの船は川の中央で速度を落としていた。狭い水面で、十隻が同時に並ぶことはできない。
「ここで待つ」
ガストンは馬を止めた。
「岸へ上がった連中を見ろ。船の方ばかり見ていると、横を抜かれるぞ」
「了解」
エティエンヌが答えた。
高台で腕が上がった。
「射て!」
弦が鳴った。
矢が川へ渡り、船上の盾が一斉に持ち上がる。
盾に刺さる。船べりへ当たって弾かれる。肩を押さえて膝をついた男を、隣の者が船の内側へ引き戻した。
「次だ。船首を狙え!」
次の矢がつがえられた。
その横で、投石機の腕木が跳ねた。
石が先頭の船の前へ落ち、水しぶきが船首まで上がった。櫂が乱れ、船が少し外へ振れる。
それでも止まらなかった。
船底が浅瀬へ入り、男たちが水へ降りた。
膝まで浸かり、盾を頭上へ向けながら進んでくる。水中でよろめいた一人を、後ろの者が掴んだ。その間にも矢が飛び、盾の縁を叩いた。
河原へ上がった者たちは、そこで仲間を待った。
濡れた裾から水を落とし、武器を握り直す。盾が並び、後ろへ人が加わっていく。
船上から矢が返ってきた。
柵へ突き立ち、守備兵が頭を下げる。
二隻目からも兵が降りた。さらに近づく船の脇へ石が落ち、砂利混じりの水が跳ね上がった。
船上から怒鳴り声が飛んだ。
その船は少し着岸位置をずらした。先に上がった集団と、後続の間に距離が開く。
ガストンは、先にまとまった者たちを見ていた。
盾が上がる。
男たちが、柵の端へ動き始めた。
「来るぞ!」
守備側の槍が揃った。
敵が河原から上がってくる。
盾と盾がぶつかった。
突き出された槍が丸盾に弾かれ、別の穂先がその隙間へ入った。男が身体を折る。その脇から、後続が前へ出た。
斧が盾の縁へかかった。
守備兵の腕が引かれる。隣の兵が槍を出したが、敵の剣がその脇へ入り込んだ。
男が呻いた。
「下がれ! 代われ!」
仲間が腕を掴み、後ろへ引いた。
空いた場所へ、新しい盾が入る。
「前は射つな! 味方がいる。後ろを狙え!」
高台の弓兵が狙いを変えた。
河原を進む後続へ矢が降る。船上の射手が伏せ、その脇へ何本も突き立った。
だが、柵の端へ来る敵は増えていた。
盾の後ろから肩が押され、守備兵の足が下がる。
一歩。
もう一歩。
「押し返せ!」
前列の兵が槍を受けた。
膝が落ちる。
「おい、立て! 掴まれ!」
隣の者が肩へ手を伸ばしたが、身体は上がらなかった。倒れた盾へ敵の足がかかる。
ガストンは手綱を引き寄せた。
柵の正面は、まだ保たれている。
押されているのは、端の一角だった。
ジェラールがそちらへ向かった。
「後列、端を支えろ! 前を向いたまま、左へ詰めろ!」
新たな盾が列へ加わる。
ジェラールはその内側から前へ出た。
槍が突き出された。
盾で穂先を外へ払う。そのまま踏み込み、相手が引き戻す前に、喉へ剣を突き入れた。
次の男が斧を上げた。
ジェラールは後ろへ引かなかった。
振り下ろす腕の内側へ盾をぶつけ、身体ごと間合いを潰す。斧の刃が背後へ落ちるのと同時に、剣が男の首を捉えた。
三人目が迫る。
ジェラールは倒れかけた男を盾で押し、その進路へぶつけた。敵が足を止めたところへ、盾の縁を叩きつける。
顔が上がった。
その下へ剣が入った。
「今だ、前へ出ろ!」
味方の盾が揃って進んだ。
雪と泥を踏み、押し込まれていた一角が戻る。
ジェラールは剣を引き、後ろへ振り返った。
「負傷した者を下げろ。ここは支えられる!」
兵士たちが仲間を引き出した。
脇を押さえて歩く者もいれば、両側から抱えられ、足を引きずる者もいた。
動かないまま残された兵もいた。
「隊長、陸側です!」
エティエンヌの声に、ガストンは顔を向けた。
敵の一部が、盾の押し合いから離れていた。
河原から上る道を進み、歩兵の横へ回ろうとしている。先頭の男が斧で陸側を示し、仲間を呼んだ。
だが、上りきった者はまだ少ない。
後続は道の途中にいた。
「エティエンヌ、ルノー。行くぞ」
ガストンが槍を前へ向けた。
「歩兵の前へ出るな。外側から押す。川まで追うなよ!」
馬の腹を蹴った。
騎兵隊が開けた場所へ入る。
蹄が土を蹴り、雪が後ろへ飛んだ。
敵の顔がこちらへ向いた。
盾が上がる。
ガストンはその外へ馬を寄せ、槍を突き出した。穂先が肩を捉え、男が倒れた。
隣の敵が槍を向け直す。
だが、続く騎兵にも対応しなければならなかった。ガストンの馬はその脇を抜け、エティエンヌが剣を振るう。
「離れるな! 隊長に続け!」
声を掛けながら馬首を返す。
ルノーも外側へ回った。
斧を持つ男が身を引き、その後ろから別の剣が伸びた。
「っ!」
袖が裂けた。
ルノーの腕へ血が滲む。
「ルノー、止まるな!」
エティエンヌが叫んだ。
ルノーは腕を引き、馬を進めた。追おうとした男が、横から来る別の騎兵へ盾を向ける。
敵の一団が、坂へ押し戻された。
上ってくる後続とぶつかり、怒鳴り声が重なる。
「そこで止まれ! 下へ追うな!」
ガストンが手綱を引いた。
騎兵たちも馬を返す。
陸側へ抜ける道には、味方の槍が向けられていた。上りきれなかった男たちは、盾を掲げて河原へ戻っていった。
「ルノー、腕は?」
「浅いです。まだ動けます」
ルノーは手を開き、再び柄を握った。
「ひとまず手当てをしろ。エティエンヌ、周りを見ていろ」
「了解」
仲間がルノーへ寄った。
ガストンは川岸へ目を戻した。
歩兵の列は踏みとどまっていた。
負傷者が抜けた場所にも盾が入り、後ろから予備の槍が渡されている。高台では矢の束が取り替えられていた。
河原にも、倒れた敵が増えていた。
仲間へ腕を回して船へ向かう者がいる。盾を持ったまま膝をつき、すぐには立てない者もいた。
前へ出ていた男が、大きく肩を上下させていた。
斧を上げるが、踏み込んでこない。槍を向けられると盾を寄せ、そのまま一歩下がった。
船上から声が飛んだ。
岸の男が怒鳴り返す。
後続の船には、まだ武器を持った者が残っていた。だが、全員が水へ降りようとしているわけではない。
「……さっきより、動きが鈍いですね」
エティエンヌが言った。
「ああ。だが、まだ船には残っている。気を抜くな」
ジェラールがこちらを見た。
ガストンは槍を持ち上げ、陸側を押さえたことを知らせる。
父親が頷き、再び兵へ向き直った。
敵が船を離れて進める場所には盾と槍があり、その外へ回れば騎兵が動く。後続も、高台の射撃を受けずには岸へ上がれない。
陣地は、まだ働いていた。
ガストンは川の船を見た。
このまま船でヴァレーヌへ入ることはできない。町を狙うなら、ここから陸を進まなければならなかった。
「船を降りて、この守りを抜いてまで……そこまでしてヴァレーヌを狙うか」
独り言を漏らした時、河原でまた盾が持ち上がった。
ガストンは騎兵隊へ振り返った。
「次に上がってくる奴を見ていろ。同じように押し戻すぞ」
返事が揃った。
*
最初の負傷兵は、自分の足で来た。
片腕を胸へ抱え、付き添いの兵に支えられている。袖から落ちた血が、街道の雪へ点を打っていた。
イリスは天幕の前から駆け寄った。
「こちらです。肩を貸しますね」
傷のない側に回り、腕を自分の肩へ回す。
男が足を動かすたび、重みがかかった。
「すまん……重いだろう」
「大丈夫です。ゆっくりでいいですから」
歩幅を合わせて進んだ。
セシルが天幕の入口を開き、足元の荷物を退かせる。二人で男を座らせると、手当てをする兵士が布を持って寄ってきた。
外へ出た時には、次の担架が見えていた。
「セシル、あちらも」
「うん」
運んできた兵士の顔には汗が浮いていた。
「代わります。少し休んでください」
「腿をやられている。揺らすと痛がるから、頼む」
「わかりました」
持ち手を握る。
「持ち上げますよ」
「せーの」
腕へ重さがかかった。
担架の上で男が呻いた。腿を覆う布は赤黒く染まり、押さえた指の間からも血が滲んでいた。
イリスは足を踏み直した。
「動かさないでください。すぐに中へ運びます」
セシルが前を向いて進む。
イリスはその歩幅に合わせた。石を避け、道の窪みを越える。担架が傾くたび、腕へ力を入れた。
天幕の入口で、別の搬送要員が布を上げてくれた。
二人で中へ入り、藁のそばへ下ろした。
「聞こえるか。どこをやられた?」
兵士が顔を覗く。
男は口を開いたが、苦しそうな息しか出なかった。
「腿です。布が、こんなに血で染まっています」
イリスが答えると、兵士は傷へ目を移した。
「水と、替えの布をくれ」
水桶を渡し、汚れた布を置く場所を空ける。
先ほど座らせた兵士は、もう腕へ布を巻かれていた。
「……まだ槍は持てる」
呟いた声に、手当てをした兵士が頷いた。
「少し休んでから戻れ。血がまた出るようなら、すぐに下がってこい」
イリスは外へ出た。
ローザが道の端からこちらを見ていた。
「イリス、また来てるよ」
街道の先で、別の兵士が二人に支えられていた。片足が地面から浮いている。
「セシル、担架を持っていきましょう。歩くのはつらそうです」
「うん。そっちを持って」
二人は迎えに出た。
前線の戦いは、ここでは音だけだった。
まとまった叫び声が届いても、何を言っているのか分からない。川岸も木々に隠れ、運ばれてくる者に聞くほかなかった。
ローザは、ずっと近くにいた。
天幕の陰へ隠れるよう言っても、イリスが外へ出ると、すぐそばにいた。
「ローザ。隠れていなさいと言ったでしょう」
「僕はここにいるよ」
「ここでいいという話ではありません」
ローザが見上げた。
「……離れたくないんだよ」
イリスは息をついた。
「それなら、道の端へ寄っていてください。担架を運ぶ人の邪魔になってしまいます」
「うん」
ローザは脇へ寄った。
それからも負傷兵は来た。
歩く者を支え、動けない者を担架へ載せた。空の担架を戻し、水を運び、血に濡れた布を下げる。
「そこ、空けて! 担架が通るよ!」
セシルが身体を支える間に、イリスが足元を片づけた。
作業の合間に、繋いだ馬も確かめた。水桶を寄せ、手綱が絡んでいないかを見る。
その時も、ローザは後をついてきた。
やがて、搬送を終えた男が天幕の前で腰を伸ばした。
「前は持ち直したぞ」
セシルが顔を上げた。
「本当? 柵のところは?」
「ああ。騎兵が、陸へ回ろうとした連中を押し戻した。川岸も、今は支えられている」
イリスも手を止めた。
男の肩には、担架を担いだ跡が残っていた。
「まだ敵は来る。だが、さっきよりはましだ」
男は水を受け取り、ひと口飲んだ。
セシルが息を吐く。
「……よかった」
「はい」
イリスも頷いた。
前線で何が起きているのか、自分の目で確かめたわけではない。
それでも、味方が踏みとどまっていると聞けたことは、ありがたかった。
肩へ入っていた力が、少し抜けた。
「イリス、水を飲んでおこう。私たちも、ずっと動いてるよ」
「ありがとうございます」
水袋を受け取った。
冷たい水が喉を通る。
ローザが顔を寄せた。
「僕にも」
「はい。こぼさないでくださいね」
水を飲むローザを見て、セシルが少し笑った。
天幕の中では、腕を巻かれた兵士が立ち上がり、槍を受け取っていた。その奥には、まだ横たわったままの者もいる。
イリスは水袋を返した。
セシルと空の担架を外へ運び、道の脇へ揃える。
「次も、二人で運ぼう。イリス、まだ持てる?」
「ええ。今度は私が後ろを持ちます」
手袋の指を引き直した。
ローザが二人を見ていた。
「僕、何かさっきから気持ち悪い気配がするんだ。だから気をつけて」
イリスは眉を寄せた。
「わかりました。あなたもですよ、ローザ」
次の負傷兵を迎えに、二人は街道を下流へ向かった。
天幕が木々の後ろへ隠れた。前から来る者を探しながら、山の裾野へ続く脇道との分かれ目へ近づく。
冷たい風が斜面から吹き下ろした。
枝の雪が舞い、イリスの肩へ落ちた。
前線は持ち直したという。
けれど、終わったわけではない。
――あの時だって……。
考えを振り払い、前を見た。
今は、運ばれてくる者へ手を貸さなければならない。
前を歩くセシルが、山側へ顔を向けた。
木々の間から、馬が街道へ踏み込んできた。
黒い鎧を着た人物が、その背にいた。
「イリス、ヤバい、敵!」
セシルが剣へ手を掛けた。
馬上から刃が下りた。
赤い飛沫が散った。
セシルの身体が弾かれ、街道の脇へ転がった。
イリスには、その間が見えなかった。
声がした。
剣へ手が伸びた。
次には、セシルが地面にいた。
「セシル!」
剣を抜いた。
そばへ行きたかった。
だが、馬上の人物から目を離せなかった。
馬が止まった。
黒衣の騎士が地面へ降りる。
顔を覆う仮面の両側に、羽飾りが立っていた。黒い胸甲には翼を広げたような紋章があり、肩から垂れた外套の裾が雪へ触れている。
ヴァイキングには、到底見えなかった。
騎士は何も言わず、剣を下げたまま近づいてきた。
「イリス、逃げて! そいつの気配だ、気持ち悪いの!」
ローザが叫んだ。
イリスは黒騎士の足を見た。
こちらとの距離を測るように、一歩ずつ進んでくる。
逃げるために背を向ければ、その間に詰められる。
「だめです。セシルを置いて逃げられない。戦わなければ殺されるだけです」
柄を握り直した。
「ローザ、茂みに隠れて!」
ローザが道の端へ退く。
イリスは黒騎士を見据えた。
*
先に動いた。
黒騎士が踏み込むより早く、横へ走る。
相手の剣がこちらを追った。その切っ先の外へ身体を移し、首へ突きを放つ。
黒騎士の左腕が上がった。
籠手が剣の腹を叩いた。
手応えが横へ抜け、切っ先が首の脇へ逸れる。
イリスは剣を戻そうとした。
その時には、相手の右腕が動いていた。
刃が下りる。
イリスは地面へ身を投げた。
肩が雪へ当たり、すぐ横で土が弾けた。転がった勢いのまま膝を引きつけ、立ち上がる。
「こいつ……速い……」
黒騎士は、もう来ていた。
イリスは両手で剣を上げ、刃を斜めに合わせた。
受け流せる角度だった。
触れた瞬間、踵の下で砂利が動いた。
足が外へずれた。
「重い……!」
身体の支えが抜け、斜めに当てたはずの剣が押し戻された。
両腕が沈む。
片膝が地面へついた。
黒騎士が剣を引いた。
上がる。
首を狙って、下りてくる。
イリスは膝を引いた。
その直前、相手の踏み出した足が深い雪へ沈んだ。身体の前進がわずかに遅れる。
横へ逃れた。
黒い刃が、頭のあった場所を通り抜けた。
イリスは後ろへ跳び、剣を構えた。
見えていないわけではなかった。
肩の動きも、足の運びも、祖父に教えられた通りに見ていた。刃を合わせる場所も間違えていない。
――足さえ、ずれなければ……。
黒騎士が剣を頭上へ振り上げた。
イリスは斜めに刃を当て、身体を外へ移した。
今度は、流れた。
相手の刃が脇へ抜ける。
すぐ剣を戻した。
黒騎士の手首が返る。
横から来た。
イリスは踏み込みを止め、もう一度剣を合わせた。
刃が引っ掛かった。
滑るはずの鉄が止まり、両手へ力が返ってくる。
外そうと手首を返した。
左肘が、わずかに身体の外へ開いた。
戻すより先に押された。
「っ……!」
肩が流れた。
黒騎士が、剣を合わせたまま一歩入ってきた。
イリスの刃が脇へ押し退けられる。
足を踏み直した。
空いた胸元へ、切っ先が来ていた。
相手の靴が、雪に隠れた石を踏んだ。
足首が傾いた。
突きの向きが、わずかにずれた。
刃が胸甲を滑り、鋭い音が耳元へ響いた。
イリスは後ろへよろめいた。
胸を打たれ、息が止まる。鎧の下へ熱い痛みが広がったが、胸甲は裂けていなかった。
口を開き、空気を吸った。
足を止めることはできなかった。
――おかしい。受けられるはずなのに。
足がずれる。
刃が引っ掛かる。
肘が開く。
普段なら、次の動きの中で直せるほどの崩れだった。
だが、この相手は、その一瞬に剣を入れてくる。
支えを戻す前に押され、構えを直す前に切っ先が来る。
一撃を流せても、続く刃へ備えなければならなかった。反撃へ移るはずの足が、そのたびに後ろへ下がる。
イリスの剣は、届かなかった。
黒騎士がまた一歩、間を詰めた。
――このまま打ち合ったら、いずれ打ち負ける。
イリスは走った。
正面へ出ると見せて横へ回る。肩を動かし、相手の剣が向いたところで、反対側から突きを放つ。
胸甲の手前で払われた。
止まらず、外側へ回った。
黒騎士の刃が追う。
山から風が吹きつけた。
雪と枯れ葉が舞い上がり、細かな欠片が仮面の目の隙間へ入った。
黒騎士が鋭く首を振る。
刃が一瞬、遅れた。
イリスは身を捻った。
外套の近くを剣が過ぎる。
そのまま踏み込み、鎧の継ぎ目を狙った。
黒騎士が身体を回した。
切っ先が外れ、装甲の表面を滑る。
相手の刃が戻ってきた。
イリスは剣を引き、再び離れた。
息が足りなかった。
冷たい空気を吸っても、胸の奥まで入らない。剣を支える腕が重く、雪を蹴るたびに腿へ力を使った。
黒騎士は追ってきた。
同じ歩幅で。
剣先をこちらへ向けたまま。
「イリス……!」
茂みから声がした。
「出てきてはいけません!」
相手を見たまま叫んだ。
ローザの方へ顔を向ける余裕はなかった。
――このままでは死ぬ。
柄を握った指が痛んだ。
その感触に、祖父の声が重なった。
『可愛いイリスや。実戦はな、綺麗に勝とうとするな。正々堂々? 馬鹿馬鹿しい。
相手にも待っている家族だぁ? そんなの、みんなそうだ。
戦場はな、武器を抜いた瞬間から、殺す覚悟も殺される覚悟もできた奴だけだと思え。
ちょっと早いが、武器に手をかけたら先に殺れ。
殺されたら負け、生き残れば勝ちのゲームだ。簡単だろ?
技量が足らないなら、頭を使え。
それでも足らないなら、どんな手でも使え。
先に殺せば、そいつはもう、お前に怖い思いはさせないよ。死んだら動かねえからな。はははは』
イリスは、柄から右手を離した。
左手で剣を振るう。
一撃。
払われる。
続けて斬る。
黒騎士の剣が合わさり、また外へ弾かれた。
走りながら、足元は見ていた。
何度も靴で雪を払い、踏み込めるところを探していた。
その中に、砂の出た場所があった。
最後の一撃を放ち、低くしゃがんだ。
脚へ刃を走らせる。
黒騎士の剣が下がった。
鉄が噛み合った。
同時に右手を伸ばす。
冷たい川砂を掴んだ。
仮面へ投げつけた。
砂が黒い面を叩き、目の隙間へ散った。
相手の顔が逸れた。
イリスは立ち上がる勢いで踏み込んだ。
男性の急所を、下から蹴り上げる。
黒騎士の身体がよろけた。
左手の剣へ、右手を添えた。
「貰った」
喉へ向け、渾身の一撃を繰り出した。
すぐそばで、茂みが揺れた。
「やったー、イリスー!」
ローザが飛び出してきた。
剣が仮面を裂いた。
左側面へ大きな傷が走る。
その隙間に、瞳があった。
ルーン文字のような模様が、浮かんでいた。
「えっ……」
黒騎士の剣が動いた。
イリスの左肩へ、刃が入った。
肩甲と胸甲の間。
腕を動かすために空いていた、鎧の継ぎ目へ。
衝撃に、柄へ添えていた右手が弾かれた。
左腕が落ちた。
剣を握ったまま、肩から離れた。
血が噴き出した。
「あがあああっ!」
悲鳴が街道へ響いた。
身体が傾いた。
何が起きたのか確かめようとしても、左手が動かなかった。あったはずの重さがなく、肩に熱が集まっていた。
膝から力が抜けた。
セシルが目を開けた。
景色が滲んでいた。
頬の下が冷たかった。
顔を上げようとすると、身体のどこかに鋭い痛みが走った。
街道に、イリスがいた。
血が流れていた。
「ああ……イリス……」
声にならなかった。
手をつこうとした。
動けなかった。
黒い騎士が、剣を上げていた。
ローザはイリスへ飛びついた。
「いやだ! イリスが死んじゃう!」
脚へしがみつく。
服を掴もうとしても、前脚が滑った。
血だった。
ローザがイリスの脚にしがみついた。その身体を離すまいと、必死に抱き締める。
帰るところだった。
朝、また部屋で会うはずだった。
顔を上げると、黒い刃が頭上にあった。
「誰か! 誰か助けて! お願い、イリスを助けてえええっ!」
声が裏返った。
剣が振り下ろされた。
その瞬間、光る霧のようなものがイリスを包んだ。
脚にしがみついたローザも、その中へ隠れていく。
光が、一瞬強く瞬いた。
イリスとローザの姿が、その光とともにかき消えた。
霧が薄れた街道に、二人の姿はなかった。
中世編 完




