第二部 企業編 第十四話 回収対象
会議室に入った時には、全員が揃っていた。
誰も立ち上がらない。散っていた視線がユリウスへ集まり、途中だった会話が止まる。ユリウス・クロイツはそのまま長机の最奥へ歩いた。
壁面いっぱいの透明ディスプレイに、人体の模式図が浮かんでいる。脊髄から末梢神経へ、人工関節から義肢へ。接続箇所を示す線の右側に、三つの数値が並んでいた。
九五・三。一〇二・八。一一七・四。
その横には、回復、補助、拡張という文字がある。同じ技術に引かれた三本の境界を見ながら、ユリウスは椅子を引いた。
「始めよう。エイドリアン」
「はい」
向かいに座るエイドリアン・コールが、手元の資料を閉じる。三十八歳。VITRIONのCOO。生命科学と医療を主領域とするHEXILIONの傘下で、神経接続と身体適合を担うこの会社の予算、人員、施設を動かしている。ユリウスの判断を、会社全体が実行できる形へ変える男だった。
「議題は神経適応プラットフォームの商用化です。第三相までの結果は資料の通り。医療用途については、マーサー博士から」
エヴリン・マーサーが顔を上げた。
「機能回復については問題ありません。末梢神経損傷を含む対象群で、健常時機能の九五パーセント前後まで安定しています。個体差はありますが、治療として扱える範囲です」
「一〇〇を超えた部分は?」
グラント・ホロウェイが訊いた。マーサーは彼を見る。
「治療ではありません」
「患者が望んでも?」
「定義は変わりません」
「性能は出る」
「出ます。ただし医学的必要性とは別です」
ホロウェイが口元だけで笑った。
「なら商品は二つだ」
マーサーは返さなかった。ホロウェイの視線は、すでに次の資料へ移っている。治療ではないと言われても、売れないとは受け取らなかったらしい。
ディスプレイの人体図が切り替わる。義手を装着した兵士、脊髄損傷者、事故で片脚を失った作業員。その隣には、外見上は健常者と変わらない人体モデルが並んでいた。
「軍・連邦機関からの照会はすでに来ています。負傷者の機能回復に加えて、復職条件を満たした後の出力維持についても関心がある」
エイドリアンが続けた。
「退役後まで?」
「保守契約を含めてです」
財務担当が答えを引き取る。
「連邦負担分は回収が安定します。初期単価は高いですが、再調整、神経校正、消耗部交換まで含めれば長期契約になる。民間高所得層より予測しやすい市場です」
異論は出なかった。ユリウスは初期単価の欄から、保守契約の支払者へ目を移した。高く売れることより、払う者が契約の途中で消えないことを見ていた。
「母数は」
「小さいです」
ホロウェイは即答した。
「軍だけなら。公的医療まで取れば桁が変わります」
別の資料が開いた。事故、疾病、先天障害、労災、災害、治安機関、公的インフラ従事者。対象群が増えるたび、数字が縦へ伸びていく。
「一人あたりの利益率は下がる。ただし保険認証を取れば、支払者が個人じゃなくなる」
「国家が客になる」
ユリウスが言うと、エイドリアンが修正した。
「正確には複数です」
エイドリアンは支払者の内訳を挙げた。
「連邦、州、保険機関、雇用保障制度。再就労支援側もあります」
ホロウェイが指を動かし、画面に別の試算を出す。
「国家雇用保障対象者向けなら、性能上限を落とした標準モデルでいい。価格を抑えて大量導入できる。一次産業と公共インフラ向けに規格化すれば、州単位じゃなく連邦契約まで持っていける」
「保守は?」
「こちらです」
「交換周期」
「五年。ただし神経接続部は年次校正」
「契約期間十年で試算しています」
財務担当が補ったところで、ネイトが初めて口を挟んだ。
「綺麗だね」
ネイサン・ブリッグスは椅子に深く座ったまま、画面を眺めている。
「何が?」
「国が治療費を出す。復職させる。給料も出す。その人間はVITRIONの保守契約から十年間降りない」
「治って働けるようになるんだ。何が問題だ」
「問題とは言ってない」
ネイトは笑った。
「綺麗だと言っただけだ」
ホロウェイはそれ以上返さなかった。マーサーが資料へ視線を戻す。画面には、十年という契約期間が残った。ユリウスはそこを見てから、機能上限の欄へ目を戻した。
「標準モデルにするなら、機能上限は一〇〇未満にしてください」
「理由は?」
「治療認証を取るためです。正常域を超える性能を同じ製品に入れれば、医療機器としての審査では済まなくなる」
「捨てるのか?」
ホロウェイの問いに、今度はジョナサン・リンが応じた。
「分けるんです」
細いフレームの眼鏡越しに、壁面の資料を見ている。
「治療用と強化用を、製品、契約、管理系統まで分離する。治療モデルは公的保険。強化モデルは別認証。軍、公共安全、高危険作業向けは後者へ寄せる」
「ARGOSは?」
ネイトが訊いた。
「問題にするのは用途の混同です。同一技術であることではありません」
「販売後に改造されたら?」
「契約外です」
「契約の中ではね」
リンは資料へ目を戻した。
改造できないとは言っていない。ユリウスは最初の画面にあった数値へ目を戻した。
一一七・四。
「研究側」
呼ばれた技術責任者が資料を切り替える。
「一二〇近辺までは神経適応自体は追従します。問題は人体ではなく機械側です」
「具体的に」
「熱。接続面の剪断。高負荷時の疲労。特に末端側の構造材が先に来る」
「材料が足を引っ張る?」
「現状では」
ネイトが眉を上げた。
「天衡は?」
技術責任者が、一拍置いた。中国の産業と研究基盤を束ねた統合企業体は、単品の性能だけで競争する相手ではない。製造、資金、市場をまとめて動かせる。
「公開系ではこちらが先行しています」
「非公開は」
「分かりません」
「向こうも神経接続をやってる」
「やっています」
「どこまで自前だ」
ホロウェイの問いに、技術責任者は淡々と返した。
「その質問に意味がありますか」
技術責任者はそのまま続けた。
「基礎系の研究者に元HEXILIONが七人。旧EACS系が四人。買収した医療機器会社が三社。どこからを自前と呼ぶか次第です」
「また引き抜かれたのか」
財務担当の呟きに、ネイトが肩をすくめる。
「人間には所有権がないからね」
ユリウスはそこで初めて、数値から視線を上げた。七人、四人、三社。向こうが手に入れたのは、完成品だけではない。
「何年で追いつく」
技術責任者が黙った。
「公開情報だけなら五年以上。ただし」
「三年で考えろ」
「根拠は?」
「相手も馬鹿じゃない」
技術責任者が口を閉じる。ユリウスは再び画面へ目を戻した。五年という予測には、公開情報だけという条件がついている。その条件まで事業計画へ持ち込むつもりはなかった。
治療、強化、軍、公費、雇用保障。資料の上では別々の欄に収まっている。技術としては、同じ一本の線から伸びていた。
「軍用は残す」
ホロウェイがユリウスを見る。
「主軸には?」
「しない」
ユリウスは言った。
「患者の方が兵士より多い」
財務担当の指が止まる。
「公的医療モデルを標準化しろ。保険と国家雇用保障の両方へ通す。出力上限は認証に必要なところまで落とせ」
マーサーが小さく頷いた。
「強化側は?」
「分けろ」
「富裕層向けも?」
「軍も、警察も、危険作業も同じだ。売れるところへ売れ」
「一二〇の研究は」
「続ける」
マーサーがユリウスを見る。
「治療には必要ありません」
「知ってる」
ユリウスは席を立った。
「使える性能を、区分の都合で捨てるな」
そこで会議は終わった。倫理について問い直す声は出ず、エイドリアンはすでに担当を割り振っていた。
「医療認証はマーサー。商品分離はリン。グラントは政府契約側と価格帯を詰めてください。高出力系は研究継続。天衡の進捗は月次では遅い。ネイト」
「週次?」
「必要なら随時」
「了解」
ユリウスが扉へ向かう間に、壁面の人体図が消えていく。最後に残ったのは、右腕を失った人間の輪郭だった。それも数秒後には消えた。
*
エレベーターの中で、ユリウスは左手首に目を落とした。機械式時計の秒針が進んでいる。
端末には、会議中に届いたメッセージが十二件あった。Personal AIへ渡せば要約はすぐに出る。ユリウスは一件ずつ自分で読んだ。
地下階で扉が開く。駐車場は静かだった。照明の下に低い赤い車体が停まり、その横でヴェリスが壁にもたれている。片手には薄い紙封筒。もう一方の手首には、最新型のスマートウォッチがあった。
「遅い」
「会議だ」
「知ってる」
「レアは?」
「先に行った。荷物も全部」
「お前は?」
ヴェリスは封筒を持ち上げた。
「これだけ」
「例のリストか」
「覚えてるところを書いただけ。正式な座標表じゃないからね」
時代座標と、彼女が触れられそうなアンカーポイントを書き留めた紙だった。行の間には訂正が入り、余白にも記号が散っている。ヴェリスの記憶の落書きに近かった。
「今夜使う分は?」
「残してある。何があるかまでは、書いてないけど」
「今夜は取れるのか」
ヴェリスは赤い車へ視線を移した。
「昨日より近い」
「何が」
「だから、その聞き方が違うって言ってるでしょ」
ユリウスはそれ以上訊かず、テスタロッサのドアを開けた。ヴェリスも反対側へ回る。二枚のドアが乾いた音を立てて閉じ、古いエンジンに火が入ると、地下駐車場に低い排気音が反響した。
ヴェリスがシートへ身体を沈める。
「これ、まだ乗るの?」
「動く」
「新しい方が速いわよ」
「知ってる」
「燃費も悪い」
「知ってる」
「Personal AIも載らない」
ユリウスはギアを入れた。
「それは助かる」
ヴェリスが笑う。テスタロッサはゆっくりと駐車場を走り出し、スロープを上がった。壁に籠もっていた排気音が薄れ、開いたゲートの向こうから夜のオースティンがフロントガラスへ広がる。
高層棟の窓にはまだ灯りが残っていた。車列の間を自動配送車が一定の間隔で走り、交差点では信号が切り替わるより早く、車群の速度が揃う。ユリウスはその流れを見ながら、古いステアリングを切った。
助手席でヴェリスが腕時計を操作する。
「レアから」
「何て」
「着いたって。設備も問題なし」
「医療班は?」
「待機済み」
「多すぎないか」
「あなたが呼んだんでしょ」
「鎧を取りに行くだけだ」
「じゃあ医療スタッフを四人も入れたのは何で?」
ユリウスは答えなかった。ヴェリスが横目で見る。
「嫌な予感?」
「保険だ」
「人間って、嫌な予感に名前をつけるの好きよね」
「数字にできないものを、そのままにしておくよりいい」
「だから外すのよ」
信号を抜けてから、ユリウスは訊いた。
「何をだ」
「大事なところ」
続きはない。この女は、話す気がなければ促しても何も出さない。ユリウスは知っていた。医療班については確認が取れた。それ以上を引き出すより、別の数字へ移る。
「数字は」
ヴェリスは窓の外を見た。
「何の?」
「分かってるだろ」
「七・三」
「昨日は九・一だった」
「そうね」
「下がってる」
「近づいてる」
ユリウスは一瞬だけ彼女を見る。
「説明しろ」
「説明した」
「数字が下がって、なぜ近づく」
「あなたが距離だと思ってるから」
「違うのか」
「違う」
「なら何だ」
ヴェリスが少し考える。その間も、車の前方では車群が同じ速度で交差点へ近づいていた。
「重なりやすさ」
「何と何が」
「そこを聞くから間違えるの」
ユリウスは舌打ちした。数字の増減は分かる。その意味だけが、彼女の答えを挟むたびにずれていく。
「座標は同じなんだな」
「同じ」
「時間は」
ヴェリスの指が止まった。
「その質問、好きじゃない」
「答えになってない」
「時間も同じ、って言えば満足する?」
「事実ならな」
「事実じゃないから言わない」
市街地を離れるにつれ、建物が低くなり、道路の照明も間隔を広げた。フロントガラスの向こうに黒い土地が続く。ユリウスがアクセルを踏むと、十二気筒の音が一段高くなった。
ヴェリスはシートに身を預けたまま、横を向いた。
「それ、楽しい?」
「何が」
「わざわざ自分で運転するの」
「お前もバイクは自分で乗るだろ」
「バイクとこれは違う」
「どこが」
「バイクは速い」
「これは四十年前の車だ」
「だから言ってるの」
ユリウスは鼻で笑った。
「新しい方が速い」
「知ってる」
「安全」
「知ってる」
「燃費もいい」
「知ってる」
「故障もしにくい」
「それは怪しい」
ヴェリスが笑い、数秒、車内にはエンジン音だけが残った。道路の照明がフロントガラスを横切っては、後方へ消える。
「夕食は」
「予約した」
「どこだ」
「前に行った店」
「どの」
「あなたが肉が硬いって言ったところ」
「なぜそこを取った」
「今日は柔らかいから」
ユリウスが眉を寄せる。
「知ってるのか」
「店に聞いた」
「お前、実験前に電話してたのか」
「だって終わったら食べるでしょ」
「成功したらな」
「失敗しても食べる」
「気分が悪い」
「お腹は空く」
それは確かだった。ユリウスは何も言わない。実験の成否にかかわらず、彼女の中では夕食まで予定に入っている。
しばらくして、ヴェリスが窓の外を見た。
「今日は静かね」
「何が」
「こっち側」
ユリウスは前を向いたまま訊いた。
「昨日は静かじゃなかったのか」
「昨日は鳥が多かった」
「鳥?」
「鳥じゃないけど」
「何だそれは」
「人間には鳥に見える」
「じゃあ鳥でいいだろ」
「よくない」
「なぜ」
「鳥じゃないから」
またそれだった。ユリウスには暗い道路と、その外に広がる土地しか見えない。ヴェリスはなお、窓の外を見ていた。
「でも今日は少ない」
「理由は」
「知らない」
「知らないのか」
「妖精が全部知ってると思ってる?」
「少なくとも、お前は知らないことを知らないと言わない」
ヴェリスが笑った。
「今日は機嫌いいじゃない」
「普通だ」
「会議で誰か泣かせた?」
「泣いてない」
「じゃあ怒らせた?」
「仕事だ」
「それは答えじゃない」
今度はユリウスが黙った。
ダッシュボードの端末が短く鳴る。施設側からの更新だった。外周警備配置完了。搬入経路封鎖。民間航空への一時制限申請承認。医療班待機。実験区画、隔離完了。
ヴェリスが画面を覗き込んだ。
「警備、多いね」
「減らすか?」
「別に」
「軍事サービス側は?」
彼女は自分の端末を見た。
「外周だけ。中には入れてない」
「人数」
「Warrior八。Lancer二」
「Knightは」
「なし」
「なぜ」
「いらないってレアが」
「レアに決めさせるな」
「じゃあ本人に言えば?」
ユリウスが端末を操作すると、数秒で返信が来た。
『研究施設で剣士を何に使うの?』
画面を閉じる。
「言った?」
「言った」
「何て?」
「却下された」
ヴェリスが声を立てずに笑った。道路はさらに暗くなり、街の明かりは後方にしか残っていなかった。
ユリウスは片手を伸ばす。
「封筒」
ヴェリスは渡さない。
「まだ」
「最後の一枚か」
「うん」
「レアには」
「見せてない」
「本体には上げたか」
「上げてない」
「設備側は」
「試験に必要なところまで」
「座標は?」
「出してない」
ユリウスはようやく彼女を見る。
「なぜ」
「あなたがそうしろって言ったから」
「正確には、全部渡すなと言った」
「だから全部渡してない」
「どこまで渡した」
ヴェリスは膝の上で封筒を軽く叩いた。
「成功してから考えればいい」
「失敗したら?」
「燃やす」
「成功したら?」
彼女がユリウスを見る。
「あなたはどうするの」
「俺のものにする」
答えに迷いはなかった。
「会社の、じゃなく?」
ユリウスは返さず、ヴェリスも追及しなかった。封筒は彼女の膝に残る。しばらく、二人の間をエンジン音だけが満たした。
やがてヴェリスが腕時計を見る。
「六・八」
ユリウスの目が動いた。
「また下がった」
「うん」
「近い?」
「さっきより」
「どれくらい」
ヴェリスは前方を見た。闇の向こうには何もない。少なくとも、ユリウスに見えるものはなかった。
「今日なら取れると思う」
「鎧を?」
彼女は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「鎧はね」
ステアリングを握るユリウスの指が動かなくなった。
「他に何がある」
「分からない」
「さっきからそればかりだな」
「今日はそういう日なのよ」
遠くに赤い航空障害灯が見えた。一つ、次いで二つ、三つ。灯りの下に、低い建物の輪郭が浮かぶ。地上に見えている部分だけなら、ありふれた研究施設だった。その下を知る人間は、VITRIONの中でもごく少ない。
ヴェリスが封筒を持ち上げた。
「着いたら、これはあなたが持って」
「今渡せ」
「嫌」
「なぜ」
「まだ外だから」
「同じだろ」
「違う」
「何が」
ヴェリスは薄く笑った。
「境界」
ユリウスは訊き返さなかった。今夜、それを訊いてもまともな答えは返ってこない。それだけは、もう理解していた。
テスタロッサは速度を落とし、施設へ続く専用道路へ入った。一般道の照明が後方へ消え、埋め込まれた誘導灯が細い光の列となって前方へ続く。道路の両側にある柵は高くないが、近づけばセンサーが組み込まれているのが分かった。
前方で正門のゲートが開く。警備員は車へ目を向けたものの、止める者はいなかった。
「増えたね」
ヴェリスが窓の外を見た。
「何が」
「監視」
「前からある」
「数」
ユリウスは答えず、正門を抜けた。
広い敷地の中に、建物が離れて配置されている。周囲に町はなく、街の明かりも見えなかった。白い照明に浮かぶ建物だけが、それぞれ独立した島のように見える。
最も大きいのは研究棟だった。低く横に長く、ガラス面は少ない。外から内部を見通せる場所はほとんどなかったが、いくつかの窓にはまだ灯りが残っていた。
少し離れた試作・工場棟は、もっと無骨だった。背の高いシャッターと大きな搬入口。その前に車両を横付けできるヤードがあり、側面には外部配管と保守通路が走っている。研究室で作ったものを組み、動かし、壊し、また組み直す。そのための広さだった。
量産工場ほどの規模はない。二階には試作作業区画、さらに上には管理フロアがあり、その一角にユリウスの執務室も置かれている。
ヴェリスが上階へ目を向けた。
「寄らないの?」
「今日はいい」
「珍しい」
「用がない」
「社長なのに?」
「社長だから毎回社長室へ行く必要はない」
彼女は小さく笑った。ユリウスは工場棟へ曲がらず、その脇を抜ける。
研究棟との間の通路に、資材搬送車が数台停まっていた。荷台の密閉コンテナには複数企業の管理タグが貼られている。EACS系、神風系列、HEXILION内部輸送用。ユリウスは視線だけを送った。一社だけで完成するものの方が、この施設では少ない。
「今日の搬入?」
「半分」
ヴェリスが答えた。
「残りは昨日」
「レアが確認したか」
「してる」
「全部?」
「たぶん」
「たぶんで済ませるな」
「本人に言って」
ユリウスは何も言わず、さらに奥へ進んだ。表側に比べて照明が減り、道路も狭くなる。看板も社名表示もない低い建物に、搬入口だけが口を閉じていた。倉庫のような外観だが、周囲の監視カメラは途切れず配置されている。
車が近づくと、認証表示が光った。数秒後、重い扉が横へ滑る。
「やっぱりここだけ雰囲気違うよね」
「何が」
「隠してる感じ」
「隠してるからな」
「素直」
テスタロッサが内部へ入ると、背後で扉が閉じた。外の夜が切れ、無機質な白い照明が車体を照らす。床には車両用の誘導線、壁際には計測装置と密閉容器。人は少なかったが、全員がすでに仕事を始めていた。
入口近くで、レア・ハルトマンが待っていた。黒い作業着に薄い実験用コートを羽織り、髪はいつものように雑にまとめている。眼鏡の奥の目が車を捉えた。
「遅い」
ユリウスは車を降りる。
「予定通りだ」
「私の予定では遅い」
「その予定は共有されてない」
「じゃあ今共有した」
反対側からヴェリスも降りた。
「準備は?」
「九割」
ユリウスの眉が動く。
「十にしろ」
「それやると始めるの明日になるけど」
「九割で始めるな」
「残り一割は始めないと分からないやつ」
「なら最初からそう言え」
レアは答えず、ヴェリスの腕時計を見た。
「数字は?」
「六・八」
レアの表情が少し変わる。
「下がった?」
「うん」
「いい方?」
「今日は」
「今日は?」
ヴェリスが肩をすくめた。
「今日はね」
レアはユリウスを見る。
「聞いた?」
「聞いた」
「分かった?」
「何も」
「私も」
三人は短い通路を歩いた。透明な隔壁の向こうで、技術者たちが大型フレームへ部品を固定している。金属、複合材、神経接続用のインターフェース。見慣れた作業だった。今夜、奥の区画で回収しようとしているものは、そのどれとも違う。
自動扉が開いた。準備区画は広く、中央に空間を取って機材が配置され、その周囲を計測装置が囲んでいる。壁際には制御卓、床には太い電源ケーブル。天井から可動式のアームが伸びていた。
一角には搬送用ストレッチャーと医療用モニターがあり、救急処置用のケース、輸液、酸素、止血用の器具が並んでいた。ユリウスはそこへ目を向ける。
「多いな」
レアが振り返った。
「何が」
「医療」
「少ないよりいいでしょ」
「鎧を取るんだぞ」
「予定ではね」
「予定外を想定したのか」
レアは数秒、ユリウスを見た。
「あなたが外科医まで呼んだんじゃない」
「ほら」
ヴェリスが横から言う。ユリウスは答えなかった。隣接する医療待機区画では、四人の医療スタッフが器具を確認していた。出番がある保証はない。それでも、準備は進んでいる。
レアが中央の装置へ向かった。
「ヴェリス、こっち」
「はいはい」
「センサー先につける。今日は途中で外さないでよ」
「前回は痛かったから」
「動いたからでしょ」
「痛かったから動いたの」
「鶏と卵」
「鳥じゃないけど」
レアが足を止める。
「何?」
「何でもない」
ユリウスはヴェリスを見た。車内の言葉を、レアは知らない。彼女は何事もなかったように実験用シートへ向かった。
椅子の背面にはセンサー端子と固定具、腕部には生体計測用の接触面があり、頭部には神経活動を拾う装置が取り付けられている。レアが端末を操作すると、壁面のディスプレイに複数の波形が立ち上がった。
「候補の座標はまだ入れてない」
「そのままでいい」
レアが振り返る。
「まだ私にも?」
「必要になったら渡す」
「またそれ?」
「そうだ」
彼女は露骨に顔をしかめた。
「実験する側に情報隠すのやめない?」
「全部渡す必要はない」
「私が決めることじゃない?」
「違う」
「最悪」
ヴェリスが椅子へ座りながら笑った。
「仲いいね」
「どこが」
二人の声が重なる。ユリウスは封筒へ目を移した。まだヴェリスが持っている。
「それ」
「まだ」
「施設内だ」
「準備区画は違う」
「何が」
「境界」
同じ言葉だった。ユリウスは少し目を細める。建物の内と外を指しているのではないらしい。それ以上は分からない。
レアが二人を見た。
「何の話?」
「妖精の話」
「それ一番信用できないやつ」
「ひどい」
「事実でしょ」
ヴェリスは笑ったまま腕を差し出した。レアがセンサーを取り付けるたび、モニターに波形が増える。
ユリウスは少し離れてそれを見ていた。研究棟、試作・工場棟、その上の執務室、さらに奥のこの区画。すべて同じ敷地にある。だが、ここで何をしているかまで知る人間は少ない。
設備と人員は揃っている。本体にはリストを上げていない。今夜何が回収されるかも、まだ分からなかった。
「ユリウス」
「何だ」
「始めるなら、もう一回だけ聞く」
レアは中央の装置を見る。
「本当に鎧だけ?」
ユリウスは答えず、ヴェリスへ目を向けた。彼女は数秒、目を閉じてから、静かに言った。
「今日は、たぶん違う」
レアの手が止まった。
「違う、だけじゃ始められない。何が分かるの?」
「魔法の反応と、おおよその重さ。姿までは分からない」
ユリウスは頷いた。鎧一式なのか、一部なのか、剣なのか。別のものが反応している可能性も残る。確立された回収作業ではなかった。
「見つけてから、確かめる方法は?」
「引くしかない。こっちへ来る前に、名前までは付けられないよ」
ヴェリスが封筒を差し出した。ユリウスは最後の一枚を取り出し、レアへ渡す。彼女は書き込みを見て、時代座標とアンカーポイントの候補を入力した。
「これを探すのね」
「近いところを。紙の線と、向こうのものは同じじゃないから」
レアは候補の表示を残した。今から行うのは、それを手掛かりにした探索だった。
「反応を拾ったら知らせろ。回収するかは俺が決める」
ユリウスはヴェリスへ言った。
「勝手に引くな」
「聞こえてる」
レアが操作卓へ向かうと、壁面の表示が切り替わった。
実験室の中央には透明な円筒が立っていた。直径は一メートルほど、高さは二メートル近い。完全な密閉容器ではなく、空間を切り取り、そこへ枠を与えたような形だった。
ヴェリスの頭部にはヘルメット型の接続装置が固定され、両腕、両脚、胴体、首元からケーブルが伸びている。配線は床下へ入り、制御卓へつながっていた。
研究員二人が最終確認を行っている。一人はヴェリスの脳波、心拍、神経反応、負荷推移を、もう一人は円筒側の安定値を追っていた。制御卓では二人のオペレーターが系統管理と異常値の監視を分担し、壁際では別の研究員がデータ取得の準備を進めている。
「起動前チェック、終わりました」
オペレーターの一人が報告した。
「同期率、問題ありません。出力も安定してます」
「安全域は?」
「装置側は余裕があります。制限になるのは被験者側です」
男の視線が、一度だけヴェリスへ向いた。彼女は鼻で笑う。
「聞こえてる」
「聞こえるように言いました」
レアが円筒を見上げた。
「本当に最初の一回ですからね。成功例としては」
「失敗例は数えないのか」
「数えてますよ。山ほど」
彼女の声には軽さがあったが、失敗の数を訂正する気配はなかった。
室内の照明が一段落ち、実験用の主照明へ切り替わる。透明な円筒の内側に、淡い揺らめきが生じた。最初は熱気の歪みに見えたが、光の層に色がある。薄く、定まらない色が、内部をゆっくり流れていた。オーロラに似ている。ユリウスは目を離さず、隣に表示された数値を確認した。
ヴェリスが目を閉じ、ヘルメットの端子部が淡く点灯する。
「開始していい」
ユリウスの言葉にオペレーターが頷き、操作卓の表示を切り替えた。空調音の下に、低い駆動音が重なる。床下と壁の中の補助装置群が動き始めたらしい。
ヴェリスの呼吸が深くなり、数秒後、また浅くなった。
*
閉じた目の奥で、ヴェリスは座標を探していた。
機械には直接見つけられないものがある。過去に生じた痕跡、時間の流れへ深く食い込んだ異物。アンカーポイントと呼ばれるそれに、彼女の感覚は触れられる。
だが、触れたいものだけを選べるわけではなかった。
「どうだ」
ユリウスの声が届く。ヴェリスはすぐに答えられず、額に薄く汗を浮かべた。
「……浅いのが多い」
「当たり前だ」
「うるさい」
指先を僅かに動かす。固定具と接続機器に押さえられ、身体はほとんど動かせなかった。
「流れてる。ごちゃごちゃしてる。近いのも遠いのも……混ざる」
「拾えそうなものは」
「まだ」
レアの声がした。
「負荷、上がってます」
「許容内だ」
「許容の中で壊れることもありますけどね」
「その時は記録しろ」
呼吸が一瞬、途切れた。
「何か見えたか」
ヴェリスは答えなかった。遠い。だが、遠さだけではない。知っている何かに近い感覚があり、追えば断片が引っかかる。痛み、血、匂い、喪失。強く刻まれたものほど濃く残り、それでも一つの形にはならない。
「反応増大。同期値、不安定です」
「切るか?」
「まだ」
室内の声を聞きながら、ヴェリスはその先を追った。
突然、肩が跳ねる。
「ヴェリス?」
レアの呼び声へ返すより早く、別の声が飛び込んできた。
『誰か!』
耳で聞いたのではない。室内の誰にも届かず、ヴェリスの内側だけを叩く声だった。
『誰か助けて! お願い、イリスを助けてえええっ!』
悲鳴に近い声だった。必死で、ただ切実で、迷いも手順も押し流してしまう。ヴェリスは目を開いた。
「ヴェリス、待て」
ユリウスの声がした。彼女は答えず、接続された右手を強引に動かす。操作補助用の入力系へ、指が触れた。
「おい!」
レアが声を上げる。
ヴェリスは押した。
*
円筒内部の揺らめきが収束した。
ユリウスの目の前で、細い白い閃光が幾筋も走り、中心へ集まる。光が空間を縦に裂いた。
警告音とともに、表示の一部が赤へ変わった。
「出力跳ねてます!」
「何を引いた!?」
「分からない!」
照明が落ちた。
一拍遅れて非常灯が点き、赤みを帯びた光が室内をまだらに染める。壁際の端末がいくつか消え、操作卓の一部には再起動表示が出ていた。ユリウスは円筒へ視線を戻す。
「系統異常!」
「バックアップ回ってます!」
「円筒は!?」
「維持してます、維持してます!」
透明な枠の中に、人の輪郭が浮かんだ。その周囲で薄い霧が渦を巻き、冷えた靄が足元へ溜まっていく。対象だけでなく、向こうの空気まで入ってきたように見えた。
輪郭が少女の形になる。
鎧を着ていた。血に濡れ、左肩から先がなかった。
それでも立っている。右手は空で、剣は見当たらない。正面を睨む目だけが動かず、睨んでいるのか、その形で止まっているのかも判別できなかった。
左脚に、もう一匹妖精がしがみついていた。
二人。
ユリウスは言葉を失った。鎧ではなく、人間が来た。左腕のない少女と、その脚を離さない小さな妖精。円筒の中にあるものを目で追いながら、用意していた判断のどれも、そのままでは使えない。
レアは動かず、オペレーターたちの視線は数値と二人の間を往復した。入力へ伸びかけた手が、止まっている。
椅子につながれたヴェリスも、二人を見ていた。頭部と四肢の機器が、彼女をその場に留めている。
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ヴェリスには、あの二人だと分かった。
千年以上前の記憶が蘇る。頭を動かそうとして、接続装置に止められた。すぐには行けない。脚へしがみつく小さな妖精が、顔を上げた。
*
ローザが見たのは、知らない部屋だった。
石造りの礼拝堂でも、森でも、戦場でもない。白い壁に赤い光が落ち、見たことのない機械が並んでいる。息を吸っても、さっきまでの空気とは違った。
それでも、視線の先にいる女から、懐かしい匂いがした。
姿は違う。あの時のままではない。だが、数日前に会った匂いだった。
「……ヴェリス……?」
かすれた声が出た。妖精の喉が僅かに動く。
返事を聞く前に、抱きついていた脚が揺れた。
「イリス!」
膝が折れる。ローザは腕に力を込めたが、イリスの身体は前へ崩れた。自分も引かれながら、どうにか支えようとする。腕の中へ重さが落ちてくる。
*
「医療チーム!」
最初に動いたのはレアだった。
「早く! 接続外して、ヴェリスを解放! そっちは止血! 今すぐ!」
声に応じて、人が走り出した。待機区画から医療スタッフが入り、椅子の脇では研究員が接続機器へ手を掛ける。
ユリウスの視界で、少女の左肩から血が流れていた。鎧の継ぎ目を伝い、床へ落ちる。
そこで、実験室の時間がようやく動き出した。




