第十五話 残す価値
円筒の前へ最初に飛び込んだのは、マーカス・リードだった。四十二歳、外傷外科。少女がどこから来たのかを確かめるより先に、床へ膝をつく。
「ストレッチャー!」
背後から二人が押してくる。マーカスは崩れた身体へ手を伸ばし、失われた左腕と出血を確認した。鎧、泥、血、見慣れない衣服。どれも処置の妨げにはなる。今、順序を決めるのは傷だった。
「左上肢外傷。大量出血。意識なし。呼吸確認」
ダニエル・チョウが膝をつき、頸部へ手を当てた。
「脈、触れる。弱い」
「酸素」
「入れます」
小さな妖精が、患者の左脚を抱いて離さなかった。
「イリス! イリス!」
ソフィアが手を伸ばす。
「大丈夫。離れて。治療するから」
妖精はさらに強く抱きついた。顔を上げても、差し出された手へは移らない。
「離れろ!」
マーカスの声に、小さな肩が跳ねた。
「待って」
実験用の椅子からヴェリスが呼んだ。まだ全身にケーブルがつながっている。
「その子、言葉が分からない」
レアが振り返る。
「ヴェリス?」
「たぶん……昔のフランク語」
「たぶん?」
「千年以上前だから」
レアは一秒だけ黙った。
「後で聞く」
「そうして」
マーカスは切断部へ目を戻した。
「止血帯」
「あります」
「切断はいつだ」
答える者がいない。マーカスは傷を見たまま、問いを変えた。
「質問変える。新しいか?」
ソフィアが傷口を確認する。
「新しい。かなり」
「なら先に血液」
ダニエルが言った。
「型が分からない」
「交差適合」
「時間がない」
「Oネガから」
「了解」
マーカスは鎧へ手を掛けた。
「これ外せるか?」
レアが近づく。
「待って」
「何だ」
「普通の鎧じゃない」
「今は普通かどうかはどうでもいい」
「神経反応が出てる可能性がある」
マーカスの目が彼女へ向いた。
「何の神経だ」
「だから調べる」
「研究は後だ」
声が低くなった。
「まず死なせるな」
レアは一瞬黙り、それから頷いた。
「分かった」
イーサン・ケラーが機器を持ってくる。
「切断面側、読みます」
「三十秒」
「短い」
「二十にするか?」
「三十で」
イーサンは作業へ入った。
*
ユリウスは少し離れて見ていた。誰も彼へ指示を求めない。マーカスが順序を決め、周囲がそれに従っている。今は、それでいい。
床に湿った土が薄く広がっていた。円筒の近くでは、空調を通った空気に土と草と血の匂いが混じる。その奥に、何かが燃えた後のような臭いもあった。千年以上前の空気かどうかは分からない。この施設のものではないことだけは確かだった。
「ユリウス」
レアが呼んだ。
「何だ」
「この鎧、外す」
「問題は?」
「外さない方が問題」
先に答えたのはマーカスだった。
「手術できない」
「なら外せ」
「破損する可能性がある」
レアの言葉に、ユリウスは鎧を見る。本来、今夜回収するはずだったものだ。その中に、人間が入っていた。
「構わない」
レアが彼を見た。
「いいの?」
「人間が死んだら、鎧の情報まで失うかもしれない」
彼女の表情が少し変わる。
「そこ?」
「他に何がある」
「ない」
笑わなかった。
「分かった」
患者をストレッチャーへ移そうとすると、小さな少女がまた抱きついた。左脚をつかんだ手が離れない。
椅子の脇では、ヴェリスの接続機器が外され始めていた。ヘルメットが持ち上げられ、腕、胸、脚の順に拘束が解かれる。彼女は立ち上がろうとしてよろめいた。
「座って!」
レアが振り返る。
「大丈夫」
「大丈夫な人の立ち方じゃない」
「ローザ」
ヴェリスはそれだけ言った。妖精が顔を上げ、二人は数秒、見つめ合った。ヴェリスが一歩近づくと、小さな鼻が動く。もう一度。それから、目が大きくなった。
「……ヴェリス?」
ヴェリスの顔から、僅かに力が抜ける。
「そう」
少女の視線がすぐに患者へ戻った。
「イリスを……」
声が震える。
「助けて」
ヴェリスは妖精の前にしゃがんだ。
「助ける」
ユリウスには、その言葉が通じたかどうかは分からなかった。ただ、ヴェリスの手が肩へ触れると、妖精はようやくイリスの脚を離した。
「運ぶ」
マーカスの声でストレッチャーが動く。妖精が追おうとすると、ヴェリスは抱き上げた。
「一緒に行く」
抵抗はなかった。
*
処置室は実験区画から近かった。重い設備まで置いた区画が、今夜はそのまま使われている。
ユリウスは扉の外で止まった。ガラス越しに、鎧を外していく手が見える。金属だけではない。布と革、見慣れない素材が重なり、接合部には現代の工業製品とは異なる構造があった。その一つずつが取り除かれ、血に汚れた身体が白い照明の下へ出ていく。
ソフィアが切断面を見た。
「古い傷じゃない」
「分かってる」
「違う。組織の反応」
マーカスが顔を上げる。
「何」
「普通じゃない」
「感染?」
「それとも違う」
ソフィアは拡大画像へ目を移した。
「治癒が始まってる」
「この状態で?」
「始まってるだけ。間に合うとは言ってない」
ダニエルが数値を読む。
「血圧落ちてる」
「輸血速度上げる」
「上げてる」
「もっと」
「心負荷が先に来る」
レアは別の端末を見ていた。神経活動、筋反応、反射。切断部周辺の表示を切り替え、画面へ顔を近づける。
「これ……」
イーサンが隣へ来た。
「何」
「切断部の神経、反応が落ちてない」
「切断されてるのに?」
「違う。神経自体が、接続先を探してるみたい」
「幻肢痛の信号?」
「それだけじゃない」
レアが画面を拡大した。
「再接続を前提にした反応に見える」
「そんなものある?」
「今見てる」
赤い数字が更新される。その下を人の手が行き交い、ベッドの上の小さな身体は動かなかった。
ヴェリスがユリウスの横へ来た。ローザは腕の中にいる。泣き疲れたのか、もう声を出していなかった。
「知ってたのか」
「何を」
「あの二人を」
ヴェリスはガラスを見る。
「会ったことがある」
「いつ」
「千年以上前」
ユリウスは彼女へ目を向けた。
「今日の実験前に言う話じゃないのか」
「思い出してなかった」
「今は?」
「見たら分かった」
「声は」
ヴェリスは首を振った。
「覚えてない」
「なのに押した」
「助けてって聞こえたから」
「それだけで?」
「それだけで」
ユリウスは数秒黙った。彼女が押した理由に、対象を確認する手順は入っていない。
「次はやるな」
「無理」
「命令だ」
「無理なものは無理」
「手順を飛ばした結果、設備が落ちた」
「でも来た」
「それを成功とは呼ばない」
「私は呼ぶ」
ヴェリスは目を逸らさなかった。ユリウスも、それ以上は言わない。ガラスの向こうでマーカスが手を挙げ、誰かが機材を渡した。
ローザがヴェリスの胸元へ顔を埋める。
「イリス」
小さく名前を呼んだ。ヴェリスの手が、その頭へ触れる。
「何者だ」
「知らない」
「知ってることは」
「剣が上手い」
「それだけ?」
「あと、頑固」
「役に立たない情報だ」
「あなたにはね」
ユリウスはガラスへ視線を戻した。本来の目的物は魔法鎧だった。それに、千年以上前の人間が伴ってきた。ヴェリスは二人を知っている。会ったことがあると言い、素性は知らないと言う。
その先を確かめるにも、ベッドの上の少女が生きていなければならなかった。
「助ける」
ヴェリスが彼を見る。
「さっきから助けてる」
「意味が違う」
「何の?」
「生き残った後の話だ」
彼女は少し目を細めた。
「何をする気?」
「調べる」
「人を?」
「人も」
「鎧も?」
「当然だ」
「相変わらず」
「何が」
「ユリウス」
その名前を返して、ヴェリスはまた処置室を見た。
*
手術は長引いた。夜が明けても、イリスは目を覚まさなかった。
左腕はなく、剣も見つからない。回収されたのは本人と鎧とローザだけだった。切断された腕や剣がどこに残ったのかは、こちらから確かめようがない。
ユリウスは回収内容を確認しながら、昨夜の円筒を思い返した。人間が二人。鎧は来た。腕と剣は来なかった。何を一つの対象として拾ったのか、その境界はまだ分からない。
ヴェリスが繰り返した言葉だけが、残っていた。
処置室からマーカスが出てくる。手袋を外しながら、ユリウスを見た。
「とりあえず死なせてはいない」
「とりあえず?」
「状態は悪い」
「具体的に」
「失血。ショック。左上肢完全欠損。全身に外傷。古い傷も多い。栄養状態は現代基準では良くない。感染リスクも高い」
「助かる確率は」
マーカスが少し考えた。
「この先の一晩を越えれば上がる」
「数字で」
「数字が欲しいなら、三割」
ユリウスは顔色を変えなかった。マーカスは、数字が欲しいなら、と先に断った。その条件まで含めて聞いた。
「低いな」
「千年前から瀕死で飛んできた人間にしては高い」
マーカスは続けた。
「あと一つ」
「何だ」
「普通じゃない」
ユリウスの目が動く。
「何が」
「身体」
「具体的に言え」
「骨密度、筋組織、神経反応。全部少しずつ変だ。化け物って意味じゃない。人間だ」
「少しずつ?」
「現代人と比較して、という意味だ」
レアが後ろから出てきた。
「神経系はもっと変」
「もっと?」
「左腕がないのに、神経が終わってない」
ユリウスが彼女を見る。
「再生するのか」
「そこまでは言ってない」
「なら」
「接続できる可能性がある」
「義肢か」
レアが頷く。
「普通のじゃなくても」
「AREION?」
「候補にはなる」
「使えるのか」
「生き残れば調べる」
マーカスが横から言った。
「先走るな」
「分かってる」
「お前は分かってない顔をしてる」
「失礼」
マーカスはユリウスを見る。
「研究は後だ」
「聞いた」
「本当に?」
「死なせるな」
「それだけでいい」
彼は処置室へ戻った。扉が閉じ、レアだけが横へ残る。
「どうする?」
「何を」
「生きたら」
「さっき決めた」
「調べる?」
「それも」
「それも?」
ユリウスはガラス越しにイリスを見た。白いベッドに包帯があり、左側には腕を置く場所だけが空いている。その横で、ヴェリスに抱かれたローザが眠っていた。
「予定外だ」
レアは黙って聞く。
「だが、価値がないとは限らない」
「それ、本人の前で言わない方がいいよ」
「なぜ」
「嫌われるから」
「困るか?」
レアは少し考えた。
「たぶん、後で困る」
ユリウスは答えなかった。ベッド脇の数値が変わる。生き残った後の話は、その数字が持ち直すまで進まない。
*
それから数日、医療班は処置室を離れなかった。
止血した箇所を確かめ、傷を処置し、循環と呼吸を見続ける。イリスの数値は上がっても、また落ちることがあった。義腕の話を進められる状態ではない。
やがて、マーカスが処置室から出てきた。
「ひとまず、持ち直した」
「手術は」
「救命に必要な処置は済んだ。まだ経過を見る」
ユリウスは頷いた。マーカスが戻ると、レアが端末を持って横へ来た。
「左腕の話、していい?」
「何が分かった」
「残っている神経の反応が、かなり良い。義腕への接続を検討する価値はある。ただ、どこまで適合するかは、本人に動かしてもらわないと分からない」
「普通の義手でいいのか」
「日常動作を戻すだけなら、その案も調べる。でも、この子の反応に合わせるなら、個別設計を考えたい」
レアが左肩の画像を開く。残存組織の上に、接合基部の仮想モデルが重なった。
「腕そのものはAREION。身体側の基部と神経インターフェースは、こっちで設計する。荷重を受けて、運動指令を送り、感覚情報を返せるようにする」
「先に基部を入れる?」
「設計を合わせてからね。手術できる時期はマーカスたちが決める。今すぐやる話じゃない」
ユリウスは画面を見た。血を失った身体を救う処置と、失った腕を取り戻すための設計。必要な判断は違っていた。
「費用は」
「完全個別設計なら、相当になる」
横からヴェリスが言った。
「付けてあげて」
「お前が決めるな」
「じゃあ、あなたが決めて」
ユリウスはガラスの向こうを見る。
千年以上前の騎士。魔法鎧を使い、左腕を失っても立っていた人間。その身体へ、今の技術をどこまで合わせられるのか。鎧だけでは得られなかった反応が、計測するたびに増えている。
「動くようになれば、もっと調べられるな」
「検査は増えるよ。でも、腕を付けたら何でもやらせていいわけじゃない」
「分かっている」
レアは彼を見ていた。
「本人にも説明する。救命手術とは違うから」
「起きたら話せ。まず設計を進めろ」
「どこまで?」
「身体に合わせて造る。標準品へ無理に合わせる必要はない」
ヴェリスの顔が僅かに緩んだ。ユリウスはレアへ視線を戻す。
「完成まで」
「二か月。三か月見た方がいいかもしれない」
「長いな」
「レーシングカーを一台、人間に合わせて作ると思えば早いよ」
ユリウスは左肩のモデルを見直した。
「そこまでのものか」
「まだ性能は決めない。基部も腕も、この子の反応を見ながら詰める」
「なら、必要なデータを取れ」
*
レアはAREIONへ、設計の事前相談を送った。
骨格、残存組織、神経反応。身体データには空欄が多い。接合基部も仮の図で、まだ身体には入っていない。本人が目を覚まし、説明を受けてから確かめる項目を添えた。
既製モデルの適合でも、標準カスタムでもない。
完全個別設計。
送信が完了すると、ヴェリスが覗き込んだ。
「これで腕ができる?」
「相談が始まるだけ」
「もっと早くして」
「私に言わないで」
「誰に言えばいい?」
「AREION」
「言う」
「やめて。面倒になるから」
ユリウスは少し離れたところで聞いていた。送信されたのは設計のための情報だった。少女が何者なのか、何を知っているのかという答えは、まだ手に入っていない。
処置室の向こうで、イリスは眠っている。
剣はなく、左腕を置く場所は空いたままだった。モニターの心拍は続いていた。
命を残すための処置は済んだ。
その先へ金と技術を投じることは、ユリウスが決めた。




