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第十六話 この世界の名前

イリスが目を覚ましたのは、救命手術から数日後だった。


 最初に感じたのは、痛みよりも音だった。一定の間隔で鳴る高い音、その下に途切れず流れる低い音。遠くでは扉らしきものが開閉している。どれも聞き慣れなかった。


 目を開くと、白い天井があった。石でも木でもない。梁も蝋燭もなく、光は天井そのものから降りている。火の揺れが見えないまま、部屋は明るかった。


 身体を動かそうとして、左側に何もないことを思い出した。肩の奥が鈍く疼く。腕はなく、剣もない。


 血と霧、ローザの叫び、目の前にいた敵。それから、何かに引かれた感覚が戻ってきた。


 右手を動かすと、すぐ近くで椅子が鳴った。


「起きた?」


 知らない女の声だった。意味は分からない。イリスは女を見た。眼鏡、乱れた髪、薄い作業着の上に羽織った見慣れない衣服。女は両手を、こちらから見える位置へ置いた。


「大丈夫。動かないで」


 言葉はなお分からなかったが、敵意は感じない。イリスは右手で身体を起こそうとした。


「ちょ、待って」


 女が急に近づいた。イリスの右腕が伸び、その手首を掴む。


「痛っ」


 声を聞いて止まった。力を緩めると、女は掴まれた手首を見た。


「……なるほど」


 怒るより、感心したような顔をしている。それがイリスには少し気に障った。


 扉が開いた。


「起きた?」


 今度は聞き覚えのある声だった。入ってきた女へ顔を向けたが、姿は知らない。どこかで見たと思うのに、記憶と合わなかった。


 その後ろから、小さな影が飛び込んでくる。


「イリス!」

「ローザ」


 イリスは身体を起こした。今度は誰にも止められない。ベッドへ駆け寄ったローザを、右腕だけで抱き返した。


「大丈夫ですか?」

「うん」

「怪我は?」

「ないよ。大丈夫じゃないのはイリスだよ」


 ローザは何度も頷き、それから後ろの女を振り返った。


「ヴェリスもいるよ」

「ヴェリス?」


 女が片手を上げる。


「久しぶり」


 イリスには、その言葉が合わないように思えた。森で会ったのは、つい数日前だったはずだ。ローザを助けた、不思議な女。普通の人間ではなかった。


 だが、今そこに立つ女は別人のようだった。


「……ヴェリス?」

「そう」

「本当に?」

「ローザは匂いで分かった」


 イリスが見ると、ローザは当然のように頷いた。


「ヴェリスの匂いだった」


 ヴェリスが少し嫌そうな顔をする。


「その言い方、犬みたい」

「違うよ」

「何が?」

「ヴェリスの匂い」

「もっと悪い」


 ローザが笑った。抱いている身体から笑い声が伝わり、イリスの肩の力が僅かに抜ける。それでも、部屋への視線は戻った。壁も光も、ここにいる人間の服も、知っているものとは違う。


「ここは、どこでしょうか?」


 ヴェリスが答えかけて止まった。


「どうしました?」

「説明すると長い」

「それでも、教えてください」

「未来」


 イリスは黙った。言葉は分かる。何を指しているのかが分からなかった。


「……何を言っているの?」

「未来」

「聞こえています」

「じゃあ合ってる」


 イリスはヴェリスを見てから、また天井へ目を向けた。火のない光。白い壁。規則正しく音を立てる、用途の分からないもの。


「どれくらい先ですか?」

「千年以上」


 高い音が、何度か鳴った。イリスは何も言えなかった。ローザが顔を見上げている。その視線に気づいても、返す言葉が見つからない。


「……証拠を見せてもらえますか?」

「そのうち見せる」

「今は?」

「寝て」

「その前に、もう少し説明してください」


 眼鏡の女が横から何か言った。イリスには分からない。


「この方は、何と言ったのですか?」

「寝ろって」

「ヴェリスと同じですね」

「珍しく意見が合った」


 イリスは女を見る。


「この方は?」

「レア」

「何をしている方ですか?」

「あなたを生かした人」


 掴んだ手首へ目が戻った。レアは会話の内容が分からないらしく、二人を見比べている。


 ヴェリスが通訳した。


「助けた人だって言った」

「余計なこと言わなくていいよ」

「聞こえてない」

「それでも」


 イリスは深く頭を下げた。レアが困った顔をする。


「何?」

「お礼です」


 ヴェリスが言った。


「助けてくれてありがとうって」

「まだ完全には助かってないけど」

「言わなくていい」

「なんで」

「雰囲気」


 レアは仕方なさそうに頷いた。言葉は分からないままだったが、今度はイリスにも、その頷きの意味が分かった。


*


 翌日、レアが掌に収まる端末を持ってきた。ヴェリスがいれば会話はできたが、彼女がいない時には、問いかけられても答えられない。


「これ」


 差し出されたものを、イリスはすぐには受け取らなかった。


「これは何ですか?」

「翻訳機」


 横にいるヴェリスが答える。


「翻訳?」

「あなたの言葉を今の言葉に変える。逆もできる」

「魔法ですか?」

「違う」

「では、何でしょう?」

「機械」

「機械で、言葉が分かるのですか?」

「そう」


 イリスは端末を見た。これほど小さなものに、二つの言葉が入っているという。


「魔法ではないのですね」

「だから違うって」

「でも、私には同じように見えます」

「人間が怒るから言わない方がいい」


 レアが端末を操作し、小さなイヤーピースを見せた。イリスは少し顔をしかめる。


「耳に入れるのですか?」

「入れる」

「……少し嫌な感じがします」

「じゃあずっと私が通訳する?」


 イリスはヴェリスを見た。


「その方が安心します」

「私は嫌」

「なぜですか?」

「面倒だから」


 即答だった。ローザが笑う。


 結局、イリスはイヤーピースを付けた。レアの口が動き、一拍遅れて、聞き慣れた言葉が耳に届く。


『痛みは?』


 イリスの目が動いた。ヴェリスはまだ何も言っていない。


「あ……聞こえました」

「でしょ」


 レアがまた話す。


『左肩は痛む?』

「少し」


 端末から別の言葉が出た。レアの目が僅かに見開かれ、イリスの肩へ視線が移る。今の答えが、そのまま届いたのだと分かった。


「すごい……」


 レアが笑った。


『そっちもね』

「何がですか?」

『三日で起きた』

「普通ではないのですか?」

『普通なら、もっと寝てる』


 イリスは少し考えた。


「私は、寝るのがあまり得意ではありません」


 レアが吹き出した。翻訳を待たなくても、笑ったことは分かった。


*


 翻訳機で話せるようになってから、レアは左肩の図を持ってきた。


『新しい腕を付けるには、身体側にも接続する場所が必要なの。今はまだ、そこがない』


 イリスは図を見た。肩の内側に機械の構造が重ねられている。


「もう一度、手術をするのですか?」

『うん。基部を固定して、神経の信号を機械へ渡せるようにする。腕が来たら、そこへつなぐ』

「以前のように動かせますか?」

『最初からは無理。練習も調整も必要だよ。どこまで戻せるかは、まだ分からない』


 イリスは右手で左肩に触れた。


「受けなければ、どうなりますか?」

『今の命を保つための手術じゃない。傷の治療は続ける。別の義手の使い方も検討できる。ただ、今回設計している腕を使うには、この接続が必要になる』


 レアは図の向きを変え、負担と、手術後に確かめることを説明した。ヴェリスは横で聞いていたが、答えを代わりに出すことはなかった。


 説明が終わると、イリスは尋ねた。


「剣を、また両手で握れる可能性はあるのですね」

『ある。約束はできないけど』


 イリスはしばらく図を見ていた。


「でしたら、お願いします」


 手術の日は、それから経過を見た医療班が決めた。


 マーカスが全身状態を、ダニエルが麻酔と循環を管理する。ソフィアとイーサンが組織と固定部を確認する間、レアは神経インターフェースの接続を担当した。


 左肩へ基部が組み込まれた。腕はまだ来ない。身体から取り出せる信号を確かめ、将来の感覚入力を受ける経路も調整する。手術を終えると、レアはその仕様をAREIONへ送った。


*


 接合基部の手術後、イリスの生活は処置室と隣の個室だけで完結していた。レアは毎日来て、傷と接合部を見て、神経反応や筋力を測る。検査の間も質問が続いた。


「右手の感覚」

「あります」

「左手は」

「ありません」

「ある感じは?」

「あります」

「どんな」

「何かを握っているような感じがします」

「何を」

「剣です」


 レアの手が止まった。


「剣?」

「はい」

「どんな剣」

「普通の剣です」

「普通って何」

「剣は剣です」

「形は」

「なぜ、そんなことを聞くのですか?」

「握った時のことを知りたい。剣そのものも気になるけど」

「では、後の方は、今は聞かないでください」


 レアが黙ったので、イリスは肩から意識を離そうとした。手はないのに、握っている感覚は残っている。


 レアは剣についての項目を後ろへ送り、感覚の記録へ戻った。イリスは右手を開き、握った。左手がある感じは、まだ消えなかった。


 ヴェリスもほぼ毎日いた。来るというより、気づけばいる。朝、目を覚ますと椅子に座っていることがあり、昼には消えて、夕方には戻っていた。


 何をしているのか訊くと、答えは短い。


「仕事」

「何のお仕事ですか?」

「いろいろ」

「それでは分かりません」

「分からなくていい」

「そうですか」


 イリスはそれ以上追及しなかった。満足したわけではないが、ヴェリスには話さないことがある。森で会った時も、そうだった。


 ローザは早くも二人について回るようになっていた。レアが検査機器を持ってくれば覗き、端末を触れば隣から画面を見る。飲み物まで欲しがるので、イリスは声を掛けた。


「ローザ」

「なに?」

「あまり邪魔をしてはいけませんよ」

「してないよ」


 レアが横から言う。


『してない』


 イリスはレアを見た。


「……あまり甘やかさないでください」

『かわいいから』

「それは理由になっていません」

「なるよ」


 ヴェリスまで言った。


「ヴェリスまで……」


 ローザは笑っている。イリスは小さく溜息をついたが、それ以上は止めなかった。


*


 接合基部の手術から一週間が過ぎる頃、イリスは歩けるようになった。


 最初の数歩で左側へ身体がずれた。足を置く位置を変えても、以前のつもりで動くと、肩から先にあるはずの重さがない。何度かよろめき、そのたびに足を止めた。


「支えるよ」

「大丈夫です」

「転ぶよ」

「転びません」


 次の一歩で傾いた。レアの手が右肩を支える。


『転ばない?』


 イリスは少し顔を伏せた。


「……今のは、少し違います」

『何が?』

「転んではいません」

『はいはい』


 レアの顔だけが楽しそうだった。


 歩くたび、肩の奥にも違う感覚がある。接合基部と神経ブリッジが入っているのだと、レアから聞いていた。説明された形はまだよく分からない。だが、その場所が身体の動きに伴って感じられるようになっていた。


 レアは毎日、数値を取り、AREIONへ送った。寸法だけでなく、動作域、反応速度、筋出力、残存神経の状態。歩けるようになると、立ったまま測る項目も増えた。


『変なの』


 ある日、レアが言った。


「何がですか?」

『普通は患者に義手を合わせる』

「今もそうしているのでは?」

『そうなんだけど』


 レアは端末を見た。


『あなたの場合、身体が先に変わっていく』

「それは、悪いことですか?」

『面白い』

「……また、それですか」

『大事だよ』

「私には、よく分かりません」

『私には分かる』


 イリスは彼女を見た。


「レアは、少し変わっていますね」


 端末が言葉を返す。レアは少し考えた。


『よく言われる』


*


 その頃、ユリウスはVITRIONの執務室で別の画面を見ていた。


 出生、国籍、家族関係、教育、医療履歴、居住履歴。人間一人分の項目が並んでいる。どれもイリスのものではない。それでも、照会する側には彼女の記録として返ることになる。


「これで通るのか」


 画面の向こうの男は、顔を出していなかった。


『通常照会なら』

「深掘りされたら」

『誰でも困ります』

「そういう答えは嫌いだ」

『なら値段を上げましょう』

「いくらだ」


 金額が表示された。ユリウスは、先ほどの条件を確認してから数字を見た。


「高いな」

『千年前の人間に戸籍を作るよりは安いでしょう』


 目が止まった。


「余計なことを知るな」

『知りませんよ』

「ならいい」


 ユリウスは送金処理を進めた。ヴェリスの時にも使ったルートだった。合法ではない。


 知らないと、男は答えた。千年前という言葉は、先に向こうが出した。ユリウスは通常照会の条件をもう一度見た。その範囲の記録を買っている。


 イリスの身体はここにある。だが、この先、住居や通信や決済の契約を結ぶたび、彼女が誰なのかを照会される。施設の中で治療を続けることと、外で暮らせることは別だった。


 画面の欄は埋まっている。救命を続けるだけなら、施設の中で済んだ。外へ出せるようにすると決めれば、今度は彼女の履歴が要る。本人から聞いた答えは、ほとんどない。


 ユリウスは画面を閉じた。


*


 その日の午後、執務室でエイドリアンが二つの試算を並べた。


 神経適応プラットフォームの標準化費用と、公的医療向けの保守条件。病室でイリスが歩く練習をしている間も、会社の案件は進んでいた。


「機能上限を落とせば、機械側の選択肢が増えます。ただ、安いものを入れるだけでは十年の保守が成立しません」

「何が詰まっている」

「供給側の条件です。EACS系は高性能と個別対応。神風重工は量産、耐久、保守。どちらも候補になりますが、同じ値段と納期では比較できない」


 ユリウスは初期価格ではなく、交換と校正の欄を見た。


「十年を一つの価格へ戻せ。最初の一台だけで比べるな」

「その試算は進めています。ただ、先方はまず導入価格を見ます」


 公費で買う側にも年度があり、導入数があり、説明する相手がいた。長期で安いことと、今年の予算に入ることは違う。


「向こうが払える形に分けるのはいい。保守費まで消えたように見せるな」


 エイドリアンが頷いた。


「天衡の提案も比較に入っています。価格だけなら強い。製品単体ではなく、運用までまとめて入れてくる」

「なら、価格だけの比較をさせるな。こちらが何を保証し、十年後も誰が直すのか。それを先に出せ」


 保証の欄には、まだ空白がある。研究側が答えなければ、営業側では埋められなかった。


「本体は、早い事業化を期待しています」

「本体が治療するわけじゃない」


 ユリウスは試算を閉じた。


「認証と保守を詰めろ。売れた後に、できないことが出るのは困る」


 エイドリアンが資料を受け取る。入口でネイトとすれ違った。


「医療側の返事は?」

「待ちです」

「じゃあ、まだ綺麗な数字にはならないね」


 エイドリアンは笑わず、次の打ち合わせへ向かった。


*


「名前」


 数日後、病室でヴェリスが言った。イリスは読んでいた本を閉じる。読む練習に使っている、子ども向けの薄い本だった。覚えなければ進めないことは分かる。それでも、この本を渡されることには少し不満があった。


「名前、ですか?」

「今の世界で使う名前」

「イリスでは駄目なのですか?」

「イリスはそのまま。名字は用意した記録にあるものを使う」

「私は持っていません」

「こっちの名前として必要なの。リストにあったものだから、新しく考えたわけじゃないよ」


 イリスは少し困った。


「随分、勝手ですね」

「現代ってそういうところある」

「現代では、名前がなければ人間として扱われないのですか?」


 ヴェリスは少し考えた。


「人間ではある」

「それなら」

「でも、何もできない」

「何も?」

「家も借りられない。金も持てない。移動も面倒。病院も。働くのも」

「……随分と面倒な世界ですね」

「そうだよ」

「なぜ皆、それに従っているのですか?」

「便利だから」


 イリスは耳の小さな装置へ触れた。ヴェリスが隣にいなくても、今はレアと話せる。便利なのだという答えは、分からなくもなかった。


 ヴェリスが端末を見せた。イリスの知る生まれや家族とは違う履歴が、文字になっている。


「こちらで暮らすための記録、ということですね」

「そう。全部覚えるのは後でいいよ」


 イリスは画面から、閉じた本へ目を戻した。読むべきものが、また増えた。


*


 その日の夕方、ユリウスが病室へ来た。


 目覚めてから、顔を出すことはあっても長居はしない。必要なことを聞き、状態を見て帰る。今日も同じつもりらしく、入ってすぐイリスを見た。


「歩けるようになったそうだな」


 翻訳機を通した声が届く。


「はい。まだ少し不安定ですが」

「転びかけたとも聞いた」


 イリスがレアを見ると、彼女は視線を逸らした。


「転んではいません」

「転びかけた」

「それは、少し違います」

「そうか」


 ユリウスはそれ以上追及しなかった。イリスは改めて彼を見る。


「あなたが、私を助けると決めた方ですか?」

「そうだ」

「なぜですか?」


 彼は少し考えた。


「価値があると思った」


 レアが顔をしかめた。ヴェリスは笑いそうになっている。イリスはユリウスから目を離さなかった。


「……正直ですね」

「嘘を言う理由がない」

「私に、何をさせるつもりですか?」

「まだ決めていない」

「では、なぜ生かしたのですか?」

「言っただろう」


 ユリウスも彼女を見る。


「価値が分からないものを、分からないまま捨てるのは馬鹿だ」


 翻訳された言葉が届いてから、イリスはしばらく黙った。


「私は、物ではありません」

「知っている」

「今の言い方では、そうは聞こえません」

挿絵(By みてみん)

「人間にも価値はある」

「……あまり好きな言い方ではありませんね」

「そうか」

「はい」


 ヴェリスが横から言った。


「かなり嫌われかけてるよ」

「お前は黙ってろ」

「はいはい」


 イリスの口元が僅かに動いた。ユリウスは何も言わない。彼女は膝の上に右手を置き、次のことを訊いた。


「もう一つ、聞いてもいいですか?」

「何だ」

「私は、元の時代へ戻れるのですか?」


 ヴェリスの笑みが消えた。ユリウスが彼女を見る。


「答えろ」


 数秒置いて、ヴェリスが言う。


「分からない」

「戻れないのですか?」

「今は」

「今は?」

「できるかもしれない。でも、同じことをもう一度やるのは無理」

「なぜですか?」

「私がもたない」


 イリスはヴェリスを見た。


「召喚の負担ですか?」

「うん」

「どれくらい待てば?」

「次に同じ規模でやるなら、数か月は無理」


 数か月。イリスは膝へ目を落とした。こちらで待つ間に、向こうで何が起きるのかは分からない。


「ローザも、一緒に戻れますか?」

「分からない」

「……そうですか」


 それ以上は続かなかった。右手がゆっくり握られる。指の力を抜こうとしても、すぐには緩まなかった。


「焦るな」


 イリスは顔を上げた。


「……それをあなたに言われるのは、少し納得できません」

「死にかけていた人間に言う資格はある」

「ありません」

「ある」

「ないと思います」


 ヴェリスが小さく笑った。


「合いそう」

「何がですか?」

「二人」


 先にユリウスが言う。


「合わない」


 イリスも少し遅れて答えた。


「私も、そう思います」


 ヴェリスが笑う。イリスは右手を膝に置き直した。


*


 二週間目には、病室の外を歩くようになった。まだ施設内だけだったが、廊下から検査室、リハビリ区画、小さな食堂へと、行ける場所が増えていく。


 初めて自動ドアに近づくと、手を掛ける前に扉が開いた。イリスは足を止めた。そのまま見ていると閉じる。もう一度近づくと、また開いた。


「……これは何ですか?」


 隣でローザが笑う。


「扉だよ」

「それは分かります」


 後ろからヴェリスが言った。


「気に入った?」

「少し気味が悪いです」

「三日で慣れる」

「できれば、慣れたくありません」


 三日後には、足を止めずに通っていた。


 食堂にも見慣れないものが多かった。肉と野菜、パンに似たものに、知らない果物。飲み物は冷たく、菓子は驚くほど甘い。ローザはすぐに手を伸ばしたが、イリスは何が出されたのか確かめてから食べた。


「これは何ですか?」

『ポテト』

「ポテト?」

『芋』

「では、芋ではないのですか?」

『芋だよ』


 イリスは少し考えた。


「……それなら、芋と呼べばいいのでは?」


 レアが困った顔をする。


『名前がポテト』

「少し分かりにくいですね」


 ヴェリスが言った。


「そのうち諦めるよ」

「何をですか?」

「理解すること」

「それは嫌です」

「私も最初そうだった」

「今は?」

「だいたい諦めた」


 イリスは真顔で彼女を見た。


「……あまり参考になりません」


*


 傷が塞がるにつれ、肩の内部の違和感は減っていった。検査の間隔はまだ変わらない。AREIONから追加データの要求が来るたび、レアに呼ばれた。


「またですか?」

『また』

「昨日も測りました」

『昨日は静止状態』

「今日は?」

『動作時』

「明日は?」

『たぶん負荷時』

「毎日違うのですね」

『だから必要なんだよ』


 イリスは小さく溜息をついた。


「腕は、いつできますか?」

『まだ先』

「遅いですね」


 少し離れたところからヴェリスが言う。


「私も言った」

『あなたはAREIONに直接文句言おうとしたから駄目』

「早くなるかと思って」

『ならない』


 ローザがレアの横から端末を覗き込んだ。


「これ、イリスの腕?」

『まだ絵』

「銀色?」

『たぶん』

「かっこいい?」


 レアが一度イリスを見る。


『かなり』


 ローザは嬉しそうに笑った。イリスは画面へ目を向ける。失った腕の代わりを、自分より周囲の方が楽しみにしている。まだ自分のものという感じはしない。それでも、ローザの笑顔を見て、不快ではないと思った。


*


 さらに数日後、ユリウスの端末に通知が届いた。


 身分情報の構築完了。通常照会通過。医療記録の連携、決済基盤への接続、通信契約、居住登録。社会上使用可能という結果の下に、各項目の確認が並んでいた。


 選んだリストの身分情報が反映されていた。名字も、その記録にあったものを使っている。ユリウスは各項目の通過結果を見た。


 病室にいる少女と、画面の上で履歴を持つ人間。その二つが、照会の上では同じ人物になる。


 通信も決済も居住登録も、使えると表示されている。これで外出の話を進められる。ユリウスは画面を閉じた。通常照会より先の保証は、通知にはなかった。


*


 一か月が過ぎる頃には、イリスは病人らしくなくなっていた。


 歩き、食べ、話し、本を読む。現代の言葉も少しずつ覚え、翻訳機がなくても簡単な単語なら拾えるようになった。左腕がないことは変わらないが、立ち上がるたびに支えられることはなくなっている。


 ローザはヴェリスとレアの間を自由に行き来していた。レアの椅子を使い、ヴェリスの飲み物を飲み、イリスに注意されて、また同じことをする。


 未来という世界の全体は、まだ分からない。ただ、この場所では次に何が起きるかを少し予想できた。レアが来れば検査があり、ヴェリスが消えても夕方には戻る。廊下の先には食堂がある。


 ある日、イリスは窓の外を見て言った。


「外へ出てみたいです」


 レアが顔を上げる。


『施設の外?』

「はい」

『まだ駄目』

「なぜですか?」

『服がない』


 イリスは自分の服を見た。病院用の簡素なものだった。


「これでは駄目ですか?」

『駄目』

「どこが?」

『いろいろ』


 もう一度見ても、どこがいけないのかは分からなかった。


「……よく分かりません」


 ヴェリスが隣から顔を出す。


「じゃあ買いに行く?」

「買う?」

「服」

「必要なのですね」

「必要」

「現代は、必要なものが多いですね」

「そうだよ」


 ちょうどユリウスが入ってきた。


「何の話だ」

「買い物」


 彼はイリスを見る。


「歩けるのか」

「はい。問題ありません」


 レアが眉を上げた。


『私はまだ許可してない』

「医療上の問題は」

『無理しなければ』

「なら問題ない」

『そういうところだよ』


 ユリウスは端末へ目を落としていた。イリスはヴェリスに訊く。


「どこへ行くのですか?」


 彼女が笑った。


「街」


 窓の外には、まだ見たことのない場所が続いている。千年以上先だと言われても、ここまでに歩いたのは白い部屋と廊下、処置室と研究施設だけだった。街を見れば、少なくとももう少し分かるはずだ。


「分かりました」


 イリスは言った。


「行ってみたいです」


 ヴェリスが満足そうに頷く。ローザがすぐに声を上げた。


「私も!」

「もちろん」


 イリスが止めるより早かった。レアが笑う。


『じゃあ、本当に服からだね』


 ユリウスは端末を見ながら言った。


「車は手配する。費用もこちらで持つ」


 ヴェリスが彼を見る。


「あなたは?」

「仕事だ」

「珍しくないね」

「お前たちだけで十分だろう」

「レアも連れていくよ」

「好きにしろ」


 レアが顔を上げた。


「私の予定は?」


 ヴェリスが笑う。


「空けておいて」


 イリスは三人を見た。この世界も、この人たちも、まだよく分からない。それでも、目を覚ました時のように、近づく手を掴もうとは思わなかった。


 窓の向こうに、乾いたテキサスの空が広がっている。


 イリスは右手で閉じた本を脇へ置き、もう一度、外を見た。


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