第十六話 この世界の名前
イリスが目を覚ましたのは、救命手術から数日後だった。
最初に感じたのは、痛みよりも音だった。一定の間隔で鳴る高い音、その下に途切れず流れる低い音。遠くでは扉らしきものが開閉している。どれも聞き慣れなかった。
目を開くと、白い天井があった。石でも木でもない。梁も蝋燭もなく、光は天井そのものから降りている。火の揺れが見えないまま、部屋は明るかった。
身体を動かそうとして、左側に何もないことを思い出した。肩の奥が鈍く疼く。腕はなく、剣もない。
血と霧、ローザの叫び、目の前にいた敵。それから、何かに引かれた感覚が戻ってきた。
右手を動かすと、すぐ近くで椅子が鳴った。
「起きた?」
知らない女の声だった。意味は分からない。イリスは女を見た。眼鏡、乱れた髪、薄い作業着の上に羽織った見慣れない衣服。女は両手を、こちらから見える位置へ置いた。
「大丈夫。動かないで」
言葉はなお分からなかったが、敵意は感じない。イリスは右手で身体を起こそうとした。
「ちょ、待って」
女が急に近づいた。イリスの右腕が伸び、その手首を掴む。
「痛っ」
声を聞いて止まった。力を緩めると、女は掴まれた手首を見た。
「……なるほど」
怒るより、感心したような顔をしている。それがイリスには少し気に障った。
扉が開いた。
「起きた?」
今度は聞き覚えのある声だった。入ってきた女へ顔を向けたが、姿は知らない。どこかで見たと思うのに、記憶と合わなかった。
その後ろから、小さな影が飛び込んでくる。
「イリス!」
「ローザ」
イリスは身体を起こした。今度は誰にも止められない。ベッドへ駆け寄ったローザを、右腕だけで抱き返した。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「怪我は?」
「ないよ。大丈夫じゃないのはイリスだよ」
ローザは何度も頷き、それから後ろの女を振り返った。
「ヴェリスもいるよ」
「ヴェリス?」
女が片手を上げる。
「久しぶり」
イリスには、その言葉が合わないように思えた。森で会ったのは、つい数日前だったはずだ。ローザを助けた、不思議な女。普通の人間ではなかった。
だが、今そこに立つ女は別人のようだった。
「……ヴェリス?」
「そう」
「本当に?」
「ローザは匂いで分かった」
イリスが見ると、ローザは当然のように頷いた。
「ヴェリスの匂いだった」
ヴェリスが少し嫌そうな顔をする。
「その言い方、犬みたい」
「違うよ」
「何が?」
「ヴェリスの匂い」
「もっと悪い」
ローザが笑った。抱いている身体から笑い声が伝わり、イリスの肩の力が僅かに抜ける。それでも、部屋への視線は戻った。壁も光も、ここにいる人間の服も、知っているものとは違う。
「ここは、どこでしょうか?」
ヴェリスが答えかけて止まった。
「どうしました?」
「説明すると長い」
「それでも、教えてください」
「未来」
イリスは黙った。言葉は分かる。何を指しているのかが分からなかった。
「……何を言っているの?」
「未来」
「聞こえています」
「じゃあ合ってる」
イリスはヴェリスを見てから、また天井へ目を向けた。火のない光。白い壁。規則正しく音を立てる、用途の分からないもの。
「どれくらい先ですか?」
「千年以上」
高い音が、何度か鳴った。イリスは何も言えなかった。ローザが顔を見上げている。その視線に気づいても、返す言葉が見つからない。
「……証拠を見せてもらえますか?」
「そのうち見せる」
「今は?」
「寝て」
「その前に、もう少し説明してください」
眼鏡の女が横から何か言った。イリスには分からない。
「この方は、何と言ったのですか?」
「寝ろって」
「ヴェリスと同じですね」
「珍しく意見が合った」
イリスは女を見る。
「この方は?」
「レア」
「何をしている方ですか?」
「あなたを生かした人」
掴んだ手首へ目が戻った。レアは会話の内容が分からないらしく、二人を見比べている。
ヴェリスが通訳した。
「助けた人だって言った」
「余計なこと言わなくていいよ」
「聞こえてない」
「それでも」
イリスは深く頭を下げた。レアが困った顔をする。
「何?」
「お礼です」
ヴェリスが言った。
「助けてくれてありがとうって」
「まだ完全には助かってないけど」
「言わなくていい」
「なんで」
「雰囲気」
レアは仕方なさそうに頷いた。言葉は分からないままだったが、今度はイリスにも、その頷きの意味が分かった。
*
翌日、レアが掌に収まる端末を持ってきた。ヴェリスがいれば会話はできたが、彼女がいない時には、問いかけられても答えられない。
「これ」
差し出されたものを、イリスはすぐには受け取らなかった。
「これは何ですか?」
「翻訳機」
横にいるヴェリスが答える。
「翻訳?」
「あなたの言葉を今の言葉に変える。逆もできる」
「魔法ですか?」
「違う」
「では、何でしょう?」
「機械」
「機械で、言葉が分かるのですか?」
「そう」
イリスは端末を見た。これほど小さなものに、二つの言葉が入っているという。
「魔法ではないのですね」
「だから違うって」
「でも、私には同じように見えます」
「人間が怒るから言わない方がいい」
レアが端末を操作し、小さなイヤーピースを見せた。イリスは少し顔をしかめる。
「耳に入れるのですか?」
「入れる」
「……少し嫌な感じがします」
「じゃあずっと私が通訳する?」
イリスはヴェリスを見た。
「その方が安心します」
「私は嫌」
「なぜですか?」
「面倒だから」
即答だった。ローザが笑う。
結局、イリスはイヤーピースを付けた。レアの口が動き、一拍遅れて、聞き慣れた言葉が耳に届く。
『痛みは?』
イリスの目が動いた。ヴェリスはまだ何も言っていない。
「あ……聞こえました」
「でしょ」
レアがまた話す。
『左肩は痛む?』
「少し」
端末から別の言葉が出た。レアの目が僅かに見開かれ、イリスの肩へ視線が移る。今の答えが、そのまま届いたのだと分かった。
「すごい……」
レアが笑った。
『そっちもね』
「何がですか?」
『三日で起きた』
「普通ではないのですか?」
『普通なら、もっと寝てる』
イリスは少し考えた。
「私は、寝るのがあまり得意ではありません」
レアが吹き出した。翻訳を待たなくても、笑ったことは分かった。
*
翻訳機で話せるようになってから、レアは左肩の図を持ってきた。
『新しい腕を付けるには、身体側にも接続する場所が必要なの。今はまだ、そこがない』
イリスは図を見た。肩の内側に機械の構造が重ねられている。
「もう一度、手術をするのですか?」
『うん。基部を固定して、神経の信号を機械へ渡せるようにする。腕が来たら、そこへつなぐ』
「以前のように動かせますか?」
『最初からは無理。練習も調整も必要だよ。どこまで戻せるかは、まだ分からない』
イリスは右手で左肩に触れた。
「受けなければ、どうなりますか?」
『今の命を保つための手術じゃない。傷の治療は続ける。別の義手の使い方も検討できる。ただ、今回設計している腕を使うには、この接続が必要になる』
レアは図の向きを変え、負担と、手術後に確かめることを説明した。ヴェリスは横で聞いていたが、答えを代わりに出すことはなかった。
説明が終わると、イリスは尋ねた。
「剣を、また両手で握れる可能性はあるのですね」
『ある。約束はできないけど』
イリスはしばらく図を見ていた。
「でしたら、お願いします」
手術の日は、それから経過を見た医療班が決めた。
マーカスが全身状態を、ダニエルが麻酔と循環を管理する。ソフィアとイーサンが組織と固定部を確認する間、レアは神経インターフェースの接続を担当した。
左肩へ基部が組み込まれた。腕はまだ来ない。身体から取り出せる信号を確かめ、将来の感覚入力を受ける経路も調整する。手術を終えると、レアはその仕様をAREIONへ送った。
*
接合基部の手術後、イリスの生活は処置室と隣の個室だけで完結していた。レアは毎日来て、傷と接合部を見て、神経反応や筋力を測る。検査の間も質問が続いた。
「右手の感覚」
「あります」
「左手は」
「ありません」
「ある感じは?」
「あります」
「どんな」
「何かを握っているような感じがします」
「何を」
「剣です」
レアの手が止まった。
「剣?」
「はい」
「どんな剣」
「普通の剣です」
「普通って何」
「剣は剣です」
「形は」
「なぜ、そんなことを聞くのですか?」
「握った時のことを知りたい。剣そのものも気になるけど」
「では、後の方は、今は聞かないでください」
レアが黙ったので、イリスは肩から意識を離そうとした。手はないのに、握っている感覚は残っている。
レアは剣についての項目を後ろへ送り、感覚の記録へ戻った。イリスは右手を開き、握った。左手がある感じは、まだ消えなかった。
ヴェリスもほぼ毎日いた。来るというより、気づけばいる。朝、目を覚ますと椅子に座っていることがあり、昼には消えて、夕方には戻っていた。
何をしているのか訊くと、答えは短い。
「仕事」
「何のお仕事ですか?」
「いろいろ」
「それでは分かりません」
「分からなくていい」
「そうですか」
イリスはそれ以上追及しなかった。満足したわけではないが、ヴェリスには話さないことがある。森で会った時も、そうだった。
ローザは早くも二人について回るようになっていた。レアが検査機器を持ってくれば覗き、端末を触れば隣から画面を見る。飲み物まで欲しがるので、イリスは声を掛けた。
「ローザ」
「なに?」
「あまり邪魔をしてはいけませんよ」
「してないよ」
レアが横から言う。
『してない』
イリスはレアを見た。
「……あまり甘やかさないでください」
『かわいいから』
「それは理由になっていません」
「なるよ」
ヴェリスまで言った。
「ヴェリスまで……」
ローザは笑っている。イリスは小さく溜息をついたが、それ以上は止めなかった。
*
接合基部の手術から一週間が過ぎる頃、イリスは歩けるようになった。
最初の数歩で左側へ身体がずれた。足を置く位置を変えても、以前のつもりで動くと、肩から先にあるはずの重さがない。何度かよろめき、そのたびに足を止めた。
「支えるよ」
「大丈夫です」
「転ぶよ」
「転びません」
次の一歩で傾いた。レアの手が右肩を支える。
『転ばない?』
イリスは少し顔を伏せた。
「……今のは、少し違います」
『何が?』
「転んではいません」
『はいはい』
レアの顔だけが楽しそうだった。
歩くたび、肩の奥にも違う感覚がある。接合基部と神経ブリッジが入っているのだと、レアから聞いていた。説明された形はまだよく分からない。だが、その場所が身体の動きに伴って感じられるようになっていた。
レアは毎日、数値を取り、AREIONへ送った。寸法だけでなく、動作域、反応速度、筋出力、残存神経の状態。歩けるようになると、立ったまま測る項目も増えた。
『変なの』
ある日、レアが言った。
「何がですか?」
『普通は患者に義手を合わせる』
「今もそうしているのでは?」
『そうなんだけど』
レアは端末を見た。
『あなたの場合、身体が先に変わっていく』
「それは、悪いことですか?」
『面白い』
「……また、それですか」
『大事だよ』
「私には、よく分かりません」
『私には分かる』
イリスは彼女を見た。
「レアは、少し変わっていますね」
端末が言葉を返す。レアは少し考えた。
『よく言われる』
*
その頃、ユリウスはVITRIONの執務室で別の画面を見ていた。
出生、国籍、家族関係、教育、医療履歴、居住履歴。人間一人分の項目が並んでいる。どれもイリスのものではない。それでも、照会する側には彼女の記録として返ることになる。
「これで通るのか」
画面の向こうの男は、顔を出していなかった。
『通常照会なら』
「深掘りされたら」
『誰でも困ります』
「そういう答えは嫌いだ」
『なら値段を上げましょう』
「いくらだ」
金額が表示された。ユリウスは、先ほどの条件を確認してから数字を見た。
「高いな」
『千年前の人間に戸籍を作るよりは安いでしょう』
目が止まった。
「余計なことを知るな」
『知りませんよ』
「ならいい」
ユリウスは送金処理を進めた。ヴェリスの時にも使ったルートだった。合法ではない。
知らないと、男は答えた。千年前という言葉は、先に向こうが出した。ユリウスは通常照会の条件をもう一度見た。その範囲の記録を買っている。
イリスの身体はここにある。だが、この先、住居や通信や決済の契約を結ぶたび、彼女が誰なのかを照会される。施設の中で治療を続けることと、外で暮らせることは別だった。
画面の欄は埋まっている。救命を続けるだけなら、施設の中で済んだ。外へ出せるようにすると決めれば、今度は彼女の履歴が要る。本人から聞いた答えは、ほとんどない。
ユリウスは画面を閉じた。
*
その日の午後、執務室でエイドリアンが二つの試算を並べた。
神経適応プラットフォームの標準化費用と、公的医療向けの保守条件。病室でイリスが歩く練習をしている間も、会社の案件は進んでいた。
「機能上限を落とせば、機械側の選択肢が増えます。ただ、安いものを入れるだけでは十年の保守が成立しません」
「何が詰まっている」
「供給側の条件です。EACS系は高性能と個別対応。神風重工は量産、耐久、保守。どちらも候補になりますが、同じ値段と納期では比較できない」
ユリウスは初期価格ではなく、交換と校正の欄を見た。
「十年を一つの価格へ戻せ。最初の一台だけで比べるな」
「その試算は進めています。ただ、先方はまず導入価格を見ます」
公費で買う側にも年度があり、導入数があり、説明する相手がいた。長期で安いことと、今年の予算に入ることは違う。
「向こうが払える形に分けるのはいい。保守費まで消えたように見せるな」
エイドリアンが頷いた。
「天衡の提案も比較に入っています。価格だけなら強い。製品単体ではなく、運用までまとめて入れてくる」
「なら、価格だけの比較をさせるな。こちらが何を保証し、十年後も誰が直すのか。それを先に出せ」
保証の欄には、まだ空白がある。研究側が答えなければ、営業側では埋められなかった。
「本体は、早い事業化を期待しています」
「本体が治療するわけじゃない」
ユリウスは試算を閉じた。
「認証と保守を詰めろ。売れた後に、できないことが出るのは困る」
エイドリアンが資料を受け取る。入口でネイトとすれ違った。
「医療側の返事は?」
「待ちです」
「じゃあ、まだ綺麗な数字にはならないね」
エイドリアンは笑わず、次の打ち合わせへ向かった。
*
「名前」
数日後、病室でヴェリスが言った。イリスは読んでいた本を閉じる。読む練習に使っている、子ども向けの薄い本だった。覚えなければ進めないことは分かる。それでも、この本を渡されることには少し不満があった。
「名前、ですか?」
「今の世界で使う名前」
「イリスでは駄目なのですか?」
「イリスはそのまま。名字は用意した記録にあるものを使う」
「私は持っていません」
「こっちの名前として必要なの。リストにあったものだから、新しく考えたわけじゃないよ」
イリスは少し困った。
「随分、勝手ですね」
「現代ってそういうところある」
「現代では、名前がなければ人間として扱われないのですか?」
ヴェリスは少し考えた。
「人間ではある」
「それなら」
「でも、何もできない」
「何も?」
「家も借りられない。金も持てない。移動も面倒。病院も。働くのも」
「……随分と面倒な世界ですね」
「そうだよ」
「なぜ皆、それに従っているのですか?」
「便利だから」
イリスは耳の小さな装置へ触れた。ヴェリスが隣にいなくても、今はレアと話せる。便利なのだという答えは、分からなくもなかった。
ヴェリスが端末を見せた。イリスの知る生まれや家族とは違う履歴が、文字になっている。
「こちらで暮らすための記録、ということですね」
「そう。全部覚えるのは後でいいよ」
イリスは画面から、閉じた本へ目を戻した。読むべきものが、また増えた。
*
その日の夕方、ユリウスが病室へ来た。
目覚めてから、顔を出すことはあっても長居はしない。必要なことを聞き、状態を見て帰る。今日も同じつもりらしく、入ってすぐイリスを見た。
「歩けるようになったそうだな」
翻訳機を通した声が届く。
「はい。まだ少し不安定ですが」
「転びかけたとも聞いた」
イリスがレアを見ると、彼女は視線を逸らした。
「転んではいません」
「転びかけた」
「それは、少し違います」
「そうか」
ユリウスはそれ以上追及しなかった。イリスは改めて彼を見る。
「あなたが、私を助けると決めた方ですか?」
「そうだ」
「なぜですか?」
彼は少し考えた。
「価値があると思った」
レアが顔をしかめた。ヴェリスは笑いそうになっている。イリスはユリウスから目を離さなかった。
「……正直ですね」
「嘘を言う理由がない」
「私に、何をさせるつもりですか?」
「まだ決めていない」
「では、なぜ生かしたのですか?」
「言っただろう」
ユリウスも彼女を見る。
「価値が分からないものを、分からないまま捨てるのは馬鹿だ」
翻訳された言葉が届いてから、イリスはしばらく黙った。
「私は、物ではありません」
「知っている」
「今の言い方では、そうは聞こえません」
「人間にも価値はある」
「……あまり好きな言い方ではありませんね」
「そうか」
「はい」
ヴェリスが横から言った。
「かなり嫌われかけてるよ」
「お前は黙ってろ」
「はいはい」
イリスの口元が僅かに動いた。ユリウスは何も言わない。彼女は膝の上に右手を置き、次のことを訊いた。
「もう一つ、聞いてもいいですか?」
「何だ」
「私は、元の時代へ戻れるのですか?」
ヴェリスの笑みが消えた。ユリウスが彼女を見る。
「答えろ」
数秒置いて、ヴェリスが言う。
「分からない」
「戻れないのですか?」
「今は」
「今は?」
「できるかもしれない。でも、同じことをもう一度やるのは無理」
「なぜですか?」
「私がもたない」
イリスはヴェリスを見た。
「召喚の負担ですか?」
「うん」
「どれくらい待てば?」
「次に同じ規模でやるなら、数か月は無理」
数か月。イリスは膝へ目を落とした。こちらで待つ間に、向こうで何が起きるのかは分からない。
「ローザも、一緒に戻れますか?」
「分からない」
「……そうですか」
それ以上は続かなかった。右手がゆっくり握られる。指の力を抜こうとしても、すぐには緩まなかった。
「焦るな」
イリスは顔を上げた。
「……それをあなたに言われるのは、少し納得できません」
「死にかけていた人間に言う資格はある」
「ありません」
「ある」
「ないと思います」
ヴェリスが小さく笑った。
「合いそう」
「何がですか?」
「二人」
先にユリウスが言う。
「合わない」
イリスも少し遅れて答えた。
「私も、そう思います」
ヴェリスが笑う。イリスは右手を膝に置き直した。
*
二週間目には、病室の外を歩くようになった。まだ施設内だけだったが、廊下から検査室、リハビリ区画、小さな食堂へと、行ける場所が増えていく。
初めて自動ドアに近づくと、手を掛ける前に扉が開いた。イリスは足を止めた。そのまま見ていると閉じる。もう一度近づくと、また開いた。
「……これは何ですか?」
隣でローザが笑う。
「扉だよ」
「それは分かります」
後ろからヴェリスが言った。
「気に入った?」
「少し気味が悪いです」
「三日で慣れる」
「できれば、慣れたくありません」
三日後には、足を止めずに通っていた。
食堂にも見慣れないものが多かった。肉と野菜、パンに似たものに、知らない果物。飲み物は冷たく、菓子は驚くほど甘い。ローザはすぐに手を伸ばしたが、イリスは何が出されたのか確かめてから食べた。
「これは何ですか?」
『ポテト』
「ポテト?」
『芋』
「では、芋ではないのですか?」
『芋だよ』
イリスは少し考えた。
「……それなら、芋と呼べばいいのでは?」
レアが困った顔をする。
『名前がポテト』
「少し分かりにくいですね」
ヴェリスが言った。
「そのうち諦めるよ」
「何をですか?」
「理解すること」
「それは嫌です」
「私も最初そうだった」
「今は?」
「だいたい諦めた」
イリスは真顔で彼女を見た。
「……あまり参考になりません」
*
傷が塞がるにつれ、肩の内部の違和感は減っていった。検査の間隔はまだ変わらない。AREIONから追加データの要求が来るたび、レアに呼ばれた。
「またですか?」
『また』
「昨日も測りました」
『昨日は静止状態』
「今日は?」
『動作時』
「明日は?」
『たぶん負荷時』
「毎日違うのですね」
『だから必要なんだよ』
イリスは小さく溜息をついた。
「腕は、いつできますか?」
『まだ先』
「遅いですね」
少し離れたところからヴェリスが言う。
「私も言った」
『あなたはAREIONに直接文句言おうとしたから駄目』
「早くなるかと思って」
『ならない』
ローザがレアの横から端末を覗き込んだ。
「これ、イリスの腕?」
『まだ絵』
「銀色?」
『たぶん』
「かっこいい?」
レアが一度イリスを見る。
『かなり』
ローザは嬉しそうに笑った。イリスは画面へ目を向ける。失った腕の代わりを、自分より周囲の方が楽しみにしている。まだ自分のものという感じはしない。それでも、ローザの笑顔を見て、不快ではないと思った。
*
さらに数日後、ユリウスの端末に通知が届いた。
身分情報の構築完了。通常照会通過。医療記録の連携、決済基盤への接続、通信契約、居住登録。社会上使用可能という結果の下に、各項目の確認が並んでいた。
選んだリストの身分情報が反映されていた。名字も、その記録にあったものを使っている。ユリウスは各項目の通過結果を見た。
病室にいる少女と、画面の上で履歴を持つ人間。その二つが、照会の上では同じ人物になる。
通信も決済も居住登録も、使えると表示されている。これで外出の話を進められる。ユリウスは画面を閉じた。通常照会より先の保証は、通知にはなかった。
*
一か月が過ぎる頃には、イリスは病人らしくなくなっていた。
歩き、食べ、話し、本を読む。現代の言葉も少しずつ覚え、翻訳機がなくても簡単な単語なら拾えるようになった。左腕がないことは変わらないが、立ち上がるたびに支えられることはなくなっている。
ローザはヴェリスとレアの間を自由に行き来していた。レアの椅子を使い、ヴェリスの飲み物を飲み、イリスに注意されて、また同じことをする。
未来という世界の全体は、まだ分からない。ただ、この場所では次に何が起きるかを少し予想できた。レアが来れば検査があり、ヴェリスが消えても夕方には戻る。廊下の先には食堂がある。
ある日、イリスは窓の外を見て言った。
「外へ出てみたいです」
レアが顔を上げる。
『施設の外?』
「はい」
『まだ駄目』
「なぜですか?」
『服がない』
イリスは自分の服を見た。病院用の簡素なものだった。
「これでは駄目ですか?」
『駄目』
「どこが?」
『いろいろ』
もう一度見ても、どこがいけないのかは分からなかった。
「……よく分かりません」
ヴェリスが隣から顔を出す。
「じゃあ買いに行く?」
「買う?」
「服」
「必要なのですね」
「必要」
「現代は、必要なものが多いですね」
「そうだよ」
ちょうどユリウスが入ってきた。
「何の話だ」
「買い物」
彼はイリスを見る。
「歩けるのか」
「はい。問題ありません」
レアが眉を上げた。
『私はまだ許可してない』
「医療上の問題は」
『無理しなければ』
「なら問題ない」
『そういうところだよ』
ユリウスは端末へ目を落としていた。イリスはヴェリスに訊く。
「どこへ行くのですか?」
彼女が笑った。
「街」
窓の外には、まだ見たことのない場所が続いている。千年以上先だと言われても、ここまでに歩いたのは白い部屋と廊下、処置室と研究施設だけだった。街を見れば、少なくとももう少し分かるはずだ。
「分かりました」
イリスは言った。
「行ってみたいです」
ヴェリスが満足そうに頷く。ローザがすぐに声を上げた。
「私も!」
「もちろん」
イリスが止めるより早かった。レアが笑う。
『じゃあ、本当に服からだね』
ユリウスは端末を見ながら言った。
「車は手配する。費用もこちらで持つ」
ヴェリスが彼を見る。
「あなたは?」
「仕事だ」
「珍しくないね」
「お前たちだけで十分だろう」
「レアも連れていくよ」
「好きにしろ」
レアが顔を上げた。
「私の予定は?」
ヴェリスが笑う。
「空けておいて」
イリスは三人を見た。この世界も、この人たちも、まだよく分からない。それでも、目を覚ました時のように、近づく手を掴もうとは思わなかった。
窓の向こうに、乾いたテキサスの空が広がっている。
イリスは右手で閉じた本を脇へ置き、もう一度、外を見た。




