第十七話 銀の枝
施設の外へ出る朝、イリスはいつもより早く身支度を終えていた。
ここまでに知った未来は、白い壁と医療機器、廊下の先にある食堂までだった。その外にも人間が暮らしている。窓から見ていた場所へ出るのだと思うと、座って待つ気にはなれなかった。
「準備できた?」
ヴェリスが扉から顔を出した。細身のパンツに短いジャケットを着ている。普段着なのか外出のための服なのか、イリスにはまだ区別がつかない。
「はい」
「ほんとに?」
「何がですか?」
「緊張してない?」
「少しは」
「してるんじゃん」
イリスは答えず、自分の服へ目を落とした。施設側で用意された簡素なものだった。左袖だけ短く処理され、肩の接合部に干渉しないよう調整されている。右耳には翻訳用のイヤーピースが収まっていた。
レアが後ろから肩を覗き込む。
「痛くない?」
「大丈夫です」
「擦れたらすぐ言って」
「分かりました」
ローザは扉の外で待っていた。
「早く行こうよ!」
「走らないでください」
「走ってないよ」
「今、走っていました」
「ちょっとだけ」
ヴェリスが言う。
「ローザの方が現代に慣れるの早いね」
「そうかもしれません」
イリスは小さく息を吐き、二人の後に続いた。建物を出ると、天井のない明るさが目に入った。
*
手配された車で街へ向かう間、イリスは窓の外を見ていた。
施設の周囲に広がっていた土地が、次第に建物へ変わっていく。道路の幅も、流れる車の数も増えた。見知った空の下に、知らないものが途切れず続いている。
街で車を降りてからも、その広がりはすぐには掴めなかった。建物が道に沿って連なり、遠くにもまた建物が見える。これだけの人間と車が動いているのに、思っていたほど音は大きくなかった。
「もっと、うるさいものだと思っていました」
レアが顔を向ける。
「何が?」
「車です」
「ああ」
彼女は道路を見た。
「昔より静かだからね」
「昔?」
「二十年くらい前とか」
イリスは少し考える。
「それも、私から見れば未来ですが」
「まあね」
ヴェリスは端末を見ながら歩いていた。画面に短い映像が次々と流れ、指が動くたび別のものへ変わる。
「それは何をしているのですか?」
「動画見てる」
「今ですか?」
「今」
「歩きながら?」
「見えるから平気」
レアが言った。
「そのうちぶつかるよ」
「ぶつからない」
直後、ヴェリスが半歩ずれた。案内板の支柱が、ジャケットのすぐ横を通る。イリスは何も言わなかった。
「今の見た?」
「見ていません」
「優しいね」
「そういうことではありません」
レアが笑う。その向こうで、建物の壁いっぱいに映像が流れていた。人が近づく前に扉が開き、手を触れなくても案内板の表示が変わる。人の流れに合わせて床の光が切り替わり、店頭には人間ほどの大きさの広告像が立っている。
何を見るべきか決められないまま、イリスは何度も足を止めた。ローザも隣で止まり、ヴェリスが少し先で待つ。レアは急かさず、イリスの視線の先を見ていた。
ある店の前で、イリスは透明な板状端末を指した。
「これは?」
ヴェリスが一瞥する。
「古いタブレット」
「古い?」
「うん」
指が触れると、文字も絵も動いていた。映像まで出る。薄く、片手で持てる。それでも古いらしい。
「これが、ですか?」
「まだ使ってる人いるんだね」
レアが言った。
「使えるならいいでしょ」
「でも古い」
「ヴェリスは何でも新しい方がいいだけ」
「新しい方がいいじゃん」
イリスはなお端末を見ていた。
「……私には十分、魔法に見えます」
「それ言うと技術者が嫌がるよ」
「なぜですか?」
「頑張って作ったのに魔法って言われるから」
「では、すごい機械ですね」
「それなら喜ぶ」
イリスは少し笑い、もう一度、薄い端末を見た。
*
最初の服屋は、ヴェリスがVITRIONの若い社員から聞いてきた店だった。
「この辺、今人気なんだって」
「ヴェリスが選んだのではないのですか?」
「ちゃんと会社の若い子に聞いた」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
レアが小声で言う。
「そこ強調するんだ」
店へ入ると、店員が近づいてきた。ヴェリスはイリスを指す。
「この子に似合うの、二、三セットお願い」
店員が一瞬止まった。
「どういった雰囲気がお好みですか?」
「かわいいやつ」
「もう少し具体的には」
「今っぽいやつ」
「ヴェリス」
レアが口を挟む。
「左肩。着脱しやすいの」
「あとそれ」
「あとそれ、じゃないよ」
店員の目がイリスへ向いた。左肩の接合部から体格、髪へと視線が移る。短い確認の後、すぐに棚へ向き直った。
「分かりました。いくつかお持ちしますね」
イリスはその背中を見ていた。
「慣れているのですね」
「店員だから」
「そういう意味ではなく」
レアが少し笑う。
「気にしてないってこと?」
「はい」
「今は義肢の人も珍しくないからね」
「そうなのですか」
「特にこの辺は」
ヴェリスは棚の服を見ていた。
「これかわいい」
「それイリスに?」
「うん」
「肩きつい」
「じゃあ駄目」
服が戻され、次の一枚へ手が移る。ヴェリスが見た目を選び、レアが肩を見る。二人の確認は早かった。
数分後、試着室から出たイリスへ、ヴェリスが頷いた。
「それいい」
「動かしてみて」
レアの声に、イリスは右腕を上げ、身体を捻った。
「問題ありません」
「左側は?」
「擦れていません」
「じゃあ候補」
ローザが別の服を持ってくる。
「こっちも!」
「ローザ、それは」
「かわいい!」
イリスは広げられた服を見た。先ほどのものより派手だった。
「……皆さん、本当にこういうものを着るのですか?」
「着る」
「本当に?」
「会社の若い子にも聞いた」
「先ほども聞きました」
「じゃあ信用して」
「ヴェリスの言う普通は、少し信用できません」
レアが吹き出した。
「もう分かってきたね」
一軒目で三セット、二軒目で二セット。三軒目の店員は、イリスの髪と体格を見て、少し落ち着いた色を勧めた。
それを着ると、ヴェリスが言った。
「それ好き」
「私は、これが一番落ち着きます」
「じゃあ買う」
「もう十分ではありませんか?」
「足りない」
「何がですか?」
「服」
「今まで何着買いました?」
「分かんない」
「ヴェリス」
レアが数えた。
「八」
「十分では?」
「着替えいるでしょ」
「三着あれば」
「少ない」
ローザも言う。
「もっと買おうよ」
「ローザまで……」
持ち帰る服は、結局さらに増えた。
*
支払いは、ヴェリスが会社用の決済認証を通すだけで終わった。イリスは金額表示を見ていたが、二人は次の店の話をしている。
「……こんなに使って大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫」
「ですが」
「会社のお金だから」
「それなら、なおさら」
レアが言った。
「生活適応費。衣類も必要経費」
「全部ですか?」
「たぶん」
ヴェリスの答えに、イリスは顔を向ける。
「たぶん?」
「細かいこと気にしなくていいって」
「ユリウスが、そう言ったのですか?」
「だいたいそんな感じ」
レアが微妙な顔をした。
「たぶん言ってないね」
イリスはもう一度、金額表示を見た。支払いは済んでいる。そのことが、安心してよい理由にはならなかった。
*
次に向かった大型ショッピングモールで、イリスは入口に立ち止まった。
「これは……全部、お店なのですか?」
「だいたい」
「この建物の中に?」
「そう」
「町のようですね」
「中に町作った感じ」
ヴェリスの横で、ローザはもう先へ進んでいる。
「ローザ、離れないでください」
「分かってる!」
返事をするには、少し遠かった。
中は明るく、吹き抜けの上に何層もの通路が重なっていた。空中に案内表示が浮かび、天井近くを小型配送ドローンが静かに横切る。イリスがその動きを追っている間も、周囲の人は足を止めずに進んでいった。
動く階段の前で、また立ち止まる。
「……階段が動いています」
「そうだね」
「危なくないのですか?」
「みんな使ってる」
「それは安全の説明になっていません」
レアが笑った。
「手すり掴めば平気」
イリスは右手で手すりを掴み、一段へ足を置いた。身体が僅かに揺れる。足の下の段が、そのまま上へ運ばれていく。
「……動きました」
「階段だからね」
「分かっています」
ローザは二段上で楽しそうだった。ヴェリスはもう端末を見ている。
「ヴェリス」
「なに」
「今は前を見てください」
「見てる」
「見ていません」
*
通路を歩いている途中、ローザが周囲を見回した。
「妖精、いないね」
イリスも顔を上げた。機械ばかり見ていて、気づかなかった。
ヴェリスは前を向いたまま答える。
「みんな、人がいないところにいるよ。たまに町に来るやつもいるけどね」
「そうなの?」
「うん」
しばらく歩いてから、ローザが声を上げた。
「あ」
通路の向こうで、人間の女性の肩近くを小さなものが飛んでいた。イリスは足を止める。
妖精だった。ただ、知っている姿とは少し違った。身体はぬいぐるみのように丸く、淡い色の短い上着を着ている。肩には小さな鞄も提げていた。
女性が商品を見せると、妖精は首を振った。別の商品を指されると、今度は頷く。その横を人が通り、店へ入っていく。立ち止まって見る者はいなかった。
「……服を着ていますね」
ヴェリスがそちらを見る。
「都会の子はああいうの多いよ」
「都会の妖精?」
「人と一緒に住んでる子」
ローザもじっと見ていた。
「おしゃれだね」
「そうですね」
イリスはまだ足を動かさなかった。車や動く階段の前では、仕組みが分からずに止まった。今、見ているのは知っているはずの妖精だった。その妖精が、人と一緒に商品を選んでいる。
少し先の店には、妖精向けの服や帽子、鞄、寝具が並んでいた。食器やブラシまである。人間用の商品と同じ棚に、それぞれの大きさのものが置かれていた。
別の雑貨店には、小さな札が出ている。山間部の妖精が採取した香草、樹脂、乾燥した果実。手作りの小さな細工物もあった。店の一角を借りて売っているらしい。
「妖精も、物を売るのですか?」
「売る子もいるよ」
「お金を使うのですか?」
「都会に住むなら必要」
「……そうなのですね」
ヴェリスには何でもない話らしかった。イリスは小さな鞄へ目を戻す。森で会った妖精には、あんなものはなかった。隣の棚には、同じ大きさの鞄がいくつも並んでいる。
「ヴェリスのような姿の妖精は、あまりいないのですね」
「私はちょっと違うから」
「少し、ですか?」
「そこ引っかかる?」
ローザが笑った。イリスもようやく歩き出し、もう一度だけ振り返った。
*
昼食にはモール内のレストランへ入った。席についてメニューを開くと、イリスは画面の前で止まった。
「……こんなに選ぶ必要があるのですか?」
「好きなの頼めばいい」
「それが難しいのですが」
ヴェリスはもう決めていた。ローザも早い。レアは栄養表示を見ている。イリスは写真と名前を、一つずつ見比べた。
「これは?」
「鶏」
「こちらは?」
「牛」
「これは?」
「魚」
「では、これは?」
「分かんない」
「ヴェリス」
「写真見て決めればいいじゃん」
「何が入っているか分からないものは困ります」
レアの説明を聞き、比較的分かりやすい料理に落ち着いた。
食事が届いても、イリスは時々周囲を見た。子ども、老人、会社員らしい人間、学生らしい若者。妖精も、義肢を使う人もいる。端末を見たまま食べる者がいて、隣の席では空中表示を操作していた。
誰も驚いていない。皿へ手を伸ばし、話し、食べ終われば席を立つ。イリスだけが見慣れないものを数えている間に、隣の席の食事は終わっていた。
*
食後、ローザが小さなアクセサリーショップの前で止まった。
「きれい」
髪飾り、指輪、首飾りが並んでいた。イリスは細い銀色の髪飾りを手に取る。葉の形をしている。
「気になる?」
「少し」
「買う?」
「いえ」
イリスは手の中で向きを変え、指で軽く触れた。
「これは銀ですか?」
店員が答える。
「銀色の合金ですね」
「銀色」
「はい」
「銀ではないのですね」
「そうですね」
イリスは元の場所へ静かに戻した。ヴェリスがその手元を見る。
「銀がいいの?」
「できれば」
「じゃあ、ちゃんとした店行く?」
「ちゃんとした?」
「銀とか金とか使ってるとこ」
「そこまでしていただかなくても」
「欲しくない?」
イリスは少し黙った。
「……欲しくないとは言っていません」
ヴェリスはすぐに歩き出した。
「じゃあ行こう」
「ヴェリス」
「経費」
「それで何でも済ませるのですか?」
「今日は済む」
レアが苦笑する。
「たぶんね」
*
次の店では、通路の賑わいが遠くなった。照明が柔らかく、一つずつ間隔を空けて置かれた商品に光が落ちている。店員も急いで近づいてはこなかった。
イリスは入口から少し入ったところで待った。ヴェリスは平然と店員へ声を掛ける。
「この子に似合う髪飾り。銀で、ちゃんとしたやつ」
店員は一瞬目を瞬かせ、それから微笑んだ。
「かしこまりました」
いくつかの髪飾りが並べられた。スターリングシルバー、ホワイトゴールド。店員は材質を説明し、小さな石を使ったものや、細工の細かいものを順に見せた。
イリスは一つずつ見て、細い銀の枝の前で止まった。小さな葉がついている。派手なものではなかったが、角度を変えると細工の奥に柔らかい陰影が出た。
「それ?」
イリスは少し迷った。
「……きれいだと思います」
「じゃあそれ」
「まだ買うとは」
「欲しい?」
もう一度、髪飾りを見た。
「はい」
今度は、ほかの言葉を探さずに答えた。服の時と違い、誰かが似合うと言うより先に決まった。ヴェリスが店員を見る。
「これください」
イリスは値段に目を移し、少し固まった。
「ヴェリス」
「なに」
「高いのでは?」
「大丈夫」
「ですが」
「経費」
「髪飾りもですか?」
レアが少し考える。
「社会適応?」
「そう」
「今考えたでしょ」
「細かいこと言わない」
イリスが次の言葉を見つける前に、支払いは済んでいた。
店員が髪に付けてくれる。鏡の中で、黒い髪に細い銀の枝が添っていた。
「似合う!」
ローザが笑い、レアも頷く。
「いいね」
「やっぱりこれ」
ヴェリスは満足そうだった。イリスは鏡を見たまま、右手を途中まで上げて止める。触らなくても、そこにあることは分かった。
表情が少し緩んだ。
*
モールを出た後、駐車場近くでイリスは足を止めた。
一台のバイクが停まっていた。低く鋭い形をしている。覆われていない機械部分が多く、前部は獣の顔にも見えた。イリスは近づきすぎないところから、車体を見ていた。
「これは、乗るものなのですか?」
「バイク」
「車とは違う?」
「二輪」
「二輪……」
「速いよ」
ローザがぱっと顔を上げた。
「イリスも速いよ!」
「ローザ?」
「馬でかっ飛ばしてすごいんだぞ! みんな追いつけないくらい!」
イリスは少し困ってローザを見る。
「そこまでではありません」
「速いよ!」
「……まあ」
もう一度、バイクへ目を戻した。二つの車輪と、その間にある機械。ここに乗って、道路を走るのだという。
「馬で遠乗りをするのは好きでした」
レアが少し意外そうな顔をした。
「これも、面白そうですね」
彼女の口元が緩む。
「やっと、自分のこと自分から喋ったね」
「……そうでしょうか?」
「そうだよ。聞けば答えるけど、自分からは全然言わなかった」
イリスは少し考えた。
「言う必要があることではないと思っていました」
「そういうとこ」
ヴェリスが笑う。イリスはバイクから自分の左肩へ視線を移した。
「でも、今の私には乗れませんね」
「もうすぐ腕つくから大丈夫」
「そうでしたね」
イリスは少し目を細めた。
「それに、こういうものは高いのでしょう?」
ヴェリスが首を傾げる。
「たぶん」
「……たぶん?」
「値段見てないから」
レアが言った。
「ヴェリスはそういう人だから」
イリスは少し考える。
「あまり参考になりませんね」
持ち主が戻ってきた。装備を整え、跨がる。ほとんど音もなく動き出した車体を、イリスは目で追った。車輪が回り、駐車場を抜けていくまで見ていた。
*
その日の夕方、ユリウスの画面には契約書の修正箇所が出ていた。
導入、校正、部品交換、復職支援。ホロウェイが政府側と詰めた条件には、別々の支払者が付いている。
「復職までの予算と、その後の維持費は窓口が違います」
エイドリアンが説明した。
「一件にまとめれば早いが、向こうには一件で払う仕組みがない」
「患者は同じだ」
「はい。ただ、契約相手は同じではありません」
リンが受け持つ範囲を示した。治療として保証するところ。保守で維持するところ。治療を超える性能は別契約にする。
「分けてあれば、どこまで引き受けたかは説明できます」
「隙間は?」
ユリウスが訊いた。
「どの契約にも入らなかったものは、誰が持つ」
リンは画面を送った。個々の責任は書かれている。装置と身体が同時に悪くなった時、どちらが先に壊れたかをめぐる欄には、協議という言葉が残っていた。
「その時点で、患者は止まっている」
「責任の確定前にも、処置する費用は要りますね」
エイドリアンが言った。
ホロウェイは、その費用を試算へ加えた。安く見せれば売りやすい。売った後に動けなくなった身体を、契約の線だけでは切り分けられない。
「先に対応する側を決めろ。取り分は、その費用を入れてから出せ」
ユリウスが言うと、エイドリアンが修正項目を引き取った。
「本体側の共同案件にも、同じ条項を入れますか」
「こちらが処置するなら、同じだ」
リンが頷く。画面から一つの空白が消えた。他の案件まで、同じ答えになるわけではなかった。
*
その夜、ユリウスはヴェリスと食事をしていた。
彼女は昼間撮った映像を眺め、時々、手を止めて画面を送る。ユリウスは肉を切った。
「どうだった」
「何が?」
「イリスだ」
「普通」
「それで分かると思ってるのか」
「服買った。モール行った。妖精見てた。髪飾り買った」
「いくら使った」
「知らない」
「経費だろ」
「うん」
「ならいい」
ヴェリスが顔を上げた。
「もっとなんか言うかと思った」
「一万ドルやそこらで何を言う」
「まだ見てないのに」
「安物を買ってきたなら、その時言う」
「うざ」
ユリウスはそのまま食べた。ヴェリスも画面から目を離し、皿へ手を戻す。
「そういえば」
「何だ」
「イリス、バイクに興味あるみたい」
ナイフが止まった。
「バイク?」
「今日、街でずっと見てた」
「何のバイクだ」
「知らない」
「メーカーは」
「知らない」
「車種」
「だから知らないって」
ヴェリスは少し考えた。
「でも、ストファイ系だったよ」
ユリウスの目が僅かに細くなる。
「ストリートファイターか」
「たぶん。前がこう、ちょっと怖い顔してるやつ」
口元がごく僅かに動いた。
「本人は?」
「馬に乗るのが好きだったんだって」
「馬?」
「ローザが言ってた。かなり飛ばすらしいよ。本人も遠乗りが好きだったって」
ヴェリスが彼を見た。
「なに、その顔」
「別に」
「絶対なんか考えてる」
「それで?」
「何が?」
「バイク」
「ああ」
ヴェリスが思い出したように言う。
「多分、電動だったよ」
ユリウスの手が止まった。
「電動?」
「うん。ほとんど音しなかったし」
短い沈黙があり、ユリウスは小さく舌打ちした。
「……教育が必要だ」
「うざっ」
ヴェリスは即座に返す。ユリウスは答えなかった。
「何が悪いの。本人が気に入ったなら」
「最初に覚えるものが悪い」
「バイクでしょ」
「違う」
「何が」
「音だ」
「ほんとうざい」
ユリウスはナイフを動かした。街を見せ、服を揃えるだけだった予定に、二輪車の話が加わった。義腕が完成するまでには、まだ時間がある。
ストリートファイター。
悪くない。
*
食事を終えると、ユリウスは端末を取った。ソファからヴェリスが見る。
「何してるの?」
「電話だ」
「見れば分かる」
呼び出しは数回でつながった。長く付き合っている店だった。バイクも車も、彼が気に入った機械の多くはそこを通っている。
「俺だ」
挨拶は短かった。
「一台、探してほしい」
ヴェリスが嫌な顔をする。ユリウスは続けた。
「デスモドロミックを積んだ、最後のストリートファイターだ」
一拍置く。
「もちろん程度は最高のもの」
向こうの返事を聞き、口元を少し上げた。
「社長ならやってくれるだろ」
また返事がある。ユリウスは椅子へ深く座った。
「急がなくていい」
声が少し低くなった。
「妥協した個体はいらない。最高の程度のものが出た時だけ連絡してくれ」
通話を切ると、ヴェリスがじっと見ていた。
「もう探してるの?」
「探しているだけだ」
「買う気じゃん」
「いい個体があればな」
「本人、まだ腕もないけど」
「だから急いでない」
「……ほんと面倒くさい」
ユリウスは答えず、端末を置いた。
店への条件は伝えた。急がなくていい。腕の完成を待つ時間と、欲しい個体を探す時間は重ねられる。
イリスには、まだ何も話していない。




