第八話 雪の山道
朝から空は厚い雲に覆われていた。
ヴァレーヌの城壁の外には、夜の間に降った雪が積もっている。道の端では、吹き寄せられた雪が膝に届くほど深くなっていた。
騎士団の詰所で、イリスたちは朝の勤務を始めたばかりだった。
暖炉のそばでは、ローザが丸くなって眠っている。薪がはぜり、近くを兵士が歩いても、耳を動かすだけで目を開けなかった。
そこへ、門番に案内された猟師が入ってきた。
男は帽子を胸の前で握り、ガストンに頭を下げた。
「山道で、人が死んでいるのを見つけました」
ガストンは男を椅子へ座らせた。
「詳しく話してくれ」
「荷車のそばに倒れていました。商人だと思います。荷物が道に散らばっていて……男の身体には、刃物でやられたような傷がありました」
「ほかに人は?」
「見ておりません。あの辺りは木が多いですし、誰かが隠れていたとしても……」
猟師は言葉を切り、戸口を振り返った。
「死体を見つけて、すぐに引き返しました。あんなところに長居はできません」
「場所は分かるか」
猟師が山道の場所を説明する。
ガストンは顔を上げた。
「以前、俺たちが調べていた洞窟の近くだな。山の中腹だ。洞窟へ向かう道より少し手前の、街道から入った辺りか」
「はい。その辺りです」
イリスも顔を上げた。
あの洞窟では、人が出入りした痕跡を見つけた。だが、使っていた者の姿は見つからなかった。
ガストンは猟師へいくつか質問を重ね、それから門番に、男を休ませるよう指示した。
一度、詰所の奥へ姿を消す。
イリスはセシルと目を合わせた。セシルも何かを言いかけたが、口を閉じた。
やがてガストンが戻ってきた。
「お前たち、準備をしろ。衛兵も連れていく」
エティエンヌとルノーが立ち上がった。
暖炉のそばで、ローザが寝返りを打つ。
イリスは眠るローザを一度だけ振り返り、装備室へ向かった。
*
山へ続く道は、雪に埋もれていた。
ガストンとイリスたち四人に、小隊長以下七人の衛兵が加わった。十二人の一行は、先頭の衛兵が踏んだ跡に続き、山道を進んでいた。
雪の下には、凍った轍や石が隠れている。踏み外せば足を取られるため、歩幅は自然に小さくなった。
イリスは前の者との間隔を確かめながら進んだ。吐いた息が襟元を白く曇らせ、鎧の隙間から入った冷気が、汗ばんだ背を冷やしていた。
しばらく進むと、先頭の衛兵が手を上げた。
「ガストン様。あれを」
道の脇に、荷車が傾いていた。
片方の車輪が雪の溝にはまっている。周囲には荷物が散乱し、破れた袋から穀物がこぼれていた。
荷車の横には、踏み荒らされた雪と黒ずんだ血が残っていた。
だが、死体はなかった。
「……いないな」
ルノーが周囲を見回す。
イリスは荷車から少し離れたところで足を止めた。血のついた雪が、その先にも続いている。いくつもの靴跡が重なり、森の方へ伸びていた。
「ガストン様。こちらです」
ガストンが近づき、跡を確かめた。
「死体を運んだのか」
「猟師が見つけた後に、誰かが戻ってきたのでしょうか」
セシルが尋ねる。
ガストンは森の奥を見た。
「ここから先は、相手が近くにいるものと思え」
一同を集め、斜面を示した。
「二人一組で横に広がる。組同士は二十歩ほどを目安に離れろ。ただし、木や岩で隣が見えなくなるなら間隔を詰める。山頂側へ進みながら、足跡の続く先を調べる」
中央には、ガストンと小隊長が入った。その左隣にエティエンヌとルノー、さらに左へ衛兵二人ずつの組が並ぶ。
ガストンの右隣はイリスとセシル。その右端を、残る衛兵二人が受け持つことになった。
「相手の人数も、どこにいるかも分からん。見つけたからといって、一組だけで追うな」
ガストンは一人ひとりの顔を見た。
「襲われたら身を守れ。必要なら斬って構わんが、捕らえられる相手まで無理に殺す必要はない」
少し間を置く。
「何より、自分の命を優先しろ。いいな」
短い返事が重なった。
イリスは剣の柄に触れ、セシルとともに右へ移動した。
*
森の中では、足元の雪がいっそう深くなった。
セシルが盾を持つ手を少し上げ、木の間を通り抜ける。イリスはその右側を進んだ。
左を見れば、木々の間からガストンたちの姿が見えた。右端の衛兵二人も、互いに離れすぎないよう慎重に歩いている。
「イリス、足元に気をつけて」
「ええ」
岩の脇に、新しい足跡があった。
いくつもの靴跡が木々の間を行き来し、その先で重なっている。イリスは足元から視線を上げ、岩陰へ目を向けた。
「矢だ!」
右から叫び声が上がった。
振り向くと、右端の衛兵が肩を押さえて膝をついていた。刺さった矢の羽が、身体の動きに合わせて震えている。
隣の衛兵が盾を上げた。
次の矢が木の幹へ突き立つ。
「盾を上げろ!」
ガストンの声が響いた。
イリスも剣を抜き、幹のそばへ身を寄せた。
前方で枝が揺れた。
木の陰から、武装した男たちが現れる。丸い木盾に手斧、短い剣。少し後ろには、槍を持つ者もいた。
イリスの正面では、岩陰から一人の男が出てきた。
厚い外套をまとい、左手に丸盾、右手に手斧を持っている。
男はイリスを見ると、雪を蹴って距離を詰めた。盾が前へ出され、その向こうで斧を持つ腕が上がる。
――先に。
イリスは踏み込んだ。
男の左側、盾を持つ腕の外へ回り込む。盾が追って向きを変えたが、斧を振り下ろすには、男も身体を捻らなければならなかった。
その間に、イリスの剣先が盾の縁を越えた。
首へ突き込む。
男が短く息を漏らし、手斧を取り落とした。
イリスは剣を引き、身体を離した。男は膝から崩れ、雪の上へ倒れた。
「イリス、出過ぎちゃ駄目!」
セシルの声がした。
振り返ると、別の男がセシルへ向かっていた。
セシルは盾で剣を受け、片足を引いた。押し込んでくる男に合わせて盾を斜めに返し、刃を逸らす。
イリスが戻ろうとした時には、セシルの剣が走っていた。
男が腕を押さえて後退する。
「こっちは大丈夫! 右を見て!」
右端では、無傷の衛兵が仲間を背へ庇いながら戦っていた。負傷した男も片膝をつき、盾を前へ向けている。
その奥の木陰から、弓を持つ男が顔を出した。
イリスは身を低くした。
矢が頭上を通り、背後の幹へ当たった。
硬い音に、別の音が重なった。
石の壁へ刃がぶつかる音。近すぎる息遣いと、押し返しても迫ってくる重さ。
イリスは奥歯を噛んだ。
目の前には木がある。雪があり、右には衛兵たちがいる。
セシルの位置を確かめ、イリスは再び前へ目を向けた。
左から、ガストンの声が聞こえた。
木々の間で、盾へ槍の穂先が当たるのが見えた。ガストンがそれを押しのけ、小隊長が脇から迫る男を止めている。
さらに向こうで、短いうめき声が上がった。
「ルノー!」
エティエンヌが叫んだ。
幹の間から、片腕を押さえて下がるルノーが見えた。エティエンヌがその前へ入り、迫る男の盾を自分の盾で受け止める。
イリスはそちらへ向きかけた。
だが、正面の雪を踏む音に足を止めた。
槍を持った男が、前へ回り込んできていた。
穂先をこちらへ向けたまま、踏み込んではこない。イリスが右へ動くと、槍も右へ動いた。左へ抜けようとすれば、男は雪を蹴って進路を塞いだ。
その背後では、男たちが互いに声を掛け合っていた。
言葉の意味は分からない。だが、一人が木の陰へ下がると、別の者が前へ出て、こちらを牽制している。
――こちらを倒そうとしているのではない?
男の背後から声が上がった。
槍を持った男が一度だけ振り返る。
穂先を向けたまま、後ずさった。
「待て!」
イリスは追いかけようとした。
「イリス!」
セシルの声に、足を止めた。
男の向こうには木立が続いている。弓を持っていた者の姿は、もう見えなかった。
右の衛兵は、負傷した仲間を立たせようとしていた。
イリスは剣を構えたまま、その場へ留まった。
槍を持った男は森の奥へ消えた。ほかの場所でも、敵が木や岩を盾にしながら山頂側へ退いていく。
「全員、位置を保て! 深追いするな!」
ガストンが命じた。
やがて怒号が途切れた。
イリスは前方を見つめたまま、息を整えた。隣へ戻ってきたセシルの呼吸も荒い。
少し先で枝が揺れ、積もっていた雪が落ちた。
*
一行は互いを庇いながら山道まで下がった。
矢を受けた衛兵は、仲間に支えられて座っていた。意識はある。小隊長が肩の傷を確かめ、矢を不用意に動かさないよう布で押さえている。
ほかに負傷した衛兵が二人いた。ルノーも腕に傷を負っていたが、自分の足で歩けた。
死者は出なかった。
ガストンは全員の状態を確かめ、森へ目を向けた。
「倒した相手は四人。捕らえた者はいない。残りがどこへ向かったかも分からん」
エティエンヌはルノーの包帯を結び終え、顔を上げた。
「追ってこなかったですね」
「ああ。こちらが下がっても、向こうから仕掛けてくる様子はなかった」
イリスは剣についた血を拭った。
槍を持った男の動きが頭に残っていた。何度も進路を塞いだのに、仲間が下がると、自分も退いていった。
「……何かを守っていたのでしょうか」
ガストンがイリスを見た。
「何をだ?」
「分かりません。ただ、私たちをあそこで止めようとしていたように見えました」
ガストンは森の方を見た。
「その可能性はある。だが、商人を殺したのも、こいつらなのかはまだ分からん」
荷車の方へ目を移す。
「遺体も見つかっていない」
ガストンは少し考えてから、小隊長へ向き直った。
「負傷者には二人つける。お前は手当てを引き継いでから来い」
「承知しました」
無傷の衛兵二人をその場へ残し、ガストンはイリスたちと、もう一人の衛兵を集めた。
「さっきの場所まで戻り、奴らがどちらへ退いたか確かめる。今度は離れるな」
五人はまとまって森へ入った。
*
交戦した場所には、踏み荒らされた雪と血が残っていた。
ガストンは周囲を警戒させ、退いた者たちの足跡を調べた。
跡は山頂側へ続いていた。何本かに分かれて木々の間を抜け、その先で、洞窟へ向かう踏み跡と重なっている。
五人は木や岩の陰を確かめながら進んだ。
やがて、見覚えのある岩壁が現れた。
暗い入口の前には、幾重にも足跡が重なっていた。そこからさらに、山の奥へ向かう新しい跡が続いている。
ガストンは足を止めた。
「周囲を見ていろ」
声を掛け、洞窟の入口へ近づく。
中から音はしなかった。
入口の脇から内部を確かめ、ガストンが入った。エティエンヌが続き、奥に人がいないことを確かめてから、イリスとセシルも中へ進んだ。
衛兵は外に残り、足跡の続く斜面を見張った。
洞窟の奥には、焚き火の跡があった。
壁際の岩の上へ藁が敷かれ、使い込まれた布が残されている。欠けた木の器が転がり、そのそばには細い紐が落ちていた。
前に来た時よりも、人がいた跡が多かった。
イリスは岩の下に落ちていたものを拾った。
小さな布靴だった。
手のひらほどしかない。
「……子供?」
セシルがそばへ来た。
二人は靴を見た。布を重ねて縫い合わせたもので、底には土が染み込んでいる。片方だけだった。
洞窟の外へ出ると、周囲の岩陰や木々の間にも焚き火の跡が見つかった。洞窟だけでは収まりきらず、近くにも人がいたらしい。
踏み固められた雪は、その奥の斜面へ続いていた。
大きな靴跡の間に、小さな足跡がいくつもある。
「ここにいたのは、戦える男たちだけじゃないな」
ガストンがしゃがみ込み、雪の上を確かめた。
しばらくして、小隊長が追いついた。
負傷者の手当てを終え、護衛の衛兵へ引き継いできたという。途中の交戦地点で、倒れていた男たちの装備も調べていた。
ガストンは回収された品を受け取り、その一つに刻まれた細工へ目を留めた。
「……あの笛と似ているな」
「洞窟の近くで拾ったものですか」
セシルが尋ねた。
「ああ。前に商人が見せてくれた品にも、こういう細工があった」
小隊長が、交戦した男たちから回収した装備について話した。
盾の作り。
身につけていた品。
戦闘中に交わしていた言葉。
「ザクセン人か」
セシルは洞窟の奥を振り返った。
「家族を連れて、ここに?」
「そう考えるのが自然だろう」
イリスは手の中の布靴を見た。
森で戦った男たちは、何度も進路を塞いだ。こちらを追っては来ず、仲間が退くまでその場へ残っていた。
「子供たちを逃がすために、私たちを止めていたのでしょうか」
「その可能性はある」
ガストンは足跡の続く山の奥を見た。
「だが、なぜこんな時期に山を越えてきた?」
誰も答えなかった。
イリスは洞窟へ戻り、小さな布靴を拾った場所へ置いた。
入口からは、雪に埋もれた斜面が見える。自分たちでさえ、ここへ来るまでに何度も足を取られた。あの小さな靴で歩くには、雪は深すぎた。
寝具や器を運び、子供を連れ、冬の山を越えてきた。
イリスは岩壁の向こうを見上げた。
灰色の雲が、尾根の先を隠していた。
彼らは、どこから来たのだろう。
そして、何を避けてここまで来たのだろう。




