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第七話 胸騒ぎ

# 第7話:胸騒ぎ


 《赤い木の実亭》は、いつも通りだった。


 扉を開けると、暖かな空気と食事の匂いが流れてきた。焼いた肉と煮込み、それにパンの香りが重なっている。店の奥では客たちが話し、炉の近くでは濡れた外套が椅子の背へ掛けられていた。


 イリスはいつもの席へ向かった。ローザも当然のようについてきて、隣の椅子へ飛び乗る。


 マルグリットがこちらを見て、軽く手を上げた。


「食事でいい?」


「はい。お願いします」


 ほどなく、二人の前へ皿が運ばれてきた。イリスには煮込みとパン、ローザには肉と穀物を混ぜた食事が盛られている。


「はい、いつもの」


「ありがとう」


 ローザはすぐに食べ始めた。


 イリスも小さく礼を言い、飲み物へ手を伸ばした。


 だが、マルグリットはその場を離れなかった。


「イリス、大丈夫?」


「え?」


「なんか今日、変だよ。調子悪いの?」


 イリスは少しだけ目を逸らした。


「そういう訳ではないのですが……」


 言葉が続かなかった。


 杯を包んだ指先へ、熱が伝わってくる。イリスはそれを見ていた。


 隣の卓から、男たちの声が聞こえた。


「中央の方で北の船を見たって話だろ?」


「ああ。また戦になるんじゃないかって」


「ただの噂じゃないのか?」


「俺は戦より商売が止まる方が困るよ。荷が来なきゃどうにもならん」


 別の卓では、こんなところまで来るわけがない、と笑う声がした。


 マルグリットもそちらへ目を向けた。


「今日はその話ばっかりだよ」


 それからイリスを見る。


「でも中央って、ここからかなり遠いでしょ。大丈夫だよ」


 持ち上げかけた杯が止まった。


「……そうですね」


 イリスは杯を口元へ運び、ひと口飲んだ。温かいはずなのに、味がよく分からなかった。


 マルグリットは笑おうとして、やめた。


「まあ……怖いけどね」


 窓の外へ目を向ける。


「何もなければいいけど」


「はい」


 イリスは短く答えた。


 その横では、ローザが空になった皿を見つめていた。


「マルグリット」


「なに?」


「お腹いっぱいになるやつ、ちょうだい」


 マルグリットが皿を見る。


「えっ、もう食べちゃったの?」


「食べた」


「早いなあ」


 ローザは今度はイリスを見た。


「イリス、もっと食べる」


「……ローザ」


 イリスは呼んでから、少し間を置いた。


「好きなのを頼みなさい」


「ほんと?」


「はい」


 ローザがぱっと顔を上げた。


 すぐにマルグリットへ向き直る。


「じゃあ、いっぱい入ってるやつ」


「はいはい」


 マルグリットが皿を取ろうとしたところで、ローザが呼び止めた。


「ねえ、マルグリット」


「ん?」


 ローザがイリスを見る。


「今日、イリスが変」


 イリスの視線がゆっくり横へ向いた。


「ローザ」


「だって変だもん」


 マルグリットも苦笑した。


「やっぱりそうだよね」


「……なんでもありません」


「そう言う時のイリスは、大体なんかあるんだけどなあ」


 イリスは答えず、匙を取った。


 マルグリットはしばらく見ていたが、別の卓から呼ばれると顔を上げた。


「今行くよ」


 返事をしてから、もう一度イリスへ向き直る。


「何かあったら言ってね」


「はい」


 マルグリットが厨房へ戻った後、イリスは煮込みを口へ運んだ。


 柔らかくなった肉と根菜が入っている。何度も食べた味だった。もうひと口食べると、ようやく空腹だったことを思い出した。


 追加の料理が運ばれてくると、ローザの注意はそちらへ移った。


 客たちは噂話を続けていたが、やがて別の話になった。厨房で食器が触れ合い、扉が開くたびに冷たい空気が足元を通る。


 イリスが食事を終える頃には、ローザも満足したらしかった。椅子の上で身体を丸め始めている。


「……ローザ」


 返事がない。


「ローザ、行きますよ」


「んー……」


「寝るなら家に帰ってからにしてください」


「もう動けない……」


「食べすぎです」


 イリスが背へ手を添えると、ローザは不満そうに目を細めた。


「どこ行くの?」


「銀霧泉です」


 少しだけ考える。


「お風呂?」


「はい」


「じゃあ行く」


 さっきまで動けないと言っていたのに、すぐ立ち上がった。


 マルグリットがそれを見て笑った。


「気をつけてね」


「はい」


 イリスは代金を払い、外套を羽織った。


 扉を開けると、冷たい空気が頬へ触れた。隣ではローザが、追加で食べた料理のことをまだ話している。


 イリスは相槌を打ち、町の西へ向かった。


 *


 《銀霧泉》には、白い湯気が漂っていた。


 脱衣所の奥から湯の流れる音が聞こえる。顔見知りの女と挨拶を交わし、イリスは衣服を脱いだ。髪飾りを外して長い黒髪をまとめると、先に行きたがるローザを呼び止めた。


「走らないでください」


「走ってないよ」


 そう言いながら、ローザは石床の上を少しゆっくり歩いた。


 身体を流してから湯へ入る。


 冷えていた足先へ熱が走った。イリスは縁へ手を置き、ゆっくり肩まで沈んだ。


 背中を石へ預けると、息が抜けた。


「温泉のこの香りが落ち着きますね、ローザ」


 ローザも湯へ入り、眠たそうに目を細めた。


「この匂い、大好き」


 前脚を縁へ掛ける。


「気分よくなって、お風呂で寝ちゃいそう」


「寝てはいけませんよ」


「まだ寝てないよ」


 声はもう半分眠っていた。


 イリスは小さく息を吐いた。


 肩から腕へ、少しずつ熱が広がっていく。力を抜くと、湯の揺れに合わせて身体がわずかに動いた。


 ローザが隣から寄ってきた。片腕へ前脚を掛け、そのまま顎を載せる。


 イリスは支えるように腕を曲げ、空いた手で頭を撫でた。


 湯気の向こうで、誰かが木桶を置いた。


 石へ触れた硬い音がした。


 イリスの手が止まった。


 金属がぶつかる音と、遠い怒号が頭の奥を掠める。

冷たい空気。

雪とは違う、もっと嫌な冷たさ。

思い出そうとしたわけではなかった。それでも、聞き覚えのある音だけが近くなった。


 目を開けると、湯船の縁に木桶が置かれていた。


 そのそばで女が髪を絞っている。


 イリスはゆっくり息を吐き、ローザの頭へ手を戻した。


「……」


 ローザは目を閉じたまま、腕へ頬を押しつけてきた。


 イリスは少しの間そうしていたが、やがて身体を起こした。ローザを抱え、湯の浅い縁へ移す。


「ここにいてください」


「んー?」


「少しだけ」


 ローザが前脚を揃えて落ち着いたのを見てから、イリスは肩を沈めた。そのまま、頭まで湯へ潜る。


 音が遠くなった。


 目を閉じたまま数秒待ち、顔を出した。


 濡れた前髪を後ろへ払う。頬から落ちた雫が、水面に小さな輪を作った。


「……まだ決まった訳ではない」


 誰に言うでもなく呟いた。


 山で人の跡を見つけた。遠い川で船を見た商人がいた。それだけでは、何が起きているのか分からない。


 ガストンも、勝手に動かず報告するようにと言っていた。


 今、自分がここで考えても、答えは出なかった。


 ローザが前脚を伸ばした。


 イリスが腕を寄せると、またそこへ顎を載せる。濡れた毛が肌へ触れた。


 イリスはその重みを受け止め、しばらく湯に浸かっていた。


 *


「もう上がりましょう、ローザ」


「んー……」


「ローザ」


「帰り道、抱っこ」


「……はい」


 湯から上がり、身体を拭く。


 着替えを済ませる頃には、ローザはもう目を開けていられなかった。衣服を整えるイリスの足元で、何度も頭が下がっている。


 イリスは髪の水気を拭き取り、外套を羽織ってから抱き上げた。


「ほら」


 ローザはすぐに胸元へ顔を埋めた。


 外へ出て数歩もしないうちに、寝息が聞こえ始める。


 イリスは腕の中を見下ろした。外套に包まれた小さな身体には、まだ温泉の熱が残っていた。


「ローザ、あったかい」


 口元が少し緩んだ。


 帰り道では、外套の合わせ目から風が入らないように歩いた。ローザは時折身じろぎしたが、起きなかった。


 家の扉を開けると、煮込みの匂いがした。


「着きましたよ」


 そっと床へ下ろす。


 ローザは半分眠ったまま、その場で丸くなろうとした。


「もう着いちゃったの……ここで寝る……」


「駄目です」


「んー……」


「風邪をひくから、暖かいところで寝なさい」


「ここも家の中じゃん……」


 ほとんど寝言だった。


 イリスは少し息を吐き、もう一度抱き上げた。


「仕方ありませんね」


 居間へ運び、暖炉に近い敷物の上へ下ろした。ローザはそこでようやく身を丸め、尻尾を身体へ寄せる。


 イリスはしばらく見てから、外套を脱ぎに玄関へ戻った。


 *


 夕食の席では、しばらく普通の話が続いた。


 エミールが昼間のことを話し、アデルが鍋から煮込みをよそう。イリスも聞かれたことには答えた。


 ローザは暖炉の近くで眠っていた。時折、前脚が小さく動く。


 食事の途中で、ジェラールが口を開いた。


「イリス」


「はい」


「聞いているとは思うが、何やら不穏な話が出ているな」


 イリスは匙を置いた。


 ジェラールは落ち着いた声のまま続けた。


「北方の連中が、ここまで直接来ることはないと思う」


 少し間を置く。


「問題は、奴らに追い立てられた異民族どもだ」


 イリスは父を見た。


 ヴァレーヌでは以前から、山岳方面から小規模な集団が入り込むことがあった。そのたびに騎士団や領兵が追い返している。


 今日、山で見つけたものも、初めはその一つだと考えていた。


「山の方で、奴らのものらしい痕跡を見つけたそうだな」


「……はい」


「今は冬だ」


 ジェラールは言った。


「山は雪深い。この時期に、いくつも山を越えて移動してきたとすれば――」


 そこで言葉を切った。


「何かが起きた、と考えておくべきだ」


 イリスは卓の縁へ指を置いた。


 雪の上に重なっていた足跡が浮かぶ。その先に、誰がいたのかは見ていない。


「何があっても、一人で行くなよ」


 ジェラールが娘を見る。


「いいな、イリス」


「……はい」


 答えてから、杯へ手を伸ばした。


 指が縁へ当たった。


 杯が倒れ、水が卓上へ広がる。


「……っ」


 イリスは立ち上がった。


「申し訳ありません……」


 脇にあった布を取ろうとして、うまく摘まめなかった。指先が小さく震えている。


 アデルが席を立った。


「いいから、手を離して」


 布で水を押さえ、倒れた杯を起こした。


 エミールも口を閉じ、自分の皿を水の届かないところへ寄せる。


「イリス」


 ジェラールが呼んだ。


「大丈夫です」


 イリスはすぐに答えた。


 アデルが手元を見ていることに気づき、指を握った。


「少し、手が滑っただけです」


「座っていなさい」


 アデルに言われ、イリスは椅子へ戻った。


 濡れた布が取り替えられ、杯へ水が注がれる。その音が妙にはっきり聞こえた。


 ジェラールはしばらく娘を見ていたが、話を続けなかった。


 食事を終えて席を立つ時、イリスのそばで足を止める。


「イリス」


「はい」


「落ち着きなさい」


 声はさっきよりもやわらかかった。


 イリスは頷いた。


 ジェラールはそれを確かめてから、居間を出ていった。


 使用人が食器を下げ始めた。


 イリスはしばらく席に残っていたが、やがて椅子を引いた。


 アデルが顔を向ける。


「今日はもう、部屋で休みなさい」


「……はい」


 エミールは何か言いかけたが、結局、何も言わずに皿を重ねた。


 イリスは椅子から立ち上がり、自室へ戻ろうとした。


 考え事をしたまま暖炉の脇を通る。


 敷物から、茶色い尻尾が長く伸びていた。


 気づいた時には、もう遅かった。


「ふぎゃああああああっ!」


 ローザが跳ね起きた。


「……!」


「まな板コロス……!」


「ローザ」


「尻尾! 尻尾踏んだ!」


「申し訳ありません」


「痛い!」


「本当に申し訳ありません」


 イリスが慌てて足を退けると、ローザは尻尾を抱え込んだ。


「寝てただけなのに!」


「見ていませんでした」


「見て!」


「はい」


 エミールが口元を押さえた。アデルもこちらを見て、呆れたように息を吐いている。


 イリスはしゃがみ、ローザの尻尾へ手を伸ばした。


「見せてください」


「やだ」


「怪我をしていないか、確かめるだけです」


「踏んだ方が言ってる」


「……ですから、申し訳ありません」


 ローザは不満そうだったが、ようやく尻尾を離した。


 イリスは毛を分けて確かめた。傷はない。そっと撫でると、ローザがまだ少し文句を言った。


「痛かったんだからね」


「はい。気をつけます」


 イリスが立ち上がると、ローザも後をついてきた。


 階段の手前で振り返り、尻尾を踏まない距離にいることを確かめる。


 ローザはそれに気づき、わざと尻尾を高く上げた。


 イリスの口元が、ほんの少し緩んだ。


 *


 夜、イリスは自室で本を開いていた。


 騎士と町娘が恋に落ちる物語だった。


 身分も住む世界も違う二人が出会い、少しずつ距離を縮めていく。普段なら、その日のうちにどこまで読むか迷う本だった。


 今夜は、一頁の途中から進まなかった。


 文字を追い、次の行へ移る。


 けれど、会話の返事が分からない。前の行へ戻ると、そこはさっきも読んだところだった。


 イリスは本から目を離した。


 ローザが机の端へ前脚を掛けていた。置かれた紐を引き寄せ、垂れた先を揺らしている。


 いつもなら止めるところだったが、イリスが何も言わないので、しばらく遊び続けた。


 やがて飽きたらしく、寝台へ移った。上掛けの上で何度か身体の向きを変え、ようやく落ち着く。


 イリスは本へ目を戻した。

挿絵(By みてみん)

 町娘が何かを言い、騎士が答えていた。


 その言葉を読み終えても、二人の顔が浮かばなかった。代わりに思い出したのは、広場で話す商人と、卓上へ置かれた小さな笛だった。


 イリスは本を閉じた。


 窓の外には雪が降っていた。


 近くの家の灯りを受け、雪片がゆっくり流れている。屋根はまた白くなり始めていた。


 昔、戦いが始まる前にも、こんなふうに周囲の話が少しずつ変わっていった。


 そこまで考えたところで、イリスは窓から目を離した。


 寝台ではローザが仰向けになっていた。


 腹を上へ向け、前脚を緩く曲げている。さっきまで抱え込んでいた尻尾も、今は上掛けの上へ投げ出されていた。


 イリスは椅子を離れ、そばへ寄った。


 寝息に合わせて、腹が小さく上下している。指先で頭に触れても、起きなかった。


 少しだけ撫でてから、机へ戻った。


 本を開く。


 栞を挟む前に、もう少し読めるかと思った。


 だが、同じ頁を見つめているうちに、また文字の並びだけを追っていることに気づいた。


「……なにか、気持ち悪い……」


 小さく呟いた。


 燭台の火が揺れた。


 頁は、結局、一行も進まなかった。

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