六話 山の痕跡
雪の積もった斜面に、足跡が続いていた。
低い枝が折れ、木々の間には雪の踏み固められた場所がある。ガストンは時折足を止め、その先を確かめてから進んだ。
やがて、斜面の上に岩場が見えてきた。
大きな岩の裂け目に、暗い穴が開いている。入口の前には足跡が重なり、雪の下から土が覗いていた。
小さな洞窟だった。
「ここだ」
五人は近くの木へ馬を繋いだ。
ガストンが入口から中を窺い、それから身を屈めて入る。四人も後に続いた。
内部はそれほど広くなかった。入口から入る光が奥の岩壁まで届き、天井の低いところでは背を屈めなければならない。人が何人か座って雨風を凌ぐには、十分な場所だった。
奥へ進んだエティエンヌが、地面を見て声を上げた。
「見ろ。焚き火の跡がある」
黒くなった石が寄せられ、その間に灰と燃え残った枝があった。
ルノーが覗き込む。
「猟師かもしれないぞ。吹雪いて避難したのかもな」
「かもしれん」
ガストンはしゃがみ込み、指先で灰を崩した。燃え残った枝を動かし、その下も確かめる。
しばらく調べてから、顔を上げた。
「お前たち、周囲を見てこい」
「分かった」
四人が洞窟を出た。
ガストンはもう一度、焚き火の跡へ目を戻した。
「……まだ新しいな」
壁際には、人が座っていたらしい場所もあった。地面が踏み固められ、小さな枝や枯れ葉が脇へ押しやられている。
ガストンは燃え残った枝を指で動かした。
「あの六人を捕らえた後にも、誰かがここを使ったのかもしれん」
小さく呟いて立ち上がると、入口へ向かった。
外では、四人が洞窟の周囲を調べていた。
エティエンヌは少し離れた木立の前で立ち止まった。低い枝が何本も折れ、その下の雪が乱れている。人が通る際に押し退けたような跡だった。
「こっちも何かあるな」
一方、ルノーは斜面へ回り込み、雪の上にしゃがんでいた。
足跡は一つではなかった。重なった跡が木々の間へ続き、途中から左右へ分かれている。山の奥から来たものと、そちらへ戻ったものが入り混じっていた。
ルノーは立ち上がり、見える範囲を辿った。
「……かなり広いな」
人の姿はない。だが、洞窟へ出入りしただけにしては、あちこちに雪を踏んだ跡が残っていた。
セシルとイリスは、洞窟の反対側を調べていた。
岩陰や木の根元を見ながら、斜面の下へ少しずつ進む。風に吹き寄せられた雪が、岩の窪みに溜まっていた。
「何もないね」
セシルが言った時、イリスが足を止めた。
「待ってください」
雪の中から、小さなものが覗いていた。
イリスはしゃがみ、周囲の雪を払って拾い上げた。
笛だった。
簡素な形をしているが、表面には細かな模様が刻まれていた。イリスは手袋の指先で雪を落とし、向きを変えた。
セシルが覗き込む。
「熊避けの笛かな」
イリスには、見覚えのない細工だった。
「イリス、こんな細工見たことある?」
「私は見たことがありません」
もう一度、刻まれた模様を見る。
「ガストンなら分かるのではないですか?」
「そうだね」
二人は洞窟へ戻った。
入口の近くにいたガストンへ笛を見せていると、エティエンヌとルノーも戻ってきた。
五人は、それぞれが見つけたものを伝え合った。折られた枝と、何方向にも続く足跡。それから、イリスが拾った笛。
ガストンは笛を受け取り、しばらく無言で見た。
指で表面の細工をなぞる。
「……昔、旅の商人が似たものを持っていた」
「商人が?」
「ああ。遥か向こうに住む異民族が、熊除けに使うものだと聞いた」
四人の視線が笛へ集まった。
ガストンは裏側へ返し、もう一度模様を確かめた。
「だが、なぜこんなものがここにある?」
誰も答えなかった。
洞窟の前を風が通り、木々の枝を揺らした。
その後も周囲を調べたが、人の姿は見つからなかった。足跡の一部は岩の上で途切れ、さらに奥へ進むものは木立の間へ続いていた。
ガストンはそこで捜索を打ち切った。
「今日は戻る」
五人は馬を引き、来た道を引き返した。
*
帰りは、来た時よりも口数が減っていた。
雪を踏む音に、馬具の軋む音が重なる。ガストンは先頭を歩き、時折、道の脇へ目を向けていた。
イリスも黙って歩いていたが、ふと昨日のことを思い出した。
河原で立ち止まり、木々を見上げていたローザ。帰りの道でも、何かを探すように周囲を見回していた。
――今日は誰もいない。
イリスは前を歩くガストンを見た。
「ガストン」
「どうした?」
「昨日、ローザと山へ来ました」
「また随分遠くまで行ってたのか」
横からルノーが笑った。
イリスは少しだけ視線を逸らす。
「……それは、今は関係ありません」
「ある気がするけどな」
「ルノー」
セシルが軽く睨んだ。
イリスは話を続けた。
「その時、ローザが言っていたんです」
ガストンが振り返る。
「何をだ?」
「山の妖精たちを、一人も見かけないと」
一行の歩みが少し緩んだ。
「妖精?」
エティエンヌが眉を寄せる。
「普段はいるそうです。木の上や、道の近くにも」
「草や石に紛れてると、俺にはさっぱり分からんけどな」
「私も見落としていることは多いと思います。ですがローザは、いつもと違うと言っていました」
ガストンは何も言わなかった。
少し先へ目を向けたまま歩き、それからイリスへ聞いた。
「昨日通ったのは、どの辺りだ」
イリスは尾根の向こうにある川と、帰りに選んだ道を伝えた。
ガストンは頷いた。
「……そうか」
それ以上は何も言わず、再び前へ向き直った。
街道へ戻ると、五人は馬へ跨がった。
ヴァレーヌへ着く頃には、陽が傾き始めていた。
*
街門を抜け、市場広場へ差しかかったところで、人だかりが目に入った。
「なんだ?」
ルノーが馬の歩みを緩める。
広場の端に停まった荷車を、人々が取り囲んでいた。中心にいるのは旅装の商人で、荷台の縁へ片手を置いて話している。
五人は通りの脇へ馬を寄せた。近づくと、集まっていた者たちが場所を空けた。
「本当に見たのか?」
誰かが聞いた。
商人が頷く。
「ああ。セーヌの方だ」
ざわめきが広がった。
「見慣れない船がいた。商船には見えなかったな」
「軍の船か?」
「分からん」
商人は首を振る。
「ただ、荷を積んでるようには見えなかった」
周囲の者たちが顔を見合わせた。
別の男が聞く。
「武装してたって話もあるぞ」
「ああ、それも聞いた」
商人が続けた。
「川岸で武器を持った連中を見たって奴がいる。俺が直接見たわけじゃないが、中央じゃ結構な噂になってる」
ガストンが口を開いた。
「どんな噂だ?」
商人が彼を見る。騎士だと気づいたのか、荷台から手を離して少し姿勢を正した。
「北方の連中が、また動いてるんじゃないかって」
その言葉を聞いた瞬間、イリスは拳を握った。
――北方。
濡れた石が脳裏をよぎった。
怒号と鉄の音。何かが倒れる、重い音。
「イリス?」
セシルの声がした。
顔を向けると、すぐ隣からこちらを見ていた。
イリスは握っていた拳を開いた。
目の前には荷車があり、その向こうでは商人がガストンの問いに答えている。広場を行き交う人々の声も、また耳へ戻ってきた。
「……なんでもありません」
セシルは少しの間こちらを見ていたが、やがて商人の方へ目を戻した。
イリスも話へ耳を傾けた。
*
詰所へ戻ると、五人は山中で見つけた痕跡と、広場で聞いた話を報告した。
笛は卓上へ置かれた。
ガストンは略図の上で洞窟の場所を示し、足跡が続いていた方向を伝えた。商人が直接見た船の話と、川岸の武装集団についての伝聞は、分けて記録された。
報告をまとめると、ガストンは立ち上がった。
「俺は上と話してくる」
そう言って詰所を出ていった。
残された四人は、しばらく黙っていた。
最初に口を開いたのはルノーだった。
「なんか、物騒な話になってきたな」
椅子の背にもたれる。
「大事にならなきゃいいけど」
「セーヌの船まで、こっちに関係があるとは限らないだろ」
エティエンヌが言った。
「山に入り込んでいる連中のことは、調べる必要があるがな」
「そうね。別の話ならいいけど」
セシルが答えた。
ルノーは卓上の笛へ目を向けた。
「それ、商人が落としただけだったりしてな」
「それなら、その商人がここへ来たかどうかを調べればいい」
「そうだけどさ」
エティエンヌの返事に、ルノーは肩をすくめた。
イリスは会話に入らず、机の上を見ていた。
笛の細工と、その脇に広げられた略図。昼に歩いた斜面を思い返そうとしても、広場で聞いた言葉が間へ入ってきた。
北方の連中。
イリスは膝の上で手を開き、指先を伸ばした。
やがて扉が開いた。
ガストンが戻ってくる。
表情はいつもと大きく変わらなかったが、四人の前へ立つと、雑談が止まった。
「話は通した」
四人が彼を見る。
「当面、警戒を怠るな」
ガストンは卓上の略図へ目を落とした。
「巡回では、今日みたいな痕跡を見逃すな。城門側にも情報を回す。商人から入る話も拾っておけ」
一人ずつ顔を見る。
「山側の巡回も少し増やす」
そこで少し間を置いた。
「それと、異変を見つけても少人数で勝手に動くな。必ず報告しろ。指示を仰げ」
「了解」
エティエンヌが答えた。
他の三人も頷く。
イリスも顔を上げ、ガストンを見て返事をした。
「はい」
ガストンはそれを確認してから、息を吐いた。
「今日は終わりだ」
ルノーが大きく肩を回した。
「なんか疲れたな」
「今日は歩いたからね」
セシルが笑う。
ルノーは他の三人を見た。
「みんなで飯食っていこうぜ」
「そうね。たまにはいいね」
セシルが答え、エティエンヌも頷いた。
三人の視線がイリスへ向く。
「イリスも行くだろ?」
「私はやめておきます」
「なんで?」
「ローザが迷惑をかけるので」
即答だった。
「また何かやったのか?」
「まだ今日は何もしていません」
「まだって言ったね」
セシルが笑う。
イリスは聞こえなかったことにした。
*
装備を戻して詰所の前へ出ると、午後の光が向かいの壁を照らしていた。
「ローザ」
呼びながら、いつもいそうな場所を探す。
窓の下にも、荷箱の上にもいない。少し先へ歩いてから顔を上げると、低い建物の屋根に茶色いものが見えた。
ローザだった。
日当たりのいい場所で仰向けになり、完全にくつろいでいる。
その隣に、もう一つ何かがいた。
水色だった。
ローザより少し向こう側で、同じように仰向けに寝ている。屋根の縁に隠れて顔はよく見えず、こちらも微動だにしなかった。
イリスは見上げた。
「……ローザ、帰りますよ」
ローザが起き上がった。
「はーい」
隣を見る。
「またね」
水色の妖精は起きなかった。返事もない。
ローザは気にする様子もなく、屋根から張り出した木へ移り、枝を伝って降りてきた。
イリスは歩き出す。
少ししてから尋ねた。
「お友達ですか?」
「今日、知り合った」
「そうなんですか」
「うちの塀の上に座ってたんだ」
「……そうなんですか」
イリスはそれ以上聞かなかった。
ローザも特に説明する気はないらしく、イリスの横を歩いている。
二人はそのまま、《赤い木の実亭》へ向かった。
背後では、水色の妖精がまだ屋根の上で眠り続けていた。




