第五話 北からの風
朝のヴァレーヌは、まだ薄い雪雲の下にあった。
屋敷の裏手では、厩番が馬の鞍を確かめていた。馬が小さく鼻を鳴らすと、白い息が冷たい空気の中へほどけていく。
イリスは厚手の外套を羽織り、手袋をはめた。腰には普段使いの短い剣を下げている。今日は騎士団へ向かう格好ではなかった。
休日だった。
玄関を出ようとしたところで、使用人が布包みを差し出した。
「イリス様、お昼を」
「ありがとうございます」
受け取ると、思っていたより少し重い。
パンと干し肉、それにチーズか何かだろう。長い外出になることを、屋敷の者にはすっかり見抜かれているらしい。
「また遠くまで行くの?」
足元から声がした。
ローザが、茶色い丸い身体でこちらを見上げていた。
「少しだけです」
イリスは何気なく答えた。
ローザがじっと見つめる。
「ローザも行く」
「迷子になるといけないから、いい子にしているんですよ」
「ここは庭みたいなものだもん」
ローザが胸を張った。
イリスは少しだけ目を細める。
「では、置いていかれないようにしてください」
「置いてかれないよ」
そう言って先に駆けていったが、厩の前まで行くと止まった。馬を見上げてから、イリスが来るのを待っている。
近づくと、馬も彼女に気づいた。首を振り、小さく鼻を鳴らす。
「今日は少し遠くまでお願いします」
首筋を撫でると、手袋越しに温もりが伝わってきた。
ローザが横から言った。
「少しじゃないと思う」
「少しです」
イリスは鞍へ跨がり、ローザを前へ乗せた。いつもの場所へ収まると、ローザは早くも通りの方を見ている。
西門から町へ入り、北へ向かう間は、ゆっくり進んだ。
朝の市場では店を開ける準備が始まっていた。薪を抱えた男が道を横切り、水桶を運ぶ女が馬を避けて軒先へ寄る。イリスは軽く会釈し、手綱を短く持ち直した。
パン屋から焼きたての香りが流れてきた。
店先を通り過ぎる時だけ、ローザがそちらを見た。
「帰りです」
「まだ何も言ってないじゃん」
北門を抜けると、景色が開けた。
街道沿いの畑は薄い雪に覆われ、その向こうに低い丘と森が続いている。町を出入りする荷車を何台か見送った後、イリスは街道から脇へ続く道を選んだ。
家々が遠ざかり、やがて木々の間へ隠れる。踏み跡のある細道を進むうちに、人の声は聞こえなくなった。
イリスは馬の足元を見た。
雪は薄く、その下の地面もよく知っていた。木立を抜けて道幅が広がったところで、少し身体を前へ倒す。
踵を軽く入れると、馬が速度を上げた。
蹄の音が変わる。硬く締まった地面を打つ音に、雪を蹴散らす柔らかな音が重なった。鞍を通して馬の力が伝わり、身体が自然にその動きへ合っていく。
冷たい風が頬を打った。
外套の裾が揺れ、背へ流した黒髪がなびく。イリスは手綱を握る指先の力をわずかに緩め、道の曲がりに合わせて重心を移した。
馬が応える。
木々の間を抜け、緩い斜面を上っていく。呼吸と蹄の音が同じ調子に揃ってくると、イリスの口元がわずかに緩んだ。
「ああ、気持ちいい」
「また飛ばしてる!」
ローザが外套へしがみついた。
「……このくらい普通です」
「普通じゃないよ!」
イリスは答えなかった。
道の先を確かめ、もう少しだけ馬を進ませる。
「ほらー!」
ローザの声が、木々の間へ響いていった。
*
尾根を越えた先には、川が流れていた。
雲の切れ間から陽が差し、冬の水面を細かく照らしている。岸辺の石には雪が残っていたが、流れに近いところでは黒い岩肌が濡れていた。
イリスは河原へ下りる手前で馬の歩みを緩め、そのまましばらく進んだ。開けた場所へ出ると、ようやく手綱を引く。
「ここにしましょう」
鞍から降り、ローザを地面へ下ろした。
馬の手綱を取って水辺へ連れていくと、馬は鼻先を近づけ、川の水を飲み始めた。イリスは首筋を撫でてやり、落ち着いたところで荷から餌を取り出した。
その間に、ローザは河原を走り回っていた。雪の残った場所へ飛び込み、岩へ登っては、また降りる。
「落ちないでくださいね」
「落ちないよ」
直後、雪の下へ足を取られた。
身体が半分埋まった。
「……」
「……」
ローザは何事もなかったように這い出した。
「今のは落ちてないから」
「そうですか」
イリスは馬の様子をもう一度確かめると、雪のない大きな岩へ腰を下ろした。
布包みを開く。
パンと肉、チーズ。それに、小さく切った果物も入っていた。
「お弁当」
さっきまで雪まみれだったローザが、もう横にいる。
「あなたの分もあります」
「やった」
イリスがパンを渡すと、ローザは両前脚で抱え、そのまま齧りついた。
イリスも食べ始めた。
目の前には川があり、その向こうに森が広がっている。枝を落とした木々の間から、雪を被った斜面が見えた。街の音は届かず、風と水の音だけが続いていた。
パンをひと口食べ、ゆっくり噛む。
何を話そうかと考えなくてもよかった。誰かの指示を待つ必要もない。馬を走らせ、好きなところで止まり、こうして景色を眺める。
少し冷たくなったチーズも、家で食べる時よりおいしく感じられた。
ローザは先に食べ終わり、また河原を歩き始めた。岩の間を覗き、流れてきた枯れ枝を前脚で押さえる。枝が水へ戻ると、しばらくその行方を追っていた。
やがて、ふいに立ち止まった。
対岸の木々を見上げ、それから川沿いへ顔を向ける。鼻先を動かした後、もう一度、頭上の枝を見た。
「おかしいなあ」
小さな声だった。
イリスが振り返る。
「どうしました?」
「んー……」
ローザは首を傾げた。
しばらく辺りを見回してから、イリスのところへ戻ってくる。
「なんでもない」
「そうですか」
イリスは果物を一切れ差し出した。ローザは受け取り、隣へ座って食べ始めた。
食事を終えても、すぐには立たなかった。イリスは布包みを畳み、川の流れを眺めながら、もうしばらく馬を休ませた。
*
帰りは別の道を選んだ。
川沿いを進み、低い尾根へ上がってから、森を抜けてヴァレーヌへ戻る道だった。
午後の林には日陰が多く、枝の間に残った雪が白く浮かんで見えた。鳥の声がして、少し先では小さな動物が道を横切った。
イリスは馬の歩みに身体を任せていたが、ローザは落ち着かなかった。
右を見て、左を見る。低く張り出した枝の下を通る時には、身体を捩って後ろまで確かめていた。
「どうしたのです?」
イリスが尋ねると、ローザは木の上を見たまま答えた。
「森の妖精たちを全然見かけないなって」
イリスも周囲を見回した。
行きには馬を走らせることに気を取られ、妖精がいるかどうかまで見ていなかった。今は道端にも、木の根元にも、それらしい姿が見つからない。
「いつもいるのですか?」
「いるよ」
ローザが即答した。
「木の上にいるのとか、道端で走り回ってるのとか」
「この辺りにも?」
「いるってば」
ローザは倒木の陰を覗き、それから頭上の枝へ目を移した。
「今日は誰もいない」
イリスは馬の歩みを少し緩めた。
町の中で見かける妖精なら、馴染みの姿もある。だが、この森のどこに、どんな妖精が暮らしているかまでは知らなかった。
「寒いからでは?」
「うーん……そういう感じじゃないんだけどな」
ローザは納得しない様子で、また道の後ろを見た。
イリスも一度振り返った。
雪の上には馬の蹄の跡が続き、低い枝が風に揺れている。しばらく耳を澄ませたが、聞こえるのは鳥の声と、馬が鼻を鳴らす音だけだった。
手綱を戻し、先へ進んだ。
山道を下り始めると、木々の間からヴァレーヌが見えてきた。城壁の内側に屋根が重なり、煙突から細い煙が立ち上っている。
イリスは進路を西へ取り、町の外側を回って家へ向かった。
屋敷へ着く頃には、陽が傾き始めていた。
イリスが外套に付いた雪を払っていると、玄関からアデルが顔を出した。
「また、そんな遠くまで行っていたの?」
「少しだけです」
アデルは娘を見た。それから、厩番へ引き渡される馬と、空になった布包みへ目を移す。
「あなたの『少し』は、あまり信用できないわね」
イリスは答えず、少しだけ視線を逸らした。
その足元で、ローザが胸を張る。
「今日は遠くまで行ったよ」
イリスがゆっくり見下ろした。
「……ローザ」
「でも迷子にならなかったでしょ」
アデルが笑った。
「二人とも、中へ入りなさい。すっかり冷えているでしょう」
イリスは頷き、布包みを抱え直して玄関へ向かった。
*
翌朝、イリスは少し寝坊した。
目を開けた時、窓の明るさがいつもと違った。
しばらくそれを見てから、身体を起こす。
「……まずい」
寝台の端で丸くなっていたローザが、片耳を動かした。
イリスは急いで着替え、鏡の前で髪をまとめた。髪飾りを選ぶ余裕はない。手近な留め具を使い、腰へ剣を下げて部屋を出た。
ローザはまだ眠そうにしていたが、構っている暇はなかった。
朝食を手早く済ませ、外套を羽織る。
屋敷を出ると、空気は昨日と変わらず冷えていた。イリスは襟を合わせ、城門へ向かって歩調を速めた。
市場広場へ差しかかる頃には、すでに多くの店が開いていた。
野菜を並べる籠の向こうで、店主が客へ声を掛けている。肉屋では吊るされた肉の下へ桶が置かれ、隣の店では反物が広げられていた。
「予定していた荷物が全然届かないの。商売上がったりだよ……」
店先から、商人のぼやく声が聞こえた。
少し先では、樽の蓋を閉めた男が首を傾げている。
「塩が来ないんだ。海の方で何かあったのかな……」
イリスはその横を通り過ぎた。
荷車の脇で話す男たちの声も耳へ入ってくる。
「街道を通らずに、遠回りして来てる商人がいるらしいぞ」
「なんでまた?」
「怪しい集団を見たって言ってたんだ」
「また北の連中か?」
「さあな。詳しくは聞いてない」
イリスは詰所の方角を見た。
立ち止まって聞けば、また時間を使う。荷車と人の間を抜け、軍事区画へ急いだ。
*
詰所では、すでにガストンたちが集まっていた。
エティエンヌは卓上の記録を確かめ、セシルは外套の留め具を直している。ルノーがその横で、手袋を引き上げながら話していた。
「塩が来ないって言ってたんだ。なくなると困るよな」
「大袈裟なのよ」
セシルが返す。
「荷車の車輪でも壊れて、直してるんじゃない?」
「でも、他にも来ない荷物があるって言ってたぞ」
「北の連中が出てるんだろ」
エティエンヌが記録から顔を上げた。
「この前の六人みたいなのが、まだいるのかもしれない」
「また追い払いに行くのか」
「そうと決まったわけじゃない」
少人数の北方人が入り込み、街道や集落の近くへ姿を現すことは珍しくなかった。見つければ追い払い、抵抗すれば捕らえる。ルノーたちにとっては、それも巡回の仕事のうちだった。
ガストンは少し離れたところで革帯を確かめていた。
「他の荷物も、というのはどこで聞いた」
ルノーが振り返る。
「市場です。布屋でも何か言ってました」
「そうか」
ガストンは帯を締め直した。
その時、扉が開いた。
イリスが入ってくる。頬に赤みが差し、肩がわずかに上下していた。
全員がまだ出発していないことを確かめ、ひと呼吸置く。
「……間に合った」
「珍しいな」
ルノーが言った。
「何がですか」
「お前が最後」
「遅れてはいません」
「何も言ってないだろ」
イリスは外套の襟を直し、それ以上は答えなかった。
装備を整え、厩舎へ向かおうとしたところで、ガストンも立ち上がった。
「今日は俺も行く」
エティエンヌが顔を向ける。
「同行されるんですか」
「ああ。たまには山の空気が吸いたい」
そう言って、ガストンは外套を肩へ掛けた。
*
五人は雪の残る街道を進んだ。
町を離れても、道には荷車の轍が残っていた。前日からのものもあれば、雪を割って新しく刻まれたものもある。
ルノーが馬上で指を曲げ伸ばしした。
「今日は冷えるな。手足が痺れてきた」
「動かしておけ」
ガストンが言った。
「やってますよ」
「口もよく動いてるな」
「そこは寒くても平気なんで」
セシルが小さく笑った。
イリスは前方を見ていた。今朝の慌ただしさはもう収まり、馬の歩みに合わせて身体が動いている。
森へ近づくと、道の日陰に残る雪が厚くなった。
ガストンは普段と変わらず皆と言葉を交わしていたが、時折、林の切れ目や街道脇へ目を向けていた。斜面へ入る細道の前では、少し馬の歩みを緩める。
「こんな寒いんじゃ、人も歩いてないわけだぜ」
ルノーが言った。
「荷車には二台会ったでしょう」
「人が少ないって話だよ」
その時、ガストンが手を上げた。
「待て」
五頭の馬が止まった。
ガストンは道の端へ馬を寄せて降りた。手綱をエティエンヌへ渡し、雪の上にしゃがみ込む。
「足跡がある」
イリスも馬上から目を向けた。
林の中から、複数の足跡が街道の手前まで続いていた。低い枝の下を抜け、道を見渡せる木の陰へ集まっている。
そこから先には出ていなかった。
足跡は向きを変え、また林の中へ戻っていた。
「山中からここまで来ている。街道を見つけて、引き返したように見えるな」
ガストンが言った。
エティエンヌが雪の上を見渡す。
「猟師じゃないのか?」
「その可能性はある」
ガストンは少し先の木立へ目を向け、立ち上がった。
「だが確認する。この先に気になる場所がある」
休日に妻のための獲物を求めて山へ入ることもあるガストンは、この辺りの地形をよく知っていた。
エティエンヌから手綱を受け取ると、馬を引いて林へ向かう。
「ここからは降りろ。音を立てるな」
四人も馬を降りた。
イリスは手綱を握り直し、ガストンの後へ続いた。
五人は足跡を追い、街道を外れた。




