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第四話 続いていく日々

報告と捕虜の引き渡しを終える頃には、昼を少し過ぎていた。


 詰所を出ると、朝よりも人の増えた広場を、荷を抱えた兵が横切っていった。厩舎の方からは馬の嘶きが聞こえる。今日の仕事は、ひとまずここまでだった。


「赤い木の実亭?」


 隣を歩いていたルノーが尋ねた。


「……なぜ分かるんですか」


「毎回行ってるから」


 イリスは答えず、装備室へ向かった。


 鎧を外し、金具を布で拭いて、決められた場所へ戻す。脚甲の縁には、溶けた雪に混じって泥が付いていた。そこだけ念入りに落とし、革紐に傷みがないことを確かめた。


 長剣を掛けて私服へ着替えると、腰には朝持ってきた短い剣を戻した。外套を羽織り、襟に挟まった黒髪を背へ払う。


 いつの間に戻ってきたのか、ローザが装備室の扉の前で待っていた。


「帰る?」


「まだです」


「どこ行くの」


「赤い木の実亭へ」


 ローザの耳が動く。


「お菓子?」


「お茶です」


「お菓子もある」


「あなたのではありません」


「まだ何も言ってないじゃん」


 イリスは扉を開けた。


「行きますよ」


「はいはい」


 ローザがひょこひょこと後をついてくる。


 軍事区画を抜けるにつれて、木剣の音や兵たちの掛け声が遠ざかった。代わりに聞こえてきたのは、店先で交わされる声と、石畳を進む荷車の音だった。


 イリスは外套の前を合わせた。肩に鎧の重みがないだけで、歩くのがずいぶん楽に感じられる。


「お腹すいた」


 ローザが言った。


「知りません」


「お腹すいた」


「さっきまで遊んでいたでしょう」


「遊ぶとお腹すくんだよ」


「では、自分で何か探してください」


「イリスがご飯くれる」


「悪口を言った子は、ご飯抜きです」


「イリスひっかくぞ」


 イリスが足を止めた。


「……今、何と?」


「なんでもない」


「聞こえました」


「気のせい」


「ローザ」


「お腹すいた」


 都合よく話を戻した。


 イリスはしばらくローザを見下ろしたが、やがて小さく息を吐いて歩き出した。


 朝には半分眠っていた通りにも人が増え、店先には籠や樽が並んでいた。石畳には雪解け水が細い筋を作り、軒先から落ちる雫が陽を受けて光っている。


 それでも寒さは抜けない。人々は厚手の外套を着込み、手袋をしたまま買い物をしていた。建物の間から見える山腹には、まだ雪が残っている。


 通りに面した店の一つでは、鍋から白い湯気が上がっていた。焼いた肉の脂が火へ落ち、香草の匂いに混じって香ばしく漂ってくる。


「お腹すいた」


「何度目ですか」


「数えてない」


「先ほどから、そればかりです」


 ローザは通りの店を片っ端から見ながら、イリスの横を歩いていた。


 やがて、赤い木の実を象った小さな看板が見えてきた。


 《赤い木の実亭》。


 木造の小さな茶店だった。窓はわずかに曇り、扉の隙間から甘い香りが漏れている。


 ローザが先に走った。


「ご飯!」


「待ちなさい」


 扉を開けると、暖かい空気が頬へ触れた。蜂蜜と焼き菓子、それに果実を煮た甘酸っぱい匂いがする。


 壁も床も年季の入った木造で、奥では小さな炉が赤く燃えていた。数人の客がいるだけで、店内には杯を置く音が静かに響いている。


 その奥で、赤い髪が揺れた。


「いらっしゃい――あ」


 マルグリットだった。


 肩にかかる赤い髪を耳へ掛け、手にしていた布をカウンターへ置く。鼻のあたりにそばかすの散った顔が、イリスを見た途端にほころんだ。


「イリス」


「こんにちは、マルグリット」


 イリスも笑った。わずかに口元が緩んだだけだったが、マルグリットはそれを見て、さらに嬉しそうな顔をした。


「仕事終わり?」


「はい」


「ローザも?」


「お腹すいた」


「そっちは見れば分かる」


「すごくすいた」


「はいはい」


 マルグリットは慣れた様子で奥を指した。


「いつものところ空いてるよ」


 イリスは窓際の席へ座った。ローザは当然のように隣の椅子へ飛び乗る。


 ほどなく、湯気の立つ杯が運ばれてきた。蜂蜜を溶かし、果実を煮出した温かな飲み物だった。赤みのある液面から甘い香りが立っている。


 その隣には、木の実を載せて焼いた菓子が置かれた。ローザの前にも、小さな皿が運ばれてくる。肉と穀物を混ぜた、いつもの食事だった。


「ほら」


「やった」


 ローザはためらわず食べ始めた。


 イリスは両手で杯を包んだ。手袋を外した指先へ、じわじわと熱が戻ってくる。一口飲むと、蜂蜜の甘さに続いて果実の酸味が広がった。


「……落ち着きます」


「それ、毎回言ってる」


 マルグリットが笑う。

挿絵(By みてみん)

「そうですか?」


「言ってるよ」


「覚えていません」


「都合いいなあ」


 ローザが横から言った。


「イリスは都合いいよ」


「食べながら喋らないでください」


「もう食べた」


「え?」


 見ると、皿はもう空だった。


「早すぎませんか」


「お腹すいてたもん」


「では終わりですね」


「うん」


 次の瞬間、ローザの前脚が伸びた。


 イリスの焼き菓子から木の実を一つ取る。


「ローザ」


「なに」


「今、取りましたね」


「取ってない」


「口に入っています」


 ローザはもぐもぐしている。


「証拠ない」


「あります」


「ない」


「口の中です」


 マルグリットが吹き出した。


「相変わらずだね、二人とも」


「ローザが勝手に」


「イリスも毎回取られてるじゃん」


「今日は油断しただけです」


「昨日も?」


「昨日は来ていません」


「そういう意味じゃなくて」


 マルグリットは笑いながら店内を見回した。客たちはそれぞれ食事や話に戻っている。今のところ、呼ばれる様子はなかった。


 イリスの向かいへ浅く腰を掛け、少し顔を覗き込む。


「で」


「何ですか」


「また怒られた?」


 イリスの手が止まった。


「……なぜですか」


「その顔」


「普通です」


「普通じゃない」


「普通です」


「じゃあ、今日は何したの」


「何も」


「ほんとに?」


「任務を遂行しただけです」


「その言い方、絶対何かやってる」


 イリスは杯へ視線を落とした。


「相手が武装していました」


「うん」


「こちらに気づきました」


「うん」


「一人が逃げ出しました」


「うん」


「ですから」


「一人で行った?」


「……」


 マルグリットが肩を落とす。


「また?」


「状況的に必要でした」


「また?」


「そのままでは逃げられる可能性が」


「また?」


「……結果としては全員無傷です」


「ガストンさんに怒られたでしょ」


「少しだけです」


 ローザが即座に言った。


「長かった」


 イリスが横を見る。


「ローザ」


「ずっと怒られてた」


「ずっとではありません」


「帰ってきてからずっと不満そうだった」


「それは今関係ありません」


 マルグリットが笑いをこらえている。


「ほら」


「何がです」


「お見通し」


「……」


「昔からそうだもん。自分が前に出ればいいって思ってる」


「その方が早い場合もあります」


「そういうところ」


「エティエンヌにも同じことを言われました」


「じゃあ直したら?」


「……努力します」


 マルグリットはじっと見た。


「今、全然直す気ない顔してる」


「あります」


「ない」


「あります」


 ローザがイリスの菓子をもう一つ取った。


「ないよ」


「ローザ」


「これおいしい」


「返しなさい」


「もう食べた」


 イリスが睨んでも、ローザは平然としていた。


 マルグリットはとうとう声を出して笑った。


 イリスは残りの焼き菓子を自分の方へ寄せた。皿の端に落ちた木の実まで拾い、今度はローザの届かない側へ置く。


 その様子を見ていたマルグリットが、思い出したように言った。


「そうだ」


「何ですか」


「《蒼羽堂》に新しい本が入ったって」


 イリスの目が上がった。


「どのような?」


「北方を旅した商人の記録らしいよ」


「北方?」


「うん。海岸とか、寒い村とか、森とか。北方戦士のことも書いてあるって」


「……」


「興味ある?」


「少し」


 即答だった。


 マルグリットが笑う。


「その顔で少しは無理あるよ」


「普通です」


「さっきより分かりやすい」


「そうでしょうか」


「そう」


 イリスは杯の残りを飲み切った。焼き菓子を口へ運ぶ間隔も、さっきより短くなっている。


 ローザがその様子を見た。


「行くの?」


「少し見てきます」


「少し?」


「少しです」


「ユーグがいると思うよ」


 マルグリットが言った。


「ありがとうございます」


 イリスは席を立ち、代金を払って外套を羽織った。


 ローザが椅子の上で伸びをする。


「本屋行くの?」


「はい」


「行ってもつまらない」


「では帰りますか」


「やだ」


「では来ますか」


「やだ」


 イリスが黙って見下ろした。


「……どうしたいのです」


「ここにいる」


 ローザはマルグリットの方を見た。


 イリスもそちらを見る。


「仕事の邪魔でしょう」


「別に構わないよ」


 マルグリットは笑いながら答えた。


「店の中で寝てるだけでしょ」


「たぶん」


「たぶん?」


「お腹すいたら起きる」


「さっき食べたでしょう」


「もう昔のこと」


「数分前です」


 マルグリットが吹き出した。


「置いてっていいよ。こっちで見てるから」


「……では、お願いします」


「はいはい」


 ローザはもう椅子の上で丸くなり始めていた。


 イリスは扉の前で振り返る。


「勝手に厨房へ入らないでください」


「入らない」


「本当に?」


「たぶん」


「ローザ」


「早く本見てきなよ」


 完全に追い出された。


 イリスは小さく息を吐き、《赤い木の実亭》を出た。


 *


 外へ出ると、空気がまた鋭くなった。


 温まった頬へ風が触れ、耳の脇の髪を揺らす。イリスはそれを指で押さえ、雪解け水の流れる石畳を歩いた。


 《蒼羽堂》は、そこから少し先の通りにあった。


 目立たない看板を掲げた小さな店で、細い窓からは中の様子もあまり見えない。扉を押すと、頭上の小さな鈴が鳴った。


 そしてイリスは、すぐに分かった。


 寒い。


 風がないだけで、外と大して変わらなかった。


 店内には本棚が並び、その間に写本台が置かれている。木板で挟んだ綴じ本や、紐でまとめられた冊子、巻かれたままの記録が、棚ごとに収められていた。隅には、縁の崩れた羊皮紙の束まで積まれている。


 革と羊皮紙、それに乾いた木の匂いがした。


 奥ではユーグが写本作業をしていた。細身の身体を厚手の服で包み、机へ向かっている。指先の出る手袋をはめた手が、ゆっくり筆を動かしていた。


「こんにちは」


 声を掛けると、ユーグが顔を上げた。


「イリスか」


「はい」


「今日は仕事帰りか」


「そうです」


 ユーグはイリスの腰の剣と外套を一度見て、手元へ視線を戻した。


「何か探しているのか」


「マルグリットから、新しい本が入ったと聞きました」


 筆が止まる。


「北方の旅行記か」


「はい」


 返事が少し早くなった。


 ユーグは筆を置き、店の奥へ向かった。


「少し待て」


 戻ってきた時、手には一冊の綴じ本があった。


 表紙の革は擦れ、角には黒ずんだ跡がある。新しく店へ入った本ではあっても、作られたばかりではないらしい。綴じ目には修繕の糸が見えた。


 イリスは両手で受け取った。


「商人が北へ行った時の記録だ」


 ユーグが言う。


「海沿いを回っている。途中から内陸にも入っているな」


 イリスは最初の頁を開いた。


 文字の大きさには少しばらつきがあり、行の間へ小さな書き込みが添えられていた。土地の名前らしいものの横には、後から別の綴りが書き足されている。


 最初に目を引いたのは、海岸を進んだ時の記述だった。


 灰色の海と、風の強い村。商人は港へ着くまでに荷を濡らし、そのことに何行も費やしていた。次の頁では、泊めてもらった家の食事について、不満とも感心ともつかない言葉を残している。


 文章は決して上手くなかった。観察もところどころ大雑把で、道順の説明より、その日に食べたものの方が詳しい箇所さえある。


 それでも、旅人自身が何を見て驚いたのかは、よく分かった。


 イリスは立ったまま読み始めた。


 少しだけ、そのつもりだった。


 やがて、ユーグが写本台の脇の椅子を顎で示した。イリスは礼を言って座り、膝の上へ本を広げた。


 頁をめくる。


 海岸の記述は、冬の荒天へ移っていた。海が空と同じ色になり、波飛沫が岩へ凍りつく。風の強い日には、荷を運ぶことはおろか、立っていることさえ難しかったという。


 イリスは少し顔を近づけた。


 次の頁には、小さな寒村の暮らしが書かれていた。家々は風を避けるよう低く建てられ、冬の間は人も家畜も長く屋内で過ごす。商人はそこで毛皮を買い、持参した品の一部を売っていた。


 店へ誰かが入ってきた。


 ユーグと言葉を交わし、棚の前で何かを探している。


 イリスは顔を上げなかった。


 記録の中で、商隊は内陸へ入っていた。針葉樹の森を進み、凍った川を渡る。途中で見つけた狼の足跡については、道連れの男と意見が分かれたらしい。


 さらに先で、剣と斧を持つ戦士たちが現れた。


 イリスの指が止まった。


 商人が記した武器の形と、彼らの振る舞いを、何度か読み返す。意味の取りにくい言葉へ戻り、前後を確かめてから次へ進んだ。


 客が帰り、ユーグが写本へ戻った。


 筆先が羊皮紙を擦る音と、イリスが頁をめくる音が、静かな店内に続いた。


「イリス」


 声がした。


「はい」


「寒くないのか」


 ユーグだった。


 イリスは顔を上げた。


「少し」


「そうか」


 それだけ言って、ユーグはまた作業へ戻った。


 イリスも本へ戻った。


 しばらくして、頁の端を摘まむ指がうまく動かなくなった。指先を擦り合わせ、もう一度めくろうとして、ようやく手を止める。


 膝の上に置いた本へ、白い息が流れていた。


「……結構寒いですね」


 ユーグは顔も上げなかった。


「だから言った」


「言われてはいません」


「聞いた」


「違います」


「同じようなものだ」


 イリスは惜しむように開いた頁を見てから、本を閉じた。


「借りても?」


「構わん」


「ありがとうございます」


 本を外套の内側へ大事に収め、椅子を戻した。


 扉を開けて外へ出ると、冷たい空気が頬へ当たった。けれど、店の中と大して温度が変わらない。


 イリスは軒先で立ち止まり、両手へ息を吹きかけた。


「……寒かった」


 白い息が、指の間からゆっくり消えた。


 *


 《赤い木の実亭》へ戻ると、甘い匂いと暖気が迎えてくれた。


「おかえり」


 マルグリットが声を掛ける。


「ただいま戻りました」


「どうだった?」


「借りました」


 外套の内側から、本を少しだけ見せた。


「やっぱり」


 マルグリットが笑う。


「ローザは?」


「そこ」


 指差された窓際の長椅子に、ローザがいた。


 仰向けだった。


 腹を丸出しにして、前脚も後脚もだらりと伸ばしている。


「……」


 イリスは近づいた。


「ローザ」


 反応がない。


「ローザ」


 耳だけが少し動いた。


「帰りますよ」


 起きなかった。


 マルグリットが隣へ来た。


「さっきまで起きてたんだけどね」


「何をしていたのです」


「食べてた」


 イリスがローザを見る。


「何を?」


「いろいろ」


「……」


「ちゃんと私が見てたから大丈夫」


「そういう問題では」


 言いながら、イリスはローザの身体へ腕を回した。


 持ち上げると、思ったより重かった。


「……あなた、重いのよ……」


 ローザは起きない。むしろ腕の中で身じろぎし、さらに楽な姿勢へ収まった。


「食べすぎでは?」


「幸せそうだったよ」


 マルグリットが笑う。


「連れて帰ります」


「うん。またね」


「また」


 片腕にローザを抱えて店を出た。


 外套の内側には本があり、腰には剣がある。歩くたびに、すっかり力を抜いたローザの身体が揺れた。


「……重い」


 寝息だけが返ってきた。


 イリスは抱え直したが、下ろしはしなかった。


 冷え切った身体を温めてから帰りたかった。《銀霧泉》へ寄るため、町の西側へ向かう。


 西門へ近づくにつれ、家々の間隔が少しずつ広がった。店の並びが途切れ、低い柵や雪の残る空き地が増えていく。


 門を出ると、朝とは違う光が道へ差していた。雪の白さはやわらぎ、家の陰から長い影が伸びている。風が外套の裾を揺らした。


 イリスは襟を持ち上げ、ローザを抱く腕を替えた。


「……早く入りたいですね」


 ローザは起きなかった。


 しばらく進むと、道の先に白い湯気が見え始めた。


 岩の間を通る小さな水路から立ち上り、冷たい空気の中で薄くほどけていく。その向こうには、補修を重ねた木造の屋根が並んでいた。


 《銀霧泉》。


 ヴァレーヌの西にある、小さな温泉場だった。


 古い石組みの浴槽と木造の脱衣所があり、湯を引く細い水路が敷地を横切っている。豪華な場所ではない。入口の板は何度も踏まれて中央が減り、屋根の一部には新しい木材が継がれていた。


 仕事帰りや遠乗りの後、雪かきや狩りで身体が冷えた時には、誰かがここへ来る。入口に繋がれた馬や、壁へ立て掛けられた荷担ぎ棒を見れば、その日の客もおおよそ分かった。


 イリスにとっても、幼い頃から馴染みの場所だった。


 湯気に半分隠れた木札の前で、ようやくローザを起こした。


「ローザ」


「……ん」


「着きました」


「どこ」


「銀霧泉です」


 ローザが片目だけ開けた。鼻先を動かし、湯気の流れる方を見る。


「お風呂?」


「はい」


「入る」


「起きてください」


「運んで」


「嫌です」


「ここまで運んだじゃん」


「ここまでで十分です」


 イリスは地面へローザを下ろした。


 ローザは前脚を伸ばして背中を反らし、尻尾を震わせた。


「よく寝た」


「知っています」


「イリス重かった?」


「とても」


「失礼だなあ」


「事実です」


「まな板」


 イリスの手が動いた。


 ローザはすぐに湯気の向こうへ逃げる。


「待ちなさい」


「お風呂入る!」


「話を逸らさないでください」


 声が建物の中へ消えていった。


 *


 脱衣所には湿った暖気が流れ込んでいた。石と木と湯の匂いが混じり、外の冷たさが少し和らぐ。


 近所の女たちが何人か、衣服を畳みながら話していた。


「イリスじゃない」


「こんにちは」


「仕事帰り?」


「はい」


「北だったんでしょう」


「そうです」


「寒かったでしょう」


 イリスは少し考えた。


「山はそれほどでも」


 その場にいた一人が笑った。


「またそれ言ってる」


「寒くなかったわけではありません」


「あなたの『それほどでも』は信用できないのよ」


 イリスは返事をしなかった。


 外套を脱ぎ、腰の剣を外す。借りた本は布で包み、湯気や水の届かない棚の奥へ置いた。表紙の端がはみ出していないことを確かめてから、衣服を脱いだ。


 最後に銀の髪飾りを外し、長い黒髪をまとめる。


 湯気の向こうから、ローザの声がした。


「まだー?」


「今行きます」


「遅い」


「先ほどまで寝ていたでしょう」


 髪飾りを衣服の間へ収め、浴場へ向かった。


 石床は湯船へ近づくほど暖かかった。湯を汲んで身体を流すと、冷えた肌に熱が走る。


 岩を組んだ浴槽からは、絶えず湯が溢れていた。縁を伝った湯は小さな水路へ入り、外へ流れていく。頭上の開けたところから午後の光が差し、白い湯気を明るく照らしていた。


 ローザは縁の近くで、前脚だけを湯へ入れていた。


「熱い」


「最初だけです」


「熱いものは熱い」


「少しずつ入りなさい」


 イリスも片足を入れた。


 熱い。


 冷え切った足先へ、湯の熱が刺さる。一瞬だけ動きを止め、それからゆっくり身体を沈めた。


 膝から腰へ、湯が上がってくる。肩まで浸かり、背中を石へ預けると、ようやく息が抜けた。


 《蒼羽堂》で冷えた指先が、湯の中で少しずつほどけていく。握ったり開いたりしてから、イリスは目を閉じた。


「……生き返ります」

挿絵(By みてみん)

 ローザが横を見る。


「死んでたの?」


「比喩です」


「ややこしい」


「あなたも入りなさい」


「熱い」


「慣れます」


「イリス先に煮えて」


「煮えません」


 ローザはしばらく警戒していたが、やがて腹のあたりまでゆっくり湯へ入った。


「……」


「どうですか」


「悪くない」


「でしょう」


「でも熱い」


「慣れます」


 湯気の向こうで誰かが笑った。木桶が石へ触れる音に、湯の流れる音が重なる。


 イリスは肩の力を抜いた。


 朝から、いろいろな声を聞いた気がした。


 髪飾りを選んでいた時のローザ。食卓での母の小言。雪の上で呼び止めたエティエンヌの声と、帰ってから聞いたガストンの説教。


 四人で行っているのに、一人で危険を取るな。


 その言葉を思い返し、湯の中の指を見た。握っていた手を開くと、水面が小さく揺れた。


 次は、先に声を掛ける。


 そう考えたところで、マルグリットにも同じような顔を見せたことを思い出した。イリスは少しだけ眉を寄せ、鼻先まで沈みかけてから、また身体を起こした。


 湯船の向こうには、屋根の切れ目から山腹が見えていた。木々の間に残った雪が、白い湯気の向こうでぼやけている。


 帰ったら、借りた本の続きを読もう。


 商人は森を抜けた先で、どこへ向かったのだろう。戦士たちについても、まだ数頁しか読んでいない。


「イリス」


 ローザが言った。


「何ですか」


「お腹すいた」


 イリスは目を開けた。


「さっき食べたでしょう」


「お風呂入ると減る」


「減りません」


「減るよ」


「知りません」


「帰ったら何かある?」


「夕食があります」


「なに?」


「知りません」


「肉?」


「知りません」


「魚?」


「知りません」


「貝?」


 イリスがローザを見る。


「なぜ最後だけ具体的なのですか」


「好きだから」


「そうですか」


 ローザは満足そうに鼻先を上げた。


 イリスは小さく息を吐き、もうしばらく石へ背を預けた。


 *


 湯から上がる頃には、空の色が変わり始めていた。


 イリスは脱衣所で髪を拭き、ほぐれた黒髪へ指を通した。毛先にはまだ湿り気が残っていたが、身体は芯まで温まっている。


 衣服を重ね、銀の髪飾りを留め直した。外套を羽織ってから借りた旅行記を確かめる。濡れていない。それで安心して、外套の内側へ収めた。


 ローザは少し離れたところで身体を震わせ、水気を飛ばしていた。


「イリス」


「何ですか」


「お腹すいた」


「知っています」


「帰る?」


「帰ります」


「やった」


 腰の剣の位置を直し、外へ出る。


 温泉場の周囲には、白い湯気が漂っていた。夕方の冷気へ触れ、行きよりも濃く見える。イリスは襟元を留め直したが、もう寒さが刺さるようには感じなかった。


「行きますよ」


「うん」


 二人は家へ向かう道を歩き始めた。


 家々の煙突から上がる煙が増えている。どこかで夕食の準備が始まっているのだろう。煮込みの匂いに、薪の煙と、少し焦げたパンの匂いが重なった。


 ローザが何度も鼻を動かす。


「肉」


「どこの家ですか」


「知らない」


「では意味がありません」


「いい匂い」


「それは分かります」


「お腹すいた」


「先ほどから、そればかりです」


「ずっとすいてるもん」


 通りを離れると、人影が少なくなった。荷車の音が遠ざかり、靴の下で湿った土が鳴る。


 朝には薄く雪を被っていた草地も、日の当たる場所では地面が見えていた。石垣の陰や柵の根元には、まだ白い塊が残っている。


 ローザがわざわざそこへ足を乗せた。


「冷たい」


「なぜ踏むのです」


「あるから」


「意味が分かりません」


「イリスも踏んでみれば」


「嫌です」


「つまんない」


 イリスは答えず、そのまま歩いた。


 やがて、自宅の屋根が見えてきた。


 敷地の端には古い塔が立っている。夕方の光では石壁が暗く沈み、継ぎ目の影が深く見えた。イリスはそちらへ目を向けてから、玄関へ続く道を曲がった。


 扉を開ける。


「ただいま戻りました」


「おかえり、姉さん」


 先に声を返したのはエミールだった。


 居間の卓に本を広げている。イリスを見るなり、視線が外套の内側へ向いた。


「何持ってるの?」


「何も」


「嘘だ」


「なぜです」


「本の持ち方してる」


 イリスが止まる。


「本の持ち方とは?」


「大事そうに抱えてる時」


「普通です」


「見せて」


「嫌です」


「まだ何か聞いてないじゃん」


「だから嫌です」


 エミールが椅子から立ち上がった。


 イリスは旅行記を取り出し、卓の端へ置いた。外套を掛け、腰の剣を外している間にも、エミールは表紙を覗き込んでいる。


「それ何?」


「北方の旅行記です」


「貸して」


「嫌です」


「早い」


「私が借りました」


「読み終わったら?」


「それなら構いません」


「今ちょっとだけ」


「嫌です」


「姉さん大人気ない」


「知りません」


 ローザが二人の間を通り抜けた。


「イリス今日ずっとこんな感じ」


「ローザ」


「すぐ怒る」


「あなたが余計なことを言うからです」


 そこへアデルが台所から顔を出した。


「帰っていたのですね」


「はい。ただいま戻りました」


「おかえりなさい」


 アデルの目が旅行記へ向く。


「また本ですか」


「はい」


「夜更かしはしないように」


「……はい」


「今、間がありましたね」


「ありません」


「ありました」


 エミールがすぐ横から入る。


「絶対読むよ」


「読みません」


「昨日も読んでた」


「昨日とは違います」


「何が?」


「今日は疲れています」


「疲れているなら、なおさら早く寝なさい」


 アデルが言った。


「はい」


 イリスは少し視線を逸らした。


 そこへジェラールが奥から入ってきた。


「戻ったか」


「はい」


「何かあったか」


 イリスは少し考えた。


「少し」


 エミールが顔を上げる。


「その“少し”って何」


「任務上のことです」


「また何かやった?」


「何も」


 ローザが言った。


「怒られてた」


 イリスがゆっくり横を見る。


「ローザ」


「ほんとじゃん」


 ジェラールが眉を上げた。


「誰に」


「ガストンです」


「理由は」


「……少し前に出ました」


「少し?」


「少しです」


 ローザが首を振る。


「かなり」


「ローザ」


 ジェラールはため息を吐いた。


「朝、何と言った」


「山道へ入りすぎるな、と」


「それだけじゃない」


「……承知していて前へ出る、と」


「覚えているなら直せ」


「はい」


 アデルが横から聞いた。


「怪我は?」


「ありません」


 アデルはイリスの顔を見て、それから手元へ目を落とした。どちらにも傷がないことを確かめ、少し表情を緩める。


「なら今日はそれでいいです」


「はい」


「でも次は気をつけなさい」


「はい」


 ローザが小声で言った。


「何回目だろ」


 イリスの手が動く。


 ローザはすぐ椅子の下へ潜った。


「食事前に追いかけ回さないの」


 アデルの声が飛んだ。


 イリスの動きが止まる。


「……はい」


 エミールが笑った。


 *


 夕食が始まる頃には、窓の外は暗くなっていた。


 室内の灯りが硝子へ映り、その向こうに庭の雪がぼんやり見える。イリスは旅行記を脇の棚へ置き、自分の席についた。


 卓上には温かな煮込みと焼いた根菜、パン、それに少量の肉が並んでいた。ローザも当然のように、自分の皿の前へ座っている。


「肉」


「あります」


「もっと」


「まだ食べていません」


「先に言った」


「意味がありません」


 アデルが鍋から煮込みをよそった。


「今日は北だったのでしょう」


「はい」


「雪は?」


「上は深かったです」


「道は大丈夫だったか」


 ジェラールが聞く。


「はい。街道は問題ありませんでした」


「捕まえた男たちは?」


「六人です」


 エミールの手が止まった。


「六人?」


「はい」


「それが“少し”?」


「任務としては」


「姉さんの“少し”っておかしいよ」


「そうでしょうか」


「おかしい」


 ローザも頷いた。


「おかしい」


「あなたは黙っていてください」


 食事をしながら、イリスは今日のことを少しずつ話した。


 北の山道で足跡を見つけたこと。武装した男たちに気づかれ、そのうち一人を追ったこと。ジェラールは途中で何度か尋ねたが、イリスがガストンに言われたことまで話すと、それ以上は何も言わなかった。


 話が《赤い木の実亭》へ移ると、アデルがマルグリットの様子を聞いた。


「元気でした」


「それはよかった。今度会ったら、よろしく伝えてください」


「はい」


「ローザも、あまり食べ物をねだらないのですよ」


「ねだってない」


「では何をしていたのです」


「もらった」


 イリスが横を見た。


 ローザは肉を口へ運んでいる。


 《蒼羽堂》で旅行記を借りたことには、エミールが食いついた。どんな土地へ行った商人なのか、船のことは書いてあるのかと尋ねてくる。


「まだ途中までしか読んでいません」


「どこまで?」


「森へ入ったところです」


「その前は?」


「海沿いを回っています」


「じゃあ船のこともある?」


「少しは」


「見せて」


「食事中です」


 エミールは不満そうにパンを千切った。


 銀霧泉へ寄ったことを話すと、アデルはイリスの乾ききっていない髪へ目を向けた。


「寝るまでに、きちんと乾かしなさい」


「はい」


 炉の中で薪が崩れた。


 イリスは煮込みを口へ運んだ。湯で温めた身体に、食事の熱がゆっくり重なっていく。


 食事が終わり、食器が片づけられると、エミールはすぐ旅行記へ目を向けた。


「ねえ」


「嫌です」


「まだ言ってない」


「本でしょう」


「そう」


「嫌です」


「ちょっとだけ」


「私が先です」


「半分」


「嫌です」


「一章だけ」


「嫌です」


「姉さん」


「何ですか」


「大人気ない」


「知りません」


 アデルが横で笑った。


「二人で読めばいいでしょう」


 二人同時に答えた。


「嫌です」


 今度はジェラールまで笑った。


 イリスは棚から旅行記を取り、胸に抱えて立ち上がる。


「部屋へ戻ります」


 エミールも立った。


「持ってくの?」


「当然です」


「ずるい」


「私が借りました」


「明日貸して」


「読み終わったら」


「絶対だよ」


「考えます」


「今、話変わった」


 イリスは答えず、階段へ向かった。


 ローザが後ろからついてくる。


「イリス」


「何ですか」


「夜更かしする?」


「しません」


「する顔してる」


「していません」


「何時まで?」


「知りません」


「ほら」


「ローザ」


「はいはい」


 *


 部屋へ戻ると、イリスは旅行記を机へ置いた。


 窓辺には朝と同じ鏡があり、その前で小さな木箱が閉じられている。髪から銀の飾りを外すと、まとめていた黒髪が肩へ落ちた。


 留め具を確かめ、木箱の中へ戻す。毛先にはまだ少し湿り気が残っていた。乾いた布を取り、椅子へ座って拭いた。


 ローザは早くも寝台へ上がり、朝と同じ場所で丸くなっていた。


「読まないの?」


「髪を乾かしてからです」


「お母さんに言われたから?」


「濡れたままでは冷えます」


「ふーん」


 イリスは窓の外を見た。


 ヴァレーヌは静かだった。城壁の方には灯りが残り、近くの家の煙突から細い煙が上がっている。暗くなった庭の端には雪が白く残っていた。


 遠くで犬が一度鳴いた。


 イリスは布を置き、燭台を机の読みやすい位置へ寄せた。旅行記を開くと、昼間に読んだ文字が暖かな灯りの中へ浮かぶ。


「少しだけですよ」


 寝台からローザが言った。


「分かっています」


「昼も少しって言って長かった」


「今日は違います」


「ふーん」


 それきり、ローザは目を閉じた。


 イリスは森へ入ったところまで頁を戻した。


 北の海と寒村を過ぎ、商隊はまだ知らない土地へ進んでいる。書き手が道中で出会った人々も、食べたものも、この部屋からは遠いところにあった。


 頁をめくる音が、小さく響いた。


 明日も朝になれば仕事へ行く。城門を抜け、仲間と顔を合わせ、任務が終われば家へ帰る。読み終えたら、この本もエミールへ渡すことになるだろう。


 イリスは椅子に座り直し、次の行へ目を移した。


 少なくとも、イリスはそう思っていた。


 寝台からは、もうローザの寝息が聞こえていた。


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