第一部 中世編 第三話 雪の街の風景
冬の朝。ヴァレーヌの冷気は、薄い窓硝子を通して部屋の中まで染み込んでいた。
寝台の脇で、イリスは薄手の亜麻の寝衣のまま、鏡に向かっていた。
櫛を通した黒髪が肩から背へ流れ、寝衣の上へやわらかく落ちている。窓から差す朝の光を受けた頬は白く、灰青色の瞳には、まだ少し眠気が残っていた。ただ、鏡の中の自分を見つめる目だけは真剣だった。
その前には、小さな木箱が開かれている。中には髪留めや飾り紐、細工の施された小さな銀飾りが並んでいた。
寝台の端では、短い脚と丸みのある身体をした、茶色い小さな獣のような妖精が丸くなっていた。ローザである。前脚に顎を載せた姿は、朝の寝床を離れたくない家猫とほとんど変わらない。
しばらく黙ってイリスを眺めていたが、やがて尻尾の先をぱたぱたと寝具へ打ちつけた。
「まだ決まらないの?」
「もう少しです」
「さっきも聞いた」
「そうでしたか」
「その前にも聞いた」
イリスは返事をせず、三つ目の髪飾りを持ち上げた。
ローザが大きく息を吐く。
「服なんて何でもいいって顔してるくせに、なんで頭に付ける物だけそんなに悩むの」
「別です」
「何が」
「別のものです」
「説明になってない」
イリスは細い銀細工を髪へ当て、顔の向きを少し変えた。耳の上へ持っていき、今度は少し後ろへずらす。
ローザが寝台の上で転がった。
「それ昨日も見てたじゃん」
「昨日は使っていません」
「見てたじゃん」
「見ることと使うことは違います」
「面倒くさい女だねえ」
鏡越しに、イリスの目が細くなった。
ローザは小さな牙を覗かせて欠伸をすると、寝衣姿のイリスを上から下まで眺めた。
「でもまあ、今日は寒そうだね」
「そうですね」
「風が強いと余計に寒いよ」
「上着を着ます」
「胸元も寒そう」
「……」
「まな板イリス」
次の瞬間、イリスの手が飛んだ。
ローザはその直前に寝台から跳んだ。
「待ちなさい」
「やだよ」
「待ちなさい」
「絶対やだ」
床へ着地したローザが椅子の下へ潜る。イリスが回り込むと、反対側から抜け出した。
「ローザ」
「事実を言っただけじゃん」
「捕まったら覚えていなさい」
「捕まらないもん」
イリスが手を伸ばす。指先が毛を掠めたが、ローザはするりと身を捩り、今度は衣装箱の上へ飛び乗った。
そこから勝ち誇ったように見下ろす。
「遅い」
「……」
「騎士なのに遅い」
「降りてきなさい」
「やだ」
イリスは数秒だけローザを睨んだ。ローザも睨み返した。
それで終わった。
イリスが衣装箱へ近づくと、ローザは念のため寝台へ飛び移った。イリスは追わず、蓋を開けて今日着る服を取り出す。ローザも何事もなかったように毛繕いを始めた。
それが、二人にとっていつもの朝だった。
寝衣を脱ぎ、白い亜麻の肌着の上から衣服を重ねていく。動きやすい濃紺の長衣に袖を通し、革帯で腰を締め、厚手の靴下を履いた。外套は玄関で羽織ればいい。
衣服についてはほとんど迷わない。ほんの数分で支度を終えると、イリスは再び鏡の前へ戻った。
髪飾りだけは、まだ決まっていなかった。
「また始まった」
「少し黙っていてください」
「一生決まらないよ」
「決まります」
「昼になるよ」
「なりません」
「夜になるよ」
イリスが無言で振り返る。
ローザはすぐに窓辺へ移動した。
結局、選んだのは銀の小さな飾りだった。細い植物模様の入った留め具で、派手なものではない。耳の上で黒髪をまとめると、朝の光を受けてわずかに輝いた。
イリスは指先で位置を直し、鏡の中の自分を見た。ようやく、口元がほんの少し緩む。
「それ最初に持ってたやつじゃん」
「……朝食へ行きましょう」
「無視した」
廊下へ出ると、家の中にはすでに朝の匂いが満ちていた。
薪の燃える匂いに、焼いたパンと温めた乳の甘い匂いが重なる。階下からは食器の触れ合う音が聞こえた。
ローザは先に階段を降りた。家の中では勝手に歩き、勝手に椅子へ乗り、気が向けば誰かの膝へ行く。誰も止めなかった。
食堂では、ジェラールがすでに席についていた。背筋を伸ばし、朝からいつもの堅い顔をしている。その向かいでエミールがパンを千切り、アデルが卓上へ皿を並べていた。
「おはようございます」
イリスが言う。
「おはよう、姉さん」
「おはようございます」
ジェラールは短く頷いた。
アデルはイリスの顔を見て、髪へ視線を移した。最後に銀の髪飾りへ目を留める。
「今日はずいぶん時間がかかりましたね」
イリスの動きが一瞬だけ止まる。
「そうでしょうか」
「そうですよ」
ローザが椅子へ飛び乗った。
「すごくかかった」
イリスが横を見る。
「ローザ」
「ほんとのこと」
「お母様、ローザの言うことを真に受けないでください」
「あなたのことについては、ローザの方が正直なことがありますから」
「……」
エミールが口元を隠して笑った。
イリスがそちらを見る。
「何ですか」
「何でもないよ」
「今、笑いましたね」
「笑ってない」
「笑いました」
「気のせい」
その横でローザが言った。
「朝からまな板って言ったら追いかけてきた」
「ローザ」
「ほらまた怒った」
「朝から騒がないの」
アデルの一言で、イリスもローザも黙った。
エミールだけがまだ肩を震わせている。
イリスは自分の席へ座り、パンを取った。指先で割ると、中からわずかに湯気が上がった。
ジェラールがこちらを見る。
「今日は北側か」
「はい。街道方面の巡回と聞いています」
「山道へ入りすぎるな」
「承知しています」
「承知していて前へ出るのが、お前だ」
イリスは返事をしなかった。
アデルがすぐに続ける。
「それです」
「何がでしょう」
「その顔です」
「普通ですが」
「普通の顔で聞き流すのをやめなさい」
「聞いています」
「聞いているのと、守るのは別です」
イリスはパンを一口食べた。
「……はい」
「昨日も遅かったでしょう」
「任務が長引きました」
「その前の日も遅かったですね」
「訓練です」
「その前は?」
「銀霧泉へ」
「遅くなるなら誰かに伝えなさい」
「はい」
「食事も抜かない」
「はい」
「夜更かしもしない」
イリスの視線が一瞬だけ逸れた。
アデルは見逃さなかった。
「しましたね」
「少しだけです」
「本ですか」
「……はい」
エミールがすぐに食いついた。
「何読んでたの?」
「あなたには関係ありません」
「面白いやつ?」
「普通です」
「それ、面白いやつの返事だ」
「違います」
「後で貸して」
「嫌です」
「まだ何の本かも言ってないのに」
「嫌です」
ローザが卓上の端からイリスを見上げた。
「子供っぽい」
「あなたにだけは言われたくありません」
「まな板」
イリスの手が動く。
ローザは皿の向こうへ飛んだ。
「食事中です」
アデルの声が落ちた。
二人とも、また止まった。
数秒の沈黙の後、ジェラールが小さく息を吐いた。エミールはとうとう声を出して笑った。
薪が炉の中ではぜた。
窓の外では、白い朝靄の向こうにヴァレーヌの城壁が薄く見えている。イリスは温かな乳の入った杯を取り、両手で包んだ。
家族がいて、ローザが騒ぐ。母に小言を言われ、父に注意され、弟と言い合う。
イリスにとって、それは特別でも何でもない朝だった。今日も仕事へ行き、夕方には帰ってくる。そのつもりで、残りのパンへ手を伸ばした。
*
朝食を終えると、イリスは玄関脇に立て掛けてあった剣を取った。
仕事用の長剣ではない。城へ向かうまでの間に携える、普段使いの短い剣だった。
革張りの鞘を腰帯へ通し、位置を確かめる。歩いた時に脚へ当たらず、抜く時にも外套へ引っ掛からないよう、少しだけ後ろへずらした。それから厚手の外套を羽織る。
「行ってまいります」
「気をつけて」
アデルの声を背に扉を開けると、冷えた空気が一息に流れ込んできた。
「寒っ」
足元でローザが身を縮める。
「さっき寒いと言っていたでしょう」
「知ってても寒いものは寒いの」
イリスは襟元を合わせて外へ出た。ローザもその後を、短い脚でひょこひょことついてくる。
夜のうちに、薄く雪が降ったらしい。
道の端や屋根の北側、石垣の窪みには白いものがまだ残っている。踏み固められた土の道はところどころ湿り、草地には砂糖を振ったような雪が薄く乗っていた。
ヴァレーヌの西側。城壁の外に広がるこの辺りは、町というよりも、屋敷や小さな家々、畑、厩舎、柵に囲まれた放牧地が緩く連なった土地だった。
家と家の間隔は広く、煙突から上がる煙は、風のない空へ細く伸びている。遠くでは朝の餌を求める馬が柵を鼻先で押し、どこかの家では斧の音が一定の間隔で響いていた。
西から北へ続く山並みには、針葉樹の黒と雪の白がまだらに重なっていた。谷に残る朝靄が低い尾根を隠し、その向こうの斜面だけが朝日を受けて淡く光っている。
煤けた石造りの家々と濃い木組みの屋根を挟んで、ヴァレーヌの城壁と塔が見えた。華やかな都の城とは違う。厚い石壁も、風雪に晒された見張り塔も、町を守るためにそこにあった。
「おはよう、イリス」
道の脇から声がした。
薪束を抱えた中年の男が、家の前に立っている。
「おはようございます」
イリスは足を止め、軽く頭を下げた。
「今日は北か?」
「その予定です」
「山へ入るなら気をつけろよ。昨夜また降ったらしい」
「ありがとうございます」
男の足元では、拳ほどの大きさしかない、灰色の石のような妖精が一匹、雪の上をころころと転がっていた。
イリスがそちらにも視線を向ける。
「おはようございます」
石妖精が一度だけ、こつん、と地面を鳴らした。
「返事した」
ローザが言う。
「いつもします」
「今日は機嫌がいい」
「分かるのですか」
「なんとなく」
少し先では、白い毛に覆われた小型の妖精が、家の軒下で丸くなっていた。イリスを見ると片耳だけを上げる。
「おはようございます」
妖精は面倒そうに片目を開け、また閉じた。
「無視された」
「眠いのでしょう」
「愛想がないなあ」
「あなたが言いますか」
ローザがイリスの靴を前脚で軽く叩いた。
城壁へ近づくにつれ、人の姿が少しずつ増えていった。畑へ向かう者、馬を引く者、籠を背負った女。城内へ品物を運ぶ荷車が通り過ぎると、車輪の跡から黒い泥が覗いた。
その荷車の縁には、赤い木の実のような丸い妖精が三匹並んで揺れている。道端では枯れた草の束にしか見えないものが歩き、小さな羽根を持つ人型の妖精が、旅人の肩へ腰掛けていた。
誰も振り返らなかった。この土地では、それも朝の景色の一部だった。
ローザだけが、ときどき道の端へ逸れる。雪を踏み、匂いを嗅ぎ、何かを見つけて立ち止まる。そのたびに少し遅れ、また小走りで追いついてきた。
「遅れていますよ」
「ちゃんといるじゃん」
「置いていきます」
「置いてかないくせに」
イリスは答えず、外套から覗いた髪を肩の後ろへ払った。冷気に触れた指先を袖へ戻す。
城門が近づいてきた。
巨大というほどではないが、人と荷車が行き交うには十分な幅がある。門の上には見張り台があり、石壁の日陰には昨夜の雪が白い筋になって残っていた。
門脇に立つ衛兵の一人が、イリスを見つけて手を上げる。
「おはよう、イリス」
「おはようございます」
「今日も早いな」
「いつも通りです」
「そうだったか?」
「そうです」
衛兵がローザを見る。
「そっちもおはよう」
「寒い」
「朝一番がそれか」
「寒いものは寒い」
「お前、毛皮着てるだろ」
「これは毛皮じゃない」
「じゃあ何だよ」
「ローザ」
「知らんがな」
衛兵が笑った。
イリスは小さく息を吐く。
「交代はまだですか」
「あと少し。お前らが出る頃には俺は飯食ってる」
「羨ましいですね」
「顔に出てないぞ」
「出しています」
「それで?」
「これ以上は無理です」
「知ってる」
短い会話を交わし、門を抜ける。
城壁の内側では、石造りと木組みの建物が細い道沿いに並んでいた。一階部分を店にしている家も多い。外よりも家は密集していたが、通りを埋め尽くすほどの人はいなかった。
商人が戸板を外す音に、桶へ水を汲む音が重なる。家の前を掃く箒が石畳を擦り、その横を通る馬の蹄が硬く鳴った。
どこかでパンを焼いている。開け放たれた店の奥からは、肉と香草を煮る匂いも漂ってきた。
屋根の雪は日の当たる場所から少しずつ溶け始め、軒先から水滴が落ちていた。イリスはその下を避け、道の中央へ少し寄った。
路地の奥や市場の屋根越しには、雪を被った山腹が見える。町を出る荷車には薪や干し草が積まれ、北へ向かう者は誰もが厚い外套を着込んでいた。
「いい匂い」
ローザが急に進路を変えた。
通りの向こうで、焼き菓子を並べ始めた店へ顔を向けている。
「行きませんよ」
「見るだけ」
「見るだけでは済みません」
「見るだけだって」
「昨日もそう言っていました」
「昨日は昨日」
「今日は仕事です」
「イリスの仕事でしょ」
「あなたも来るのでしょう」
「今日はまだ分かんない」
ローザは店とイリスを交互に見た。数秒悩んだ末、渋々ついてくる。
「あとでね」
「勝手にしてください」
「じゃあ勝手にする」
「……」
通りを北へ折れると、商店の並びが途切れ始めた。倉庫や詰所が増え、その奥には厩舎と、武具を扱う建物がある。
訓練用の中庭から、木剣がぶつかる乾いた音が聞こえてきた。馬の嘶きに兵士たちの短い掛け声が混じる。朝の商いとは違う慌ただしさが、軍事区画にはあった。
入口に立っていた衛兵が、イリスを見て顎を上げる。
「おはよう」
「おはようございます」
「ガストンならもう来てるぞ」
「早いですね」
「お前に言われたくないだろうな」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
衛兵の足元には、緑色の苔が生えた丸い妖精が一匹座っていた。苔の中から、二本だけ細い角が出ている。
ローザが覗き込む。
「まだいるの」
苔の塊が、ゆっくりとローザの方を向いた。
「いる」
「喋った」
「前から喋るぞ」
衛兵が言った。
ローザは少しだけ考えた。
「じゃあまたね」
「また」
イリスはその横を通り、軍事区画の奥へ入った。
「では、着替えてきます」
「ああ。今日は北街道だ。装備は冬用で」
「分かりました」
兵舎脇の装備室へ向かう途中、ローザが足を止めた。
広場の向こうを、小さな羽根のある妖精が飛んでいく。その先では誰かが荷箱を開けていた。ローザの耳がぴくりと動く。
イリスは振り返った。
「ローザ」
「なに」
「どこへ行くのです」
「ちょっと見てくる」
「遠くへ行かないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
「昼までには戻ってください」
「気が向いたら」
「ローザ」
「戻る戻る」
言うだけ言って、ローザはもう別の方を見ていた。
城の中をふらふら歩き、知っている人間や妖精のところへ顔を出す。気が済めば戻ってくる。いつものことだった。
「では、あとで」
「うん」
ローザはすでに半分上の空だった。
イリスは小さく首を振り、装備室の扉へ手を掛けた。
*
装備室の中は、外よりわずかに暖かかった。
壁際には木製の棚と簡素な掛け具が並び、革帯や外套、兜、籠手、脚甲がそれぞれ決められた場所へ収められている。奥では誰かが油を含ませた布で金具を拭いていた。革と鉄、それに獣脂の混じった匂いがする。
イリスは外套を脱ぎ、腰の短い剣を外して自分の棚へ置いた。
そこだけ、周囲とは少し様子が違っていた。
他の兵たちの装備は、体格に合わせた調整こそあっても、ヴァレーヌの軍装として大きく形を外してはいない。だが、イリスの鎧は、彼女のためだけに用意されたものだった。
贈ったのは祖父のヴォルフラムである。
長い年月を戦場で過ごした男が孫娘へ選んだのは、華美な儀礼用の鎧ではなかった。身体の動きを妨げないよう細かく分割された装甲は、肩を大きく動かしても剣筋を邪魔しない。騎乗した際に腰や腿へ食い込まないよう、重なり方にも工夫が施されていた。
何度も調整を受け、今では完全にイリスの身体へ馴染んでいる。
表面には細かな傷が残っていた。磨いても消えないものもあるが、留め具に緩みはなく、革紐にも傷みはない。必要な部分を直しながら、使い続けてきた鎧だった。
イリスは上着を脱いで鎧下へ着替え、革紐を締めた。胸当てを合わせ、脇を固定し、肩、腕、腰と順に装甲を重ねていく。
最後に脚甲を留め、その場で数歩歩いた。腰を捻り、肩を回し、膝を曲げる。小柄な身体に沿って、装甲がわずかな音を立てて動いた。
違和感はない。
「今日もそれか」
後ろから声がした。
振り返ると、ルノーが入口に立っていた。明るい栗色の髪が、寝癖なのか少し跳ねている。
「今日も、とは?」
「その鎧。毎回ちゃんと着るなと思って」
「鎧ですから」
「いや、そういう話じゃなくて」
ルノーは笑いながら入ってきた。騎乗用の装備はどこか着崩して見えたが、革具の手入れは行き届いている。
「俺ならそんな上等なの、傷つくの嫌で棚に飾っとく」
「鎧を飾ってどうするのです」
「ほら、それだよ」
イリスは首を傾げた。
その横をエティエンヌが通る。短く整えた濃い茶髪に、細身の身体。自分の棚から装備を取り出しながら、灰色の目をルノーへ向けた。
「放っておけ。ルノーに道具の価値を説明しても無駄だ」
「ひどくない?」
「昨日、自分の槍を泥の上に置いただろ」
「あれは置いたんじゃなくて、落ちた」
「手から離したものを普通は落としたと言う」
「だから落ちたって言ってるじゃん」
少し離れたところで、セシルが鼻で笑った。後ろでまとめた淡い金髪が、顔を上げた拍子に揺れる。
「朝から元気ね」
「セシルまで」
「私は何も言ってないでしょう」
「顔が言ってる」
「そう?」
セシルは涼しい顔のまま革手袋を締め、腰に取り付ける短槍の留め具を確認した。
イリスは自分の長剣を手に取った。自宅から持ってきたものとは、長さも重さも違う。鞘ごと腰へ掛けると、その重みで自然に足を開いた。
ルノーがそれを見る。
「今日も長いな、それ」
「昨日と同じです」
「分かってるよ」
「では、なぜ言うのです?」
「会話ってそういうもんだろ」
「意味がありません」
「朝から厳しいなあ」
エティエンヌが横から言った。
「意味のあることだけ喋っていたら、お前は一日三言で済む」
「それ俺?」
「お前だ」
「イリスじゃなくて?」
「私は必要なことは話しています」
三人が一斉にイリスを見る。
イリスも見返した。
数秒。
セシルが先に視線を逸らした。
「……まあいいわ」
「なんですか」
「何でもない」
外から大きな足音が近づいてきた。
会話が自然に止まる。
ガストンだった。白いものの混じる褐色の髪に、朝から鋭い目をしている。大柄な身体に冬用の装備を重ね、肩には厚手の外套を掛けていた。
優美さよりも使いやすさを選んだ装備は、長年野外と戦場に立ってきたその身体によく馴染んでいた。
「揃ってるな」
「はい」
エティエンヌが答える。
ガストンは四人を見回し、イリスへ目を留めた。
「今日は勝手に山へ登るなよ」
「まだ何もしていません」
「先に言ってる」
「……はい」
ルノーが吹き出しそうになっている。
イリスはそちらを見なかった。
「行くぞ」
ガストンが踵を返した。
四人を連れて向かったのは、軍事区画の北寄りにある小さな詰所だった。
夜番の兵が二人残っている。一人は椅子に腰掛け、温い飲み物の入った木杯を両手で包んでいた。もう一人は卓上へ記録板を広げている。
「交代だ」
ガストンが声を掛ける。
木杯を持った兵が顔を上げた。
「助かった。今朝は冷えたぞ」
「何かあったか」
「大きいのはない。ただ、北の山道で妙な跡がある」
ガストンの表情が少し変わった。
「妙な跡?」
「五、六人分くらいの足跡だ。夜の巡回が見つけた。街道から外れて山側へ入ってる。荷物を持ってる奴もいるらしい」
エティエンヌが記録板を覗き込む。
「猟師じゃないのか」
「分からん。こんな場所だ」
夜番の兵が、脇に置かれた略図を指した。
北街道から少し山側へ逸れた場所だった。
「昨夜また雪が降ってる。今なら跡はまだ残ってるはずだ」
「他は?」
「山側はそれだけ。街道そのものは通れる。ただし上はかなり積もってる」
「分かった」
ガストンは顔を上げ、四人を見た。
「確認に行く。エティエンヌ」
「はい」
「お前が見る」
「分かりました」
「妙なら無理に手を出すな。場所と人数だけ掴んで戻れ」
「はい」
それからガストンの視線がイリスへ移った。
「イリス」
「はい」
「勝手に前へ出るな」
「分かっています」
間髪入れず、ルノーが横から言った。
「本当に?」
イリスがそちらを見る。
「分かっています」
「ならいいけど」
「何ですか、その言い方は」
「別に」
ガストンが低く咳払いした。
「聞いてるのか」
「はい」
イリスは姿勢を正した。
「勝手に前へ出ません」
「よし。四人で行け」
四人は厩舎へ向かった。
軍用馬を引き出し、馬具を確認する。冬用の厚い鞍敷きを置き、革帯を締め直した。
馬の鼻先から白い息が大きく上がり、朝の冷気へ溶けていく。イリスは手袋をした指で腹帯の締まりを確かめ、鞍へ手を掛けた。
エティエンヌが最後に荷を確認する。
「行くぞ」
今度は彼が言った。
四人は馬へ跨がった。
*
北門を抜けると、町の音が少しずつ遠ざかった。
道の両側には、秋の収穫を終えた畑と牧草地が広がっている。夜の雪が薄く残り、白い面のところどころから黒い土が覗いていた。柵や石垣、干し草を積んだ小屋の屋根にも、雪が縁を細く覆っている。
太陽はまだ低かった。斜めから差す光が雪面の小さな凹凸に長い影を作り、道を横切る車輪の跡を青く浮かび上がらせていた。
町の屋根越しに見ていた山並みが、今は道の正面にある。落葉した木々の斜面と濃い針葉樹の森が重なり、その奥へ道が折れていた。山腹には細い雲が引っ掛かり、尾根を隠しては、また流れていく。
馬の蹄が凍った土を打った。乾いた音が、四頭分重なって続く。
「寒いなあ」
ルノーが首を縮めた。
「冬だからな」
エティエンヌが返す。
「冬でも寒いものは寒いだろ」
「だから冬なんだ」
「会話になってなくない?」
「お前が言うな」
イリスが少し前から振り返った。
「まだこの辺は暖かいですよ」
ルノーが嫌そうな顔をする。
「出たよ」
「何がですか」
「もっと寒いところ知ってます、っていうやつ」
「事実です」
「この前も言ってたよな」
「実際、もっと寒い場所はあります」
「聞いてない」
セシルが小さく笑う。
「イリスに寒さの話を振るからよ」
「普通、寒いって言ったら同意するだろ」
「寒いです」
イリスが言った。
「でも、もっと寒いところはあります」
「それが余計なんだって」
やがて畑がなくなり、柵が途切れた。最後の家が木々の陰へ隠れると、道の両側には森が迫ってきた。
枝に残る雪の重みで、若い針葉樹の先が低く垂れている。時折、積もった雪が耐えきれず落ちた。ぱさり、という柔らかな音が、木々の間では思いのほか近く聞こえた。
薪の煙や食べ物の匂いは、もう届かなかった。冷えた木と湿った土の匂いがする。イリスは外套の襟へ顎を埋め、鼻先から細く息を吐いた。頬には冷気の赤みが差していたが、手綱を握る手は動かなかった。
道が上り始めるにつれ、雪は厚くなった。蹄が踏み込むと表面の薄い凍結が割れ、その下へ沈む。四人は馬の歩幅に合わせ、互いの間隔を少し広げた。
道の片側には斜面が迫り、反対側は木々の生えた谷へ落ち込んでいた。雪に覆われた路肩では、どこまでが硬い地面なのか分かりにくい。
エティエンヌが馬を緩める。
「ここからだ」
三人も速度を落とした。
街道から分かれた山道は、人と馬が一列で進めるほどの幅しかなかった。四人は前後に並び、森の奥へ入っていった。
*
ほどなく、エティエンヌが片手を上げた。
四頭の馬が止まる。
道の端で、雪が不自然に崩れていた。
セシルが先に馬を降りた。手綱を腕へ掛けてしゃがみ込み、指先で新雪を払う。
「人ね」
その下から靴跡が現れた。
エティエンヌも降りる。
「何人だ」
セシルは周囲を見渡した。
「一つ、二つ……」
イリスも馬から降り、少し離れた場所を見た。
「こちらにもあります」
いくつもの足跡が、街道から山側へ逸れていた。靴底の大きさも、雪への沈み方も違う。重なった跡の端を辿っていたセシルが、少し顔を上げた。
「六人かもしれません。一人は荷物が重そうね。沈み方が深い」
エティエンヌは森の奥を見た。
「追う」
四人は馬を引き、距離を空けながら進んだ。
それまでの雑談は消えていた。雪を踏む音と、革具の小さな軋みだけが続く。枝に手綱を引っ掛けないよう、イリスは馬の鼻先を確かめながら足跡を追った。
やがて、かすかな金属音が聞こえた。
エティエンヌが止まる。
木々の向こうに人影があった。
四人は低い枝の陰から様子を窺った。男たちは、森の中を斜めに横切っている。セシルが唇をほとんど動かさずに数えた。
「六」
剣を腰へ下げた者が三人。槍を持つ者と弓を背負う者がいて、最後の一人は大きな荷を担いでいた。
武装しているだけでは、何者かは分からない。ただ、街道へ出る様子はなく、道もない斜面を選んで進んでいた。
エティエンヌはしばらく見てから、小さく首を振った。
「まだ手を出すな」
三人が彼を見る。
「戻って報告する。ここでやり合う必要はない」
イリスも頷いた。
「はい」
四人は静かに下がり、木立が薄くなったところで馬へ跨がった。来た道へ戻ろうと、エティエンヌが馬首を巡らせる。
その時だった。
男の一人がこちらを見た。
木々の隙間で、目が合う。
「誰だ!」
声が上がった。
男たちが一斉に武器へ手を伸ばす。
「下がれ!」
エティエンヌが言った。
だが、そのうち一人だけが反対方向へ走った。
剣を腰に下げた男だった。残る五人から離れ、木々のまばらな斜面を駆け上がっていく。
イリスの視線がそちらへ移った。
今なら追いつける。
あの先で木立へ入られれば、姿を見失う。
「イリス」
エティエンヌが言った。
遅かった。
イリスはすでに鐙へ力を入れていた。
「待て!」
馬が雪を蹴った。
前へ出た瞬間、背後で仲間が動く音がした。それでもイリスは振り返らず、男との間にある木を避けて進んだ。
逃走者が振り向く。迫る騎馬を見て、剣を抜いた。
イリスも長剣を抜く。
男の脇を抜けるように馬を進め、手綱を引いた。馬首が回り、進路を塞ぐ。
「止まりなさい」
男が剣を振るった。
イリスの剣が一度だけ動く。
甲高い音がして、男の剣が雪の上へ飛んだ。
イリスは切っ先を男へ向けたまま、元いた五人の方を見る。馬首を返しかけたところで、エティエンヌの声が飛んだ。
「そこまでだ!」
槍を構えたエティエンヌが、男たちの正面へ出ていた。ルノーは街道へ戻る側を塞ぎ、セシルが反対側から馬を寄せている。
イリスの背後には、剣を失った逃走者が立っていた。
弓を背負った男が周囲を見回す。荷を担いだ男は、すでにそれを足元へ下ろしていた。
少しの間、誰も動かなかった。
やがて一人が剣を雪へ落とした。
それを見て、次の男も手を離す。槍が倒れ、弓が外された。抵抗する者がいないことを確かめて、イリスも剣先を少し下げた。
エティエンヌが馬を寄せる。
「前に出るなと言われただろ」
「逃げられると思いました」
「だから四人いる」
イリスが黙る。
その向こうでは、セシルが男たちを武器から離れさせていた。ルノーは馬を降り、落とされた剣を拾い集めている。
「……はい」
ルノーが顔を上げた。
「一時間も経ってないぞ」
イリスが睨む。
「何ですか」
「いや。早いなあって」
「何がです?」
「怒られるまで」
「まだ怒られていません」
セシルが笑いを堪えている。
「帰ったら怒られると思うけど」
イリスは口を結び、剣を鞘へ収めた。
*
男たちを拘束し、荷物を確認した。
食料と毛布、工具。それから、見慣れない印の付いた革袋が出てきた。
エティエンヌは中身をひと通り確かめると、袋の口を閉じた。詳しい確認はヴァレーヌへ戻ってから行うことになった。
帰路、イリスは最後尾に回された。
捕虜たちを先に歩かせ、その後ろから馬を進める。男たちの歩みに合わせているため、来た時よりもずっと遅い。
隣へ馬を寄せたセシルが言った。
「不満?」
「別に」
「それ、不満な時の返事だね」
「不満ではありません」
「そう?」
イリスは前を歩く男たちを見た。
「逃げられる可能性がありました」
「うん」
「追う必要がありました」
「結果だけなら間違ってないよ」
イリスがセシルを見る。
「では」
「でも、一人で行く必要はなかった」
「……」
「エティエンヌが言ったでしょう。四人いるって」
イリスは前へ向き直った。
「……はい」
「分かってる?」
「分かっています」
少し前から、ルノーの声が飛んでくる。
「本当に?」
イリスが睨む。
「聞こえています」
「聞こえるように言った」
「ルノー」
「はいはい」
木々の間を風が抜け、枝に残った雪が落ちた。イリスは外套の肩へ積もった白い粒を払い、手綱を握り直した。
追いつける距離だった。男の剣も見えていた。止められると思ったこと自体は、今でも間違いだとは思えなかった。
ただ、エティエンヌの声が聞こえていたことも、確かだった。
ヴァレーヌへ戻る頃には、朝の冷気も少しだけ和らいでいた。
森を抜けると城壁が見えた。その手前で、捕縛した男たちを挟むように隊列を整える。
先頭はエティエンヌ。中央に捕虜を置き、その左右をルノーとセシルが固めた。イリスは引き続き最後尾だった。
北門の衛兵がこちらを見る。
「何だ、それ」
「拾い物だ」
ルノーが言う。
「六人?」
「六人」
「朝から豪勢だな」
「俺らじゃなくて、そこの魔猪が」
ルノーが親指で後ろを示した。
イリスが睨む。
「聞こえています」
「聞こえるように言ってる」
衛兵が笑った。
「またか」
「またではありません」
「そうかそうか」
誰も信じていない顔だった。
軍事区画へ入ると、捕虜は詰所脇へ回された。武器と荷物が別に置かれ、見慣れない印のついた革袋も担当の兵へ引き渡された。
エティエンヌが状況を説明している間、イリスは少し離れて待っていた。手袋を外し、指の付け根を軽く曲げる。剣を振った手に痛みはなかった。
そこへ、ガストンが来た。
朝と同じ冬用の装備で、まっすぐイリスを見る。
数秒、何も言わなかった。
それが一番嫌だった。
「何分もった」
ガストンが言った。
ルノーが即答する。
「一時間弱です」
「ルノー」
「何?」
「余計なことを言わないでください」
「聞かれたから答えただけ」
ガストンはイリスを見た。
「前に出るなと言ったな」
「はい」
「出たな」
「……はい」
「理由は」
「一人が逃走しました」
「それで?」
「そのまま逃がす可能性がありましたので、追いました」
「一人で?」
「結果として、無傷で制圧しました」
「そこじゃない」
ガストンの声は低かった。
怒鳴ってはいない。だが、イリスは手袋を握ったまま、指を動かすのをやめた。
「お前が死ぬ可能性だ」
イリスは黙る。
「前に出るなってのは、お前が弱いから言ってるんじゃない」
ガストンは一歩近づいた。
「四人で行ってるのに、一人で四人分の危険を取るなって話だ」
「……」
「エティエンヌたちは何のためにいる」
イリスは少しだけ視線を落とした。
「一緒に任務をするためです」
「なら使え」
「道具みたいに言わないでください」
ルノーが吹き出した。
セシルも口元を押さえる。エティエンヌだけは腕を組んだまま、黙っていた。
ガストンが眉を寄せる。
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
イリスは小さく息を吐いた。言われていることは分かる。ただ、目の前で逃げ出す男を見た時には、仲間へ声を掛けるより先に身体が動いていた。
ガストンは続けた。
「いいか。お前が前に出て全部止める必要はない」
「ですが、止められるなら」
「それを毎回やるから言ってる」
「……」
「お前一人で済む話じゃない。お前が倒れたら、残り三人が助けに入る」
「はい」
「その瞬間、全員の動きが崩れる」
「……はい」
「お前は自分だけが危険を取ってるつもりでも、実際は全員を引っ張ってる」
イリスは、ガストンの向こうにいる三人を見た。
ルノーはもう笑っていなかった。セシルも手を下ろし、こちらを見ている。エティエンヌは、森の中で制止した時と同じ顔をしていた。
あの時、自分が向きを変えていれば、三人も変えなければならなかった。
そこまでは考えていなかった。
「分かったか」
「……はい」
今度は、すぐには目を逸らさなかった。
ガストンはしばらくイリスを見てから、少しだけ声を緩めた。
「仕事そのものは悪くない。逃走者を止めようとした判断そのものは間違ってない。制圧も悪くない。だが、やり方の話をしてる」
「……はい」
「次やったら馬番三日」
イリスの顔がはっきり変わった。
「それは困ります」
「ならやるな」
「三日は長いです」
「五日にしてもいいですよ」
エティエンヌが淡々と言った。
イリスが睨む。
「エティエンヌ」
「何だ」
「味方ではないのですか」
「味方だから言ってる」
セシルが笑う。
「正論ね」
ルノーも頷いた。
「五日でいいと思う」
「あなたは黙っていてください」
「俺だけ扱い悪くない?」
「普段の行いです」
ガストンが手を叩いた。
「終わりだ」
張っていた空気が、少し緩んだ。
「捕虜と荷物は引き渡せ。報告を書いたら装備を戻せ」
「はい」
三人が返事をする。
イリスも少し遅れて、
「はい」
と答えた。
ガストンが去ると、ルノーがイリスの顔を覗き込んできた。
イリスは何か言われる前に背を向けた。耳の上で、朝に選んだ銀飾りが光る。
馬番を五日に増やす必要まではないと思った。
その不満だけは、まだ顔に残っていた。




