第3話 迷子になっただけですわ
「お帰りなさいませ、お嬢様」
公爵家の門をくぐり、いつも通りの出迎えが待っていた。
盛大な叱責はなく、拍子抜けする。
「湯浴みの準備は整っております」
まるで、少し遠くまで買い物にでも出ていたかのような扱いに、わたくしは面食らった。
「お召し替えの後は、夕食になさいますか、それともお疲れでしたら、お休みになりますか」
(わたくし、三日も家出していたのですわよね……?)
困惑を飲み込み、入浴を済ませ、寝間着に着替える。
専属侍女のメアリが、静かに口を開いた。
「明日のご予定ですが、午前は家庭教師、午後は王妃殿下主催のお茶会がございます」
「……ねえ、メアリ」
思わず、その説明を遮る。
「わたくし、家出しましたわよね?」
「いいえ」
メアリは、眉一つ動かさずに即答した。
「そのような事実はございませんが」
「え?」
「お嬢様は、城下に『お散歩』に行かれて、迷子になられただけです」
あまりにも堂々とした返答に、わたくしは言葉を失った。
「……では、三日間迷子だったわたくしを見つけただけ?」
「はい、その通りでございます」
一切の淀みもなく肯定される。もはや、事実がどうであったかなどは、関係ないようだった。
(そういうことなのね……)
小さくため息をつく。
公爵令嬢の家出などという醜聞、あってはならない。「散歩中に迷子」というのは、絶妙な落としどころなのだろう。
(お父様、お母様も……)
きっと二人とも、内心では相当に肝を冷やしたに違いない。
それでも、大きな問題にはしない。貴族社会とは、そういうものだ。
「……お父様たちは、何か仰っていた?」
「旦那様は『次からは、せめて護衛くらいは連れて行きなさい』と、奥様は『無事で良かったわ』とのことでございます」
拍子抜けするほど、あっさりしてものだった。
叱られる覚悟をしていた分、拍子抜けしたような、申し訳ないような、複雑な気持ちになる。
「……そう」
それだけ答えて、わたくしはベッドに潜り込んだ。
◇◇◇
「おはようございます」
メアリがカーテンを開け、朝日が部屋を照らす。
何事もなかったかのように日常が再開した。
(わたくし、どうなるのかしら……)
そして、婚約は、解消されていないままだ。
支度を終え、王妃殿下主催のお茶会に向かう馬車の中、わたくしは自分の膝の上で、そっと拳を握りしめた。
三日間の逃亡劇は、結局のところ何の解決にもならなかった。ただ「迷子になった令嬢」という体裁の下に、問題にすらならずに終わった。
このままでは、また前世と同じ道を辿ってしまうかもしれない。
(焦っては駄目ですわ。逃げるのが無理なら、別の手を考えないと……)
馬車に揺られながら、溜息をつく。
王太子殿下ご本人に、それとなく婚約解消を打診してみるのはどうだろう? あるいは、王妃殿下に体調不良を訴えて、教育そのものから逃れる手はないだろうか?
「お嬢様、到着いたしました」
馬車の扉が開く。何も思いつかないまま、王宮へ到着してしまった。
◇◇◇
「ごきげんよう」
お茶会は、恙なく終わった。
王妃殿下は相変わらず優雅で、時折向けられる視線には、値踏みするような鋭さが混じっている。
それを受け流すのも、貴族令嬢としてのたしなみだった。
帰り際、渡り廊下を歩いていると、見覚えのある人影が、廊下の向こうから歩いてくるのが見えた。
(あれは、――アシュレイ様)
思わず足が止まる。
宮廷魔導師としての正装に身を包み、数人の文官らしき人々を伴っていた。
真剣な顔つきで、指示を与え、ただ通り過ぎていく。
「――その資料の魔力反応、もう一度精査を。誤差が出れば、術式全体を組み直す必要がある」
低く、淀みのない声。あの時の気の抜けたような口調とはまるで違う。
(……本当に、あの人なの?)
昨日の、飄々と「好きだから」と言ってのけた、掴みどころのなさ。
あの時は一片の感情を感じさせぬ無表情のまま、わたくしの命を終わらせた。
そして。今、目の前を通り過ぎていったのは、静かに命令を下す宮廷魔導師だった。
わたくしは思わず立ち止まって、彼の後ろ姿を見つめてしまった。
(彼は一体、何なんだろう?)
そこまで考えて、慌てて首を振る。
アシュレイが何者だろうと、わたくしには関係ない。
わたくしだけが前世の記憶を持っているのだから。
(……なんだか、いろいろよくわからないわね)
アシュレイの姿が見えなくなった廊下を一瞥して踵を返した。




