第1話 君さあ、こんなところで何してるの?
「――こんなところで何をしているのかしら、わたくしは」
我に返り、ぼそりと呟く。
――家出から、三日たった。
置き手紙一枚を残し、屋敷を飛び出した。
王太子妃になれば、死が待っている。なら、逃げ出すしかないと思った。
そして、目下、路地裏で硬いパンを齧りながら、次の宿を探すあてもなく途方に暮れている。順調とは言い難い状況だった。
と、そのとき。
「君さあ」
背後から、聞き覚えのある声がした。
全身の毛が逆立つ。振り返らなくても分かる。この、涼やかで、それでいてどこか楽しそうな声。
「こんなところで何してるの?」
そこに立っていたのは、涼しい顔をした青年――アシュレイ・ヴァン・グレイフィアだった。
王宮筆頭宮廷魔導師。銀色の髪を風になびかせ、裏路地に立って、こちらを見下ろしている。
(な、なぜここに――)
いいえ、今はそんなことを考えている場合ではない。
「ひ、人違いですわ!」
咄嗟に、フードをさらに深く被り直し、顔を背ける。我ながら苦しい言い訳だとは分かっていたが、他に手がなかった。
「いやいや、間違わないから。アルデバラン公爵令嬢でしょ」
アシュレイは、まるで散歩の途中で知人に会ったとでもいうような、あまりにも自然な調子でそう言った。
「……」
わたくしは無言を貫くことにした。何も言わなければ、何も認めたことにはならない。そういう理屈だ。
「こら、無視しない」
「……」
「違わないでしょう。どんな変装してても、魔力ダダ漏れだもん」
「!!」
思わず息を呑んだ。
――魔力。
そうだ、この男は宮廷魔導師だ。目視でどれだけ変装したところで、魔力の質までは誤魔化しようがない。とんだ盲点だった。
「ね? 話しよ?」
アシュレイは、まるで昨日の天気の話でもするかのような軽さで、そう告げた。
その笑顔は、遠目には人好きのする、爽やかな青年のものにしか見えないだろう。
けれど、わたくしだけは知っている。
前世、この笑顔の裏側にある魔術で、わたくしは静かに命を絶たれたのだ。
(ひ、ひぇ……)
喉の奥から、悲鳴にならない悲鳴が漏れる。
逃げなければ。今すぐに。
そう思うのに、なぜだか足が動かない。ただ、目の前の男を見上げたまま、わたくしは石のように固まっていた。
「……あ……あの、少し、お伺いしてもよろしいですかしら」
震える声で、なんとかそれだけを絞り出す。
「ん? 何?」
「わたくしのこと、どうなさるおつもりですの」
アシュレイは、その問いに、心底不思議そうな顔をした。
「どうって……」
そこで一拍置いて、彼は――蕩けるように、笑った。
「好きだから、一緒にいたいなって」
「……へ?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
これから断罪されるのだと、覚悟すら決めかけていたのに。飛び出してきたのは、あまりにも予想外な単語だった。
「す、好き……?」
「うん」
「わ、わたくしを、殺す気ではなくて?」
「え、何、いきなり物騒だね」
アシュレイは、軽く笑いながら首を傾げた。悪びれた様子は微塵もない。
「殺すわけないでしょ。……まあ、それはそれとして」
その声が、ふと、少しだけ低くなる。
「君を殺したときより、今のほうがずっと好きだから」
「――は?」
一瞬、時が止まった。
パンを持つ手から、ぽろりと欠片が落ちる。
「な、な……」
喉から、ひゅっと、変な音が漏れた。
「な、何を物騒なことをおっしゃるのかしら!? 冗談にしても、質が悪すぎますわ!」
悲鳴じみた声を上げながら、わたくしは反射的に一歩、後ずさる。
だが、アシュレイは、こちらの動揺などまるで意に介さない様子で、じっとわたくしを見つめている。その視線の奥に、ほんの一瞬、探るような色が過ぎった気がした。
(……殺す、ね)
彼がそう思ったことなど、当然わたくしには知りようもない。
ただ、目の前の男が、心底楽しそうに笑っていることだけが分かる。
「に、逃げますわ!」
わたくしはパンを握りしめたまま、踵を返して駆け出した。
「あ、ちょっと」
背後から、呑気な声が追いかけてくる。
だが、決して急いてはいない。まるで、逃げる小動物を眺めて楽しんでいるだけのような、そんな余裕すら感じさせる足取りで。
(絶対に、捕まってなるものですか――!)
路地から路地へ、必死に駆け抜けながら、わたくしは心の中で強く誓った。
これは、前世の記憶を持つ悪役令嬢と、彼女を殺した張本人である冷徹宮廷魔導師の――嚙み合わない再会だった。




