プロローグ 「その涙に、名前をつけたのは死んだ後だった」
物心ついた頃から、大抵のことはできた。
剣も魔術も、社交も政務も、教師が教える端から吸収して、そのうち教師の方が教えることをなくして困る。グレイフィア公爵家の跡取りとして生まれ、十にもならぬうちに「神童」と呼ばれ、二十を待たずして宮廷筆頭魔導師の座に就いた。
アシュレイ・ヴァン・グレイフィアの人生は、要するに、退屈だった。
欲しいものは大抵手に入るし、できないことはほとんどない。悩みも迷いも、他人が思うより遥かに少ない。それは幸福なことのはずなのに、彼はどこかで、自分の人生を一枚のガラス越しに眺めているような感覚を拭えずにいた。
そんな彼のもとに、王太子エドヴァルドから密命が下ったのは、ある夜のことだった。
「アルデバラン公爵令嬢を、始末してほしい」
珍しい依頼ではなかった。この手の話は、貴族社会の裏側では日常茶飯事だ。ただ、対象が自分の婚約者だと聞いて、さすがに片眉が動いた。
「殿下の婚約者を、殿下が」
「悪いか。あれはもう、化け物だ。私の周りの女という女を、片っ端から追い落としてきた。次は誰の命を奪うか分かったものではない」
王太子の声には、疲れと、微かな怯えが滲んでいた。
――年端もいかぬ令嬢を殺せとは、あなたも大概、非道な人だ。
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。すぐにアシュレイは思い直す。世評を鑑みれば、消えてもらった方が、多くの者にとって都合がいいのだろう。それだけのことだ。
彼はその夜、感情も痛痒もなく、依頼を受けた。
◇◇◇
アルデバラン公爵令嬢――ローゼリア。
その名前を聞いて、アシュレイの記憶の奥底で、何かがひどく小さな音を立てた気がした。だが彼はそれに気づかないふりをした。昔から、そういうことには蓋をするのが得意だった。
子供の頃、王宮の庭で何度か顔を合わせたことがある。互いの父親が公爵位を持つ関係で、社交の場に引っ張り出される機会も多かった。
あの頃のローゼリアは、まだ何色にも染まっていない、ただの無邪気な少女だった。
「アシュレイ様、これ、あげますわ!」
ある日、彼女は庭の花を摘んで冠を編み、得意げに差し出してきた。
「あなたの銀色の髪に、きっと似合うと思うの」
屈託のない笑顔だった。裏も表もない、ただの善意。
アシュレイはその瞬間、自分でも説明のつかない苛立ちを覚えた。彼女のその無防備さが、屈託のなさが、まるで自分には決して許されないもののように思えて。
「そんな子供っぽいもの、いらない」
突き放すように言った。ローゼリアは一瞬、しゅんとした顔を見せた。
「……そう?」
けれど、すぐに気を取り直したように、花冠を自分の頭に載せる。
「じゃあ、わたくしがつけますわ!」
そう言って笑って、駆けていった。それきりだった。彼女はきっと、そんなやり取りがあったことすら覚えていない。無邪気な子供にとって、それはその日のうちに忘れる、数ある些細な出来事の一つに過ぎなかったのだから。
だが、アシュレイだけは、なぜかその後ろ姿を、長く長く、覚えていた。
◇◇◇
それから年月が経った。
ローゼリアは王太子の婚約者となり、やがて社交界で「邪知暴虐な悪役令嬢」と呼ばれるようになった。アシュレイは宮廷魔導師としての激務に追われ、二人が顔を合わせる機会はほとんどなくなっていた。
噂だけが、風のように耳に入ってくる。
――令嬢が、また誰かを排斥したらしい。
――あの家の娘は、権力に取り憑かれている。
その噂の中の彼女と、花冠を差し出した少女とが、アシュレイの中でどうしても重ならなかった。重ならないまま、彼はその人物を「始末すべき対象」として認識した。それだけのことだった。
◇◇◇
暗殺は、あっけないほど簡単に成功した。
夜半、人気のない離宮の一室。アシュレイの魔術は音もなく彼女の命を奪う。抵抗する間もなかっただろう。
崩れ落ちるローゼリアを、反射的に抱き止めた。
その目に、涙が浮かんでいた。
「……もっと……ただ、生きたかっただけなのに」
権力を求めた女の、最後の言葉にしては、あまりに素朴すぎる呟きだった。
その瞬間、アシュレイの中で、何かが弾けるように繋がった。
――あなたの銀色の髪に、きっと似合うと思うの。
花を編む、小さな手。
屈託のない笑顔。
しゅんとした顔で、それでもすぐに笑って走っていった後ろ姿。
あの少女は、ずっとここにいたのだ。権力という鎧の下で、誰にも気づかれないまま、ただ、生きることだけを望んでいた。
自分が、その最後の願いごと、断ち切った。
ぬくもりが失われていく体を、アシュレイはきつく抱きしめた。
「……悲しいのか、俺は」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「ああ、そうか。もっと、見ていたかったな」
自分の口から零れた呟きに、ふっと笑いが漏れた。滑稽だった。殺した相手の、死に際に恋をするなど。
だが、それは紛れもない事実だった。彼はずっと昔、幼い頃から、あの裏表のない少女に焦がれていた。それを認めることができなかっただけで。
認められないまま、自分の手で、その命を終わらせてしまった。
――それなら。
アシュレイの中で、乾いた笑いが、静かな確信に変わっていく。
方法が、ないわけではない。禁忌とされる術。代償は決して軽くない。だが、この胸に空いた穴を埋められるのなら――もう一度だけ、あの目に光を灯せるのなら、惜しくはない。
冷たくなっていく体を抱いたまま、アシュレイは古の禁術を紐解いていく。
捧げる代償は、彼女の魔力と、己の魔力。
稀代の魔導師の禁術は、静かに、しかし確かに成就した。
世界が白く染まる。
最後に見えたのは、あの日、花冠を編んでいた小さな手だった。




