第10話 初めての「楽しい」
「今日は、街に出かけてみない?」
唐突にそう切り出されたのは、いつものお茶会の席でのことだった。
「街に?」
「うん。たまには、婚約者らしいこと、してみたいなって」
アシュレイは、あっけらかんとした調子でそう言った。
わたくしは、内心で身構えた。婚約者らしいこと、という言葉の響きに、警戒するのは、これまでの彼の言動を考えると仕方がなかった。
「……何を、なさるおつもり?」
「別に、変なことじゃないよ。ただ、街を歩いて、美味しいものでも食べようかなって、それだけ」
あまりにも普通の提案に、わたくしは拍子抜けした。
考えてみれば、これまで彼と過ごす時間の大半は、公爵家の応接間か、王宮の廊下だった。それ以外の場所で、二人きりで出かけたことは、一度もない。
「……分かりましたわ」
断る理由も、特に見当たらなかった。
◇◇◇
簡素な服に着替え、二人で城下に降り立つ。
この格好で街を歩くのは、あの逃亡騒動以来だった。
(あの時は、必死に逃げ回っていましたのに……)
今は、隣を歩くアシュレイに、逃げ出そうという気持ちは微塵も湧いてこない。
その違いに、わたくしは、少しだけ苦笑した。
「あ、あそこ、串焼きの屋台があるよ」
アシュレイが指さした先には、香ばしい匂いを漂わせる屋台があった。
「食べたことある?」
「い、いいえ、そのようなもの……」
貴族令嬢が屋台の食べ物に手を出すなど、これまで考えたこともなかった。
「じゃあ、初めてだね」
嬉しそうにそう言うと、アシュレイはさっさと屋台へ向かい、二本の串焼きを買ってきた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう、ございます……」
差し出された串を、恐る恐る受け取る。
香ばしいたれの匂いが、鼻をくすぐった。
「熱いから、気をつけて」
その言葉に頷いて、アシュレイが食べるのをまねて、小さく一口かじる。
「えっ、美味しい……!」
思わず、そう声が漏れた。
これまで食べてきた、繊細な味つけの料理とはまるで違う、素朴で力強い旨味が味覚を刺激した。何の変哲もない屋台の串焼きは、驚くほど美味しかった。
「でしょ? 僕たちは遠征にも行くから、こういうのは慣れてるけど、深窓の令嬢は、まあ、驚くよね」
アシュレイは、満足げに笑いながら、自分の串焼きも頬張った。
貴公子然とした彼が、街角で串焼きを頬張っている姿は、なんとも不思議なのに、なぜか、しっくり来てもいた。
◇◇◇
その後も、二人で市場を巡った。
花屋の店先で、色とりどりの花を見比べたり、露店の装飾品を眺めたり。特別なことは何もしていないのに、時間が過ぎるのが、驚くほど早く感じられた。
「あ、見て。あれ、面白い形の飴細工だよ」
アシュレイが、子供のように指さした先には、動物の形を模した飴細工の屋台があった。
「本当ですわね。あの、龍の形をしたものなど、随分と精巧ですこと」
「買う?」
「い、いえ、そこまでは――」
遠慮しようとしたが、アシュレイはすでに屋台の主人へと声をかけていた。
「もう……」
わたくしは、小さくため息をつきながらも、その様子を眺めていた。
不思議と、嫌な気持ちにはならなかった。
(いつもの強引さ、なはずですのに……)
押し付けがましいはずのその振る舞いが、今日はどこか、微笑ましく感じられる。
「はい、どうぞ」
手渡された龍の飴細工を、わたくしはしげしげと眺めた。
「ありがとう、ございます」
「うん」
二人で並んで歩きながら、他愛のない話を続ける。
「小さい時さ、こっそり邸を抜け出して、街に遊びに来たことあったんだけど、いなくなったのがばれて、こっぴどく叱られたんだよね」
「まあ」
「でも、懲りずに隙を見ては遊びに行ってね。今思うと、もっと上手にやればよかったよな」
「ふふふ、子供には無理じゃないでしょうか」
「まあ、そうだよねー。僕も今みたいに賢くなかった」
「あら」
アシュレイの言葉に、くすくす笑ってしまう。最年少で宮廷魔術師になった天才でも、そんなやんちゃな時代があったことが面白かった。
街を歩きながら、ほかにも、宮廷魔導師団の意外と緩い休憩時間の過ごし方、最近読んだという古い魔導書の話と話題が尽きなかった。
そのどれもが、これまで知らなかった彼の一面で、わたくしは、いつの間にか、身を乗り出すようにして話を聞いていた。
◇◇◇
日が傾き始めた頃、わたくしたちは、噴水の縁に並んで腰掛けていた。
「今日は、楽しかった?」
ふと、アシュレイがそう尋ねてきた。
「え……」
わたくしは、その問いに、一瞬、答えに詰まった。
いつもなら、控えめな返事をするところだった。
だが、今日ばかりは、そんな取り繕った言葉が、自然と浮かんでこなかった。
「……はい」
わたくしは、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「楽しかった、ですわ」
自分の口から零れたその一言に、わたくし自身が、一番驚いていた。
はっきりと、楽しい、と思った。そのことに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「そっか」
アシュレイは、それだけ言って、柔らかく笑った。
その笑顔を見つめながら、わたくしは、自分の中に芽生えたこの感情の正体に、まだ、名前をつけられずにいた。
ただ、隣に座るこの人との時間が、思っていたよりもずっと、心地よいものだということだけは、確かだった。




