第19話 翌朝
古谷さんの家で寝ているという事実に緊張し、なかなか寝付けなかったが、一度眠ると案外ぐっすり眠れた。
気が付けば朝で、窓の外から太陽の光と小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
朝チュンの実績解除と言っても差し支えないだろうか?
時計を見ると朝の七時。
普段の休日なら、まだ夢の中にいる時間。この時間に目が覚めたなら、迷いなく再び布団に潜り込む。
しかし、泊まらせてもらった手前、二度寝をするわけにはいかない。
まだ少し眠かったが、ここで一気に起きてしまおう。
それで、一足先に顔を洗い、古谷さんが起きてきた時に寝起きのだらけた顔を見られないようにしないと。
洗面所に向かうべく歯磨きセットを持って部屋を出ると、すでに古谷さんがそこにいた。
「あっ」
彼女は小さく驚き、どこかバツの悪そうな顔をした。
「おはよう、古谷さん」
「はい、おはようございます……少し間に合いませんでしたか」
「なにが?」
「私が起こしてあげたかったのですが……目覚ましではなく、私の声で。そういうのって、なんか彼女っぽくありませんか?」
言われてみればたしかに。
朝に起こしてあげられるのは、家族以外では恋人くらい……よほど特別な関係でなければできないことだ。
「しまったなぁ。起こしに来てくれるなら、寝ておけばよかった。もう一回寝ようかな」
「せっかく起きたのですから、また寝ることはありませんよ。今日は失敗しましたが、次の機会にリベンジすればいいだけですので」
「まぁそうか。…………ん?」
「顔を洗うのでしたら、この洗顔料を使ってください」
「自分の持ってきてるけど」
「いえ、これを使ってください」
と、ほぼムリヤリ渡された。
使いかけの女性用洗顔料……普通に考えて古谷さんのだよな? わざわざこれを使ってほしいってことか?
朝から刺激が強いなぁ……。
っていうか、「また泊まりに来て」みたいなこと言ってなかったか?
それとも「泊まりに行きたい」ってことか?
★★★
顔を洗って歯を磨き、それからコーヒーをごちそうになった。
撮影のリテイクまではまだ時間はあるが、のんびりと朝のひと時を過ごしていられるほど余裕があるわけではない。
あと数時間のうちに、昨日はできなかったハート型たい焼きの両端を二人で咥える、ということをできるようにならなければいけない。
昨日のような方法で特訓している時間はない。
もっとすぐに効果がある方法を試さなくてはいけないだろう。
「なにかアイディアはある?」
「お任せください」
ぽん、と古谷さんは胸を叩いた。
自信満々だが、昨日彼女が考えた作戦は、一つはかなり遠回り。もう一つは企画倒れだった。
任せて大丈夫だろうか?
「では、まずは外に行きましょう」
「うん……朝食は?」
「それもお任せください」
古谷さんは平日はいつも俺のために弁当を作って来てくれる。
今日も朝食の弁当を作ってくれて、それを持って行くのだろうか?
だが、それらしき物は持っていない。
喫茶店のモーニングセットでも食べに行くつもりなのか? 古谷さんが休日の朝に行く喫茶店なら、さぞオシャレなところに違いない。
というわけで、俺たちは外に出て、一緒に朝の街を歩いた。
日中になると少し暑いぐらいの季節になってきたが、朝の空気はまだひんやりとしている。
いつものこの時間帯は、通勤通学の人でさぞにぎわっていることだろう。だが、今日は休日、しかも朝早い時間帯ということもあり、人通りは少ない。
たまに犬の散歩をしている人とすれ違う程度。
そんな道を二十分ほどかけて歩くと、だんだんと知っている風景が多くなった。
最終的には、自宅の次に見慣れた建物にたどり着いた。
うちの高校だ。
「今日は休みだよ」
グラウンドには、練習をしている運動部がいるにはいるが、今日は日曜日だ。
「もちろん知っていますよ。でも、どうしても小野寺さんといつもの通学路を歩きたかったんです。私の家から、学校までの道を。私がいつも通学する時間に」
そう言われて気が付いた。
今はちょうど八時。古谷さんが、毎日学校に到着する時間だ。
「もし私たちが一緒に暮らしていたら、こういう朝を毎日過ごしていたんだろうなぁ……って想像しながら歩くと、いつもの道もとても楽しかったです」
そういうことか……。
俺はただのほほんと歩いていただけだったが、古谷さんはこれを疑似的な同棲生活と見做していたわけか。
というか、昨日の夜のあの言葉の続きを一人でやっていたのか?
「そういうことなら、どこに向かってるか教えてくれればよかったのに。そしたら俺も一緒に楽しめたのに」
「すみません。でも……恥ずかしいじゃないですか。二人で一緒に妄想の同棲生活をしながら登校するのって」
その妄想を実際に口にしてしまうのが一番恥ずかしいと思うけど……古谷さん的には、そこは問題ないらしい。
前から思っていたけど、直接触れることに対しては慎重と言うか臆病だけど、言葉で気持ちを伝えることに対してはかなり大胆なところがあるなぁ。
「このまま戻る?」
「いえ、他にも目的があります。この時間からやっているパン屋さんが近くにあるので、そこに行きます」
学校を通り過ぎて数分、小さなパン屋があった。
パン屋は開店が早いというイメージがなんとなくあるが、この店は入口に【平日AM7:00、土日8:00開店】と書いてあった。
そういえば、うちのクラスにも、昼食や部活前に、パンを食べている人がそれなりにいる。
俺の通学路からはズレているため知らなかったが、登校前にここで買って来る人が多いのかもしれない。
「朝食をここで買います」
朝食前にずいぶん遠くに来ると思ったけど、そもそも家で食べるつもりはなかったのか。
「ここのパンっておいしいの?」
「お値段並みという評判ですね。まぁメインのお客さんがうちの学校の生徒なので、高校生のお財布に優しい価格帯でのお値段並みですが」
つまり、それほど期待していい味ではないと言うことか。
「味がたいしたことなくて、学校でも買えるなら、なぜわざわざここに? っていうか、パンなら昨日の撮影でもらったのが、まだたくさんあったでしょ」
「昨日のお店のパンはおいしいですが、特訓向きではありません」
「特訓?」
ただ散歩に来ただけでなく、これも今日の特訓の一部だったのか。
「いよいよ今日ですので、ここからは実戦練習に移るべきだと思いました。ハート型たい焼きを食べるのに近い形で、実際に二人で同じ物を食べるべきです」
「そうだね」
「練習用食品として、パンはいいと思ったのですが、デニッシュやクロワッサンでは小さかったり、崩れやすかったりして不向きです」
「なるほど」
たしかに、ハート型たい焼きより小さい物では練習にならない。
それに両端からかじったらぼろぼろ崩れるようでは、距離の管理に集中できず、どんな事故が起きるかわからない。
もしかしたら、偶然キスしてしまうこともないとは言えない。せっかくのファーストキスがそれではあんまりだ。
「なので練習に向いたパンを買いに来ました」
「それで、どのパンにするの?」
「これです」
古谷さんは店に入り、迷わずそのパンをトングで掴んだ。
★★★
パン屋を出てから公園に向かった。
学校の向かいにある公園――以前に撮影で来たこともある馴染みの場所だ。
屋根付きのベンチとテーブルがある場所へ行き、買ったばかりのパンの袋を開ける。
まだ焼きたてらしく、開けた途端になかなかおいしそうな香りが辺りに立ち込める。
それほど良い材料を使っていないというのは、店の雰囲気からも伝わって来た。
それでも焼きたての香りは十分に食欲をそそる。
「では、これを両端から食べていきましょう」
古谷さんは自分から率先して、パンの端っこを咥えた。
昨日とは見違える進歩ぶり。照れている様子などまったくない。
服のにおいを嗅がれた事にも意味があった……と言いたいところだが、そうではない。
単純に、パンが大きいのだ。
俺たちが買ったのは、そのパン屋の看板メニューの一つ。
安くてでかいバゲットだ。
だいたい四十センチくらいある。にも関わらず、カレーパンとたいして変わらない値段。こんなものが高校のすぐ近くで売っていれば、そりゃ人気は出るだろう。
そして、四十センチも離れていれば、さすがに両端を咥えても恥ずかしくはない。
「いただきます」
「いただきます」
食べ始めた直後は、なにも問題はなかった。
バゲットがぼそぼそしていて、急激に口の中の水分を持っていかれることや、ほとんど味がないためジャム等をつけないと、量を食べられない点を除けば、実に順調だった。
だんだんとパンが減っていき、半分くらいまで来ると、さすがに顔の近さが気になる。
とはいえ、思ったほどではない。昨日からの特訓の成果なのか、それとも四十センチの距離から一口ずつ縮めて行ったおかげなのか、二十センチの距離まで近づいても、少し恥ずかしい程度で済んでいる。
ハート型たい焼きはこれくらいの大きさだったはずなので、つまりもう大丈夫ということだ。
「正直、どれくらい効果があるか心配だったけど、思ったよりなんとかなりそうでビックリしてる」
「私に任せてくださいと言ったでしょう? 自分のことですから、どうすればいいのかなんとなくわかります」
暴走してるように見えて、意外に理に適った方法だったらしい。
「さて、もう少し食べ進めましょうか」
「これくらいできれば撮影は問題ないと思うけど」
「今は誰も見ていない状況です。しかし、撮影は見られていますので、羞恥心が五割くらい増すでしょう。なので、練習ではもう少し近づいておいた方がいいと思います」
一理あるかもしれない。
だが、あと古谷さんは割と限界が近そうな感じなのだが……。
まぁ本人がいけるって言ってるし、昨日からの特訓はそれでうまくいっているので、反対する理由はないか。
ということで、さらに五センチ程食べ進めたが……ここまで来ると、さすがにかなり緊張する。
視界が狭まり、どこを見ても古谷さんの顔があって、それが照れくさい。
だが、目を閉じれば、いかにもキスをしたそうな感じになってしまう。目を閉じて少しずつ近づくのは危険なこともあり、ずっと見続けるしかない。
こうなったら、変に目を逸らさず、思い切り正面から見つめよう――開き直り、古谷さんの目を見る。
古谷さんの瞳の中には、古谷さんのことしか見ていない俺が映っている。
俺の目には、俺しか見ていない古谷さんが映っているのだろう。
今、ここは完全に二人の世界だ。
少しでも長く世界にいたい。だが、バゲットはそれほど残っていない。
いつまで続けられるのか……逆に、これはいつになったら終わるのだろうか?
このまま流れでキスするのは違う気がするが、かと言って、突然やめてしまうのも違う。
したいかしたくないかで言えば、したいに決まってる。
しかし、今じゃないはずだ。そういうのは、もっと状況を整えて、然るべき時に――。
だが、今ここで軌道修正しないと、流れでしてしまいそうだ。
どうすれば……。
「ファイトッ! ファイトッ!」
遠くから元気な声が聞こえて来て意識を現実に引き戻された。
おそらくランニング中の運動部だろう。俺たちが付き合ってることは周知の事実だが、こんなことしてる現場を見られるのは恥ずかしい。
俺は咄嗟に残っていたバゲットを二つに折った。
驚く古谷さんに片割れを渡し、もう片割れは俺の手に。
その数秒後、俺たちの前を運動部が通り、その中にはうちのクラスメイトもいた。
そのクラスメイトは立ち止まり、
「休日のこんな朝早くからデート? 羨ましいなぁ。しかもそんな庶民的なパンを二人で分けて食べてるとか、そこそこ高いやつ食べるより逆にエモいじゃん」
と、茶化される。
それから彼らはランニングを再開し走り去った。
ふぅ、助かった。
ただ並んでパンを食べてるだけで冷やかされるのだ。もしあのまま続けて、キス寸前までいったところを見られていたら、果たしてどんな反応をされたか……。
おや……ちょっと待てよ?
俺たちが今日撮られる予定の写真って、今ギリギリで回避したやつとほぼ同じなんだよな?
それって大丈夫か?
その写真は、学校の人はおそらく高確率で見るだろう。クラスメイトたちからの冷やかしの視線は、今の比ではなくなるかもしれない。
ほぼ確実に、居た堪れないことになるのでは……。
「た、大変なことに気が付いてしまいました」
古谷さんも同じことを思ったらしく、わなわなと震えだした。
こうなってしまうと、予定通りに撮影することなどできるはずもなく……。
店の人に頼んで、写真の構図をもっと穏やかなものに変更してもらった。
俺と古谷さんが並んで座り、片手同士を合わせてハートマークを作り、開いているもう片方の手でハート型どら焼きを持つ――高梨先輩は「つまらん」とグチっていたが、商店街巡りの写真の中では、これがもっと多くのいいねを獲得することになった。




