第17話 枕
リビングでお茶をごちそうになり、愛衣さん、健司さんと会話を一通りすると、
「それじゃあんまり邪魔にならないように、私たちは退散しようかしら」
「そうだね。では、ごゆっくり」
二人は俺たちに気を遣ったらしく、席を外した。
とは言っても、外出したわけではない。家の中の別の部屋に行っただけで、少し聞き耳を立てれば、俺たちの話し声が聞こえるだろう。
そんな過激な会話をするつもりはないし、家で完全に二人っきりになってしまった方がキャパオーバーで困ってしまうので、別に良いのだが……聞かれているかもしれないと思うと、やっぱり少し気になる。
「私の部屋に移動しませんか? 二階ですので、お父さんたちに聞かれることはありませんよ」
「そうしよう」
なので、古谷さんの提案はありがたい。
すぐに同意した……けど、古谷さんの部屋に入る方がハードル高くないか?
なんか勢いでさらっと返事しちゃったけど。
「では、どうぞ」
古谷さんは立ち上がると、廊下をどんどん歩いて行く。
もうなにも言える雰囲気ではないので、おとなしく後ろをついていく。
階段を上ってすぐのところにある部屋がそうらしく、ドアに古谷さんの手書き文字で【外出中】というプレートがかけてあった。
そのプレートを裏返し【いるよ】にすると、古谷さんはドアを開けた。
人生初、彼女の部屋に入る瞬間。
当たり前だがドキドキする。招かれて入るわけだが、本当に入っていいのかちょっと自信がないというか……最もプライベートな空間に足を踏み入れさせてもらうわけなので、いけないことをしてしまっている感覚というか。
もし彼女ではない、ただの女友達の部屋なら、もっと気楽なのだろうか?
たとえば高梨先輩の部屋なら……まぁ多少緊張はするが、罪悪感まではなさそうだな。
すると、こういういけないことをしている感覚というのは、俺と古谷さんが特別な関係だからこそのもので……そう思うと、少し優越感が出てきた。
「そこに座ってください」
古谷さんの香りに充ちた部屋に感動していると、彼女はベッドを指差した。
彼女が毎晩寝ているであろうベッド。
ここに座れ? たしかに他に座れるような場所は、勉強机の前にあるイスしかない。そこには古谷さんが座っているので、ベッドしかないわけだが……。
ベッドには古谷さんに座ってもらい、俺がイスに座った方がいいのでは?
しかし、あえて俺をベッドに座らせるのには、なにかしらの意図があるに違いない。
「では、失礼します」
ベッドに座る。
ぽふんと敷布団が沈み、中から空気が出てくる。
おそらくは、昨夜の古谷さんの残り香をまだ含んでいるだろう空気が……落ち着け。
あまり動揺してはいけない。冷静に、冷静に。
「そ、それじゃ何をする?」
「今日は合宿ですから、特訓です。明日までに、たい焼きの両端を一緒に咥えられるようになるための」
「あ、そ、そうだったね」
いけない、古谷さんの家にお邪魔している事実が強すぎて、そのことをすっかり忘れていた。
「具体的にどんな特訓をするつもり?」
「ちょっと考えがありまして、お任せいただけますか?」
「うん。俺はどうしたらいいのかさっぱりわからないから、任せるけど……」
大丈夫かな?
「では、横になってください」
「え?」
「ベッドに横になってください」
「な、なぜ……?」
「おねがいします」
どうやら多少テンパっているらしく、そのせいで有無を言わせぬ圧力がある。
理由を聞くより先に、つい従ってしまった。
うわぁ……すごいことしちゃってるよ。
敷布団の上だが、古谷さんのベッドに寝ちゃってる。
布団から漏れ出た空気の比じゃない量で、古谷さんのにおいが残ってるはずだよな。
いいのかな、嗅いでしまって……良くないよな。
よし、なるべく呼吸しないようにしよう。
「深呼吸してください」
ウソだろ……俺がしないように決めたことを求めてくるとは。
どういうつもりなんだ、古谷さんは。
「お、おねがいします。早くしてください。待ってるのも緊張するので!」
「わ、わかった。………………すぅ~っ」
とんでもないし羞恥に襲われながら、枕に顔を埋め、思い切り息を吸った。
甘く蕩けるような香りが鼻腔を満たし、脳にまで侵入してくる。
激しい羞恥と罪悪感に挟まれながらも、それらを凌駕する多幸感が俺を満たす。
「ど、……ど」
「ど?」
「………………どうですか?」
古谷さんの顔は、笑みを浮かべつつも、今にも泣き出しそうなほどに追い詰められ、怒りだしそうなほどテンパっていて、一体どういう心理状態なのかさっぱりわからない。
もちろん、どう答えるのが正解なのかもわからない。
「…………良い香りだな、と」
「あっ………………はい」
なんだ、今の間。
失敗したか? 間違ったことを言ってしまったのか?
「私の体臭がお気に召したのなら……光栄です」
正解だったっぽい。
でも、恥ずかしさで心臓が早くなりすぎているのか、古谷さんは今にも倒れそうだ。
「とりあえず、そろそろ体を起こしてもいいかな?」
「私のにおいが付いたベッドは気持ち悪いですか?」
「い、いや、そんなことないよ。すごく良いけど……このまま古谷さんが大変なことになりそうだから」
「ええ、このままだと気絶するかもしれません」
「だから……」
「だからこそ、これを続けなくては」
「……どういうこと?」
「先ほどお店でたい焼きポッキーゲームができなかった原因は、私が小野寺さんに物理的に接近することに、まだ照れがあるからだと分析しました。手を繋げるようにはなりましたが、それ以上はまだまだ難しいと言いますか……ですので、この合宿で、物理的な距離を縮められるようにしようと考えています。そうすれば、顔を近づけてたい焼きポッキーゲームをすることもできると思うんです」
なるほど、特訓の方針はわかった。
だが、だとすると余計にわからなくなる。
「なぜ実際に触れ合うんじゃなくて、ベッドの匂いを嗅がせるの?」
「触れるのはハードルが高いので、まずは一つ下げてにおいを嗅ぐところから、と……」
「俺が嗅ぐのでいいの? 古谷さんができるようにならないとダメなんじゃ」
「最終的にはそうです。でも、いきなりはまだハードルが高いので、さらに一つ下げて、嗅いでもらうところから始めようか」
顔を近づけるようになるため、においを嗅げるようになる。
においを嗅げるようになるため、嗅いでもらうところからスタートする。
ずいぶん遠いな。明日まで間に合うのか?
「今の私は、枕のにおいを嗅がれているだけでいっぱいいっぱいです。しかし、これを続ければ、次第に感覚がマヒしてくるはず。ですので、思いっきり嗅いでください! もし嫌でなければ、布団にもぐって頂いても構いません!」
「それは……俺も恥ずかしいって言うか……」
「では、せめて枕のにおいをご堪能ください。私はそれを見ていますので」
堪能はとっくにしているが、その様子を古谷さんにずっと見られているのはさすがに抵抗がある。これがどれくらいの特訓になっているのかも不明瞭だし。
本当にこんなことをしていいのか。
でも古谷さんは、すごく真剣な表情だ。他ならぬ本人がやる気なのだから、これでいいのか?
★★★
そうして三十分くらい呼吸をしていただろうか。
この状況に何だか少しうとうとし始めた頃、
「小野寺さん、おねがいがあるのですが」
と、古谷さんが言った。
「なに?」
「上着を貸していただけないでしょうか?」
「上着? どうして?」
外出時に着ていた服のままベッドに寝ていることを、気にしているのだろうか?
今さらな気もするが……。
「嗅がれるのに少し慣れてきましたので、そろそろ嗅ごうかと」
眠気が一瞬で吹き飛んだ。
そうだよなさっきその話してたもんな。
嗅ぐために、まずは嗅がれるって。
散々嗅いできたんだから、今度は交代するっていうのはわかる。
しかしいざ宣言されると、なんと照れくさいことか。
それでも恐る恐る上着を脱ぎ、古谷さんに手渡す。
古谷さんは、それを折り畳み、マスクのように顔に密着させた。
「………………どう?」
「すごくドキドキします。でも、安心もします。そして、とにかく幸せを感じます。これが小野寺さんのにおいなんだ、って」
「そんなに臭う? この前のデートで買って、着るのは初めてなんだけど」
「しっかりとにおいがするわけではありませんけど、ほんのりと柔らかな香りが……」
そう言って、服をマスクにしたまま深呼吸している。
思っていた以上に恥ずかしいな、これ……。
でも、あの古谷さんが、堂々とにおいを嗅げるって、実はすごい進歩のような……ムチャクチャな特訓だと思ったけど、意外と理にかなっていたのか?
「それにしても、いい匂いです……そういえば、知ってますか?」
「なに?」
「相手の体臭を心地よく感じるというのは、DNAの相性が良いということらしいですよ。自分の遺伝子に足りないモノを持っている相手を本能的に選ぶ手段らしいです」
「そうなんだ」
「ですので、私たちの子どもはきっととても良い子に………………なると……思います」
自分が結構恥ずかしいことを言っていることに気付いたらしく、古谷さんは言葉を詰まらせた。だが、最後までなんとか言い切った。
その辺も成長を感じるが……その後は黙ってしまった。
その間、どんな顔をしていたのかはわからない。しばらくずっと俺の上着に顔を埋めていたから。
俺は何となくベッドから出るタイミングを逃してしまい、そのまま枕のにおいを嗅ぎ続けた。
本当に落ち着くにおいで……でも、これが遺伝子の相性が良いということかと考えると、なんか変な気持ちにもなってしまう。
そんな感じで、とても幸せで、少し気まずい時間が続いた。




