聖女の祈り
「ニコライ君、綴り方は次の本に移れるでしょう。算術はもう一度足し算から復習しませんか? それから、君は少し魔力があるので、後で鑑定の宝珠を試してみましょう。簡単な魔法なら、私が教えられます」
「魔法ですか!? ぜひ使ってみたいです!」
年長の孤児であるニコライ少年は頬を紅潮させた。
昨日の食事の時から意識はしていたが、子供たちの名前と顔を頭に叩き込みながら、一人一人の教育方針を組み上げてゆく。
聖者として教会で執務をしていた頃は、毎日たくさんの人に会い、その顔と名前、肩書きを記憶することは当たり前に要求されていた。
六人の子供たちの情報を石版に石筆で整理すると、ヘンリックは子供たちに訊ねた。
「トーマス・ハンセン君とバムセと親しい子はいますか?」
するときゃあきゃあ騒ぎながら全員が手を挙げた。
「トーマス、バムセを撫でさせてくれるから、すき……」
「バムセはいい子なの。バムセをなおしてくれて、ありがとう!」
子供たちは男の子も女の子もトーマスとバムセが大好きなようだ。ダニエルとラウラも、子供たちを見ながらニコニコしている。
「今日、私とラウラ殿、ダニエル殿で、トーマス君のお家を訪問します。安全になったら、皆さんでまた遊びに行けますよ」
子供たちはわいわい騒ぎながら喜んだ。
「ここがハンセンのお宅ですか」
「畑には出てないね……」
ラウラがキョロキョロと周囲を見回す。トーマス少年とバムセが暮らすハンセン家は、村の最も北西に位置していた。畑の北側と西側は防風林に縁取られている。
「これは……」
ヘンリックの表情が厳しくなった。
「ヘンリックさん、どうしたんだい?」
「畑のあちこちから黒や紫のもやが立ちのぼっているのが見えます。土壌が穢れているのです」
ラウラの表情が強張り、ダニエルが息を呑んだ。
「まずはお宅を訪問してみましょう」
「聖者様だ! 聖者様、ラウラ、昨日はありがとう!」
「わうっ! わうっ!」
ドアが開いた瞬間、ヘンリックはトーマス少年に勢いよく抱きつかれた。バムセも千切れんばかりに尻尾を振っている。テーブルで内職をしていた両親も、すぐに立ち上がった。
「これはラウラさんに聖者様……! 大切な息子と犬を救ってくださり、本当にありがとうございました!」
両親は何度も何度も頭を下げる。
「当然のことをしたまでです。私はヘンリック・リンドベルグ。王都からこの地に派遣されて来た者です」
言いながら、ヘンリックはさり気なく家の中を観察した。
(穢れはご両親の衣服と頭髪に少しばかり。幸いまだ病は得ていない……)
木造家屋の部屋の中にもぼんやりと穢れが見えるが、健康に影響を与えそうな瘴気濃度ではなかった。掃除が行き届いた家だからかも知れない。
「聖者様は王都からいらしたのですよね。なんと尊いことでしょう。私はスヴェン・ハンセン、トーマスの父です。こちらは妻のバーバラです。聖者様、こんな村の外れまで……どのようなご用件でしょうか?」
「そうですね……話すべきことが多過ぎますが、一番大切なことを申し上げます。お宅の畑には、穢れがついています」
夫婦は息を呑んだ。バーバラ・ハンセンは口を覆う。
「ちょ、ちょっとヘンリックさん、あんまりいきなり過ぎじゃないかい!?」
ラウラが焦るが、賽は投げられてしまった。バーバラが涙を浮かべて言った。
「畑が穢れているですって……! ここまで流れ着いて、ようやく実りも得られるようになったのに。新しい土地を買ったり、土を入れ替えたりする余裕など、もうどこにもないですよ!」
夫のスヴェンは言葉もないようで、バーバラの手をしっかり握っている。
「大丈夫です。我々には聖女様がいらっしゃいます。ここにいるラウラ殿です」
「ラウラさんが……!?」
夫婦は目を丸くした。
「そうだよ! ラウラは聖女様なんだよ! 昨日、バムセと僕を治してくれたもん! 言ったじゃないか!」
「トーマス君の言う通りです。ラウラ殿ならきっと、畑の浄化もできるはず。ここはとにかく、やってみましょう」
「ちょっ、ちょっと待った! 本当にいきなりだね!!!」
ハンセン夫妻は縋るような目でラウラを見ている。ラウラはますます焦り顔になった。
「あたしは畑を清めるなんてやったこともないんだよ! 失敗したらどうするんだい!」
ヘンリックは笑顔でラウラの手首をがっしりと掴んだ。
「まあまあ、失敗しても畑がそのまま残るだけ。まずはやってみましょう!」
そして強引に外に出ようとする。
「ヘンリックさん! アンタそんな性格だったかい!?」
今日は青空が広がり、風は強くない。ヘンリックは慎重に畑に近づくと、防風林を見上げた。
「……これは樅の木ですね。教会では聖樹とされています」
「そうなのですか!? でも、現に畑には穢れがついてしまったではないですか!」
「こちらに来て何年ですか?」
「二度、夏至を迎えました」
ヘンリックが頷いた。
「闇の森が遠く見えるほどのこの土地で、二年を超えて耕作ができたのは、防風林が穢れを防いでいたのでしょう。現にこれらの木には、ほとんど穢れがついていません」
「なんと……!」
スヴェンは驚きの表情で、青々とした樅を見上げた。ヘンリックは手を伸ばし、樅の枝を四本折り取った。
「聖女様、この聖樹を畑の四隅に立ててください。トーマス君はバムセが畑に入らぬよう、気を付けておいてくださいね」
「わ、わかったよ!」
「はいっ、聖者様!」
トーマス少年はバムセの引き綱を短く持ち、緊張した面持ちだ。ラウラも似たような顔で枝を持っているのが微笑ましい。
「ラウラ殿、あなたは神への祈り方を自然と習得されています。少し、手助けをいたしましょう。ルーンで『ベルカノ』と唱えると、再生の言葉になります。難しい言葉は要りません。自由に祈ってください。浄化はきっと上手くいきます」
ラウラは頷き、樅をひと枝、畑の隅に立てた。じっと俯き、集中している。すると彼女の周囲に、微かに清らかな光が見えた。光は徐々に強くなる。ヘンリックの目にしか見えない神聖力だ。
「ベルカノ。もしも神様がおわすなら……どうかバーバラと家族を安心させてやっておくれ。どうか、豊かな畑を取り戻しておくれ……」
祈るラウラは毛皮を纏っていても、神々しいほどの光を放っていた。彼女が畑の隅に進み出て祈るたびに、皆は固唾を飲んで見守った。最後の隅に聖樹を刺し、祈ると、ヘンリックの目には畑全体が輝きを放ち、その光が空に向かって消えてゆくのが見えた。
「さあ、ヘンリックさん! 四隅に枝を捧げたよ! それで、どうやって畑の穢れを祓うんだい?」
振り返ったラウラを見て、ヘンリックは笑った。笑ったつもりだった。だが、熱い涙が頬をとめどなく濡らす。
「ヘンリックさん!?」
「……終わりました。畑は既に、完璧に浄化されています。見事な技でした、聖女様」
ハンセン家に引き留められ、皆は一緒に昼食をとることになった。最果ての教会では、食事は朝晩の二回とされている。昼食をとるのは、特別なことだ。食卓には、黒パンとハーブの茶が出された。固くなった昨夜の黒パンを、お茶に浸して食べるのだ。
「バムセは私らにとっては家族同然なんです。魔物に襲われて住む場所を失った後も、何度も危険を知らせてくれました」
「バムセは勇敢なのですね。これからも大切にしてあげてください」
「うん!」
黒パンを頬ばるトーマスの顔は幸せそうだ。
「バムセは畑を手伝っていて、穢れにやられちゃったのかい?」
ラウラが穏やかに訊ねると、トーマスは首を傾げた。
「たぶんそう! バムセは畑の野菜を取るウサギやネズミを追い払うのが仕事なの。昨日もウサギを食べた後、様子がおかしくなっちゃって……」
「なるほど。穢れの影響を受けた野菜を食べ、ウサギも病気になってしまったのでしょう。それを食べれば、バムセも穢れてしまいます」
「恐ろしいですね、穢れというものは……ラウラさんがいてくれて本当に良かったが、自分は無力だと痛感します……」
「バーバラ殿、それは違いますよ。無力な人間にも、穢れに対してできることはあります」
ヘンリックの言葉に、皆が目を瞠った。
「北や西から風の吹いている日は、なるべく家の中で過ごしてください。また、外に長くいた日は、衣服を洗うのも効果的です。服を脱ぐだけで、ほとんどの穢れは落ちるのです」
「なんと……!」
「洗濯も、衣服を二着用意するのも大変ですが、効果も大きいので、頭の隅にでもお留め置きください」
「聖者様、ありがとうございます! 幸い衣服には替えがありますので、まめに洗濯することにいたしましょう」
ヘンリックは頷いた。生活に苦労はしているが、ハンセン家の人たちには賢さがある。
「これはあまり知られていないのですが、穢れは人から人に感染するものではないのです。穢れから病気になってしまっても、清潔な服を着せれば大丈夫です。もしもの時には、安心して看病してあげてください」
夫婦は大きく頷いている。ヘンリックは丸太を組んで作られた家の天井を見上げた。
「もしかして、この家は聖樹で作られたのかも知れませんね。よく掃除されているのは、良いことです。穢れを減らす方法は、破邪の力の他にもたくさんあるのですよ。何せ聖人は一国一世代に一人だけ。たった一人の聖女様に、全ての国民が頼ることはできないのです」




