世界の法則、その可能性の彼方にある力
王都の城壁がようやく窓の向こうに見え始めた頃には、サイキョウの手にある本は、ずいぶん前から同じページを開いたままだった。
彼は外を見つめていた。
人の数はどんどん増えていく。広い道では馬車同士がぎりぎりですれ違い、屋根の向こうには塔がそびえ、普通の通行人の間にも武装した人間の姿がちらほら見えた。
だが今は、王都そのものですら、いつもほどサイキョウの興味を引かなかった。
サイキョウは自分の掌へ視線を落とす。
今日だ。
十年間、ずっと見ることしかできなかった。
父は魔力で身体を強化していた。
騎士たちは戦いの中でそれを使っていた。
本には魔法、技術、魔力の扱い方が書かれていた。
自分はそれらを、ずっと外側から学ぶことしかできなかった。
理論は知っている。
結果も見てきた。
だが、自分自身で魔力を感じたことは一度もない。
「お兄ちゃん」
「ん?」
向かいに座っていた妹が、こちらを見ていた。
「笑ってる」
サイキョウは自分の顔に触れる。
本当だ。
「今日はいい日だから」
「まだ着いてもないよ」
「だから今は、これくらいで済んでる」
妹は数秒サイキョウを見つめ、それから窓の外へ顔を向けた。
「変なの」
「その変なやつについてきたいって言ったのはそっちだろ」
返事はなかった。
数分後。
サイキョウは手を伸ばし、いつものように妹の頭へ置いた。
妹は振り向きもしない。
そのまま、もう一度髪を撫でる。
「嫌なら、嫌って言っていいんだからな?」
「いつもと同じでいい」
手が止まった。
サイキョウは妹を見る。
「じゃあ、好きなんだ」
「そんなこと言ってない」
「でも、やめろとも言ってない」
すぐに頭を撫でるのを再開した。
「なら決まりだな」
「何も決まってない」
そう言いながら、なぜか妹は離れようとはしなかった。
サイキョウは小さく笑った。
◆
教会は、サイキョウが想像していたものとはずいぶん違っていた。
果てしなく並ぶ彫像もなければ、金で覆われた壁もない。
巨大な石造りの建物は確かに高価そうではあったが、中にあるもののほとんどには、きちんとした用途があるように見えた。
廊下では神官たちが行き交い、サイキョウと同じくらいの年齢の子供たちが、親と一緒に順番を待っている。
そのうちの一つの扉から、一人の少年が出てきた。
まるで試験を終えたばかりのような顔をしている。
サイキョウはその姿を目で追った。
(やっとだ)
「俺たちはここで待っている」
父が言った。
妹がすぐにサイキョウを見る。
「どれくらい?」
「分からない」
「すぐ終わるって言ってた」
「早く終わるように頑張るとは言った」
「違う。自信あるって言った」
サイキョウは黙った。
「じゃあ、なるべく早く自信を発揮してくる」
「そういう意味じゃない」
「すぐ分かる」
扉が開いた。
そこから年老いた神官が姿を現す。
「サイキョウ様?」
「はい」
「こちらへ」
サイキョウが数歩進んだところで、袖を掴まれた。
振り返る。
妹が手を離す。
「あんまり遅くならないで」
「頑張る」
今度は冗談ではなかった。
◆
部屋の中央には、サイキョウが絵でしか見たことのない装置が置かれていた。
石造りの構造物は、サイキョウの胸ほどの高さがある。
中央には、滑らかな青い円盤がはめ込まれていた。
光ってはいない。
力も感じない。
今のところは、ただの石にしか見えなかった。
「魔力を含む物は、すべて外してください」
サイキョウは父からもらったお守りを外し、神官へ渡した。
神官は装置の前を指す。
「円盤に背を向けて座ってください。儀式が始まると、神聖な魔力があなたの身体を通過します」
サイキョウは座った。
「あなたの役目は、その魔力を感じ取り、自分の中に留めることです。身体を使って追いかけようとしてはいけません。息を止めたり、筋肉に力を入れたりもしないように。それはかえって邪魔になります」
「どれくらい吸収できる?」
神官がわずかに眉を上げた。
「まずは感じ取ることからです」
「その後は?」
「あなたが保持できるだけです」
サイキョウの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「分かった」
神官はもう一秒ほど彼を見た。
「限界までやろうとしないでください」
「そんなつもりはないけど」
なぜか神官は納得していないようだった。
「二分後に儀式が始まります。痛みや強い体調不良を感じた場合は、吸収をやめてください。無理をする必要はありません」
(俺にはある)
「分かりました」
神官は部屋を出ていった。
サイキョウは目を閉じる。
十年。
ずっと、この瞬間を待っていた。
不思議なことに、あと数分で覚醒できるというのに、頭の中は驚くほど静かだった。
計画もない。
将来使いたい技も浮かばない。
何年も集め続けてきた疑問すら、どこかへ消えていた。
残ったのは、ただ待つという感覚だけ。
そして。
何かが背中を通り抜けた。
サイキョウは目を開く。
何もない。
部屋は変わっていない。
だが、もう一度。
同じ感覚が来た。
皮膚を通る。
筋肉を通る。
骨を通る。
――違う。
言葉が間違っている。
これは身体を「通って」いるわけではない。
まるで身体そのものが、最初から存在していないかのように抜けていく。
(これか)
サイキョウは再び目を閉じた。
熱?
違う。
圧力?
それも違う。
本に書かれていた例えが、突然ひどく不正確なものに思えた。
(みんな、こんなのを毎日使ってるのか……?)
笑いたくなった。
十年間。
魔法というものを一度でも自分で感じたいと思い続けていた。
そして今。
それが文字通り、自分の身体をすり抜けている。
(よし)
(こっちに来い)
当然、何も起こらなかった。
サイキョウは眉をひそめる。
胸の中で流れを止めるイメージをする。
魔力はそのまま通り抜けた。
器を想像する。
また失敗。
拳を握る。
そしてすぐに、神官の言葉を思い出して心の中で舌打ちした。
(身体でどうにかしようとするな。分かってるって)
次はやり方を変えた。
サイキョウは、魔力そのものを掴もうとするのをやめた。
代わりに、それを留めたい場所へ意識を集中する。
心臓。
いや。
心臓そのものではない。
その近く。
ついさっきまでは存在すらしていなかったような、空白。
ほんのわずかな魔力が、流れる方向を変えた。
サイキョウの目が見開かれる。
「はっ」
次の瞬間には消えた。
だが、もう笑っていた。
(捕まえた)
もう一度。
今度は急がない。
感覚。
方向。
場所。
魔力が留まる。
一秒。
二秒。
三秒。
そして生まれて初めて、サイキョウは自分の中に、今まで存在しなかった何かがあるのを感じた。
思わず小さく笑う。
「へへ……」
(次だ)
魔力はまだ自分の身体を通り続けている。
魔力を留めるたびに、次の流れを捉えるのが少しずつ簡単になっていった。
やがて、流れ込んでくる魔力を一つ一つ意識する必要もなくなっていく。
何かが自分の中で形を作り始めていた。
本物の臓器ではない。
少なくとも、肉体的な感覚はなかった。
むしろ、意識が少しずつそこを、自分の身体の一部として認識し始めている。
魔力を蓄える器。
本には、そう表現されていた。
(こういう意味だったのか)
サイキョウは続けた。
時間の感覚が消えていく。
時々、集中が途切れた。
そのたびに魔力は素通りしていく。
何度か、もう器にはこれ以上入らないと思った。
それでも内側の感覚を少し調整すると、またわずかな余裕が見つかる。
(まだ)
(まだ)
(まだ)
背中が痛くなり始めた。
脚も痺れている。
(まだ)
ついには足の感覚までなくなった。
(今は別にいらないだろ)
(まだ)
やがて、流れ込んでくる魔力が少しずつ弱くなった。
そこで初めて、サイキョウは目を開いた。
部屋は変わっていない。
だが。
自分はもう違う。
サイキョウはゆっくりと手を持ち上げた。
外見は何も変わっていない。
それでも、感じる。
自分自身の魔力を。
父のお守りでもない。
他人の技でもない。
本に書かれた説明でもない。
本物の、自分の魔力。
サイキョウはほんの少しだけ、それを掌へ動かそうとした。
ほとんど動かない。
動きを止める。
もう一度。
今度は感覚が手首まで届き、そこで散った。
笑みがさらに大きくなる。
「ったく……」
一度に試したいことが多すぎて、何から始めればいいのかすら分からない。
そのとき。
扉が勢いよく開いた。
「若様?」
サイキョウは顔を向ける。
そこには、さっきの神官が立っていた。
ただし、表情はもう先ほどとは違っている。
「はい?」
「終わりましたか?」
サイキョウはもう一度、自分の中の器へ意識を向けた。
もう、ほとんど何も受け入れようとはしない。
「たぶん」
神官はしばらく黙った。
「分かりました。それでは……まず立ってみてください」
サイキョウは床へ手をつく。
脚が動かない。
下を見る。
もう一度試す。
何も起きない。
「あ」
神官が目を閉じた。
「限界までやろうとしないようにと言いましたよね」
「でも、できた」
「まず立ってください。自慢するのはその後です」
「それはそうだな」
◆
サイキョウがようやく廊下へ出ると、真っ先に父が立ち上がった。
妹は隣に座っている。
サイキョウが数歩進む。
妹がこちらを見る。
次に神官。
そしてまたサイキョウ。
「遅かった」
「ちょっとだけ」
「すごく遅かった」
「でも、その代わり――」
「約束した」
サイキョウは口を閉じた。
(こっちの方が儀式より難しいな)
「ごめん」
妹は顔を背けた。
サイキョウは近づき、頭へ手を置く。
払い落とされた。
もう一度。
また払い落とされる。
三回目。
今度は手がそのまま残った。
サイキョウは慎重に髪を撫でる。
「まだ怒ってる?」
「うん」
「そっか」
そのまま撫で続ける。
妹は数秒、黙ってそれを受け入れていた。
「いつもと同じでいい」
サイキョウは妹を見下ろす。
「じゃあ、やっぱり好きなんだ」
妹がゆっくりと顔を上げる。
「まだ怒ってる」
「別に両立するだろ」
そして、また頭を撫で始めた。
「若様」
神官が声をかける。
「ん?」
「魔力の測定があります」
サイキョウの動きが止まった。
(そうだった)
完全に忘れていた。
神官が隣の扉を指す。
「これから、覚醒の結果を確認できます」
サイキョウは扉を見る。
次に、自分の掌。
身体の内側には、まだあの新しい感覚が残っている。
自分の魔力。
十年間、ずっと待っていた力。
今度こそ、見るだけじゃない。
自分で使える。
疲れなんて、どうでもよくなった。
「行こう」
一歩踏み出す。
痺れた脚を危うく捻りそうになった。
妹が小さく笑う。
サイキョウは何事もなかったかのように姿勢を正した。
「今のはなかった」
「あった」
「見間違いだ」
「ちゃんと見た」
「じゃあ、誰にも言うな」
儀式の部屋を出てから初めて。
妹は笑った。




