一分たりとも無駄にはしない
神官の一件から、数週間が経った。
サイキョウは本を閉じ、自分の身体の状態を確かめた。
昨日の鍛錬のせいで、脚にはまだ鈍い痛みが残っている。
筋肉に力を入れ、片脚ずつゆっくりと持ち上げてみる。
痛みはもう弱くなっていた。だが、筋肉はまだ完全には回復していない。今ここで負荷をかけても、次の鍛錬の邪魔になるだけだ。
サイキョウは次の本へ手を伸ばした。
身体は休ませる。
頭は休ませない。
ここ数か月で、本を読むことも走り込みや木剣の鍛錬と同じように、彼にとって成長の一部になっていた。
歴史、地理、国の仕組み――手に入るものは、ほとんど何でも読んだ。
別に、そのすべてに同じだけ興味があったわけではない。
ただ、この世界について知らないことが多すぎた。
そして無知は、選択肢を狭める。
中でも、最も興味を惹かれたのは魔法だった。
魔法は本当に存在していた。
伝説でも、宗教上の奇跡でもない。
人は炎を生み出し、水を操り、自らの肉体を強化し、前世では不可能だった現象を引き起こすことができる。
サイキョウも、早い段階からその仕組みを理解しようとした。
だが、できなかった。
本は魔法で何ができるのかについては喜んで語るくせに、人が最初にどうやって魔法を使えるようになるのかについては、驚くほど曖昧だった。
大人たちに聞いても、普通の幼児に説明するような答えしか返ってこない。
彼らからすれば、それは当然なのだが。
自力でも試してみた。
何の成果もなかった。
サイキョウはページをめくる。
同じ動きを千回繰り返すこと自体は、何とも思わない。
ただし、自分が何を鍛えているのか理解している場合に限る。
当てもなく千回試すのは、鍛錬ではない。
ただの賭けだ。
(なら、まだ早い)
今できないことに時間を使う必要はない。
今の自分でも伸ばせるものなら、他にいくらでもある。
そのとき、扉がノックされた。
「サイキョウ?」
父が部屋へ入ってきた。
カエルはまず息子を見て、それから目の前に開かれた本へ視線を落とした。
「起きてからどれくらい経った?」
「少しだけ」
「鍛錬は?」
「してない」
明らかに意外そうな顔をされた。
サイキョウは自分の脚を指差す。
「まだ回復してないから」
「それで本を読んでるのか」
「うん」
カエルはしばらく息子を見つめた。
「たまには『ただ本が読みたかった』みたいな答えを聞いてみたいんだがな」
「本が読みたかった」
「脚が痛いからだろ?」
「うん」
カエルは深くため息をついた。
「……まあいい。着替えろ」
サイキョウが本から顔を上げる。
「なんで?」
「ずっと言ってただろ。剣の使い方をちゃんと教えてほしいって」
本が勢いよく閉じられた。
⸻
中庭では、すでに騎士たちが鍛錬を始めていた。
サイキョウはここから何度も彼らを観察してきた。
見た動きを、自分でも何度も真似した。
幼い身体と短い手足、そしてただの木の棒で再現できる範囲ではあったが。
今日、カエルは初めて本物の訓練用の剣を息子に渡した。
木製ではあるものの、実物の剣を模したものだ。
サイキョウは何度か振ってみる。
棒より重い。
重心もまるで違う。
これまで数え切れないほど繰り返してきた通りに、足を構える。
「もう違う」
サイキョウは顔を上げた。
カエルが靴先で彼の足をずらす。
「もう少し広く」
反対の足の向きも直される。
「そっちは開きすぎだ」
今度は肘。
「肩の力を抜け」
言われた通りに姿勢を変える。
「よし。振ってみろ」
振る。
「駄目だ」
もう一度。
「駄目」
三度目。
「まだ駄目だ」
サイキョウは止まった。
「なんで?」
カエルがもう一本の木剣を手に取る。
「見てろ」
一閃。
一見すると、ほとんど同じ動きだった。
サイキョウは眉を寄せる。
「もう一回」
カエルが繰り返す。
「もう一回」
今度は剣を見なかった。
足。
膝。
腰。
肩。
手首。
「もう一回」
四度目。
サイキョウは見た動きを再現する。
「さっきよりいい。だが、肩に力を入れるのが早すぎる」
もう一度。
「今度は手首」
もう一度。
「足」
もう一度。
「身体」
指摘は一向に減らなかった。
サイキョウの口元が、ゆっくりと吊り上がっていく。
カエルの声が止まった。
ようやく褒められた子供の笑顔ではない。
棒を握れるようになった頃から、自分なりに覚えてきた動き。
そのほとんどに、自分では気づけなかった間違いがあった。
そう何度も指摘されているというのに。
指摘されるたび、息子は嬉しそうになっていく。
「……何だ?」
「何でもない」
サイキョウは構えを直した。
笑みは消えない。
こんなに間違っていた。
こんなに見落としていた。
これだけの時間を短縮できる。
笑みがさらに深くなる。
「お前、今もう十回くらい駄目出しされてるぞ」
「知ってる」
「じゃあ、なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
サイキョウは木剣を構え直した。
「もう一回」
カエルはしばらく黙った。
「……分かった。もう一回だ」
⸻
一通り動きを確認した直後。
カエルの木剣が突然、サイキョウの顔へ向かった。
反射的に身体を仰け反らせる。
剣先は鼻先から数センチのところで止まった。
「遅い」
サイキョウが眉をひそめる。
「何が?」
「今のはゆっくり動いた。もっと早く避けられたはずだ」
「もう一回」
今度は横から。
攻撃が見える。
方向も分かる。
身体を動かす。
遅い。
「もう一回」
三度目。
また遅れた。
四度目。
今度は少し良い。
五度目。
外れた。
サイキョウは動きを止める。
前世の記憶は残っている。
以前の身体をどう動かしていたかも覚えている。
だから、この世界に来たばかりの頃は、反応速度くらいなら意識と一緒に多少は引き継がれているのではないかと思っていた。
違った。
この身体はゼロからだった。
サイキョウは父の木剣を見つめる。
(また一つ、弱点を見つけた)
(いい)
ゆっくりと笑みが広がっていく。
「もっと速く」
カエルが眉を寄せた。
「何?」
「遅すぎる」
「お前、まだ一歳だぞ」
「避けられるなら遅すぎる」
「今、五回も頭に当たりかけたんだぞ」
「二回」
「は?」
「最後の三回は避けられた」
カエルは息子を凝視した。
サイキョウの視線は木剣から離れない。
「もっと速く」
声に滲む期待があまりに強く、カエルは無意識に柄を握り直した。
「……ほんの少しだけだぞ」
サイキョウの目がわずかに輝く。
「うん」
⸻
それから、サイキョウの一日の使い方が変わった。
もっとも、本人はそれを「日課」とは考えていなかった。
決められた時間割では不十分だった。
何時になれば身体が回復するか。
何時になれば父の手が空くか。
そんなものを前もって正確に決められるはずがない。
だから、その瞬間に使えるものを使う。
身体が動くなら、肉体を鍛える。
筋肉を休ませる必要があるなら、本を読む。
父がいるなら、技術と反応速度。
頭が疲れても身体が動くようになったなら、また身体を使う。
そして夜になれば眠る。
睡眠については単純だった。
睡眠が足りなければ筋肉の回復は遅れ、反応速度も落ち、読んだ内容の定着まで悪くなる。
睡眠時間を削るなど、翌日の成果を自分から悪化させるだけだ。
そんなことをする意味はない。
無駄なのは眠る時間ではない。
起きているのに何もしない時間だ。
少しずつ、鍛えるものは増えていった。
筋力。
持久力。
柔軟性。
反応速度。
技術。
知識。
そして新しいことを一つ知るたびに、その隣にはまた新しく伸ばせるものが現れた。
サイキョウはそれが好きだった。
⸻
それから、さらに一年近くが過ぎた。
二歳の誕生日を迎える頃には、サイキョウも自分への贈り物が少し変わっていることに慣れていた。
母は綺麗なものを選ぶことが多い。
服。
玩具。
菓子。
一方、父は小さな木箱をしばらく無言で探り、そこから細い鎖を取り出した。
先端には金属の枠にはめられた、小さな黒い石がぶら下がっている。
爪ほどの大きさだった。
サイキョウはそれを受け取る。
「何これ?」
「お守りだ」
指先で石を転がして観察する。
「何の?」
カエルが目線を合わせるようにしゃがんだ。
「身体を少しずつ魔力に馴染ませるためのものだ」
サイキョウの指が止まった。
「魔力に?」
「ほんの少しずつだ。明日から火を投げられるようになるとか、そういうものじゃないぞ」
もうほとんど聞いていなかった。
黒い石をじっと見つめる。
魔力。
本に書かれた話ではない。
伝説でも宗教でもない。
本物の魔力が、今この瞬間にも何らかの形で自分の身体に作用している。
サイキョウは石を指で強く挟んだ。
何か感じられないか意識を集中する。
熱。
冷たさ。
流れ。
圧力。
何もない。
だが、それはどうでもよかった。
「やべ……すげえ」
カエルが瞬きをする。
「……何だ?」
サイキョウの口元が、ゆっくりと吊り上がり始める。
カエルはまだ困惑したままだ。
「お前、どこでそんな言葉覚えたんだ?」
「どうでもいい」
再び石へ視線を戻す。
今まで魔法は、自分にはまだ手の届かないものだった。
だが今は、魔力を介してすでに自分へ作用している物がある。
つまり、「魔法を使えない」と「魔法を使える」の間には、何かが存在する。
中間の段階が。
段階が存在するなら、調べられる。
サイキョウの笑みはさらに深くなった。
その顔を見たカエルは、なぜか「魔力」という言葉を口にしたことを早くも後悔し始めていた。
⸻
翌日には、サイキョウは分かる限りのことを調べ始めた。
このお守りはどれくらいの頻度で身につける必要がある?
外してもいいのか?
効果は弱くなる?
効果を強める方法は?
鍛錬の後なら何か感じられる?
睡眠の後は?
安静にしているときは?
ほとんどの質問に対するカエルの答えは同じだった。
「いいから身につけてろ」
最悪の答えだった。
だが、今のところ他に答えはない。
サイキョウは分かったことをすべて記録し、そのままお守りを身につけ続けた。
効果が弱すぎて感じ取れないのなら、変化が現れるまで待つしかない。
そして待つだけなら、他の鍛錬と同時にできる。
⸻
誕生日から数日後。
カエルは初めて、サイキョウが一族の大規模な訓練を見学することを許した。
訓練場は、いつもとはまるで違っていた。
普段なら数人の騎士と使用人がいる程度だ。
今日はその周囲を何十人もの人間が囲んでいる。
親族。
兵士。
使用人。
それに、サイキョウの知らない貴族たちまでいた。
小さな観覧席に場所を用意され、サイキョウは一番前に座った。
そして、ほとんどすぐに立ち上がった。
座っていると足元が見えにくい。
母が隣までやってくる。
「落ちないでね」
「落ちない」
訓練場へ父が姿を現した。
その向かいには、一族の騎士を率いる者たちの中で何度か見たことのある男が立っている。
長身。
広い肩。
髪は肩近くまで伸び、濃い髭が口髭と繋がって顔の周囲を覆っていた。
陰で「獅子頭」と呼ばれている理由は、見ればすぐに分かった。
男が握っているのは両手持ちの訓練用大剣。
離れていても巨大に見える。
サイキョウは身を乗り出した。
これまで父は、少なくともサイキョウが何をしているのか理解できる程度には加減して鍛錬してくれていた。
今日は、その必要がない。
「始め!」
最初に変化したのはカエルの剣だった。
刃に沿って淡い青色の光が走る。
燃え上がったわけではない。
むしろ彫刻のような細い青い紋様が、剣の表面に浮かび上がっていく。
父の腕にも同じような線が現れた。
サイキョウは固まった。
(魔力)
無意識に、首元のお守りへ手が伸びる。
本物だ。
今、目の前にある。
獅子頭にも変化が起きた。
黄色い光が肩から前腕へ流れ、柄へと伝わっていく。
巨大な刃の上を、光の舌が駆け抜けた。
サイキョウの口元が大きく吊り上がる。
母がこちらを振り向いた。
「どうしたの?」
返事はしなかった。
もう訓練場しか見えていなかった。
カエルが消えた。
違う。
消えてはいない。
一歩目は見えた。
二歩目は、ほとんど見えなかった。
甲高い音。
獅子頭が大剣を横にして受け止める。
カエルがもう一度斬り込む。
さらに一撃。
サイキョウは剣を目で追うのをやめた。
無理だ。
速すぎる。
視線を下げる。
足。
一歩目。
体重移動。
身体の捻り。
これなら見える。
獅子頭はほとんど後ろへ下がらない。
重い大剣で攻撃を受け止め、そのたびにカエルへ攻撃方向の変更を強いていた。
何度目かの衝突の直後、父が大きく後ろへ跳ぶ。
獅子頭が剣を頭上へ掲げた。
黄色い光が強まる。
肩が張る。
両足が地面を踏み締める。
サイキョウは目を細めた。
(上から来る)
カエルにも見えているはずだ。
(なら、どうして攻めない?)
大剣が振り下ろされた。
轟音。
地面が揺れる。
土が弾け飛び、刃の軌跡を追うように短い熱波が走った。
観客の何人かが歓声を上げる。
サイキョウは黙ったまま。
カエルはすでに側面へ回り込んでいた。
(待ってたのか)
ただ避けたのではない。
相手が一撃に動きをすべて乗せ、途中で変えられなくなる瞬間を待っていた。
カエルが攻める。
一撃。
防御。
二撃目。
防御。
三撃。
四撃。
五撃。
獅子頭はすべて受け止める。
そしてカエルは、毎回ほとんど同じ場所を狙っていた。
サイキョウが眉を寄せる。
(なんで?)
獅子頭が再び剣を持ち上げ始める。
その瞬間。
カエルは一気に相手の間合いへ踏み込んだ。
剣先が、指揮官の額すれすれで止まる。
静寂。
獅子頭が空いている手を上げた。
「参った」
次の瞬間、訓練場が歓声に包まれた。
サイキョウはまだ獅子頭の剣を見ていた。
五回。
同じ攻撃。
同じ反応。
そして六回目は来なかった。
カエルはただ同じ場所を攻撃していたわけではない。
同じ反応を何度も引き出していた。
そして最後に、自分で作り上げた相手の予測を利用した。
サイキョウの口元がゆっくりと吊り上がった。
(鍛えられるのは、自分の動きだけじゃない)
(相手が何を予測するかまで操れる)
一人ではできない鍛錬だった。
⸻
勝負が終わっても、カエルは訓練場に残った。
「次は?」
挑戦者はすぐに現れた。
一人目が負けた。
次に二人目。
三人目。
六人を超えたあたりで、サイキョウは数えるのをやめた。
本気でカエルに勝てると思っている者はいない。
彼らにとっても、これは鍛錬なのだ。
自分より遥かに強い人間を相手に、自分がどこまで通用するのか確かめるための。
サイキョウには、その気持ちがよく分かった。
自分でも出る。
負けると分かっていても。
いや。
負けると分かっているからこそ。
弱い相手は、自分に何ができるのかを教えてくれる。
強い相手は、自分に何ができないのかを教えてくれる。
カエルには、ほとんど疲れた様子すらなかった。
サイキョウは次第に不気味なほど深い笑みを浮かべながら、その姿を見つめる。
何戦も続けて。
違う相手と。
違う動きで。
(いつか)
観覧席の縁を指で強く握る。
(いつか、俺もあそこに立つ)
そのとき父は、もう剣を遅くしてはくれない。
そう考えると、胸の奥が妙に高鳴った。
⸻
大人たちの試合が終わると、今度は一族の子供たちによる訓練試合が始まった。
規則は単純。
一対一。
武器は木製。
降参するか、武器を落とすか、実戦なら勝負が決まっていたと判断される一撃を受けても負け。
サイキョウは再び身を乗り出した。
訓練場にフノが出る。
向かいに立ったのは、兄の一人――アダム。
二人ともよく知っている。
だが、本気で戦うところを見るのは初めてだった。
「始め!」
先に動いたのはアダム。
フノが下がりながら受ける。
木と木が激しくぶつかり合った。
父の戦いとは違い、今度はほとんどすべてが見える。
だからこそ、面白さではまるで劣らなかった。
力はアダムの方が上。
すぐに分かった。
打ち合うたびにフノは後ろへ押され、剣も本人が望むより大きく弾かれている。
だが、速いのはフノだった。
攻撃。
防御。
一歩。
反撃。
アダムが再び前へ出る。
フノは距離を取る。
攻撃。
防御。
もう一歩。
アダムは止まる隙を与えない。
サイキョウは二人の距離を追った。
フノはもう、これ以上下がれば危険な位置まで追い込まれている。
その瞬間、自分から足を止めた。
アダムはそれを予想していなかった。
もう次の一歩を踏み出している。
フノが横へ抜け、腕を打つ。
アダムの木剣が大きく揺れた。
だが、落ちない。
すぐに身体を返して反撃。
フノも辛うじて受け止める。
もうサイキョウには周囲の声が聞こえていなかった。
肩。
足。
距離。
視線。
一つ一つの動きに、次の行動の兆しが表れている。
一人の反応が、もう一人の次の判断を変える。
ただ訓練人形を叩くのとはまるで違う。
技は道具にすぎない。
重要なのは技そのものじゃない。
技と技の間で、相手の次をどう読むかだ。
サイキョウの顔に満足げな笑みが浮かんだ。
母が横目で見る。
「今度は何を見つけたの?」
「あとで」
視線は訓練場から離れない。
アダムが再びフノを追い詰めた。
今度は逃げ切れない。
一撃。
フノの木剣が手から弾き飛ばされ、地面に落ちた。
「そこまで!」
勝負が終わる。
アダムは荒く息をしていた。
フノは落ちた剣を見て顔をしかめ、それを拾い上げる。
「惜しかった」
「惜しくない」
フノは小さく笑った。
「次は勝つよ」
アダムは答えなかった。
その視線が一瞬だけ観覧席へ向く。
サイキョウへ。
そして、ほんの少し長くそこで止まった。
サイキョウは気づいていない。
彼が見ていたのは、フノの肩だった。
(攻撃が来る前から避け始めていた)
(そういうことか)
(試してみよう)
⸻
訓練そのものは、その後もしばらく続いた。
だが、サイキョウにとって残りの一日はもう決まったようなものだった。
試したいものが頭の中に溜まりすぎている。
カエルの踏み込み。
同じ場所への連続攻撃。
相手の予測。
肩。
間合い。
フノの急停止。
屋敷へ戻る間も、何度も何度も頭の中で動きを再生していた。
「サイキョウ」
そのまま歩き続ける。
「サイキョウ」
(肩でわざと一方向を見せてから、逆へ――)
何か小さなものが腹にぶつかった。
サイキョウは足を止め、下を見る。
小さな女の子がいた。
両手で彼の服を掴み、下から見上げている。
サイキョウは瞬きをした。
妹だ。
もちろん、今までにも何度も見ている。
だが、この数か月で、寝転がっているだけだった赤ん坊は、自分の足で屋敷の中を歩き回れる小さな人間へと進化していた。
そして今では、人の邪魔までできるようになった。
特に、サイキョウの邪魔を。
妹は服から手を離し、両腕を伸ばした。
「サイ」
「何?」
「サイ」
サイキョウは周囲を見た。
少し後ろでは母が誰かと話している。
妹がもう一度両腕を上げた。
「サイ!」
ようやく意味を理解した。
「嫌だ」
両腕は下がらない。
「鍛錬しないといけない」
それでも下がらない。
妹はそのまま待っている。
サイキョウは妹を見る。
前の廊下を見る。
もう一度、妹を見る。
「サイ」
サイキョウはため息をつき、妹を抱き上げた。
すぐに首へ両腕を回される。
数歩歩く。
そして止まった。
自分の腕を見る。
さらに数歩。
妹は楽しそうに足をぶらぶらさせている。
サイキョウは抱え方を少し変えた。
(追加の負荷)
そのまま歩き続ける。
数メートル進んだところで、少し速度を上げた。
「サイ!」
妹が笑う。
サイキョウは妹を見た。
また前を見る。
さらに速度を上げる。
「サイキョウ!」
サイキョウは止まった。
母がこちらを見ている。
「妹を抱いたまま走らないの」
「走ってない」
「今から走るつもりだったでしょ」
サイキョウは妹を見る。
まだ笑っている。
次に自分の腕を見る。
「歩くのは?」
母が怪しむように目を細めた。
「歩くだけならいいわ」
「分かった」
再び歩き出す。
妹は満足そうにサイキョウへ身体を寄せた。
妹を抱えたまま技の練習はできない。
反応速度も無理。
両手が塞がっているから本も読みにくい。
だが、追加の重さを抱えながら歩くことならできる。
サイキョウは妹を見る。
「役に立つ」
意味など分かるはずもなく、妹は笑った。
サイキョウもほんの少しだけ笑い返す。
数分後には腕が疲れ始めた。
それもまた、悪くなかった。
⸻
数日後。
サイキョウは再び訓練場の入口で足を止めた。
中では兄たちが鍛錬している。
入ろうとした瞬間、父の手が肩に置かれた。
「駄目だ」
「なんで?」
「お前は二歳だ」
「それで?」
「サイキョウ」
「ほぼ毎日ここで鍛錬してる」
「俺とだ」
「中にも父さんいるじゃん」
カエルは片手で目元を覆った。
「俺がいるかどうかの問題じゃない。お前はまだ本格的な模擬戦をするには小さすぎる」
「だから模擬戦が必要なんだ」
「それは理由になってない」
「理由になってる」
訓練場の中から笑い声がした。
「やらせてあげれば?」
フノが近づいてくる。
サイキョウより四歳年上。
最近では自分の鍛錬が終わった後も残り、弟の鍛錬を眺めることが増えていた。
ときには剣を持ってきてくれる。
自分が習った動きを見せてくれることもある。
サイキョウはフノを気に入っていた。
主な理由は、いつでも、
「戦う?」
と聞ける数少ない人間であり、
しかも時々「いいよ」と答えてくれるからだった。
「僕が加減するよ」
サイキョウは眉をひそめる。
「それが心配なんだけど」
「何が?」
「加減しすぎたら、鍛錬の意味が減る」
「僕、六歳なんだけど」
「だから訓練人形より役に立つ」
「……ありがとう」
カエルは疲れたように顔を手で撫でた。
「分かった」
サイキョウはすぐに中へ入ろうとする。
「待て」
止まる。
「木剣だけ。魔法は禁止。俺が止めろと言ったら、二人ともすぐ止める」
「分かった」
「サイキョウ」
「分かってる」
「言ってみろ」
サイキョウはため息をついた。
「父さんが止めろと言ったら止める」
「よし」
フノが小さく笑った。
⸻
二人は向かい合った。
フノが木剣を構える。
サイキョウも同じように構えた。
(やっとだ)
父との鍛錬は信じられないほど役に立つ。
だが、対戦相手として見れば、カエルはほとんど役に立たなかった。
差が大きすぎる。
すべての攻撃を完全に制御している。
どの失敗に気づかせるかさえ、父が決められる。
速度も父次第。
いつ打ち合いを終わらせるかも、父次第だ。
フノは違う。
強い。
年上。
経験も上。
それでも、手を伸ばせば届くかもしれない距離にいる。
「準備はいい?」
「うん」
フノが先に攻めた。
サイキョウが受ける。
予想より重い。
二撃目は横から。
サイキョウが下がる。
三撃目――
木剣が肩を打った。
「痛っ」
フノはすぐに動きを止めた。
「ごめん! 僕――」
「なんで止まるの?」
「当たったから」
「そのためにやってるんだけど」
フノが困惑する。
サイキョウは肩をさすった。
痛い。
どうでもいい。
三撃目を受けた。
遅かったからではない。
そもそも見えていなかった。
二撃目の続きが来ると思い込み、一瞬だけフノの剣を視界から外した。
サイキョウは攻撃が来た位置へもう一度視線を向ける。
(ミスだ)
思わず頬が緩む。
フノもそれに気づいた。
「何で笑ってるの?」
「もう一回」
「痛いんだろ?」
「うん」
サイキョウはまだ木剣を見ていた。
「三撃目、全然見えてなかった。もう一回」
フノは数秒、弟を見つめた。
「……たまに怖いよ、サイキョウ」
「始めて」
二度目の勝負は、さらに早く終わった。
攻撃。
防御。
横へ抜けようとする。
脚を打たれた。
サイキョウが止まる。
視線がフノの肩へ。
次に剣。
そして、また肩。
表情が変わった。
フノが剣を下ろす。
「今度は何?」
「分かった」
「何が?」
「俺の肩を見てる」
フノの動きが止まる。
サイキョウが顔を上げる。
二連敗した人間とは思えないほど満足そうな顔だった。
「だから俺が振り終わる前に、どっちへ来るか分かるんだ」
「まあ……うん」
サイキョウは数秒、何も言わずにフノを見た。
兄たちの試合で気づいたこと。
仕組みそのものは単純だった。
自分で使うとなれば、話は別だ。
「もう一回」
フノが怪しむように目を細めた。
「お前、本当に大丈夫?」
「始めて」
三戦目。
今度はサイキョウもフノの肩を見る。
負けた。
四戦目。
また負ける。
五戦目。
今度は明らかに長く持った。
心臓が激しく脈打つ。
腕が痛む。
背中を汗が流れる。
それでも目の輝きは消えなかった。
(これだ)
訓練人形は、間違った動きを指摘してくれない。
本は、失敗しても殴ってこない。
父は見えすぎるうえに、負荷を意図的に調節する。
だがフノは、見つけた隙をそのまま突いてくる。
一発受けるたびに分かる。
(ここが駄目)
次。
(ここも)
さらに次。
(これも直せる)
(あと、どれだけ見つけられる?)
⸻
次の打ち合いの最中。
サイキョウは前世で見た動きを思い出した。
人が、ほとんど力を使わずに相手を倒していた。
正確な技は覚えていない。
覚えているのは考え方だけ。
相手の支えを奪う。
フノが攻める。
サイキョウは距離を詰め、相手の足元へ自分の足を置いた。
(ここから体重を――)
フノの肩がぶつかった。
何が起きたのか理解するより先に、天井が視界いっぱいに広がる。
サイキョウは数秒、仰向けのまま黙っていた。
頭の中で動きを再現する。
自分の足。
フノの足。
身体の向き。
あの押し。
突然、口元が緩んだ。
「……はっ」
フノが駆け寄る。
「サイキョウ?」
「はは……」
「頭打ったの!?」
サイキョウは起き上がった。
目が輝いている。
「自分から重心を崩してた」
「何?」
「足の位置が間違ってた」
もう立ち上がっている。
「もう一回」
「今、思いっきり倒れたんだぞ?」
「だから、駄目な足の置き方が一つ分かった」
フノは弟を狂人でも見るような目で見た。
サイキョウはすでに構え直している。
「やろう」
⸻
その後も、結果はほとんど同じだった。
倒れる。
足の位置を変える。
また倒れる。
身体の角度を変える。
もう一度。
四回目。
初めてフノの身体が揺れた。
ほんの一瞬。
だが、サイキョウは見逃さなかった。
目が一気に輝く。
「分かった」
「何が?」
「どこが間違ってたのか」
「どこ?」
「もう一回」
五回目には、フノも狙いを理解していた。
ただ一歩下がって避ける。
サイキョウは止まった。
(分かりやすすぎる)
また一つ、課題が増えた。
「もう一回」
「できるまで続けるつもり?」
サイキョウはフノを見る。
「できない理由が分かるまで」
「それじゃ夜まで終わらないよ」
「いいよ」
「冗談なんだけど」
「俺は本気」
「駄目だ」
父の声が飛んできた。
サイキョウが振り返る。
カエルが壁際に立っていた。
「でも――」
「俺が止めろと言ったら止める。そう約束しただろ」
サイキョウは黙った。
約束した。
「分かった」
フノが安堵の息を吐く。
「やっと終わった……」
サイキョウは彼を見る。
「明日続きやろう」
フノの安堵が消えた。
⸻
皆が去った後、カエルが息子を呼び止めた。
「見せてみろ」
「何を?」
「さっきの動きだ」
サイキョウは木剣を取る。
「まだ使えないよ」
「だから見せろ」
訓練人形の横へ立つ。
「力で倒すんじゃなくて、相手が体重を移す場所をなくしたい」
動きを見せる。
人形が少し揺れた。
「足を出す場所を塞いで、それと同時に――」
「待て」
カエルが近づく。
同じ動きをする。
もう一度。
眉を寄せる。
足の位置を変えた。
再び試す。
訓練人形が倒れた。
サイキョウの表情が消えた。
父を凝視する。
「もう一回」
カエルがゆっくりと繰り返す。
サイキョウは足だけを追った。
(これだ)
カエルはもう一度足を置いた。
「お前は入り込みすぎてる」
足元を指す。
「だから自分までバランスを崩す。相手の足の後ろまで入れる必要はない。体勢を立て直すために踏み出す方向を塞げば、それで十分だ」
サイキョウも試す。
失敗。
もう一度。
人形が揺れた。
三度目。
倒れた。
サイキョウは数秒、倒れた人形を見つめていた。
一人なら、何週間も違う形を試し続けていたかもしれない。
父は数分で問題を見つけた。
サイキョウはゆっくり顔を向ける。
また、あの異様に大きな笑みが浮かんだ。
カエルが即座に警戒する。
「……何だ?」
「父さん、技っていくつ知ってる?」
「駄目だ」
「まだ何も頼んでない」
「その顔を知ってる」
サイキョウが一歩近づく。
「明日の朝――」
「朝食の後だ」
「朝食までは暇でしょ」
「朝食の後」
「じゃあ朝食中に理論だけ――」
「サイキョウ。朝食の、後だ」
少し考える。
「分かった」
カエルは出口へ向かった。
「それと、ちゃんと時間通り寝ろよ」
「もちろん」
父が足を止め、疑わしそうに振り返る。
「反論しないのか?」
サイキョウには、何を疑われているのか本気で分からなかった。
「眠くて疲れた状態で鍛錬する意味ある?」
カエルはもう一秒だけ息子を見た。
「……たまに、お前は驚くほどまともなことを言うな」
そのまま出ていった。
サイキョウは倒れた訓練人形を見る。
今日だけで、ここ数か月より多くの間違いを見つけた。
反応速度を鍛える新しい方法も得た。
本気で攻撃してくる相手も得た。
そして、自分では見えないものを見抜ける人間が隣にいるだけで、技術の修正速度がどれほど変わるのかも知った。
首には、父から贈られたお守りがまだ掛かっている。
魔力も消えてはいない。
ただ、自分の番を待っているだけだ。
サイキョウは倒れた訓練人形を起こした。
(他に、どれだけ間違った動きを正しいと思い込んでる?)
(まだ気づいてすらいない弱点は、いくつある?)
(強くなる方法が目の前にあるのに、まだ見つけられていないものは?)
口元の笑みが、ゆっくりと深くなっていった。




