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主人公はみんなバカ

挿絵(By みてみん)


「なんでだよ……」


 サイキョウは椅子の背もたれに身を預け、数秒間、黙ってモニターを見つめていた。


 画面には、読み進めていた小説の最新話が表示されていた。


 主人公はついに、王国最強の剣士から教えを受ける機会を手に入れた。


 しかも、その剣士は毎日稽古をつけてくれるという。


 なのに主人公は断った。


 友人たちと祭りへ行きたかったからだ。


 サイキョウは最後の数行を読み返した。


 それから、もう一度。


 何か読み飛ばしたのか?


 いや。


「お前、二度目のチャンスをもらったんだぞ」


 水の入ったボトルに手を伸ばす。


「魔法。新しい身体。しかも、タダで鍛えてくれる師匠までいるのに……」


 挿絵の主人公は、女の子たちに囲まれて幸せそうに笑っていた。


「それで祭りに行って、りんご飴食ってんのかよ」


 サイキョウは目を閉じた。


 こういう物語が好きだった。


 たぶん、好きだからこそ余計に腹が立つのだ。


 もし自分が異世界へ行けたなら、空に浮かぶ島だって見てみたい。


 現地の料理も食べてみたい。


 本物のドラゴンだって見たい。


 だが、もしその世界に本当に魔法が存在するなら。


 もし人間の身体が、本当に今までの常識を超えられるのなら。


 自分がどこまで行けるのか、試さずにいられるものなのか?


 サイキョウはコメント欄を開いた。


 指が素早くキーボードを叩く。


『主人公はみんなバカだ』


 少し考えてから、続きを打った。


『二度目の人生をもらっておいて、一度目と同じように無駄遣いできるのも才能だな。俺がこいつの立場なら、一日だって無駄にしない』


 送信。


 サイキョウは立ち上がった。


 何時間もパソコンの前に座っていたせいで、身体がすっかりこわばっていた。


 スマホでタイマーをセットし、懸垂バーの前に立った。


 十回。


 短い休憩。


 さらに十回。


 三セット目の途中、スマホから短い通知音が鳴った。


 新しい通知。


 誰かがコメントに返信したらしい。


 サイキョウは最後の一回まで終えてから、ようやくスマホを手に取った。


 返信は短かった。


『じゃあ、やってみろよ。引きこもり』


「は? ていうか俺、引きこもりじゃねえし」


 アカウントを開く。


 何もない。


 プロフィール画像も。


 投稿も。


 名前すら一文字だけだった。


 ただの「・」。


 サイキョウは返信を打った。


『何をだよ? あと俺は引きこもりじゃない』


 ほとんど一瞬で返事が来た。


『証明してみろ』


 部屋が消えた。


 足元から床の感触が消える。


「なんだ――」


 身体が落下した。


 反射的に手を伸ばし、何かにつかまろうとする。


 何もない。


 壁も。


 床も。


 天井も。


 あるのは、どこまでも続く暗闇だけだった。


 心臓が激しく脈打ち、自分の鼓動が耳の奥で聞こえた。


 落ちている。


 一秒。


 二秒。


 五秒。


 なのに風は顔に当たらない。


 服も揺れない。


 身体には速度そのものが感じられなかった。


(俺、落ちてるのか?)


 サイキョウは下を見る。


 何もない。


(それとも、そう感じてるだけか?)


「落ち着いたか?」


 声が、突然目の前から聞こえた。


 サイキョウはびくりと身体を震わせた。


 数メートル先に、一人の男がいた。


 黒いシャツに黒いズボン。


 見た目だけなら、どこにでもいそうな普通の男だった。


 ただし、何もない空間に床でもあるかのように立っていることを除けば。


 サイキョウは男を見る。


 下を見る。


 もう一度、男を見る。


 男がニヤリと笑った。


「コメントを書いたのはお前か?」


「ああ」


「ここはどこだ?」


「世界と世界の狭間だ」


 サイキョウは数秒黙った。


 別の状況なら、夢だと思っただろう。


 あるいは、自分の身に何か起きたのだと。


 だが、感覚があまりにも鮮明だった。


「世界と世界の……」


 そこで言葉が止まった。


 一つの考えが浮かぶ。


 あまりにも分かりやすく、それでいてあまりにも馬鹿げていて、口に出すのが恥ずかしいほどの考え。


 サイキョウの口元が緩んだ。


 やがて、歯を見せるほど大きな笑みになる。


「気づいたか?」


 恐怖が消えたわけではない。


 ただ、その隣に別の感情が生まれていた。


「異世界って、本当にあるのか?」


「いくらでもある」


 サイキョウは男を見つめた。


「魔法がある世界も?」


「ある」


「モンスターは?」


「もちろん」


「普通の人間より強くなれる?」


 男が吹き出した。


「最初に気になるのがそれか?」


 サイキョウは質問を無視した。


「どこまで強くなれる?」


「それは世界次第だな」


「じゃあ、そこに送ってくれ」


 考えるより先に言葉が出た。


 男から笑みが消えた。


「帰ってこられるかどうかも聞かないのか?」


「それでも行きたい」


「なぜだ?」


 サイキョウは男を見る。


「行きたいからだ」


 男はニヤニヤしながら、数秒間サイキョウの顔を観察していた。


「いいだろう」


 サイキョウの目の前に、小さな白い炎が現れた。


「なら、餞別だ」


 サイキョウは手を伸ばしかけて、止めた。


「何だ、これ?」


「祝福だ。成長する素質を高める。魔法は扱いやすくなり、身体は鍛えやすくなり、技術も身につきやすくなる。最初のちょっとしたアドバンテージみたいなものだ」


 サイキョウは白い炎を見つめた。


 ほんの数分前まで、自分が夢見ていたものそのものだった。


「向こうの世界の人間は、全員これをもらえるのか?」


「いや」


「じゃあ、消してくれ」


 男が片眉を上げた。


「何?」


「いらない」


「さっきまで、どこまで強くなれるか聞いてただろ?」


「だからだよ」


 サイキョウは炎を指さした。


「最初から条件を変えられたら、何も確かめられない」


「何を確かめる?」


 サイキョウは一瞬黙った。


 さっき小説のコメント欄に残した言葉が脳裏に浮かぶ。


「あいつらが、本当にバカだったのかどうか」


 男が初めて笑みを消した。


「これは物語じゃないぞ」


「分かってる」


「お前には何の才能もないかもしれない」


「分かってる」


「病弱な身体に生まれるかもしれない」


 サイキョウは眉をひそめた。


「魔法を見る前に死ぬ可能性だってある」


「分かってる」


「後悔したら?」


「その時は後悔する」


 白い炎が消えた。


 男の顔に再び笑みが浮かぶ。


「見せてもらおう」


「何を?」


「お前がどこまで行けるのかを」


 世界が白く染まった。


     ◆


 寒い。


 最初に感じたのは、それだった。


 次に、光。


 眩しすぎる。


 サイキョウは目を覆おうとして、腕がほとんど言うことを聞かないことに気づいた。


 ここはどこだ、と聞こうとした。


 喉から出たのは泣き声だった。


(何だ……?)


 誰かに抱き上げられる。


 女の顔が自分を覗き込んでいた。


 何かを話している。


 音は聞こえる。


 だが、一言も分からない。


 サイキョウは頭を上げようとした。


 上がらない。


 もう一度。


 ほんの少し浮いた頭は、すぐに元へ戻った。


 そこで自分の手を見る。


 小さな指。


(赤ん坊か)


 サイキョウは数秒、その手を見つめ続けた。


 異世界について妄想するとき、なぜかいつもこの部分だけは飛ばしていた。


(……まあいい)


 拳を握ろうとする。


 できた。


 開く。


 もう一度握る。


 三回目には、指がさっきより動かしにくくなっていた。


 サイキョウは止めた。


 赤ん坊がどう成長するのか、自分は何も知らない。


 どこまでの負荷なら安全なのかも知らない。


 そもそも、この世界の人間の身体が前の世界と同じ構造なのかすら分からない。


 今できることは一つだけだった。


 観察すること。


 気に入らなかった。


 だが、新しい身体を初日から壊すよりはマシだ。


(もしかして俺、自分のことをかなり過大評価してたか?)


     ◆


 最初の数か月は屈辱的だった。


 歩けない。


 喋れない。


 一人で食事もできない。


 自分の腕すらまともに操れない。


 以前想像していたようなトレーニングなど、できるはずもなかった。


 だから最初は、今できる唯一のことに集中した。


 覚えることだ。


 顔。


 物。


 何度も繰り返される音。


 特に、言葉。


 母親はサイキョウを抱き上げるたび、同じ言葉を口にした。


 別の言葉は、後に父親だと判断した男が現れるたびに聞こえた。


 食事。


 水。


 扉。


 特定のものの近くでは、同じ音が何度も繰り返された。


 少しずつ、ただの雑音だったものに意味が生まれていく。


 自分でまともに返事ができるようになるよりずっと早く、相手の言っていることが分かるようになった。


 そんなある日、サイキョウは会話よりもずっと面白いものを見つけた。


 本だった。


 小さなテーブルの上に開いたまま置かれている。


 そこまでたどり着くこと自体が、一つのトレーニングになった。


 ようやくテーブルの端まで身体を引き上げると、一枚の絵が目に入った。


 一人の人間が、手のひらを前に向けている。


 その上には炎が描かれていた。


 サイキョウの動きが止まる。


(魔法?)


 ページをめくる。


 また別の絵。


 今度は、人の身体を何本もの線が取り囲んでいる。


 その横には大量の文字。


 サイキョウは見つめた。


 分からない。


 次のページ。


 やはり分からない。


 話し言葉なら、すでにある程度理解できるようになっていた。


 だが、文字はまったく別の問題だった。


 ほんの数センチ先に、本物の魔法の仕組みが書かれているかもしれない。


 なのに今のサイキョウにとっては、ただの絵と意味不明な記号の集まりだった。


(文字を覚えないと)


 問題は、それを大人に説明することすらまだまともにできないことだった。


 サイキョウは本を閉じた。


 少し考える。


 そして、使用人を探して這っていった。


     ◆


「本?」


 若いメイドはサイキョウを見て、それから彼がどうやってか足元まで運んできた重い本を見た。


 サイキョウは頷く。


「本が欲しいの?」


 もう一度頷く。


 メイドは笑って本を持ち上げ、サイキョウへ返した。


 受け取らない。


「違うの?」


 炎が描かれたページを開く。


 文章を指さす。


 次にメイドを指す。


 また文章。


「えっと……」


 メイドがしゃがみ込んだ。


「絵?」


 サイキョウは首を横に振る。


 文字を指さす。


 それから彼女の口。


 メイドの動きが止まった。


「もしかして……」


 疑わしそうにサイキョウを見る。


「……読んでほしいの?」


 サイキョウは勢いよく頷きすぎて、危うくバランスを崩しかけた。


「本気?」


 もう一度、文章を指さす。


 メイドは隣に座った。


「分かった。でも、聞いても何も分からないと思うけど……」


 彼女が読み始める。


 サイキョウは聞いた。


 文章を目で追った。


 どこからどこまでが一つの言葉なのかを見極めようとする。


 ほとんど分からない。


 一ページを読み終えると、サイキョウは最初の行を指さした。


「もう一回?」


 頷く。


 彼女はもう一度読んだ。


 サイキョウは文字を追い続ける。


 二回目で、一つの繰り返しに気づいた。


 三回目でもう一つ。


 五回目を読み終えたところで、メイドはさすがに違う目でサイキョウを見た。


「……また?」


 サイキョウはページの最初を指さした。


 メイドは深いため息をつく。


「私がこの本を嫌いになる前に、せめて覚えてね」


     ◆


 文字は、サイキョウが思っていたよりずっと難しかった。


 何度も間違えた。


 ある文字の意味を理解したと思ったら、次のページではまったく違う使われ方をしている。


 予想していた音と違う読み方をする文字もあった。


 隣に置かれる文字によって意味が変わるものもある。


 だが、方法は見つけた。


 聞く。


 比べる。


 覚える。


 分からなければ、本を大人のところへ持っていく。


 やがて、ただの記号だったものが単語になった。


 単語が文章になった。


 まだ自由に読めるわけではない。


 だが、もう壁ではなかった。


 あとは時間の問題だ。


 話すことのほうが難しかった。


 何を言いたいのかは分かっている。


 だが、身体がそれを知らない。


 それが特に腹立たしかったのは、父親が庭で剣を振っていた日のことだった。


 サイキョウは母親のそばに座り、その様子を見ていた。


 父親が握っているのは剣だった。


 飾りではない。


 本物だ。


 武器そのものは以前にも見たことがある。


 だが今は、何度も大人たちから聞いた言葉と、それを結びつけることができた。


 頭の中で繰り返す。


 声に出そうとした。


「け……」


 母親が下を見る。


 サイキョウは眉をひそめた。


 もう一度。


「けん」


 父親の動きが止まった。


 数秒、誰も何も言わなかった。


「今、何て言った?」


 母親がサイキョウを見る。


「たぶん……『剣』って」


 サイキョウは武器を指さした。


「けん」


 父親がゆっくり剣を下ろす。


「こいつの最初のまともな言葉が『剣』なのか?」


 母親が口元を手で覆った。


 サイキョウはもう一度指をさす。


「けん」


 父親が近づいてくる。


「ダメだ」


 サイキョウは眉をひそめた。


 その言葉なら、もう知っている。


「けん」


「ダメ」


「けん」


「お前、まだ一歳にもなってないだろ」


 サイキョウは剣を見る。


 父親を見る。


「ダメ」


 交渉は完全に行き詰まった。


     ◆


 数日後、サイキョウは棒を見つけた。


 軽すぎる。


 短い。


 しかも曲がっている。


 それでも、何もないよりはマシだった。


 父親が剣をどう持っていたかは見ている。


 だから、その手の位置を真似してみた。


 何かがおかしい。


 握り方を変える。


 さらにおかしくなった。


 軽く振ってみる。


 危うく転びそうになった。


(俺、何やってるのか全然分かってないな)


 不愉快な発見だった。


 動きを見ることと、動きを理解することはまったく違う。


 もう一度試す。


 剣術を身につけるためではない。


 そもそも今の自分では、姿勢が正しいのかすら分からない。


 それでも、物を持つことに慣れることはできる。


 バランスを取る練習もできる。


 自分の身体がどう動くのかを観察することもできる。


 やがて棒を振ることは、日課の一つになった。


 そしてある日、その棒が消えた。


 サイキョウは床に座り、棒を置いたはずの場所を見る。


 それから父親を見る。


 父親の手には、その棒があった。


「ダメだ」


 サイキョウは手を伸ばす。


「ダメ」


 もう一度伸ばす。


「ダメだと言っただろ」


 サイキョウは息を大きく吸い込んだ。


 数秒後、母親が部屋へ入ってきた。


「どうして泣いてるの?」


 父親が疲れた顔で母親を見る。


「棒を取り上げた」


「返してあげて」


「こいつ、まだ八か月だぞ」


「知ってるわ」


「毎日あれを振ってるんだぞ」


「それも知ってる」


「今日は同じ動きを七十四回やった」


 母親がサイキョウを見る。


 サイキョウはぴたりと泣き止んだ。


 父親が眉を寄せる。


「ほら! 見たか?」


「何が?」


「こいつ、俺たちの話を理解してる」


 サイキョウは母親へ視線を移した。


 母親はしばらく彼を見つめた。


「当然でしょう?」


「八か月で?」


 今度は、母親もすぐには答えなかった。


 父親が息子の前にしゃがみ込む。


「サイキョウ」


 目を合わせる。


「俺の言ってることが分かるのか?」


 サイキョウは固まった。


 自分の行動が周囲からどう見えるのか。


 今までなぜか、それを考えたことがなかった。


 自分にとっては、どの行動にもちゃんと理由があった。


 それが当たり前になりすぎていた。


 だが、両親にはその理由を知る由もない。


 目の前にいるのは、生後八か月なのに本を読んでくれと要求し、文字を覚えようとし、回数を数え、毎日棒を振っている赤ん坊だ。


 サイキョウはゆっくり笑った。


 父親は笑い返さなかった。


(……やりすぎたか)


     ◆


 数日後。


 朝食の席に、見知らぬ男がいた。


 服には、サイキョウが街の建物で見たことのある紋章が刺繍されている。


(教会か)


 男は普通の客のように両親と話していた。


 ほとんどは。


 ただ、サイキョウを見る回数が多すぎた。


「この子ですか?」


 やがて男が尋ねた。


 母親が頷く。


 サイキョウはスプーンを置いた。


 男が向かいに座る。


「こんにちは」


「こんにちは」


 数秒間、沈黙が流れた。


「何歳かな?」


 サイキョウは母親を見る。


 代わりに母親が答えた。


「八か月です」


 聖職者の眉がわずかに動いた。


 それから、いくつか簡単な質問をした。


 母親の名前。


 父親はどこにいるのか。


 テーブルの上に何があるのか。


 答えられるものには答えた。


 まだ上手く発音できないものもあった。


 男は何も言わない。


 やがて手を伸ばした。


「よろしいですか?」


 誰に聞いたのか、サイキョウには分からなかった。


 母親が頷く。


 手のひらが頭に触れた。


 温かい。


 だが、皮膚の温度ではない。


 何かがもっと深いところへ入ってくる。


 身体の中を通っていく。


 サイキョウは息を止めた。


(何だ、これ?)


 感覚はすぐに消えた。


 聖職者が手を離す。


「何もありません」


 父親が眉をひそめる。


「本当に?」


「憑依も、呪いもありません。別の何かが入り込んでいる気配もない」


 サイキョウはゆっくり両親へ顔を向けた。


(憑依?)


 母親が目を閉じ、大きく息を吐いた。


 そこでようやく理解した。


 両親は本気で、自分たちの息子の中に別の何かがいる可能性を疑っていたのだ。


 そして厳密に言えば、それほど的外れでもない。


「ですが」


 聖職者が続けた。


「私を呼んだ理由は分かります」


 壁際に置かれた本を見る。


「この子は文字が読めると?」


「勉強しているところです」


 母親が答えた。


「メイドの一人が何度も読み聞かせていたら、少しずつ単語を覚え始めて……」


「八か月で?」


「はい」


 聖職者は再びサイキョウを見た。


 今度は、少し長く。


「それで、棒というのは?」


 父親が疲れたように眉間を押さえた。


「聞かないでください」


「剣が欲しい」


 サイキョウが言った。


 父親が目を閉じる。


 聖職者は小さく笑った。


「少なくとも、それについては分かりやすいですね」


 立ち上がる。


「この子に問題はありません。少なくとも、私に分かる範囲では」


「じゃあ、どうしてこんな……」


 父親が尋ねた。


「分かりません」


 あまりにも平然とした答えだった。


「単に発達が非常に早いだけかもしれない。才能があるのかもしれない。数年もすれば、周りの子供たちと変わらなくなる可能性もあります」


 サイキョウは黙って聞いていた。


「そうでなければ」


 聖職者は続ける。


「もう少し大きくなってから専門家に診てもらうといいでしょう。その後なら、学院への入学を考えてもいい」


 サイキョウが顔を上げた。


「学院?」


 聖職者が彼を見る。


「その頃になっても、まだ興味があればね」


 サイキョウは何も答えなかった。


 ただ、その新しい言葉だけは覚えておいた。


     ◆


 その夜、サイキョウはなかなか眠れなかった。


 学院のせいではない。


 両親の会話のせいだった。


 ベッドに横になり、天井を見る。


 単純なミスをした。


 今まで、自分の側からしか物事を見ていなかった。


 自分にとっては、すべてに理由がある。


 前世の記憶があるから、言葉を理解するのが早かった。


 魔法について知りたいから、本を読んでもらった。


 武器の扱いを覚えたいから、棒を手に取った。


 どれも、自分にとってはおかしくない。


 だが、両親にはその理由を知る由もない。


 彼らが見ていたのは、結果だけだ。


 そして、その結果は聖職者を呼ぶほど彼らを不安にさせた。


(もっと気をつけないと)


 やめるつもりはない。


 ただ、何もかも周囲に見せる必要はない。


 小さな物音がした。


 サイキョウは顔を向ける。


 母親がベッドのそばに座っていた。


 椅子に座ったまま眠っている。


 今日のことがまだ心配なのだろう。


 ベッドのそばには、返してもらった棒が置かれていた。


 サイキョウはそれを見る。


 今日は予定していた回数までできなかった。


 今から終わらせることもできる。


 手を伸ばす。


 そして、もう一度母親を見た。


 今ここで棒を振れば、起こしてしまう。


 サイキョウは手を戻した。


(明日でいい)


 目を閉じる。


 数秒後、眉をひそめた。


 明日の朝は、すでに別の予定を入れていた。


 なら、何かをずらすしかない。


 異世界での新しい人生は、これまで読んできた物語にはほとんど出てこなかった問題を、少しずつサイキョウに突きつけ始めていた。


 そして今のところ、最も厄介なのは魔法ではない。


 周りの人間だった。


 サイキョウは小さな声で呟いた。


「……邪魔」

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