第8話 返済日じゃない土曜
六月の土曜、俺は駅前の時計を三回見た。
待ち合わせをしていたわけではない。
大学の課題を一緒にやる予定だった相手から、朝になって来られないと連絡があった。課題は昨夜のうちに半分済ませたので、俺一人でもどうにかなった。午前中のうちに残りも終わって、昼過ぎから何もすることがなくなった。
白雪を誘おうかと思った。
来週の土曜は、月に一度の昼飯の日だ。今月は白雪が作る。月初めの返済も済んでいるし、貸し借りしたままの箱もない。
『今日、暇?』
そこまで打って、何をするのか決めてから送ろうと考えた。
映画なら始まる時間がある。今からじゃ急だ。勉強は終わった。買い物なら一人で済む。
結局スマホをポケットに入れ、食べるものを買おうと駅前まで来た。
時計を三回見たところで、改札から白雪が出てきた。
白いブラウスに、薄い水色のスカート。高校のときの鞄より小さい鞄を肩にかけていた。隣にいた友達と手を振って別れ、俺に気づく。
「汐瀬くん?」
「おはよう、じゃないな。こんにちは」
「こんにちは。誰かと待ち合わせですか」
「いや。白雪は学校?」
「課題の材料を買いに、駅の向こうまで。これです」
手提げ袋から、色の違う布が見えた。白雪の短大では、生活に関わるいろいろなものを作る授業があるらしい。四月の弁当の日には、俺の知らない道具の名前をずいぶん聞いた。
「今日は、これで終わり?」
「はい。あとはボタンを買ったら。汐瀬くんは?」
俺は何も持っていない手を見た。
「課題、終わったから出てきた。買い物なら、俺もそっち行く」
「じゃあ、途中まで」
白雪は歩き出した。隣に並ぶと、布の袋が意外と大きかった。片側を持とうかと聞いたら、見た目ほど重くないと返ってきた。
手芸屋は商店街の端にある。中へ入ると、壁いっぱいに小さな引き出しが並んでいた。白雪は迷わず、貝のような色のボタンの前へ行く。
見比べている間、俺は近くの棚で青い糸を見ていた。青だけでこんなに種類があるのかと思う。
「汐瀬くん、何か縫うんですか」
「いや。青って、いっぱいあるなって」
「お弁当の包みも、ここの布です」
白雪は青い布が巻かれた棚を指した。少しだけ濃い、見慣れた色があった。
「ここで選んだんだ」
「はい。黄色いのは家にあった分です。青いのは、最初にお弁当を作る前に」
最初に受け取った青い包みを思い出した。俺の弁当のために、ここまで選びに来ていたらしい。
白雪はボタンを二つ選んで会計を済ませた。
店を出ると、商店街の時計が一時を指していた。
「汐瀬くんの買うものは、どこですか」
聞かれてから、俺はようやく何も決めていないことを思い出した。
「昼飯。まだ食べてなくて」
「じゃあ、スーパーですね」
「……白雪は食べた?」
「まだです。でも、何か買って帰るつもりで」
信号の向こうにスーパーがあった。まっすぐ行けばうちへ帰れる。白雪の家は、途中の細い道を曲がる。
もう少し歩きたかった。それなら、スーパーに寄ってからどこか遠い店に行く理由でも探せばいいと思った。
そうやって考え始めたところで、白雪の手提げ袋に入った二つのボタンが鳴った。
買い物は終わっている。
「白雪、俺、ほんとは買うもの決めてない」
白雪が信号から俺へ顔を戻した。
「昼ごはんは?」
「それはまだだけど。今日、急に暇になって、誰か誘おうと思ってた」
「誰か」
「……白雪」
信号が青になった。二人ともすぐに歩き出さなかったので、後ろから来た人が先に渡った。
「来週、弁当の約束あるだろ。それとは別に、今日も、少し一緒にいたくて」
言い終えると、信号の音がさっきよりよく聞こえた。
白雪は持っていた袋を片手にまとめた。
「私、汐瀬くんが用事あって来たんだと思ってました」
「うん。そう言った」
「途中まで、って言わなければよかったですね」
彼女が歩き出した。俺も隣について渡る。
「お昼、川のほうで食べませんか。ベンチ、空いてたら」
「いいね」
「今日は、作ってきてないですけど」
「俺も」
「知ってます。手が空なので」
スーパーで惣菜とお茶を買った。今度は白雪に何がいいか先に聞いたら、彼女は俺に同じことを聞き返した。揚げ物が食べたいと答えると、白雪はすぐコロッケを選んだ。
「私もです」
小さいパックを二つ買うより安かったので、四つ入りを一つ。それとおにぎりを二人で選んだ。
川沿いの道は日が照っていた。木の下のベンチが空いていて、白雪が小さなハンカチで座面を払った。
「汚れるよ」
「それ用のです」
「そんなのも分けてるのか」
「一枚あると便利ですよ」
俺が真似してポケットのハンカチを出すと、白雪が笑いながら止めた。もう座れるらしい。
隣で食べる昼飯は、机を向かい合わせるのとは少し違った。白雪がパックの端を持ち、俺がふたを外す。コロッケが一つ転がりそうになって、二人で同時に押さえた。
布の袋は、ベンチの端ではなく、俺たちの間に置いた。汚れたら困ると思ってそうしたが、話すたびに袋の上から顔を見ることになった。
食べ終わってから、白雪が袋を自分の足元へ移した。
「課題、いつまで?」
「来週の金曜です。汐瀬くんは、もう終わったんでしたっけ」
「うん。でも来週、また出る」
「じゃあ、同じですね。終わっても、次が来ます」
高校のときは同じ課題を持っていた。今は白雪がどの曜日に忙しいか、何の授業が好きか、聞かないと分からない。
俺は月曜の朝の講義が早い話をした。白雪は、水曜がいちばん帰りが遅いと話した。メッセージを送るなら、夜のどのくらいがいいかも聞いた。
「時間、そんなに決めなくても大丈夫です。すぐ返せないときは、あとで返しますから」
「そっか」
「朝も、送っていいですか」
俺がうなずくと、白雪は水筒ではなく、買ったお茶を両手で持った。
「たまに、七時半くらいに目が覚めて、そのあと何か忘れてる気になるんです」
「俺も」
「お弁当は、自分の分作ってるのに」
去年の秋から春までの、数か月だった。その前の朝を思い出そうとすると、寝坊した日ばかり出てくる。
今日も七時半に起きていたことを話すと、白雪は、それならメッセージを送ればよかったと言った。
帰りは川の上流へ少し歩いた。行きたい店があったわけではなく、次の橋まで行って戻ることにした。白雪は一度だけ、布の袋を俺に預けた。ボタンの入った小袋を鞄へ移すためだった。
渡されてみると、本当に軽かった。
「持とうか」
「じゃあ、その橋まで」
袋を持って並ぶ。橋へ着くと、白雪が手を差し出した。
「もう持つ?」
「はい。汐瀬くん、袋に気を取られて、さっきの段差見てなかったので」
「そこまで見られてたのか」
「ずっと隣にいたので」
俺は袋を返した。少し先にまた段差があって、今度は白雪が指をさして教えてくれた。
駅へ戻る道の途中で、白雪がスマホを出した。
「来週の土曜、お昼は決まってますけど、そのあと、何かありますか」
「ないよ」
「じゃあ、今度は食べたあとも少し歩きませんか」
「うん。どこへ?」
「来週、決めましょう」
予定表には、昼飯の下に、もう一つ空きのある予定が増えた。
来週の昼は、白雪が川の見える場所まで持ってきてくれることになった。俺は敷物と飲み物を用意する。
商店街の角で別れてから、俺はスマホを出した。送らずに残っていた『今日、暇?』を消して、新しく打つ。
『今日は誘えてよかった』
返信は、角を曲がる前に来た。
『次は、駅で待ち合わせにしましょう』
俺は来週の土曜の欄へ、集合時刻を入れた。




