第7話 卵焼きを半分
卵焼きが、フライパンの上で真ん中から折れた。
焼く前から折れる心配はしていた。けれど、巻こうとした一枚目ではなく、どうにか形になった三枚目で折れるとは思わなかった。
卒業式の朝、俺は台所で菜箸を持ったまま、足のある丸をにらんだ。
ファイルに入れたじいちゃんのレシピは、調味料のあとに「焼く」としか書いていない。最初に練習した日は、その一言にずいぶん文句を言った。
火が強すぎた一回目は、母が食べた。次は俺が食べた。三回目は焦がさずに巻けたのに、本番の今日は、取り出す直前に力を入れすぎた。
包丁で切ってみると、断面はちゃんと黄色かった。
「端、どこにしようかな」
誰もいない台所で言ってみた。割れた場所を端だと言い張れば、全部が端になる。
俺は二つの箱に、形のいいものと崩れたものを交互に入れた。
青と黄色の弁当箱は、試験が終わった週に白雪から借り直していた。おにぎりは鮭と梅。鶏肉は、昨日母に横で見てもらいながら焼いた。詰め終えて、二つの包みを結ぶ。
結び目に指を入れたら、緩すぎて箱がずれた。もう一度、今度は少し強く。白雪は毎朝これを数秒でやっていた。
七時三十五分には、まだ包み直していた。
白雪は来なかった。卒業式の前に美容院へ寄るから、今日は学校で会おうと言われていた。
約束を知っていても、時計を見てしまった。
教室に入ると、黒板には卒業まであと零日、と大きく書かれていた。
白雪は窓際で友達と写真を撮っていた。髪の一部を編んで留めている。いつものようにうなずいてくれたあと、俺の手の紙袋を見て、口の形だけで「二つ?」と聞いた。
俺も紙袋を少し持ち上げた。
そのあとすぐ、担任が教室に入ってきた。まだ撮れていないと声が上がり、先生も入って撮ればいいと誰かが言った。スマホを置く場所が見つからず、結局、廊下を通った別の先生が呼び止められた。
式では名前を呼ばれ、校長の話を聞いた。見慣れた体育館の床が、椅子でほとんど隠れていた。
退場するとき、保護者席に母が見えた。仕事を休めないかもしれないと言っていたのに、出口に近い席で手を振っている。俺がうなずくと、母は腕時計を指した。昼からは仕事へ戻るらしい。
あとで届いたメッセージには、卒業おめでとうの下に、お弁当の感想も聞かせて、とあった。自分が食べた焦げた一切れの話を、まだ覚えているようだった。俺は、帰ったら話す、と返した。
最後のホームルームを終えると、教室はまた写真を撮る場所になった。俺は出席番号で並んだ数人に呼ばれ、白雪は花束を渡されていた。
昼を過ぎて、人が少しずつ減った。俺が紙袋を出すと、白雪は鞄から箸を二膳取り出した。
「今日は、両方ちゃんとあります」
「片方、確認していい?」
「信用がないですね」
「前科がある」
笑いながら、一膳ずつ分けた。
窓側の席を借りて、机を向かい合わせにした。俺の机ではなく、いつもパンの袋を広げていた級友の机だ。今日はもう帰ってしまった。借りる相手に断るのも、明日でいいとは思えないので、メッセージを送ってから座った。
白雪が黄色い包みをほどいた。ふたを開けて、少しだけ顔を近づける。
「ちゃんと巻いてあります」
「一回折れた」
「一回だけ?」
「今日は一回」
白雪は卵焼きを箸で持ち上げた。形のいい切れではなく、少し崩れたほうだった。
俺も一切れ取った。
甘かった。自分で入れた砂糖の量は知っている。それでも、食べるとまた違う。じいちゃんの味を思い出そうとしたが、今日は途中で焼けたか確かめた味ばかり浮かんだ。
「どう?」
「おいしいです」
「無理してない?」
白雪はもう一口食べてから、俺の箱を見た。
「そっちも、同じですか」
「同じやつを切ったから」
「じゃあ、汐瀬くんも食べてください。私だけだと、どんどんなくなります」
俺はもう一切れ取った。丸い端の部分だった。
白雪はそれを見て、ちょっと残念そうな顔をした。
「そっちに入ってたんですね」
「端っこ?」
「はい。私も好きなんです」
いつも俺の箱に入っていたから、余ったところをくれているのだと、最初は思っていた。
「白雪も好きだったのか」
「嫌いなものを押しつけてたと思いました?」
「いや。でも、毎回こっちにあったから」
「多めに焼いた日は、うちにも残してます。半分ずつです」
白雪は自分の箱からもう一つの端を見つけて、箸で持ち上げた。俺のぶんと並べてみる。片方だけ厚くて、丸というより山の形だった。
「汐瀬くん、次はこっちも食べてみますか」
「次って、また俺が作るの?」
「じゃあ、次は私が」
白雪は端を口に運んだ。
言い終わってから、俺たちはどちらも、少し黙った。
試験の結果は二人とも出ていた。俺は市内の大学へ、白雪は駅の向こうの短大へ通う。家を出る時刻は違うし、この教室にも、もう朝は集まらない。
弁当がいる日はあるだろう。でも七時三十五分にうちの玄関へ来ることは、白雪にとって明らかな遠回りになる。
「青い箱、洗って返すよ。白雪、そっちも使うだろ」
俺が言うと、白雪はふたを重ねる手を止めた。
「急がなくても大丈夫です。また使うので、きれいにして返してください」
「また、って。もう卒業だし、毎朝は――」
白雪は黄色い箱を両手で持った。俺も青い箱のふたを押さえた。
「……そっか」
机の端に置いていた卒業証書の筒が、俺の肘に当たって転がった。白雪が片手で押さえてくれる。
「毎朝は、難しくなりますね」
「そうだな」
「でも、一か月に一回くらいなら、お昼、一緒に食べられませんか」
「休日?」
「はい。交代で作れば、今日みたいに二人とも座れます」
俺は空になった箱を見た。これだけ作るのに、昨日から準備した。毎日なら続かないかもしれない。でも一か月あれば、次は違うものも作れそうだった。
「じゃあ、四月は白雪。五月は俺で」
「六月も、決めます?」
俺がうなずくと、白雪はスマホの予定表を開いた。月末の土曜に丸をつけて、画面をこっちへ向けた。
「返すお金の日とは、別でいい?」
予定表に向かって聞いた。白雪は画面に触れていた指を止めた。
「はい。別で」
窓の向こうから、名前を呼ぶ声がした。白雪の友達だった。校門で最後に撮ろう、と手を振っている。
俺たちは箱を片づけ、机を元に戻した。空の教室には、花束を包んでいた紙が一枚落ちていた。白雪が拾ってごみ箱へ入れる。
廊下へ出ると、教室の札を外す先生がいた。
白雪は写真に入り、俺は少し離れて待った。途中で友達の一人に呼ばれ、気づいたら俺も端に入れられていた。誰がシャッターを押すかでまた揉めて、通りかかった保護者に頼んだ。
帰り道、写真が送られてきた。俺は筒と紙袋を両方持っていて、白雪は黄色い包みを持っている。
「荷物、多いな」
「汐瀬くん、ずっと紙袋を離さなかったですね」
「弁当つぶれたら困るだろ」
「もう空です」
写真を拡大しても、自分の手にあるのは普通の紙袋だった。けれど、離したら今日が先に終わるような気がしていた。
商店街の角に着いても、白雪はすぐ曲がらなかった。
「来月まで、ちょっと長いですね」
「明日なら、家にいるけど。茶くらいなら出せる」
白雪は黄色い包みを少し持ち上げた。
「じゃあ、青い箱、受け取りに。洗うのは急がなくていいですよ」
「そのくらい、今日のうちにやるよ」
「明日、行っていいんですか」
白雪はもう、俺の返事を待っていた。
「うん。昼過ぎなら」
「分かりました」
白雪が角を曲がるとき、俺は今度はちゃんと手を振った。紙袋が揺れて、中の青い箱が小さく鳴った。




