第6話 空箱の日
弁当箱の中に、箸が入っていなかった。
二月の火曜、登校日だった。授業がない日も増え、三年の教室はいつもより静かだ。俺は鞄の底まで探し、青い包みの結び目をもう一度広げた。
空の箸袋だけが出てきた。
教室の向こうで、白雪が自分の弁当を開けていた。目が合うと、彼女は箸を持つ手を止めた。
俺が空の袋を見せたら、今度は自分の袋を見た。どうやらそちらには二膳あるらしかった。
「すみません。今、持っていきます」
白雪は友達に一言断って、俺の机まで来た。
「箸、引っ越したんだな」
「朝、引っ越し先を間違えました」
差し出された箸を受け取る。白雪の目の下に、薄く影があった。
「寝た?」
「寝ましたよ」
「何時間」
「……四時間くらいです」
今朝、七時三十五分の受け渡しで、白雪は珍しく何も聞かなかった。箱を渡し、模試の問題の話を少しして、すぐ学校へ向かった。
試験の日程は二人ともあと少し残っている。白雪は今週、弁当屋のシフトを減らしてもらっていた。空いた時間を、全部勉強に使っているようだった。
「弁当、作らなくていいよ」
俺が言うと、白雪は空の箸袋を折った。
「今日の分、何か変でした?」
「そうじゃなくて。寝てないなら、朝も無理して来なくていい」
「でも、朝は――」
「来週まで休もう。試験が終わるまで」
白雪は俺を見て、それから自分の席を見た。友達が何か言おうとして、こちらを待っていた。
「分かりました」
彼女は空の袋を持って戻っていった。
俺は弁当を食べた。鶏肉の味はいつも通りだった。卵焼きも、丸い端が入っている。作るときに眠かったのかと思ったら、急にゆっくり食べたくなった。
家に帰ると、二つの箱を洗った。明日渡す青と、週末から借りていた黄色。水を切って並べると、これが一週間空いたままになるのだと思った。
夜のうちに、玄関の棚へ置いておいた。
翌朝は七時二十五分に目が覚めた。
制服を着る必要はない日だった。図書館へ行くつもりで服を選び、台所でパンを焼く。七時半を過ぎると、トースターの前にいるのが落ち着かなくなった。
七時三十五分。玄関には何も来なかった。
自分で休もうと言ったのだから、当たり前だった。
冷めたパンを食べて、図書館へ行った。昼は向かいのコンビニでおにぎりを二つ買った。鮭と梅を選んだのは、ほかに思いつかなかったからだ。
一つ食べてからスマホを出した。
『鮭と梅にした』
そこまで打って、消した。白雪は受験勉強をしている。昼飯の報告を受ける必要はない。
卵焼きの感想なら、昨日まで毎日送っていたのに。昼飯の話では、勉強の邪魔になる気がした。
図書館の窓から見える道には、学校へ向かう制服の生徒もいた。今日の補習は希望者だけだ。白雪が行ったかどうかも聞いていなかった。自分の机に戻る途中、俺はスマホをもう一度出した。
『今朝、よく寝られた?』
今度は送った。返事を待ちながら、空のおにぎりの袋を畳んだ。
続けて、今夜も早く寝てほしいと打ちかけて、それは消した。昨日、自分の言うことだけ言ってしまったのを思い出した。
白雪は「朝は」と言いかけていた。その先を聞かなかった。
図書館の席へ戻っても、英語の問題は一ページしか進まなかった。
夕方、借りていた箱を返すために白雪へ連絡した。返すのは試験のあとでいいと返ってきたので、箱のこととは別に、少し話したいと送った。
駅前に五時、と返事が来た。
白雪は本屋の袋を持っていた。今日は紺色のコートで、制服ではない。昨日より顔色はよさそうだった。
「箱は、家に置いてきた。今日は急にごめん」
「箱は、急がなくて大丈夫です。うちにもありますから」
「うん。今朝、何も来なかったの、久しぶりだった」
白雪は袋の持ち手を握り直した。
「休むって決めたので」
「そうなんだけど。昨日、白雪、何か言いかけたよな。俺、最後まで聞かないで決めた」
駅へ向かう人が増えてきて、二人で本屋の横へ寄った。白雪が足元のタイルの線を、靴の先でなぞった。
「朝は、そんなに無理してなかったです。母の分と一緒に作ってましたし。昨日は寝るのが遅すぎただけで」
「そっか」
「四時間って答えたら、きっと怒られると思いました」
「怒ってた?」
「少し」
俺は昨日の声を思い出した。来なくていい、休もうと、こっちだけで畳みかけた。
「ごめん。心配だったけど、言い方が悪かった」
「今日は六時間半、寝ました」
「そりゃよかった」
白雪は小さくうなずいたが、まだ袋を両手で持っていた。そこで俺も話を終えずに待った。
「朝、汐瀬くんと話したら、その日は始まった感じがするので」
駅前の信号が変わった。歩行者の音が聞こえる。
「来週まで、何も話さないのは、ちょっと長いと思ってました」
俺はポケットの中のスマホを握った。昼に送らずに消した言葉は、きっとどれも、送ってよかったものだった。
「弁当がなくても、連絡していい?」
「はい」
「会うのも」
白雪が顔を上げた。
「試験前だから、少しだけだけど。毎朝は無理でも」
「……はい。お弁当なしで?」
「なしで」
白雪の袋が少し下がった。その中に見えていたのは、試験用の参考書ではなく、薄い文庫本だった。
「それ、息抜き?」
「寝る前に一章ずつ読むんです。昨日は続きが気になって、二章読みました」
「四時間の原因、それもあるのか」
「少しだけです」
白雪は今度こそ笑った。
本屋の前から、商店街の角まで歩いた。今日は彼女が帰る方向へ、俺が少し戻る。途中の店で見つけた梅のおにぎりを指して、昼飯も同じだったと話す。
「足りましたか」
「うん。でも、白雪のやつのほうが好き」
「海苔、違いますからね」
「そこ?」
「梅も違います」
俺が味の細かい違いを言えないでいると、白雪が楽しそうに売り場をのぞいた。
角に着いて、白雪が足を止めた。
「じゃあ、試験が終わるまでは、お弁当お休みで」
「うん。そのあと、今度は俺が作るよ」
言ってから、買うと言えばよかったと思った。卵を割るところからやったことは、ほとんどない。冬休みのそばも、ねぎを切るので精いっぱいだった。
けれど、白雪はもうこっちを見ていた。
「何を作ってくれますか」
「何でも、とは言えないけど」
「じゃあ、一つだけ頼んでもいいですか」
俺がうなずくと、白雪は指を一本立てた。
「おじいさんの卵焼き。あの紙の」
油の染みと、足のある丸が浮かんだ。まだ作るために開いたことのないファイルだ。
「同じにできるか分からないよ」
「私、元の味を知らないので、比べられません」
「たしかに」
「汐瀬くんが作ったのを、食べてみたいです」
俺はポケットから手を出した。
「じゃあ、試験が終わったら。二人ぶんで」
白雪は少し考えてから、首を横に振った。
「卒業式の日はどうですか。試験のあとだと、結果が出るまで落ち着かないかもしれないので」
「卒業式の日、昼?」
「はい。教室、最後ですし」
学校にいればいつでも話せると思っていたのに、その教室もあと少しで使わなくなる。
「それまでに練習しとく」
「練習の分も、食べられますよ」
「それは俺が食べる」
「残念です」
白雪が帰っていくのを見送って、俺は来た道を戻った。
家に着く前に、ポケットが鳴った。
『今日は、寝る前に本を一章で閉じます』
俺も返事を送った。
『俺は帰ったら、レシピを開く』
今夜は送る前に消さなかった。




