第5話 買い物かごは一つ
「一つずつ持つと、買いすぎるので」
白雪はそう言って、俺が手に取った買い物かごを元の山に戻した。
一月の日曜、午前十一時。商店街のスーパーで、俺は空いた手の置き場所に困っていた。白雪の手には買い物メモ、俺の手には今度こそ一つだけのかごがある。
「今日は何人分?」
「お昼は二人分です。母は仕事なので、夕方まで帰りません」
「うちもそう。じゃあ、そばでいい?」
「もう決まるんですか」
「早いほうが楽だろ」
白雪はメモのいちばん上を見て、ペンのふたを閉めた。
きっかけは、今朝のメッセージだった。
『明日のおかず、何がいいですか』
何でもいい、と打ちかけて、消した。去年それを言ったら、白雪が帰り道で三回聞き直してきたからだ。鶏、卵、魚と候補を挙げられ、全部うまそうだと答えた結果、次の日は全部少しずつ入っていた。
あれから、できるだけ一つは言うことにしている。
『鶏のやつ。甘辛いの』
『じゃあ、買いに行きます。汐瀬くんも来ますか』
こうして来たのに、俺が明日の分より先に今日の昼飯を決めてしまった。
「そば以外がよかった?」
「いえ。麺の売り場は、まだ向こうなので」
「じゃあ、順番に見よう」
野菜の前で止まる。長ねぎは一本のものより、三本束のほうが一本あたりは安い。
俺が束を取ろうとすると、白雪がメモを見せた。
「今、うちに二本あるんです」
「じゃあ一本でいいか」
「うどんにするなら、白菜も使えます」
「そばに白菜?」
「だから、うどんだったらです」
俺は一本入りのねぎをかごに入れた。白雪はしばらく白菜を見ていたが、次の棚へ進んだ。
魚売り場では、鮭の切り身が二切れ入ったパックを持ち上げた。値札を見て戻し、隣の小さいものを取る。白雪が下から冷えた水のついたパックを支えた。
「小さいほうが高いですよ」
「ほんとだ」
「グラムで値段が違うので」
「値引きのシールしか見てなかった」
「シール、強いですね」
笑いながら、白雪は同じ売り場をゆっくり見ていた。買うつもりのない魚の名前まで読んでいる。俺は次の棚の特売札を見ていた。
ここは祖父とよく来た店だった。じいちゃんは野菜を一つ取るたびに、俺に重いか聞いた。重いほうがいいのかと思って、大きいキャベツばかり選んでいた。
今はかごが重くなる前に、値段を見て戻すことが多い。
果物売り場で、白雪が急に足を止めた。
透明な容器に、赤いいちごが並んでいた。白雪はかごを持つ俺のほうを一度見てから、一パックを取った。真横から中を見て、また棚へ戻す。
「傷んでた?」
「いえ。きれいでした」
「そっか。みかんは安いな」
俺は値札を指した。白雪はうなずいたが、みかんは取らなかった。
麺を選び、明日の弁当用の鶏肉を入れた。かごは順調に埋まり、時計はまだ十一時二十分だった。昼前に買い終えれば、道も台所も空いている。
レジへ向かう途中、白雪がかごの中を見た。
「早かったですね」
「うん。これならすぐ作れる」
「そうですね」
白雪はメモを畳み、ポケットへしまった。
そこでようやく、彼女が何も書き足していないことに気づいた。いつもなら、俺が鶏の味を言うだけで、ねぎを入れるか、辛くしていいかと続く。今日はほとんど、俺が決めていた。
レジの列に入る手前で立ち止まった。
「白雪、今日、何食べたかった?」
彼女が顔を上げた。
「そばでいいですよ」
「それは俺が言ったやつ」
「……買い物の途中で決めようと思ってました」
かごの持ち手が、指に食い込んできた。俺はもう片方の手に持ち替えた。
「早く終わったほうがいいと思ってた」
「お昼のあと、用事があるんですか」
「ない」
「私もないです」
白雪は今度は笑わなかった。責めている顔でもなく、俺の返事を待っていた。
「じゃあ、戻ってもいい?」
「何を買います?」
「それを、まだ決めてない」
白雪が少しだけ口元をゆるめた。
俺たちはレジの列から離れて、もう一度野菜売り場まで戻った。通り道の果物の前で、今度は俺が止まった。
「さっきの、食べたかった?」
いちごを指すと、白雪は値札を見た。
「今年、まだ食べてなかったので。でも、お昼に一パックは多いです」
「二人でも?」
「……二人なら」
白雪がパックを取り、俺に渡した。下のほうにも傷はない。みかんより高かったが、どちらを食べたいかは、もう聞いたあとだった。
かごに入れる場所を空けると、彼女は上からつぶさないように、鶏肉のパックを端へ動かした。
「じゃあ、お昼、いちごに合うものにしましょう」
「そばとは合わない?」
「別々に食べれば合いますけど」
「別々に食べようよ」
「それなら何でも合います」
結局、昼はそばになった。ただ、ねぎを少し焼いて載せることにした。白雪が見ていた白菜は、夕飯用に小さく切ったものを一つ買った。
レジでは会計を二つに分けてもらった。明日の弁当の材料は白雪が、自分の家の分は俺が払う。今日の昼の分はレシートを見て半分にした。
いちごも二人で半分ずつだ。俺が出すと言ったら、白雪が小銭を数えながら首を振った。
「私も食べたくて選んだので」
うちに着くと、白雪はまず流しでいちごを洗った。俺は湯を沸かし、ねぎを切る。太さが揃わないのを見て、彼女がまな板の前へ来た。
「ゆっくりで大丈夫です。鍋、まだ沸いてないので」
「いつも、このくらい?」
俺が切った一つを見せると、白雪は指で半分くらいの幅を作った。
「それだと、ねぎが主食になります」
「そんなに太いか」
切り直すのはやめて、焼く時間を長くした。白雪はその間に、いちごのへたを取って皿へ並べた。片側が俺の分なのか聞くと、何も決めていないと言われた。
そばを食べ終えた頃には、一時を過ぎていた。いつもなら昼飯のあとに問題集を開く時間だったが、今日は日曜で、二人とも何も持ってきていない。
白雪はテーブルの端に、スーパーのレシートを伏せて置いた。
「私も、こういうの撮ってみたかったんです。行きたい短大の体験授業で、料理の写真を見せてもらって」
「作ったものを撮るの?」
「はい。どう並べるかまで考えるんです」
俺はそばの器といちごの皿を見た。汁のついた箸が、皿のほうへ渡っていたので、手前に揃えた。
「写真、撮る?」
「……先に食べちゃいました」
白雪は空の器を見て笑った。
「次は、食べる前にな」
「はい。忘れてたら言ってください」
いちごを一つ食べると、思ったより酸っぱかった。
「甘そうに見えたのにな」
「私はこのくらいも好きです」
白雪は続けてもう一つ取った。その顔を見て、俺も二つ目を取る。先が小さいほうは、少し甘かった。
「今の、甘い」
「ずるいですね」
「自分で選んだんだろ」
「汐瀬くんが取ったんです」
白雪が皿を回した。俺の側にあった小さいものを探しているらしい。残った三つから一つを選び、慎重にかじる。
俺は皿のいちごが減る速さを、少し遅くした。
最後の一つを半分に切ろうかと聞いたら、白雪が包丁を取りに立った。真ん中で分けるのではなく、縦に二つにする。両方とも先があるのを見て、少し笑ってしまった。
「これなら、どっちも甘いところです」
二人で半分ずつ食べて、ようやく皿が空いた。
片づけを終えると、白雪は買い物袋から白菜を出した。俺の家の夕飯用だ。
「これ、何にします?」
「鍋かな。母さんに聞いてみる」
「鶏、もう少し買ってもよかったですね」
「明日の分、足りる?」
「それは足ります。夕飯に」
白雪は薄い袋の端を折り、白菜を冷蔵庫へ入れた。
「スーパー、まだ開いてるよ」
「知ってます。さっき行ったので」
「もう一回行く?」
彼女は冷蔵庫のドアから手を離した。外はさっきより風が弱い。日が出ているうちなら、遠回りして帰っても寒くなさそうだった。
「今度は、調味料の棚も見ていいですか」
「うん。急いでないから」
白雪はかごを持っていたときより軽そうに、玄関へ歩いていった。




