第3話 二人で十分
十一月最初の土曜、白雪はうちの食卓にノートを二冊並べた。
片方には返済予定表が挟まっている。もう片方には、数学の付箋がびっしりついていた。
「先に、こっちからお願いします」
白雪が開いたのは返済予定表のほうだった。昨夜届いた一万円の入金をスマホでもう一度確かめて、俺も自分の控えに日付を入れる。残り十七万円。初めて一つ埋まった欄を、白雪はペンの先で押さえた。
「あと十七回ですね」
「うん」
「今月も、予定通りで大丈夫です」
白雪はノートを閉じて鞄にしまった。その横から数学のノートを引き寄せると、表情まで変わった。
「それで、こっちは全然大丈夫じゃないです」
「付箋の数で分かる」
「分からなかったところに貼ったんですけど、貼ってないところを探したほうが早くなりました」
横から見ると、紙の端が黄色いブラシみたいになっていた。
来週は模試だ。昨日、学校の図書室が点検で土曜は使えないと聞いた帰り道、白雪が困った顔をした。家のすぐ脇で工事が始まり、昼間は机に座っても問題文が頭に入ってこないという。
うちなら静かだよ、と言ったのは俺だった。
朝八時に起きて、テーブルの上の物を全部端に寄せた。白雪は九時ちょうどに来た。端に寄せただけの物は、当然、まだそこにある。
「座るところはあるから」
「はい。ノートを開くところもあります」
白雪は開いたノートを、紙の山の下に少しだけ差し込んだ。
見覚えのある大学案内、母が置いていった保険の封筒、何月のものか分からないスーパーのチラシ。いちばん上にはテレビのリモコンが乗っていた。
「何でリモコンがここにあるんですか」
「なくすから」
「なくさない場所が、ここなんですか」
「今のところ」
白雪はリモコンをそっと紙の山に戻した。
自分の家に学校一の美少女が来ている。しかも土曜の朝から、二人で勉強する。そのことを昨日の俺はもう少し意識していたはずなのに、今はリモコンの置き場所を言い訳している。
せめて茶ぐらい出そうと台所に立った。急須を温めて戻ってくると、白雪が袖を折っていた。
「汐瀬くん。始める前に、ここを片づけてもいいですか」
「いいよ。そこ、俺がやるから」
「私もやります。紙がなくなるだけで、かなり広くなりそうなので」
二人分の湯飲みを置く場所がなかった。俺はリモコンをテレビの前に運んでから、白雪の向かいに座った。
最初のうちは早かった。昨日の新聞は新聞入れに。大学案内は俺の鞄へ。保険の封筒は母が帰ったら渡せるように電話の横へ。
「これ、六月の特売ですよ」
「卵が安いな」
「今から行っても買えません」
チラシが消えると、下から別のチラシが出た。白雪が笑いながら重ねていく。俺が紙をより分けるより、彼女が持ち上げるほうが少しだけ速かった。
白雪が薄茶色の紙に手をかけた。
折り目のところに、丸い油の染みがある。裏はスーパーの広告で、印刷された魚の写真が見えた。
「これも一緒で――」
「それ、捨てないで」
自分で思っていたより強い声が出た。
白雪の指が止まった。片づけたチラシの上に載せる直前だった。彼女は紙をそのまま、俺のほうへ差し出した。
「ごめんなさい」
「いや。まだ言ってなかったし」
受け取った紙を開く。裏返すと、じいちゃんの字があった。
卵三こ。さとう、大さじ一。塩、すこし。
字の下には、俺が子どもの頃に描いたと思う、足のある丸が一つ。ひよこだったのかもしれない。線がかすれていて、口なのか手なのか分からなかった。
「じいちゃんの、卵焼き」
白雪は残りの紙から手を離した。
捨てられかけた紙を受け取ってしまえば、さっきの声は大げさだったように思えた。こんなところに混ぜて置いたのは俺だ。紙の裏まで見てほしかったわけでもない。
「ごめん。大きい声出して」
「いえ。確認すればよかったです」
食卓の真ん中に、さっきまでなかった隙間ができていた。俺はそこに紙を置いた。端が折れたままだったので手のひらで押す。離すと、また少し浮いた。
「これで作ってくれてたんだ。俺が小学校の頃」
「甘い卵焼きですね」
「うん。たぶん。もう、同じ味かどうか自信ないけど」
白雪の卵焼きを初めて食べたとき、すぐに好きな味だと思った。じいちゃんのと似ていたからかは分からない。あのときは、誰かが俺の昼飯を用意してくれたことだけで、少し落ち着かなかった。
白雪は覗き込もうとして、途中で止まった。
「見てもいいですか」
俺は紙を彼女のほうへ向けた。
白雪は近くで見て、足のある丸に目を留めた。
「これは?」
「知らない。俺が描いたんだと思う」
「卵から、脚が出てます」
「じいちゃんに描けって言われたのかな」
「卵の絵を?」
「いや、にわとりを」
白雪は一度口を結んだ。こらえきれずに笑うとき、少し下を向くんだと初めて知った。
「これを見ながら卵焼き作ってたら、気になるだろうな」
「だから捨てなかったんじゃないですか」
白雪が言ったあと、俺も紙を見た。そうかもしれないし、ただ裏が空いていたから使っただけかもしれない。じいちゃんに聞けたら、たぶんすぐに済む話だった。
「……ファイル、持ってくる」
立ち上がると、椅子が床に引っかかって小さく鳴った。
部屋から透明なファイルを取って戻るまで、白雪は何も動かしていなかった。手を膝の上に置いて、俺を待っていた。
紙を挟むと、折れた端がようやく平らになった。
「ありがと。見つかってよかった」
白雪は少し息を吐いた。
「続きは、汐瀬くんに分けてもらってもいいですか。私、どれが要るか分からないので」
「じゃあ俺が見て渡す。捨てるのと、母さんのと、俺の」
テーブルの端を指で三つに区切った。白雪はうなずいてから、壁の時計を見た。
「どこまでやります?」
流しにも洗っていないマグカップが一つある。テレビの横には読んでいない雑誌が積んであった。俺が視線を動かすと、白雪もついてきそうになった。
「ここだけでいいよ。勉強しに来たんだし」
「じゃあ、この机の上だけ」
「十分くらいで終わるかな」
「二人でやれば。分けるのが速ければ、ですけど」
「俺次第か」
白雪がスマホのタイマーを十分に合わせた。机の端に置いて開始すると、俺は一枚目を取った。
どれもすぐに捨てられるわけではなかった。夏に取り寄せた大学案内は、今行きたい学校とは違う。けれど、じいちゃんが通っていた町の写真が小さく載っていて、そこだけ切っておきたかった。
俺が迷っていると、白雪は無言で新しい山を作った。
「それ何?」
「あとで決める分です」
「増えそうだな」
「今日はノートを開ければいいので」
俺は案内をそこに載せた。迷うたびに止まらなくなって、指が少し速くなった。
タイマーが鳴ったときには、二人分のノートを並べても、まだ真ん中に湯飲みを置ける場所があった。
「できた」
思わず言うと、白雪がスマホを止めた。
「最後に、机を拭いていいですか」
「俺が持ってくる」
台所から布巾を持ってくると、白雪は教科書を両手で持ち上げた。空いたところを拭き、乾くまでの間に椅子を引き直す。
座ったら、向かいの彼女がさっきより近く見えた。間に積まれていた紙がなくなっただけだった。
冷めかけた茶を飲んで、数学の一問目を開いた。
白雪は計算用の紙に式を書き、二行目で止まった。消しゴムを使って書き直し、また同じところで止まる。
「ここの符号、逆じゃない?」
「……本当です」
黄色い付箋が一枚はがされた。白雪はそれを丸めかけ、俺を見た。
「これは捨てます」
「それは聞かなくていい」
彼女が笑ったので、俺もようやく普通に笑えた。
勉強が進むと、今度は俺が問題を解けなくなった。白雪は俺のノートを横から見るために、椅子を少しだけ寄せた。さっきの紙の山があったら、ここには来られなかった。
「途中までは合ってます」
「その先が全部空いてるんだけど」
「だから、まだ間違ってません」
白雪の指が、俺の書いた最後の数字を指す。俺は教科書を見るふりをして、少しだけ顔を離した。
十一時半になって、白雪が鞄から弁当を二つ出した。青い包みと黄色い包みが、きれいになった食卓に並んだ。
「今日は、どっち?」
「青が汐瀬くんです」
「何が違うの」
「端っこが入ってます」
俺が好きだと言った丸い端の卵焼きが、青い箱には二つ入っていた。
白雪は自分の箱を開けてから、窓際に立てたファイルを見た。
「それ、台所に置くんですか」
「いや。まず、ここに置いとく」
問題集の隣にファイルを寝かせた。さっきまでなら、すぐに何かの下になっていただろう。今日は上に置く物がない。
「次までには、あとで決めるやつも減らしとくよ」
言ってから、次の約束はまだしていなかったと気づいた。
白雪は卵焼きを箸で持ち上げたまま、俺を見た。
「来週も、ここで勉強していいですか」
「うん。工事、まだ続くんだろ」
「日曜は休みらしいです」
俺は手元の箱を見た。丸い端っこが二つ、こちらを向いている。
「……日曜でもいいよ」
白雪はうなずいて、持ち上げていた卵焼きを口に運んだ。




