第2話 七時三十五分の受け渡し
土曜の朝、七時三十五分にチャイムが鳴った。
昨日、自分でいいよと言ったのに、俺はまだ寝巻きだった。玄関まで走ってドアを開けると、白雪は制服の上にカーディガンを着ていた。
「土曜なのに制服?」
「午前中、学校で模試の説明があるので。汐瀬くんも申し込んでませんでした?」
「来週だと思ってた」
「今日です。九時から」
俺が玄関の時計を見上げると、白雪は黄色い包みを持ち上げた。
「お昼は間に合ってます。あとは着替えるだけですね」
白雪が帰ってから予定表を見た。説明会は本当に今日だった。九時からで、九時四十分には終わる。
四十分の説明を聞くために、白雪はそのあと一緒に食べる予定もない弁当を、朝から届けに来たらしい。
昼に家で開けてみると、昨日と同じ甘い卵焼きが入っていた。昨日は二切れ。今日は三切れだった。
増えた一切れについて尋ねると、『端っこは数に入れてません』と返ってきた。よく見ると、三切れ目だけ片側が丸い。俺はそれがいちばん好きだった。
月曜の朝、今度は七時半に制服を着終えた。玄関で靴まで履いて待っていると、母が仕事へ出るときに置いていった鍵の皿が目に入った。先週までの俺なら、誰もいない玄関に五分も座っていなかったと思う。
七時三十五分。チャイムが鳴る前にドアを開けた。
ちょうど押そうとしていた白雪の人差し指が、行き先をなくして宙に止まった。
「おはよう」
「……あと一秒でした」
「勝負だったのか?」
「明日は押してから開けてください」
白雪は青い包みを差し出した。受け取る手に、重さがすっかりなじんでいる。先週の金曜は両手で持ったのに、今朝は片手で受け取ってしまった。
「今日、何か入ってる?」
「開けてからのお楽しみです」
「卵焼きは?」
「入ってます」
「それは教えてくれるんだ」
白雪は口を開きかけて、俺の手を見た。
「黄色いほう、ありますか」
土曜の空箱だ。昨日洗うつもりで台所へ運び、流しの横に置いたままだった。
「ごめん。帰ったら洗う」
「今日は青がありますから、大丈夫です」
白雪はそう言って、学校とは反対の角へ歩き出した。そこを曲がると大通りに出る。駅のほうから来る友達と合流するなら、その道のほうが早い。
俺は青い包みを鞄に入れた。白雪が通学路を分けてくれているのだと、勝手に思った。
昼休み、机を向かい合わせにしていた級友が、包みをほどく俺の手元をのぞいた。
「汐瀬、最近パン買いに来ないと思ったら、弁当になったのか」
「たまにね」
「たまにの割に、包むのうまいな。結び目に指が一本入る」
言われて初めて気づいた。布は箱がずれないくらいきっちり結んであるのに、指をかけて引くとすぐほどける。土曜の黄色も同じだった。
ふたを開けると、卵焼きの横に、海苔を巻いた小さなおにぎりが二つ並んでいた。片方の頭に白ごまがついている。
「うわ、うまそう。誰が作ったの?」
教室の戸が開いて、白雪が入ってきた。廊下で友達に何か言われて笑いながら、自分の席に向かってくる。
秘密を守ると約束した。ここで白雪の名前を出せば、どうして、いつからと聞かれる。聞かれたら、どこまで話していいか分からない。
俺は箱を少し手前に寄せた。
「自分で作った」
「え、朝から米握ったの? 中身なに?」
白ごまのほうを見ても、米と海苔しか見えない。
「……あとで分かる」
「作ったのお前だろ」
向かいの席で笑い声がした。白雪は俺たちの机の横を通り、自分の椅子を引いた。こっちは見なかった。
白ごまのおにぎりには鮭が入っていた。もう一つは、細かく刻んだ梅だった。おかずの味が混じらないように、卵焼きとおにぎりの間に小松菜が置いてある。自分で作ったと言った手前、一口ごとに驚くのをこらえながら食べた。
食べ終わって水道に向かうと、階段の脇の窓に白雪がいた。窓枠に置いてあった自分の水筒を取り、俺の手の青い包みを見た。
「鮭と梅、どっちがよかったですか」
「鮭。梅もうまかったけど」
「そうですか。自分で作ったなら、次は鮭を二つにできますね」
「聞こえてた?」
「中身を聞かれて止まったところまで」
「ごめん。白雪が作ったって言ったら、何で俺にってなるだろ。約束したことまで聞かれたら困ると思って」
「お金の話は困ります。おにぎりは、困りません」
白雪は水筒のふたを閉め直した。さっき閉めたばかりなのに、もう一度ひねった。
「私も友達に、家で作ったおかずを持っていったことがあります。汐瀬くんの分も、作ったって言われて困るものじゃないです」
「でも、言ったら白雪が冷やかされるかもしれない」
「汐瀬くんは、冷やかされるの嫌ですか」
白雪のほうが困るから、と答えかけて、俺は口を閉じた。教室でみんなの前で名前を出したら、そのあと自分がどういう顔をすればいいのか分からなかった。
「嫌っていうか、どう返したらいいか分からない」
「私も分かりません。名前まで言ってほしいわけでもないです」
白雪は窓枠から離れた。階段を下りる生徒が来て、二人で壁に寄った。足音が遠くなってから、彼女は青い包みの角を指で軽く押した。
「ただ、作った人がいたことまでなくなると、ちょっと残念です」
指が離れると、布の端が垂れた。今度は俺が指を入れて、ほどけかけた結び目を直した。
「明日、聞かれたら、もらったって言うよ。それならいい?」
「はい。誰からかは、言いたくなったらで」
白雪がそこで話を終わらせてくれたので、俺のほうから一つ聞けた。
「明日もあるの?」
彼女は首をかしげた。
「鮭、二つにしようと思ってましたけど」
「……一つは梅で」
「梅もうまかった、は、ついでじゃなかったんですね」
白雪は水筒を持ち直した。教室へ戻りかけて、振り返る。
「明日は結び目、私が作ったって分かるように、固くしましょうか」
「昼飯にたどりつけないからやめてくれ」
白雪は肩を揺らしながら先に教室へ入った。
その日の夜は、帰ってすぐに二つの箱を洗った。黄色い箱の角には、卵焼きの小さなかけらが残っていた。水を流すだけでは取れなくて、指にスポンジを巻きつけてこすった。
二箱を伏せると、流しの横が急に狭くなった。じいちゃんがいた頃は、夕飯のあとに皿が二枚並ぶくらい当たり前だった。久しぶりに、どちらから拭こうか考えた。
火曜の朝、チャイムが鳴るまで待ってからドアを開けた。
「おはようございます。今日は私が先です」
「だから勝負だったのか」
白雪は紙袋を持っていた。俺が二箱を差し出すと、目を丸くして、その場で紙袋の口を開けた。
「二つとも、洗ってくれたんですね」
「うん。でも今日の分まで返したら、また箱が増えるのか」
「今日はおにぎりだけなので、紙で包んできました」
受け取った紙袋には、小さな丸が二つ、ペンで描いてあった。片方にごまみたいな点が三つついている。
「点があるほうが鮭?」
「はい。昨日は見ても分からなかったみたいなので」
「そこまで聞こえてたのか」
「面白かったので」
白雪は青い箱と黄色い箱を重ねた。ふたとふたが小さく鳴った。
「朝から悪いな。届けるなら学校でもいいのに」
昨日、名前までは言わなくていいと決めた。教室で渡しづらければ、校門の少し手前でだって受け取れる。
白雪は学校へ続く道を見た。
「学校で会うと、もうみんなにおはようって言ったあとですから」
「それだと何か違う?」
白雪は答える代わりに、重ねた箱の下に手を添えた。
「汐瀬くん、今日はちゃんと起きてましたね」
「昨日も起きてたよ」
「明日も起きていてください」
そう言ってから、彼女は紙袋の丸を指した。
「梅の感想も、待ってます」
昼休み、昨日の級友がまた机の向かいに座った。紙袋から包みを二つ出すと、そいつはパンの袋を開けながら聞いた。
「今日も手作り?」
「うん。昨日のも、もらったんだ」
言ってみたら、思ったより短く済んだ。
「いいな。俺にも分けてくれる人いないかな」
そいつはそれだけ言って、パンを半分にちぎった。俺は鮭から食べようとして、先に梅の包みを開けた。昨日より少しだけ酸っぱかった。どっちが好きかと聞かれたら、今日は困る。
感想を送る画面を開いて、梅の話を打った。その下にもう一行足す。
『明日も、七時三十五分で』
送ってから、時刻のほうはもう決まっていたと気づいた。消そうとしたところに返事が来た。
『はい。今度は私が先におはようって言います』
思い返せば今朝も白雪が先だった。そう返しかけて、俺はスマホを伏せた。
それなら明日は、ドアを開けたらすぐに言ってみよう。




