第1話 二個目は明日の分
白雪玲奈は、返済予定表のいちばん下に「利息」と書いた。
その横に数字を入れようとしたので、俺は紙を押さえた。
「そこはゼロ」
「必ず返します。利息もつけて」
「利息はつけないって、さっき決めただろ」
「今のは私の希望です」
「希望するところ、普通は逆じゃないか」
白雪はペンを持ったまま、食卓の向かいで考え込んだ。
学校一の美少女、と聞いて、うちの学校で違う顔を思い浮かべるやつはたぶんいない。先月の文化祭では、白雪が受付に立ったせいで、入口を一度通った男子が出口から回り込んでまた列に並んでいた。
その白雪が、うちの食卓で消しゴムのかすを手のひらに集めている。二人の間には、十八万円の振込が済んだ画面と、祖父が使っていた醤油差しがあった。
話は、昨日の放課後に戻る。
駅前の弁当屋には、閉店前に行くと百円引きになるコロッケ弁当がある。俺が最後の一個を手に取ったとき、奥から白雪の声がした。
「金曜までに六万だけでも入れます。あと一か月、待ってもらえませんか」
レジの向こうでは、店主が段ボールから割り箸を出していた。白雪は裏口の外にいた。雨よけの屋根が薄いせいで、声が店の中までよく通る。
「……はい。母には、私から話します」
レジ袋が鳴った。店主が俺の弁当を入れてくれた音だった。
裏口の前を通らないように、表から出て遠回りした。それなのに、駅へ向かう角を曲がったら、傘を閉じた白雪と鉢合わせた。
「汐瀬朔弥くん」
出席を取るときみたいに、正確な呼び方だった。同じクラスになって半年になるけど、白雪に名前を呼ばれたのはそれが初めてだ。
「六万のところから?」
聞いていたか、と彼女は聞かなかった。
「お母さんに話すところまで」
「だいたい全部ですね」
白雪の靴の先から、雨水がぽたぽた落ちた。
「学校では言わないでください」
「言わない。……傘、なんで閉じたんだ?」
白雪は手元を見た。閉じたまま持っていた傘を開くと、水が一度に流れて俺の靴にかかった。
「それも学校では言わないでください」
「そんな話、学校でしないよ」
白雪は傘の下で口元をゆるめた。けれどすぐに、背中の鞄を抱え直した。
「借りたのは私です。母が入院したとき、家賃が払えなくて。親戚のおばに頼みました」
お母さんは退院して、今は仕事にも戻っている。白雪は弁当屋で働いて、借りた二十四万のうち六万を返した。残りは春まで待ってもらえると思っていたが、おばの家でも急にお金が必要になったらしい。
「母は、おばがくれたお金だと思ってます。返さなくていいって、私が言ったから」
「何でそんなことを」
「退院した日に、来週から働くって言ったんです。靴ひもも結べなかったのに」
俺はコンビニの看板の下まで歩いて、そこで立ち止まった。白雪も一緒に止まった。
じいちゃんが退院した日も、そうだった。玄関で靴が脱げなくて、かかとを押さえてやったら、明日の朝飯は何がいいと聞かれた。俺が答えを考えている間に、じいちゃんは廊下に座り込んだ。
「十八万あったら、おばさんのほうは終わるのか」
「はい。……どうしてですか」
「貸せるかもしれない」
白雪の傘が少し後ろに傾いた。雨が吹き込んできて、制服の肩に当たる。
「汐瀬くんにですか?」
「俺から、白雪に」
「十八万ですよ。明日の昼代じゃないです」
「知ってる。だから、今ここでは決めない。お母さんに話して、それでも必要なら明日また話そう」
白雪はすぐには返事をしなかった。向こうの信号が青になっても、二人とも渡らなかった。
「母に、隠してたって言うところからですね」
「うん」
「そこがいちばん嫌です」
傘を持つ手に、もう片方の手が重なった。
「でも、今日言います。返す相手が変わってから知られたら、もっと嫌なので」
俺は濡れた弁当の袋を持ち替えた。何か景気のいいことでも言いたかったが、出てきたのは「うん」だけだった。
翌日の授業が終わると、白雪は教室の戸口で俺を待っていた。
「母に怒られました」
俺が口を開くより早く、白雪は続けた。
「働いたことでも借りたことでもなくて、一人で帰ってきてから毎晩計算してたことに。どうして台所に呼ばなかったの、って」
白雪が出したノートには、二人分の字があった。白雪の細い字で書いた金額の下に、丸い字で、来月から出せる金額が書いてある。おばとはその場で電話して、残りが十八万だと確かめたという。
放課後、白雪を家に呼んで、そのノートをもう一度一緒に開いた。母親とも電話で話した。食卓にスマホを置いたら、白雪のお母さんの「うちの娘、早口になってませんか」という声がよく響いた。
「なってます」
「お母さん、今その話はいらない」
「じゃあ、ゆっくり話せるまで待つね」
白雪はこっちを向いた。俺は台所から水を持ってきた。
十八万は、じいちゃんから相続した金の一部だ。進学に使う分を先に分けて、残りの使い道は、じいちゃんが死んでからずっと決められずにいた。通帳の数字が減るところを見たら、何かがもう一つなくなる気がした。
振込のボタンを押すときも、一度手が止まった。
「やめてもいいですよ」
白雪の声は、もう早口じゃなかった。
「うん。今、金額をもう一回見てる」
桁を指でなぞってから押した。しばらくして、白雪のスマホにおばから入金を確かめた連絡が来た。彼女は画面を母親にも送って、ようやく椅子に深く座った。
それから二人で、来月から一万ずつ、十八回と紙に書いた。毎月の給料で無理なく出せる額を白雪が決めた。苦しい月は先に相談する。貸した額はお互いに控えておく。そこまで決まったところで、白雪が「利息」と書き足したのだ。
「じゃあ、この欄は消します」
白雪はきれいに消してから、醤油差しの向こうにある俺の弁当を見た。昨日の残りを、夕飯の前に食べようと冷蔵庫から出していた。コロッケの端が一口ぶん欠けている。
「昨日買ったお弁当ですか」
「うん。残りは今日の夕飯」
「お昼は?」
「購買のパン。売り切れてたら牛乳」
白雪は紙を折る手を止めた。
「売り切れの日、週に何回あります?」
「返済予定表に書かないでくれよ」
「書きません。聞いただけです」
白雪は返済予定表を鞄に入れ、使ったコップを台所まで持っていった。玄関で見送るとき、いつも家を出る時刻を聞かれた。明日の朝、何かあったときの連絡にでも使うのかと思って、七時四十分と答えた。
翌朝、七時三十八分にチャイムが鳴った。
ドアを開けると、白雪が青い布の包みを持って立っていた。制服の袖から出た指が、朝の冷たさで赤い。
「卵、食べられますか」
「食べられるけど。どうしたの、それ」
「お弁当です。おかずは、卵焼きと鶏と小松菜」
「いや、中身じゃなくて」
「今朝は三人分作ったので、一個余りました」
うっかり余ったみたいな言い方だった。
「三人目は誰だよ」
「汐瀬くんです」
受け取ると、布の上からでもまだ温かかった。自分で弁当を買うときは、最後に持ち上げた弁当が冷たくても、百円引きならそれでよかった。温かい箱を人から渡されると、片手で持っていていいのか分からず、もう片方の手を下に添えた。
「これ、一万円から引かないぞ」
「引いたら困ります。十八回で終わらなくなるので」
「俺が返すみたいになってないか?」
白雪はそこで笑った。駅前で見たときと違って、すぐには口元を隠さなかった。
「空箱だけ、返してください。お昼に口に合わなかったら、それも教えてください」
昼にふたを開けたら、卵焼きは二切れあった。一切れ目を食べて、甘い、と言いかけた。教室には白雪がいなかったから、二切れ目を食べてからメッセージを送った。
『卵焼き、好きな味だった』
返事は午後の授業が終わってから来た。
『よかったです。明日は同じ味にします』
俺は洗って返そうと、空箱のふたを閉めたところだった。
『明日も来るの?』
返事を待つ間に廊下へ出ると、白雪が階段を上がってきた。俺の手の青い包みを見て、鞄から同じ大きさの、黄色い包みを出した。
「そっちは私が持ち帰ります。こっちは、明日の空箱です」
「もう二個目があるのか」
「一個だと、汐瀬くんが返し忘れた日に困るので」
「俺が?」
白雪は黄色い包みを鞄に戻した。
「私が」
明日は七時三十五分でもいいですか、と聞かれた。今朝は早く着いて、外で三分待っていたらしい。
「いいよ。寒かったらチャイム鳴らして」
白雪は青い包みを胸の前に抱え直した。
「じゃあ、また明日」
空の弁当箱を持って帰るだけなのに、今度は俺のほうが、手を振るのを忘れた。




