第11話 受取欄の最後
四月の土曜、白雪はいつもより小さい鞄で来た。
明日の行き先は、まだ決まっていない。二月に約束した日曜は明日になっていた。
俺はこの一週間、川沿いの桜を見に二度歩いた。咲いているか確かめるためだ。一度目はまだ少し早かった。二度目は風で散り始めていたが、木の下はちゃんと明るかった。
それなのに、白雪にはまだ「明日どうする」としか送れていなかった。
『今日、話しましょう』
そう返ってきたので、今日まで来た。
「こんにちは」
玄関で白雪が挨拶した。靴を脱ぐ前に、鞄から薄いノートを出す。俺も食卓の上に、自分の控えを置いてあった。
「先に、確認していいですか」
「うん。入ってる」
十八回目の一万円。
スマホの入金履歴にも、白雪の送金履歴にも、同じ数字があった。俺は最後の欄に日付を入れた。
最初の頃は毎回、残りの額も計算した。途中からは一万円ずつ減るだけなので、すぐに書けた。今日は、その欄に零を書く。
白雪が自分のノートにも同じ文字を書いた。
「これで、全部ですね」
「うん。十八万、全部受け取った」
確認の言葉を、短く済ませないようにした。白雪は最後の線を引き、ペンを置いた。
利息の欄は、消しゴムの跡だけ残っている。白雪が一度書いて、俺が止めて、二人で消したところだ。
「ちゃんと消えてないな、そこ」
俺が指すと、白雪が少し笑った。
「何回も見たので、消した字まで覚えてます」
「もう上から何か書いてもいいんじゃない」
「いえ。このままにします」
白雪はノートを閉じる前に、最初のページも開いた。あのとき母親が書いてくれた字が見えた。俺はそちらまで覗き込まず、自分の紙を整えた。
「ありがとうございました」
白雪が頭を下げた。
言われるだろうと思っていた。そのとき何を言えばいいかも、何度か考えた。けれど、本当に目の前で言われると、準備していた言葉はどれも余計に思えた。
「……返してくれて、ありがとう」
白雪は顔を上げた。少し変な顔をしてから、息を吐くように笑った。
「そこ、汐瀬くんが言うんですね」
「うん。毎月ちゃんと、話してくれたから」
「途中で一回、残りを全部渡そうとしましたけど」
「それも、話しただろ」
白雪はうなずいた。それからスマホで、自分のノートの最後の欄を撮った。
「母に送ります。今日、終わったよって」
「俺のほうも写す?」
「はい。二つ並べてもいいですか」
俺の控えを隣に置いて、もう一枚撮った。返済予定表を初めて開いたときは、こんなふうに揃えて撮る日が来ることまで考えていなかった。白雪が送るのを見届けてから、俺もその写真をもらった。
しばらくして、母親から返事が来たらしい。白雪が画面を読み、小さくうなずいた。画面を俺に見せる代わりに、「母が、あとで改めてお礼を伝えたいって」と教えてくれた。
白雪はノートを鞄に入れ、ペンも別の小さな袋にしまった。
それで、終わった。
食卓には醤油差しと、俺の控えが残った。白雪がうちへ来て初めて向かいに座った日と、物の数はあまり変わらない。今は箱を出せば、二人で茶を飲める場所が空いている。
「お茶、飲んでいく?」
「はい」
俺は台所へ立った。二人分の湯飲みを出す。その隣に、洗って乾かした黄色い弁当箱があった。
先週、白雪が作った弁当の空箱だ。返すのが遅れていたわけではなく、今週来るから置いておいてほしいと言われていた。
湯飲みと一緒に箱も持っていくと、白雪はそれを鞄へ入れた。小さい鞄が、ちょうど箱の幅だけ膨らむ。
「母、今日の夕飯、ちょっといいお肉にするって言ってました」
「そっか。じゃあ、今日は早めに帰らないとな」
「私が、お金のことで黙ってないか、今でもたまに聞かれます」
「何て答える?」
「今は、ちゃんと答えます」
白雪は湯飲みに手を添えた。ここへ来る途中は暖かかったのに、午後になると風が出ていた。
「課題で失敗した布の代金とか、そういう小さいことも」
「そっちのほうが言いにくそうだな」
「はい。借りた額より、縫い間違えた話のほうが長く怒られました」
白雪が笑う。俺も、自分の大学で取りそこねた授業の話をした。先着順で申し込むものなのに、締切の時刻を一時間間違えた。
「時計、持ってるのに」
白雪が俺の手首を見た。じいちゃんの腕時計だ。
「時計は悪くない。見た俺が悪い」
「じゃあ、次は時間、私にも送ってください。覚えておくので」
「それ、自分で覚えるやつじゃない?」
「覚えられる人が覚えたら、二人とも助かります」
白雪は昔の返済予定表みたいに、数字の話になると少し速くなった。
茶がなくなると、彼女は湯飲みを台所へ運んだ。流しに置くとき、手が空箱のあった場所へ伸びかける。何もないのを見て、そのまま引いた。
俺も同じ棚を見た。
弁当箱はもう、うちに一つもない。返済のノートも、もううちへ持ってこなくていい。
明日の約束がなかったら、玄関を出るのを止められなかったかもしれない。
白雪がコートを取って、俺を見る。
「明日、どうしましょうか」
俺はカレンダーの丸を見た。今日の丸の隣に、同じ大きさで書いたものだ。
「出かけたい。天気、よさそうだし」
「はい」
「でも、出かける前に、一つ言っていい?」
白雪はコートのボタンに手をかけたまま待った。
「明日は、何かを返すためじゃなくて、来てほしい」
声は思っていたより小さくなった。それでも、最後まではっきり言えた。
白雪は俺を見たまま、一度だけうなずいた。
「私も、明日、来るつもりでした」
「うん」
「お金を返したあとだから、って、空けておいたわけじゃないです」
白雪はコートの前を閉じた。それから鞄を床へ置き直した。
「花見にしませんか。川沿い、まだ咲いてますよね」
「咲いてる。昨日、見てきた」
「汐瀬くんも?」
彼女が少し驚いたので、俺は顔を上げた。
「白雪も見た?」
「学校の帰りに。明日、どこにしようかと思って」
同じ道を、別々に見に行っていたらしい。
「じゃあ、あそこの橋の手前。木の下、座れるから」
「はい。私の分も、お弁当作ってくれますか」
俺は台所を振り返った。冷蔵庫には卵がある。米もある。鶏肉は、これから買えば間に合う。
「作る。何がいい?」
「甘い卵焼きと、梅のおにぎり」
「鮭は?」
「鮭も」
「一つだけって言わなくなったな」
「一つとは、言ってませんでしたから」
白雪が笑い、俺も笑った。
彼女は鞄から黄色い箱を出し、食卓へ置いた。もう一つ、青い箱は家にある。取りに寄ってから、一緒に買い物をすることになった。
「私も詰めますか」
「明日は、俺がやるよ」
「じゃあ、何時に来たらいいですか」
昼前に会うつもりだったのに、七時三十五分が頭に浮かんだ。早すぎると思って言わずにいると、白雪が先に聞いた。
「七時三十五分、起きてます?」
「起きる。……花見には早くない?」
「先に来てたら、手伝ってって頼まれたとき、すぐできます」
「それ、じっとしてられる?」
「努力します」
白雪は真面目な顔で答えた。
買い物へ出る前に、俺は控えをファイルへしまった。食卓から片づけると、黄色い箱だけが残った。
玄関で白雪が靴を履く。俺も隣に座る。去年までは、彼女を見送るために立っていた場所だ。
「買うもの、決まった?」
「鶏肉と、海苔。それから、いちごがあったら」
「いちごは、食べてみないと甘いか分かりませんよ」
「じゃあ、半分ずつで」
ドアを開けると、夕方の風が入ってきた。
白雪は先に出て、門の外で俺を待った。鍵をかけて振り向くと、彼女が空いている手を少し持ち上げた。
俺はその隣へ行った。今は買い物袋も、弁当箱も、間に持つものが何もなかった。




