第10話 一回分の先
十二月の土曜、白雪から昼の約束を延期したいと連絡があった。
学校の課題が重なって、ようやく休みに入ったら、今度は店が忙しくなったらしい。先週も会えなかったので、二週間ぶりの昼飯になるはずだった。
『今日はお弁当も作れませんでした。すみません』
俺は冷蔵庫の卵を見た。自分が作って持っていこうかと考えて、それなら先に、白雪がいつ空くか聞くことにした。
『今日、店は何時まで?』
『六時です』
『帰り、角まで一緒に歩かない?』
返事が来るまでに、台所で自分の昼飯を用意した。食べ始めた頃、スマホが鳴った。
『はい。六時を少し過ぎるかもしれません』
夕方、俺は弁当屋の前で待った。六時十二分に出てきた白雪は、鞄を一つ持っていた。店の明かりを背に、俺の手元を見る。
「何も持ってきてないよ」
「いえ。何か渡すものがあるのかと思って」
「今日は、歩くだけ」
白雪は足元を見て、それから俺に顔を戻した。
「じゃあ、ゆっくり帰ってもいいですか」
「うん」
初めのうちは、靴音ばかり聞こえた。白雪はマフラーに顎を埋めて歩いていた。俺も急に何を話せばいいか分からず、店の閉まった窓に映る二人を見ていた。
パン屋の前まで来たところで、白雪が口を開いた。
「課題、やり直しになったんです」
「布のやつ?」
「はい。縫ったあとに寸法が違うって気づいて。直したつもりだったんですけど、まだ合ってなくて」
鞄の口から、折り畳んだ布が見えていた。見ていいか聞こうとして、彼女が上から手を置いたので、やめた。
「今日は、開きたくないです」
「そっか」
「明日は、やります。今日は、失敗したって言いたかっただけで」
俺はうなずいた。祖父の紙をテーブルに置いたとき、白雪も、俺がファイルを取りに行くまで待ってくれた。
「明日、直ったら教えて。直らなくても」
白雪は少しだけ笑った。
「直ったって送れるようにします」
「送らなくても、また会ったとき聞くよ」
家へ曲がる角に着いた。白雪は鞄からスマホを出し、次の日曜の予定を開いた。
「来週も、昼間は難しいかもしれません」
「夜は?」
「四時までなので、今日より早いです」
「じゃあ、来週もここまで。俺、昼には大学のほうの用事が終わるから」
「三十分くらい、歩けます?」
「歩ける。今日はここまででいい?」
白雪は自分の家のほうを見た。窓に明かりがついている。
「はい。また来週」
帰り道、俺はポケットに手を入れた。用意した卵は、まだ冷蔵庫にある。来週作るものは決めていなかった。
翌日の夕方、縫い直した布の写真が届いた。画面ではどこが変わったかよく分からなかったので、どこを直したのか聞いた。
白雪から、写真に丸をつけた返事が来た。
それから二か月たった二月の日曜、俺は返済予定表を開いていた。
空欄はあと二つ。今月分も入って、残り二万円。来月と、その次の月で終わる。
白雪とは年が明けてからも、短い時間を合わせて会っていた。それでも、彼女が必ずうちへ来る用事が一つなくなると思うと、予定表を閉じにくかった。
昼前にチャイムが鳴った。
白雪はコートを脱ぐ前に、いつもの鞄とは別の紙袋を持ち上げた。
「今日は、これです」
「何作った?」
「まだ作ってません。二人で包むので」
袋の中には、餃子の皮と、白菜と、ひき肉があった。
俺が食卓へ新聞紙を敷いていると、白雪が小さな封筒も出した。給料明細らしい。いつもの鞄へ戻そうとして、少し考え、手元に残す。
「先に、一つ相談してもいいですか」
「うん」
「お正月、お店のシフトを多めに入ったので、今月、思ってたより多くいただいたんです」
白雪が返済予定表の入った俺のファイルを見た。
「残り、今日返そうかなって」
俺は新聞紙の角を揃える手を止めた。
あと二回。白雪はもうその金額を用意できると言っている。それなら、早く終えられたほうが楽なのだろう。
「予定通りでも、いいんじゃない」
口が先に動いた。
「急がなくても。四月までって決めてたし」
「はい。でも、あるなら返したほうがいいかと思って」
白雪は封筒のふちを指で押さえた。
俺は新聞紙から手を離した。どうして今日まとめて返そうと思ったのか、まだ聞いていなかった。
「……白雪は、どうしたい?」
聞き直すと、彼女は少し迷った。
「早く返せると、安心です。でも、来月、授業で使う道具をまとめて買うので。先にそっちを買うか、ちょっと迷ってました」
白雪はスマホで学校からの案内を出した。二年に上がる前に、買い足すものがあるらしい。画像には俺の知らない道具も並んでいた。
「必要なやつ?」
「はい。買うのは決まってます」
「それ、先に買ったら」
「汐瀬くんは、困りませんか」
「困らない。最初に決めた通りなら」
俺が画面を見ていたら、白雪が道具を一つ指した。
「これは、前に使ってみたら、自分のが欲しくなったんです。学校では順番に借りるので」
「家でも使える?」
「はい。課題だけじゃなくて、母の服もちょっと直せます」
何かを作るとき、白雪は必要なものから先に揃える人だと思っていた。けれど、その一つについて話す顔は、スーパーでいちごを見つけたときと似ていた。
「買ったら、できたの見せて」
「はい。一人で使うと、失敗するかもしれませんけど」
「そしたら、失敗したほうも」
白雪はうなずいて画面を消した。それでも封筒はまだ手元にある。
「……さっき、嫌そうでした?」
「何が」
「残りを返すって言ったとき」
俺は目を上げられなかった。新聞紙の端に、小さな広告があった。安くなった卵の写真を見ているふりをした。
「早く終わったら、もう来なくなるのかなって、ちょっと思った」
声にしてみると、自分でも嫌な言い方だと思った。
白雪が何も言わないので、俺は続けた。
「でも、それで返すの待ってほしいっていうのは違う。だから、決めていいよ。俺はどっちでも受け取れる」
言い終わって、ようやく白雪を見た。
彼女は封筒を鞄へ入れた。予定表には触れなかった。
「じゃあ、先に道具を買います。お金は今まで通りで」
「うん」
「来る用事は、今日も、お金じゃなかったですけど」
白雪は袋から餃子の皮を出した。皮の入った袋を開けようとして、切り口が見つからず裏返す。
「……そうだな」
「餃子、作りに来ました」
「うん」
「次も、作るものは探せます」
俺は皮の袋を受け取って、切り口を見つけた。白雪がボウルを持ってくる。
歩くだけの日も、会えるようになった。それでも、四月のあとも続けたいと口にするには、もう少し勇気が要った。
俺は袋を開けた。中の皮は一枚ずつ、きれいに重なっていた。
具を混ぜるのは白雪、包むのは二人で始めた。俺の一個目は、皮の端がちゃんと閉じなかった。
「入れすぎですね」
「一口で具が多いほうがうまそうだと思って」
「焼く前に出てきます」
少し戻すと、今度は皮が余る。白雪の包んだものは、ひだが整って三つ並んでいた。
「これ、何個包めばその形になる?」
「私も最初からこの形じゃなかったです。母の横で、何回か」
白雪は次の一枚を広げた。いつもの速さよりゆっくり、具を置いて、皮の端に水をつける。俺は手元を見ながら真似をした。
六個目で、ようやく立った。
「できた」
「はい。ちゃんと餃子です」
「今までのは?」
「座った餃子です」
白雪は俺の作った平たいものを、倒れない場所へ並べ直した。
一個ずつ包んでいたら、ボウルの具がなかなか減らなかった。俺のことを待ちながらでも、白雪のほうが二倍は作る。
「次から、皮を開く係しようかな」
「包む係は、やめるんですか」
「うまくならないから」
「六個で?」
白雪の目が丸くなったので、俺も笑った。七個目も、自分で包むことにした。
焼き上がりを待つ間、白雪は台所の棚に立てたファイルを見つけた。
「卵焼きの紙、こっちに置いたんですね」
「作るたびに持ってくるのが面倒になった」
「最近も作ってます?」
「先週。母さんの朝飯に」
白雪が少し驚いた顔をした。
ふたの内側で水がはねた。先週、母に卵焼きを出したら、じいちゃんより少し焦げ目が薄いねと言われた。焦がしたくなくて火を弱めたぶん、朝飯の時間には遅れた。それでも、次も食べると言っていた。
餃子を皿へ移すと、俺が包んだ平たいものがいくつか、ひっくり返った。白雪はそれを自分の皿へ寄せた。
「形、選んでる?」
「これはすぐ分かるので」
「俺のやつ、全部そっちにある」
「作った人には、ひだがあるほうも食べてほしくて」
俺は彼女の餃子を一つ取った。皮の端まで焼けていて、具はちゃんと中に収まっている。
「次は、同じくらい包むよ」
「次は私が皮を開けますね。切り口、見つけたので」
白雪は笑って、自分の皿の平たい餃子を口に運んだ。
食べ終わって、白雪は学校の道具の案内をもう一度開いた。注文できる日を確認してから、スマホを鞄にしまった。返済予定表は閉じたまま、食卓の端にあった。
玄関で見送る前に、俺はカレンダーを見た。
「四月の、最後の分って、いつ頃になりそう?」
「お給料の日は変わらないので、最初の土曜に、いつもの確認を」
「その次の日、空いてる?」
白雪が靴を履く手を止めた。
「日曜ですか」
「うん」
「今のところは。何かあります?」
花見、と言いかけた。川沿いの桜が咲いているかも分からない。それを口実にしたいのか、ちゃんと誘いたいのか、自分でもまだはっきりしなかった。
「少し、一緒に出かけたいなと思って」
白雪は膝を伸ばした。
「じゃあ、空けておきます。場所は、あとで教えてください」
聞き返されなかったので、俺はそのままうなずいた。
ドアが閉まってから、カレンダーの四月をめくった。土曜には以前から小さな丸がついている。俺は隣の日曜にも、同じ大きさの丸を書いた。




