第12話 お弁当を二人分
七時三十五分のチャイムが鳴ったとき、俺は結び目に指を入れていた。
青い包みは少し緩い。黄色い包みは結びすぎた。どちらもほどいてやり直したら、白雪を玄関で待たせることになった。
「おはよう」
ドアを開けて言うと、彼女もすぐ返した。
「おはようございます」
手には何も持っていなかった。
肩にかけた小さい鞄が一つだけ。制服ではなく、白いブラウスに薄いカーディガン。朝の風が冷たかったのか、袖を指のつけ根まで引いている。
「寒いから、入って」
「お弁当、できました?」
「できた。まだ包み直してる」
白雪は靴を脱ぎ、台所の入口で足を止めた。流しの横には、使ったボウルとフライパンが水につけてある。
「洗ってから出ます?」
「帰ってからでいいよ。昼には帰るし」
「じゃあ、座って待ってます」
白雪は本当に食卓へ座った。昨日、努力すると言った通り、俺の手元を見ても口を出さない。
それがかえって気になって、俺は結び目を一度広げた。
「ここ、どうやってた?」
白雪が椅子から少し腰を浮かせた。
「持ってみてもいいですか」
「うん」
布の角を揃えて、箱の長いほうから包む。彼女がゆっくり手を動かすので、俺も青い箱で同じようにやった。最後の結び目に指を添えると、ほどける隙間が残った。
「できた」
「はい。ちゃんと持てます」
二つを紙袋へ入れる。水筒は俺のものと、白雪が鞄から出したものが一つずつ。敷物を上に載せると、今度こそ出かけるものが揃った。
鍵を取ると、白雪が先に靴を履いた。
玄関で弁当を受け取った朝は、何度もある。今日は俺が二つとも持って、彼女の後ろから外へ出た。
商店街はまだ半分ほど閉まっていた。パン屋だけ明かりがついていて、店の前を通ると焼けた匂いがした。
「買いたくなりますね」
「今、弁当あるのに?」
「それはお昼なので」
「朝飯、食べた?」
「小さいのを。汐瀬くんは?」
「卵焼きの失敗したとこ」
白雪が紙袋を見た。
「失敗したんですか」
「一枚目だけ。今日は途中で折れなかった」
「じゃあ、上達してますね」
パン屋で小さいパンを一つ買って、半分ずつ食べながら歩いた。白雪が紙を折って、俺の半分を渡してくれる。俺は袋を片手にまとめ、空いた手で受け取った。
橋の手前へ着くと、昨日見たときより桜が少し散っていた。
それでも、見上げた枝にはまだ花があった。白雪は歩く速さを落とし、木の下で一度立ち止まった。
「間に合いましたね」
「うん」
「去年も、ここ、通ってましたよね」
「コロッケ食べた」
「それ、六月です」
言われて、俺も笑った。桜の頃にここを歩いた日は、別々だったのだと思い出す。今年は最初から二人で来た。
ベンチは空いていたが、木の根元に少し平らな場所があった。人の通り道から離れて、そこに敷物を広げた。二人で端を持つと、風が下へ入って膨らむ。
「そっち、もう少し手前」
「こう?」
「はい。座ってください。押さえられるので」
「俺、重し?」
「私もです」
言いながら、白雪が隣に座った。
紙袋を真ん中に置くと、二人の膝が少し近かった。弁当はまだ開けず、先に水筒を出した。遠くを走る人と、自転車を押していく人が見える。
白雪が鞄からスマホを出した。
「撮ってもいいですか」
「桜?」
「お弁当。あとで、桜も」
俺は二つの包みを袋から出した。白雪は上から一枚撮り、今度は俺のほうへ画面を向けた。
「汐瀬くんも」
「俺も入れるの?」
「作った人なので」
俺は弁当を持つか、そのまま座るか迷った。白雪が笑いながらシャッターを押したので、たぶん中途半端な写真になった。
「次、白雪も。俺が撮る」
スマホを受け取ると、白雪は髪を耳へかけた。膝の前に黄色い包みを置いて、こっちを見る。画面越しに目が合って、俺はすぐ撮った。
「早いですね」
「待たせると、どんな顔していいか分かんなくなるだろ」
「今、なりました」
確認した写真を見て、白雪は少し困ったように笑った。でも、消さなくていいと言った。
しばらく花を見てから、少し早い昼にした。
俺が青を、白雪が黄色を開ける。卵焼きと鶏肉、梅と鮭のおにぎり。昨日一緒に選んだいちごは、小さい容器に別に詰めてある。
「今回は、端っこも同じ大きさ」
俺が言うと、白雪は箱の中をのぞいた。
「一つずつですね」
「うん。でも、今日は聞いてからにしようと思って」
白雪が箸を持ち、俺を見る。
「どっちがいい? 端と、真ん中」
「……真ん中も、好きです」
「じゃあ、白雪の端、もらってもいい?」
「はい。代わりに、その真ん中の大きいの、半分ください」
俺は一切れを箸で半分にして、白雪の箱へ移した。彼女は自分の端をこちらへ置く。二つ並んだ丸い端を見てから、俺は一つを取った。
「今日は、どう?」
白雪は食べてから、もう一度断面を見た。
「前より、少し薄いですね。柔らかいです」
「巻く回数、増やした」
「甘さは、同じですか」
「うん。紙の通り」
俺も食べた。じいちゃんの味に似た気もするし、何度も練習した自分の味のような気もする。確かめられなくても、今日はちゃんと好きだと思えた。
「次、少しだけ甘くしてみたい」
俺が言うと、白雪はうなずいた。
「私は、このくらいでも好きです。でも、甘いのも食べてみたいです」
「じゃあ、次は二種類作ろう」
「フライパン、二つ使います?」
「一つで順番に」
「汐瀬くんが先で。私、隣で待ちます」
次の話をしているのがうれしかった。作るものがなくても、そのあとも会いたかった。
俺は箸を箱に置いた。
「白雪」
「はい」
「今日、来てくれてありがとう」
彼女も食べるのを止めた。
「うちに来る用事、もうなくなるのかと思ってた。でも、用事がある日だけ会いたいわけじゃなくて」
枝が揺れて、花びらが一枚、黄色い包みの上に落ちた。白雪はそれを取らず、俺を見ている。
「弁当作らない日も、買い物しない日も、一緒にいたい。休みの日、何するか、これからも白雪と考えたい」
風が吹いて、青い包みの端がめくれた。俺は片手で押さえ、白雪の返事を待った。
「私も、同じこと考えてました」
白雪は膝の上で手を重ねた。
「でも、作るものを聞くと、次に会う日がすぐ決まるので。今日だけじゃなくて、来月もその先も会いたいって言うのは、まだ少し怖かったんです」
「俺も」
「だから、今日は先に言おうと思ってきたんです」
俺が顔を上げると、白雪は一度息を吸った。
「好きです。汐瀬くん」
声は、朝の挨拶より少し小さかった。
「お弁当を食べてくれるから、だけじゃなくて。私が食べたいものも、できないことも、聞いてくれるところが。……最近、話したいことがあると、最初に汐瀬くんが浮かびます」
俺は返事を急いだ。これ以上待たせたら、彼女がほかの理由まで探して言おうとする気がした。
「俺も好きだよ、白雪」
彼女の手が少しほどけた。
「だから、付き合ってほしい」
「はい」
白雪がうなずいた。笑いかけて、一度だけ下を向く。それからもう一度俺を見た。
俺も笑った。何を言えばいいのか考えていたのに、そのあとしばらく、何も出てこなかった。
風が吹き、包みに落ちていた花びらが飛んだ。白雪はそれを見送り、箸を持ち直した。
「おにぎり、食べていいですか」
「もちろん」
「ずっと梅が気になってたので」
俺も鮭の包みを開けた。
白雪は梅を一口かじって、酸っぱい、と笑った。
いちごは、今回は甘かった。先の部分を争わなくても、どこを食べても同じくらい甘い。最後の一つは、俺が自分で縦に半分に切ってきていた。
食べ終えた二つの箱を重ね、紙袋へ戻した。帰り道は来た道より、少しだけゆっくりになった。
「箱、今日はどうする?」
「二つとも、汐瀬くんの家へ。洗うのは一緒に」
「じゃあ、拭くの俺やるよ」
「次は私が拭きます」
駅の見える角で、白雪が立ち止まった。
「帰り、手芸屋、寄っていいですか」
「何か買う?」
「包みを、もう一枚。二人分作るなら、今の二つ以外もあると便利なので」
「色、俺も選んでいい?」
「はい。今度は一緒に」
俺は紙袋を持っている手を逆にした。
空いたほうを出すと、白雪が見た。少しだけ笑って、その手を取った。
俺も、その手を握り返した。
店の前に着いても、手を離すのはもう少しあとにした。




