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第九十八話 値段のつかないもの

「手を出してくださいませ」


 消火作業が続く倉庫前で、カサンドラが俺の前に膝をついた。


「俺より、お前の肩を先に――」


「手を」


「はい」


 逆らえる声ではなかった。


 彼女は水で冷やした布を、俺の火傷やけどへ巻いていく。


「痛いですか?」


「少し」


「少しでは分かりません」


「結構痛い」


「でしたら、なぜ平気な顔で炎へ飛び込むのです!」


「人が倒れてたから」


「あなたが死ねば、助けられた方も苦しみます!」


 カサンドラの指が震えている。


「それに、わたくしも……」


 扇子せんすがないのに、彼女は顔を隠そうとしなかった。


「あなたが炎から戻らなかったらと思うと、息ができませんでした」


「ごめん」


「謝れば、次からやめてくださいます?」


「困ってる人がいたら、たぶん無理だ」


「本当に、あなたという方は……!」


「でも、今度は一人で行かないようにする」


「絶対ですか?」


「努力する」


「信用できませんわ!」


「私も信用できないわ」


 ヴィオレッタが腕を組んで立っていた。


「アルトは目を離すと、すぐ危険な場所へ走るもの」


「縛っておくべき」


 レティシアが真顔で言う。


「なんで縛る話になるんだよ!」


「黒薔薇と氷、どちらがよいかしら」


「どっちも嫌だ!」


 カサンドラが小さく笑う。


「お二人がアルト様を心配なさるお気持ち、少しだけ理解できましたわ」


「少し?」


「わたくしの方が、今は心配しておりますので」


「それは聞き捨てならないわね」


「比較する必要はない。私たちは全員、心配している」


 レティシアの言葉に、三人が俺を見る。


「俺、助かったのに怒られてないか?」


「生きているから怒れるのよ」


 ヴィオレッタが答えた。


 その言葉だけは、少し嬉しかった。


     ◇


「カサンドラ」


 父親が近づいてきた。


 彼女の表情が固くなる。


「記録庫を失う選択をしたことでしたら――」


「肩を見せろ」


「はい?」


「火傷をしたのだろう」


 侯爵は治療師を呼び、自分の外套がいとうを娘の肩へ掛けた。


 動きはぎこちなく、顔も相変わらず怖い。


「お父様。帳簿より、作業員を選んだことを責めないのですか?」


「私なら、記録庫を選んでいたかもしれん」


「では――」


「だからこそ、お前が次の当主でよかった」


 カサンドラが目を見開く。


「家の財産は取り戻せる。失った命は、どんな契約でも戻らない」


「以前のお父様なら、そのようにはおっしゃらなかったでしょうね」


「ああ」


 侯爵は否定しなかった。


「お前一人へ罪を負わせようとした判断も、誤りだった」


「……謝罪なさっているのですか?」


「した経験がない。正しい作法が分からん」


「契約書にして差し出すおつもりで?」


「必要なら作成する」


「必要ございません」


 カサンドラの声が少し柔らかくなる。


「短い言葉で、十分ですわ」


 侯爵は何度か口を開き、ようやく告げた。


「すまなかった、カサンドラ」


 彼女はすぐには許すと言わなかった。


「その言葉を、忘れないでくださいませ」


「ああ」


「わたくしも、すぐには忘れられませんので」


「それでよい」


 壊れた親子の関係は、一言だけでは直らない。


 それでも、直そうとする最初の言葉にはなった。


     ◇


 すすに汚れた帳簿を、ユリアナが慎重に調べていた。


「七聖女後援会の正式会計とは、番号が異なります」


「では、後援会全体が犯人ではない?」


 ヴィオレッタが尋ねる。


「断定できません。白百合特別会計は、後援会内部の一部が秘密裏に作ったものと思われます」


 カサンドラが頷く。


「わたくしが悪女と呼ばれているからといって、すべての悪事をわたくしのせいにしてはならない。それと同じですわ」


「聖女という呼び名だけで、全員を同じ側だと決めつけるべきではありません」


 ユリアナは、自分の名が使われた帳簿を強く握る。


「必ず、実際に命じた者を見つけます」


 帳簿の最後には、まだ支払われていない項目があった。


『紫扇処分成功報酬』


『受取時刻――本日、日没』


『受取場所――七聖女後援会祝賀夜会』


「処分が失敗したことは、まだ上層部へ伝わっていないのかもしれない」


 レティシアが言う。


「なら、報酬を受け取りに来る奴を捕まえられる」


「夜会へ潜り込むおつもりですか、アルト様?」


「他にあるか?」


 カサンドラは、焼け焦げた扇子を拾い上げた。


 今度は顔を隠すためではなく、武器を取るように開く。


「ございますわ」


 紫扇侯女は、金色の瞳を細めた。


「招待されて、正面から参りましょう」

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