第九十九話 紫扇侯女は正面から
「背筋を伸ばしてくださいませ」
「伸ばしてる」
「それは胸を張っているだけです」
七聖女後援会の祝賀夜会まで、あと三十分。
俺は王宮から借りた礼服を着せられ、カサンドラから歩き方を教わっていた。
「次に、左手を腰へ」
「こうか?」
「それは喧嘩を始める方の構えですわ」
「礼儀って難しすぎないか?」
「アルトには無理があるわ」
椅子に座るヴィオレッタが溜息をつく。
「普通に歩かせた方が怪しまれない」
レティシアまで諦め始めていた。
「俺だって歩くくらいできる!」
「では、扉からわたくしのところまで」
言われた通りに歩き、カサンドラの前で頭を下げる。
「今度はどうだ?」
「百点満点で、十二点でしょうか」
「さっきより下がってるじゃないか!」
「先ほどは採点不能でございましたので、進歩しております」
「それ、褒めてるのか?」
カサンドラが小さく笑った。
肩の火傷には布が巻かれている。
それでも、夜会へ出ると言って譲らなかった。
「本当にアルトを同伴者にするの?」
ヴィオレッタが尋ねる。
「はい。正式な招待客は、一名を伴うことができますので」
「護衛なら私が適任」
「レティシア様には、裏口をお願いいたします」
「なら私は?」
「ヴィオレッタ様は庭園側の出口を」
「ずいぶん都合よく、アルトだけ隣へ置くのね」
「最も目立つ配置でございますから」
「本当にそれだけ?」
「もちろんでございます」
カサンドラは扇子で口元を隠す。
だが、その耳は少し赤かった。
◇
夜会は、学園の大広間で開かれていた。
七人の聖女を称える白と金の旗。
後援会へ多額の寄付をした大貴族や商人たち。
学園の教師と、選ばれた生徒たち。
入口に立った瞬間、俺たちへ視線が集中した。
「紫扇侯女だ」
「王太子毒殺を企てたという話は?」
「疑いは晴れたらしい」
「隣の男は誰だ?」
「市民枠の学生だぞ」
「あの平民、どうして侯女の同伴者など務めているんだ?」
「身の程を知らないにもほどがある」
俺の歩き方より、身分の方が気になるらしい。
「十二点でも問題なさそうだな」
「皆様、アルト様の足元まで見ている余裕がございませんので」
「じゃあ、もっと普通の服でよかっただろ」
「わたくしの隣へ立っていただくのです。必要でございます」
カサンドラが俺の腕へ自分の手を添えた。
周囲のざわめきが、さらに大きくなる。
「おい、近くないか?」
「正式な同伴者であれば、これが普通ですわ」
「ヴィオレッタたち、すごい顔してるぞ」
「見ないことをお勧めいたします」
庭園側を見ると、ヴィオレッタの背後で黒薔薇が揺れていた。
反対側では、レティシアの足元が薄く凍っている。
本当に見ない方がよさそうだ。
「どうして俺を選んだんだ?」
小声で尋ねると、カサンドラの指に少し力が入った。
「皆様の前で、笑えなくなるかもしれませんので」
「それなら、なおさら俺じゃ駄目じゃないか?」
「いいえ」
彼女は扇子を閉じた。
「アルト様の隣であれば、笑っていないわたくしでも歩けます」
その言葉に、今度は俺が何も返せなくなった。
◇
日没の鐘が鳴る。
後援会の会計係が、白百合の飾りが付いた銀箱を舞台へ運んだ。
表向きは、慈善寄付を納めるための箱。
だが、焼け残った帳簿によれば、その底に秘密の受取口がある。
俺とカサンドラは踊るふりをしながら、箱を見張った。
「踊るふりって、足を踏んでもいいのか?」
「よくありませんわ。三度目です」
「ごめん」
「あとで、相応の対価をいただきます」
「菓子か?」
「今回は、わたくしが決めます」
音楽が終わり、照明が一瞬だけ落ちた。
その暗がりに紛れ、一人の男が銀箱へ近づく。
白と金の王宮儀礼服。
男は白百合の印が刻まれた硬貨を、箱の底へ差し込んだ。
隠し扉が開く。
バルコニーにいたユリアナの顔色が変わった。
「あの者です!」
彼女が指さす。
「カサンドラの契約原本を、私から受け取った王宮儀礼官です!」
男が振り返る。
俺たちと目が合った瞬間、手にしていた帳簿を奪い、舞台裏へ走り出した。
「逃がしませんわ!」
カサンドラは俺の腕を離し、礼服の裾を翻す。
紫扇侯女と市民枠の俺は。
大貴族たちの見守る夜会を、二人で全力疾走し始めた。




