第百話 夜会を駆ける
「止まれ、セドリック・ハイム!」
ユリアナの声が大広間に響く。
逃げる王宮儀礼官は、振り返りもせず舞台裏へ飛び込んだ。
「名前、知ってるのか?」
「王宮の式典を管理する上級儀礼官ですわ!」
カサンドラは長い礼服の裾を片手で持ち上げ、俺の隣を走る。
「カサンドラ、肩は大丈夫か?」
「今はご自分の足元をご心配くださいませ!」
「うわっ!」
絨毯の端に引っかかり、転びかけた。
「本当に目を離せませんわね!」
カサンドラに腕を引かれ、どうにか踏みとどまる。
舞台裏へ入ると、セドリックが壁の契約板へ触れた。
『緊急封鎖を実行』
鉄扉が天井から落ちてくる。
「間に合わない!」
「こちらです!」
カサンドラが俺の手を引き、衣装棚の裏へ飛び込んだ。
直後、鉄扉が通路を塞ぐ。
「なんで隠し道を?」
「夜会場の貸与契約を確認した際、見取り図も記憶いたしました」
「全部覚えてるのか?」
「必要な情報でしたので」
「やっぱり、すごいな」
「今、褒める必要がございます?」
「思ったから言っただけだ」
暗闇の中で、カサンドラが一瞬黙る。
「……あとで、もう一度お願いいたします」
「何を?」
「何でもございません!」
隠し通路を抜けると、時計塔へ続く階段に出た。
上からセドリックの声が降ってくる。
「そこまで追う必要があるのか、カサンドラ嬢!」
「わたくしの人生へ値札を付けた方々に、代金を返していただきませんと!」
階段の途中に、白い契約紙がばら撒かれた。
『追跡を諦めれば、安全を保証する』
「読むな、アルト様!」
「もう読んだ!」
「同意してはなりません!」
紙から白い鎖が伸びてくる。
『安全を望むか?』
「望むに決まってるだろ!」
「アルト様!」
「でも、こいつを一人にする安全ならいらない!」
鎖が俺の足へ触れる直前、粉々に砕けた。
「契約不成立……」
カサンドラが目を見開く。
「条件を理解した上で、拒否したからですわ」
「難しいことは分からないけど、置いていくのは嫌だからな」
「あなたは時々、契約術師より契約の本質をご存じですわね」
◇
時計塔の屋上では、セドリックが縁に立っていた。
片手には奪った帳簿。
もう片方には、白百合の印が刻まれた転移石。
「近づけば、帳簿を燃やす!」
「逃げ道はないわ」
反対側の塔から、ヴィオレッタの黒薔薇が伸びる。
階下にはレティシア。
空中にはユリアナの金鎖が張り巡らされていた。
「悪女たちを集めたつもりか、平民!」
「集めてない! 勝手に来てくれたんだ!」
「同じことだ!」
「全然違う!」
セドリックが転移石を握り潰す。
だが、何も起こらなかった。
「なぜだ!?」
「周囲の空間は凍結した」
レティシアが階段を上がってくる。
「転移できない」
「ならば!」
セドリックは帳簿へ火をつけ、塔の外へ投げた。
そのまま自分も縁から身を躍らせる。
「馬鹿!」
俺は床を蹴り、落ちる男の腕をつかんだ。
身体が縁から半分飛び出す。
「アルト様!」
カサンドラが俺の腰へ抱きついた。
「離せ!」
セドリックが暴れる。
「落ちるぞ!」
「捕まれば、私はすべてを失う!」
「だからって死んでいいわけないだろ!」
「私を助ければ、帳簿が燃えるぞ!」
「紙より命の方が高いって、さっき教わった!」
俺一人の力では、引き上げられない。
カサンドラの靴も床を滑る。
「絶対に離しません!」
彼女が叫んだ瞬間、黒薔薇の蔓が俺たちの身体を支えた。
「無茶ばかりして!」
ヴィオレッタが蔓を引く。
レティシアがセドリックの腕をつかみ、屋上へ投げ戻した。
金の鎖が、その身体を拘束する。
「帳簿は!」
燃えながら落下していた帳簿を、氷の鳥が空中で受け止めた。
ユリアナが火を消し、胸へ抱える。
「人も証拠も、失っていません」
セドリックは、信じられないように俺たちを見た。
誰か一人なら、どちらかしか救えなかった。
けれど、俺はもう一人ではなかった。
回収された帳簿の最初の頁には、三つの名が並んでいた。
『黒薔薇――失敗』
『銀狼――失敗』
『紫扇――失敗』
そして、その下。
『第四計画――すでに開始』
白百合は、次の少女を壊すために動き始めていた。




