第百一話 紫扇は顔を隠さない
俺たちが大広間へ戻ると、音楽は止まったままだった。
ユリアナの金鎖に拘束されたセドリック。
焼け焦げた帳簿。
そして、白百合の秘密会計を示す硬貨。
後援会の貴族たちから、動揺の声が上がる。
「これは何かの間違いだ!」
「我々は、そのような会計を知らない!」
「本当に知らない方もいるでしょう」
ユリアナが壇上へ進んだ。
「ですから、後援会全体を犯人とは断定しません」
彼女は帳簿を掲げる。
「ただし、私たち聖女の名を利用し、複数の少女へ偽りの罪を着せようとした者が、内部に存在することは事実です」
「聖女様を利用するなど……」
「では、あの悪女たちは無実なのか?」
ざわめきが広がる。
王太子が立ち上がった。
「セドリック・ハイムを王宮儀礼官から罷免する。白百合特別会計は凍結。後援会の全会計と構成員を、王家と南方三国の合同で調査する」
ドミニク公も頷く。
「我々は、王太子殿下および三使節への毒殺行為がなかったことを確認した」
会場の視線が、カサンドラへ集まる。
「これで、わたくしの無実が証明されました」
いつもの彼女なら、そう言って笑っただろう。
けれど、カサンドラは扇子を閉じたままだった。
「――と、申し上げたいところですが、それでは新たな嘘になりますわね」
「どういう意味だ?」
貴族学生の一人が尋ねる。
「毒殺を企てた事実はございません。ですが、わたくしが皆様を脅し、試し、言葉で傷つけてきたことは事実です」
会場が静まる。
「利用されることが怖くて、先に相手を値踏みしておりました。嫌われていれば、裏切られても傷つかずに済むと思っていたのです」
「では、噂はすべて嘘ではなかったと?」
「はい。わたくしが責任を負うべき行いもございます」
カサンドラは深く頭を下げた。
「傷つけた方々へ、これから一人ずつ謝罪いたします。許していただけなくても、逃げません」
「悪女と呼ばれることも受け入れるのか?」
「呼び名は、皆様の自由でございます」
彼女は顔を上げる。
「ですが、呼び名だけで、わたくしのすべてを決めることはお許しいたしません」
すぐに拍手は起こらなかった。
疑う者もいる。
顔を背ける者もいた。
それでも、一人の女子生徒が前へ出た。
「以前、私が落とした家の帳簿を、黙って届けてくださったのは……あなたでしたか?」
「見返りがございませんでしたので、名乗りませんでした」
「ありがとうございました」
少女が頭を下げる。
続いて、倉庫の会計係が声を上げた。
「お嬢様は、私たちの賃金を守ってくださいました!」
少しずつ。
本当に少しずつ、カサンドラを見る目が変わっていく。
十年の悪評は、一晩では消えない。
けれど彼女はもう、扇子の向こうへ逃げなかった。
◇
夜会が終わったあと。
俺とカサンドラは、誰もいない露台で菓子を食べていた。
「一個でいいって言ったのに、二個も持ってきたのか?」
「ユリアナ様をお助けした分も必要なのでしょう?」
「そっちはユリアナにもらうつもりだった」
「では、こちらはわたくしと半分ずつにいたしましょう」
「分けるのか?」
「一人で食べるより、おいしいか試してみたいのです」
紫色の果実が載った焼き菓子を、二人で分ける。
「どうだ?」
「不思議ですわね。同じ菓子なのに、少し甘く感じます」
カサンドラは夜空を見上げた。
「第四計画も、止めに行かれるのでしょう?」
「ああ」
「次の方も、助けたいから?」
「困ってるなら、放っとけない」
「本当に、どなたにでも同じことをなさるのですね」
笑っているのに、少しだけ不満そうだ。
「嫌か?」
「ええ。ですが、そのようなアルト様だからこそ……」
彼女は俺の傷だらけの手を取った。
「わたくしは、救われたのでしょうね」
「今度は一緒に助けてくれるか?」
「対価は?」
「ない」
「仕方ございませんわね」
カサンドラは俺の手の甲へ、そっと唇を触れさせた。
「では、これは契約ではございません」
「今の、何だ?」
「見返りを求めない、わたくしの気持ちです」
扇子がなくても、その微笑みはもう揺れなかった。
「覚えておいてくださいませ、アルト様。わたくしは、一度大切だと決めたものを、決して手放しませんので」
意味を考えていると、背後の扉が勢いよく開いた。
「アルト。説明してもらえるかしら?」
「手に口づけ。親愛以上と判断する」
ヴィオレッタとレティシアが立っていた。
「どうして見てるんだよ!?」
「偶然よ」
「監視していた」
「レティシア、正直すぎないか!?」
カサンドラは楽しそうに扇子を開いた。
今度それは、孤独を隠す壁ではなく。
幸せそうな笑みを、少しだけ隠すためのものだった。




