第百二話 契約のいらない朝
あの夜会から、一週間が過ぎた。
カサンドラに対する王太子毒殺未遂の容疑は、正式に取り消された。
ヴェルレーヌ侯爵家は、すべての契約記録を司法へ提出。南方との新規取引を一時停止し、被害を受けた者たちへの補償を始めた。
ベルナールとセドリックは生きたまま拘束され、裁判を待っている。
だが、白百合特別会計を作った上層部の多くは、すでに姿を消していた。
すべてが終わったわけではない。
そして十年かけて広まった噂も、一週間では消えなかった。
「毒扇が無実だったらしい」
「本当に?」
「でも、性格が悪いのは事実だろ?」
そんな声は、今も廊下で聞こえる。
ただし、続く言葉が少しだけ変わった。
「倉庫の人たちを助けたのも、彼女らしいぞ」
「侍女へ薬代を送り続けていたって」
「じゃあ、何が本当なんだ?」
疑うことは、悪いことじゃない。
最初から決めつけなくなっただけでも、大きな変化だった。
◇
休日の朝。
市民寮の扉が、上品な音で三度叩かれた。
「誰だ?」
開けると、カサンドラが立っていた。
片手には菓子の籠。後ろには侯爵家の使用人がいる。
「おはようございます、アルト様」
「なんでここに?」
「友人の家を訪ねるのに、理由が必要でございます?」
「友人?」
「まずは、そこから始めようかと」
カサンドラは平然と言ったあと、少しだけ頬を赤くした。
「それ以上をご希望でしたら、検討いたしますが?」
「それ以上って何だ?」
「今すぐ理解なさらなくて結構です」
なぜか機嫌が悪くなった。
「アルト、扉を塞がないで」
背後からヴィオレッタの声がする。
彼女はすでに食堂で茶を飲んでいた。
「ヴィオレッタ、いつ来たんだ?」
「三十分前よ」
「私は一時間前」
レティシアは壊れた椅子を修理している。
「お前ら、俺のいない間に勝手に入ったのか!?」
「寮生へ許可は得たわ」
「問題ない」
食堂の隅では、市民枠の学生たちが固まっていた。
「公爵令嬢と侯爵令嬢が三人……」
「どうして、あの平民の部屋に集まっているんだ?」
「相手が誰か分かってるのか?」
「本人が一番分かってなさそうだぞ……」
否定できなかった。
カサンドラが食堂を見回す。
雨漏りの跡。割れた窓。冬になると止まる給湯管。
「修繕費を、わたくしが出しましょう」
寮生たちが身構える。
カサンドラは一度言葉を止めた。
「……と申し上げる前に、皆様のご希望を伺うべきでしたわね」
彼女は一人の学生へ尋ねる。
「最も困っていることは、何でしょう?」
「え? その……冬でも、お湯が出ないことです」
「では、給湯管から。修繕方法と費用は皆様へ公開し、業者の選定にも寮生代表の確認をいただきます」
「契約書を?」
「必要であれば作成いたします。ただし、隠し条項は一文字もございません」
「不要な支援なら断ってもよい」とレティシア。
「自分で選べることが大切よ」とヴィオレッタ。
寮生たちは戸惑いながらも、少しずつ要望を話し始めた。
「朝から随分と集まっていますね」
今度はユリアナが入ってきた。
「あなたまで何しに来たんだ?」
「後援会の凍結資金を、市民寮の環境改善へ充てる提案書を持参しました」
「わたくしの案と重なりますわね」
「競う必要はありません。共同で行えばよいでしょう」
「お断りする理由もございませんわ」
ユリアナとカサンドラが、同じ机へ書類を広げる。
少し前まで、互いを最も嫌っていた二人だ。
仲がよいとは、まだ言えない。
それでも、同じものを守ろうとはしていた。
「アルト様」
カサンドラが隣の椅子を引く。
「こちらへ」
「なんで?」
「わたくしが持参した菓子を、一緒に食べます」
「なら私の隣でもいいでしょう」とヴィオレッタ。
「ここが空いている」とレティシア。
「席まで争うなよ!」
久しぶりに、市民寮の食堂へ笑い声が響いた。
◇
その直後。
ユリアナが、回収した帳簿の一頁を机へ置いた。
『第四計画――白髪の祈り手』
『開始地点――学園大聖堂』
『完了条件――千人分の祈りを、一人へ集める』
「千人分の祈りって、何だ?」
「分かりません」
ユリアナの顔は険しかった。
「ですが、学園では三日後に大祈念祭が開かれます」
そのとき。
誰も触れていないはずの大聖堂の鐘が鳴った。
窓の向こう、白い塔の最上階。
祈るように両手を組んだ白髪の少女が、こちらを見ていた。
入学式で見た、七人の悪女の一人。
その両手からは、遠目にも分かるほど赤い血が流れていた。




