第九十七話 名誉より先に救うもの
王都南区の倉庫街は、すでに炎に包まれていた。
「水を持ってこい!」
「中にまだ人がいるぞ!」
倉庫の前では、作業員たちが閉ざされた鉄扉を叩いている。
内側からも助けを求める声が聞こえた。
「なぜ開かないのです!?」
駆けつけたカサンドラが扉へ手を当てる。
紫色の契約文字が浮かび上がった。
『ヴェルレーヌ家の許可なく、開扉を禁ずる』
「わたくしが当主代行者です! ただちに開きなさい!」
『緊急条件を確認』
続いて、二つの選択肢が現れた。
『避難扉を開く場合、記録庫の防火壁を解除する』
『記録庫を保護する場合、避難扉を封鎖する』
「どちらかしか守れない……」
ユリアナが息を呑む。
「噂を作った証拠は、記録庫にあるんだろ?」
「はい。あれを失えば、わたくしの悪評が仕組まれたものだと証明できなくなります」
倉庫の中から、子どもの泣き声が聞こえた。
住み込み作業員の家族も残されている。
「カサンドラ」
「分かっております」
彼女は迷わなかった。
「記録庫の防火壁を解除。すべての避難扉を開きなさい!」
『選択を受理』
鉄扉が一斉に開く。
同時に、倉庫の奥で炎が高く上がった。
「証拠が!」
「あとです!」
カサンドラは煙の中へ飛び込もうとする。
俺はその腕をつかんだ。
「お前まで行くな!」
「中の通路を知っているのは、わたくしです!」
「なら俺も行く!」
「アルト様は怪我を――」
「その話はあとだ!」
「私が先行する」
レティシアが冷気をまとい、燃える倉庫へ踏み込む。
彼女が凍らせた床を、俺とカサンドラが追った。
ヴィオレッタの黒薔薇は崩れかけた梁を支え、ユリアナの金鎖が外まで避難路を作る。
「こちらです! 壁から離れて!」
カサンドラが作業員たちを導く。
煙で何も見えなくても、彼女は倉庫の構造を覚えていた。
「お母さんが、まだ奥に!」
泣いている少年が俺の服をつかむ。
「どこだ?」
「あっちの部屋……!」
炎の向こうに、倒れた女性が見えた。
「アルト様、待ってください!」
俺は濡れた布を頭からかぶり、走った。
熱い。
息ができない。
それでも倒れた女性を背負い、来た道を戻る。
途中で燃えた木材が落ちてきた。
「危ない!」
カサンドラが俺へ飛びつく。
ヴィオレッタの茨が木材を受け止めたが、火の粉がカサンドラの肩を焼いた。
「お前、何してるんだ!」
「アルト様こそ、なぜ何度もご自分を投げ出すのです!」
「助けられそうだったからだよ!」
「それであなたが死んだら、わたくしが悲しむと、どうして分かってくださらないのですか!」
炎の中で、カサンドラの叫びが響いた。
俺は何も言えなくなる。
「……ごめん」
「生きて出てから、もう一度おっしゃってくださいませ!」
「分かった!」
女性を背負ったまま、俺たちは出口へ走った。
◇
最後の作業員が脱出した直後、倉庫の屋根が崩れ落ちた。
記録庫も炎に呑まれる。
拘束された放火犯が、地面に座ったまま笑った。
「これでお前の無実を証明するものは消えた」
カサンドラは、助け出された人々を見渡した。
「構いませんわ」
「何?」
「紙より、命の方が高価ですもの」
「それでは、世間はお前を毒扇と呼び続けるぞ!」
「でしたら、一人ずつ誤解を解いてまいります」
カサンドラは扇子を開く。
けれど、誰からも顔を隠さなかった。
「値札の付けられないものは、時間をかけて大切にするしかございませんので」
「お嬢様!」
倉庫の会計係が、煤だらけの帳簿を抱えて駆けてきた。
「どうして、それを?」
「お嬢様が以前、賃金の抜き取りを防ぐため、会計記録の控えを私たちにも保管させたではありませんか」
帳簿には、噂を流した者や襲撃者へ渡った金の流れが残っていた。
「お嬢様が私たちを疑う権利をくださったから、今度は私たちが証明します」
カサンドラは帳簿を受け取り、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ユリアナが最後の頁を開く。
資金提供者の欄を見た瞬間、その表情が凍った。
『七聖女後援会――白百合特別会計』
「私たちの名を掲げる後援会が……?」
七人の聖女を称える者たちが。
その裏側で、七人の悪女を作り上げていた。




